§ 江ノ電は、腰越をすでに過ぎていた。 「鎌倉、行ったこと、ないや」 高梨さんが、僕の肩に頭を預けて囁く。 車内に人はまばら、制服姿は、僕らだけ。夕陽は徐々に、七里ヶ浜の海岸線に沈みつつある。 「俺は、親戚がこのあたりだから」 「この後、どうするの?」 「……」 それっきり、僕らは何を言うでもなかった。 淡々と、線路の振動を運ぶ電車。それに揺られ、傾けた髪から溢れる長い髪が、繋いだ手を撫でている。 彼女が何か言おうとして、口をつぐむ。言いたいことは、何かわかる気がした。 おそらくこれから、俺たちは卒業し、別の場所に行くのだろう。これまでのようには、会えなくなる。彼女と当たり前に一緒にいることがこんなに難しいなんて。 「駅、着いたよ。……じゃ、行くね」 そう言う彼女を、俺は引き止め、それから、一思いに。 「俺、高梨が好きだから、その……」 などと。 学校の廊下、人々が見る中で。絞り出したのだった。 「もうっ、言うのが遅いよ!」 真正面から、むくれて僕を見上げる彼女。上目遣いに言う高梨さんは、本当に可愛らしかった。ああ、こういうことがあって欲しかった。おそらく何度も思ったことだろう。だから、加えて俺は。 「──────」 そう言ってやって。 「ゆうくん、それって……」 不意に、あたりが静まり返った。 ふつふつ煮えていた曖昧な世界が、急にさめたようだった。 ひっそりと、時計の音だけが響く、温もりの空間。見えるのはただ、こちらを覗き込む瑠菜の顔のみ。吐息の触れるほどの至近距離。それが、横になっている。 「……本当に、キミって」 セミロングの髪が横に流れて、さっきより大人びた表情が、ちょっと色っぽい。やっぱりこの長さの方が、垢ぬけてる気がする。 ぼんやり見つめる僕を、ぱっちりした目で受け止める瑠菜。それが、少し赤面して、視線をずらすと、 「ゆうくん、すっごいこと、言うんだね……」 珍しく、照れたようにそう言った。 それから、“でも、授業が……”などと口走る僕を面白がって、 「起きろ、小僧……♪ 起きないと、またヘンなこと、言っちゃうよ……♪」 それが現実の彼女だと、僕に気づかせたのだった。 「……、あ、あれ…………?」 「ばか……♪ 寝ても起きても、思考、ダダ漏れだよ……♪」 彼女らしい口調、優しい言葉。それに連れられ、徐々に現実感が、沈着してくる。 時計はまだ午前5時。空は赤く滲んで、けれど日の出は少し先。静謐な部屋で僕らは並んで、ベッドに入っていて。まだ、夢を見てるんだろうか。まどろみから覚めない中、それでも、確かな幸福感が立ち上ってきた。 「僕、何か、ねごと……」 それを、言い終わらない内に瑠菜は頬をつねって、 「ねぼすけ……♪ 黙らないと、その口、縫っちゃうよ……♪」 そんなことを言う。 続いて、少し恥ずかしそうに目を伏せると、 「一途なボクだね、ゆうくんは。性癖にも、私にも。そうでしょ? 子犬、わんちゃん、捨て犬くん……♪」 僕の手を取り、頭の間に置く瑠菜。長く細い指が、寝起きの体温で僕を包む。何か、僕はとんでもないことを言ったらしい。無かったことにしよう。もう、聞き出す方が怖い。 「……縮んだままかと思ってた」 「そっちの方が、よかった?」 「……うぅん。ただでさえ不便なんだし」 「キミ、普段とのギャップが、好きだもんね♪」 「うん。……あれ。なんでそれを知って……?」 けれど瑠菜は、指で僕の唇を閉じてしまう。それから、また指と指を絡めた。長い指が、しっかり僕の手を握り、包み込んで。僕はそれ以上、何も望まなくなってしまう。 午前5時直前の、じっとりとした薄明の時間。ゴソゴソと、時折聞こえる衣擦れの音はまだ寝ぼけていて、でもどこか生々しい。一日が始まっていない一日の始まり。まだ起きなくていい頃合いは、時間の流れも滞っている。 「……ねぇ、鎌倉って、行ったことある?」 「鎌倉? あるよ? 中学のころだけど。……こんど、行く?」 「うん……」 「眠そうだね。寝てていいんだよ? まだ早いし、疲れ、溜まってるよ」 多分、そう言われて僕は、すぐに寝てしまったのだと思う。 再び眠りについて。 目を覚ました時には、すっかり太陽は上っていた。 窓から、くっきりとした朝日がさんさんと差し込んでいる。すでに起きている瑠菜は、その光の中。座りこんで、何か作業中だ。 「……瑠菜?」 落ち着いた赤い色のセーターを着て、瑠菜が布を広げたり、畳んだり。座った膝には子供向けの服。昨日の荷物は、これだったのか。 「……ぁ、おはよ♪」 こちらに気付き、ふわぁっと甘い笑顔を見せる瑠菜。 それから腕を広げると、 「おはよ〜〜……♡」 可愛いそぶりで、僕を抱きしめるゆるふわ少女。ちょっとハグ魔なところがある彼女は、今日は優しく恋人らしい抱擁をしてくれた。