意識が覚醒してゆく耳に、轟