……まあ、彼女は正座で座っているのだけれど。 「疲れ、取れた?」 「うん。……その服、実家から? 売るの?」 「うぅん。強いて言えば……、おさがりかな?」 「おさがり?」 よくわからないけど、瑠菜に小さな姪がいた気がしなくもない。或いは、知り合いがいるのか。心なしか、外から小学生の歓声が聞こえてくる。登校の時間だった。 牧歌的な午前の雰囲気の中、懐かしいなぁ、可愛いなぁ、と言いながら、服を選ぶ瑠菜。当たり前だけどそれらはちんまり小さくて、彼女にもそんな時代があったんだなと思わせる。私立らしい小学校の制服、子供の割にオシャレで上品な私服。 一方の瑠菜は、そのうちの一つ、小学校の制服を広げ。 やおら、こちらに振り向くと。 「着て♡」 そう言ったのだった。 逃げ出した。 捕まった。 抱きしめられた。 そして、ハグに茹で上げられ、地面にへたり込むと。 「着て♡」 もう一度、命じられるのだ。 自分の手で、恋人の子供服に着替えろと。 「や、やだ、……っ、ちょっ、脱がさないで! わかった、着る、着るから、離してぇ!!」 そうなると、僕に選択の余地はない。男の僕は、女性の瑠菜に抗えない。取り押さえられるのがオチ、脱がされるのがオチ。そんな目に遭えば、僕は瑠菜の柔らかな肉体に耐えられないかもしれない。 「瑠菜の、悪趣味……!」 赤面しながら、手渡された制服を広げる。リボンのついたシャツと、ジャンパースカート、いかにも私立小学校の制服だ。その高級感が、余計に女児向けっぽい。服からはタンスとほのかな少女の香り。今の瑠菜の香りを、穏やかにしたような香りだ。彼女の女児服は、それだけでどこか背徳的だった。 「これ、やっぱり……。……ちょ、やめ、引っ張らないでよ! 着る、着るからぁ!」 「そういうことするから、可愛がられちゃうんだよ……? 抵抗できない私に、抵抗して、結局負けちゃうの。……ふふ♪ 今、ちょっとゾクってしたね?」 「瑠菜っ! ……こ、これ、こうでいいよね?」 「後ろ前逆だよ、チビくん♪ そう、そう……。……あはっ♪」 それから、キュッとリボンを結ばれると、 「ぴったりだね……♪」 鏡の中の人影は、しつらえたように服に収まっていた。 「よく見ると、かわいい男の子が女装してますって感じだけれど……、顔立ちも整ってるし、パッと見、女の子だね……♪ 大人の男の子なのに、そのまま女装になっちゃうの、うん、可愛い可愛い♪」 小さくぱちぱち手を叩くけれど、全然嬉しくない。恋人の服で女装させられて、しかも似合うだなんて。でも鏡の中、俯く子供は拗ねた女児そのものだった。童顔、というより、そもそもの顔立ちが中性的なのだ。成人男性としてコンプレックスなほど、いや、そんな自意識が通用しないほど、僕は男女の手前にいた。とはいえ、恋人の子供服を着せられるとは聞いてない……! 「その服、10歳の時の服なんだ……♪ ゆうくん、小4の私と同じサイズなんだよ♪ 5年生の時には145cmくらいだったから……。幼女の私に、見下ろされちゃうね♪」 クスクス笑われて、真っ赤にされて。鏡の中の幼女が、羞恥で俯く。 それが、かえって瑠菜の何かを刺激したみたいで。 小さく、僕に覆い被さると、 「襲って、あげようか?」 あの優しい吐息が、耳元で囁いたのだ。 「想像、してごらん……♡ 私の子供服を着たまま、大人の私に無理矢理えっちされちゃうの……♡ 高校の制服、着てあげてもいいよ……♪ そしてキミは、恥ずかしい格好のまま、女の子に、おっきな私に、犯されちゃうんだ……♡」 クスクス笑いながら、けれど、なんてことを言うんだろう。さっきまでの素敵な恋人はどこに行ったんだ。今ではまるで、楽しいオモチャを見る目で僕を見ている。完全に、小人性癖女子の顔だ。 でも、そのスイッチを入れたのは、多分僕だった。 瑠菜はふわりと僕を抱きしめ、想いを染みつかせるように、しっかり、じっとり、僕を包み込んで。 「……ん、このまま、襲っちゃいたい……♡ このちっちゃなキミのこと、女の子みたいに叫ばせて、無理やり、愛しちゃいたい……♡ 私の匂いのする服着たこの体、このまま押し倒したら、どんな気分かな……? こんなに細い体、私の柔らかさに包み込んで、抵抗できなくさせて、興奮させて……。キミを、もっと可愛くするんだ……♪」 高く澄んだ、あの甘い囁き声が、耳の中を優しく撫でる。吐息でヨシヨシするように、わるい言葉で、僕をくすぐる。 その高揚に僕も誘惑されているのを、瑠菜が知らないはずがない。 「ふふっ、キミはホントにかわいいね……♪」 やっと瑠菜は腕を離すと、頭を撫でて立ち上がる。胸で僕を見下ろし、そして、懐から何かを取り出すと。 いきなり。 カチッと、スマホの目盛りを鳴らした。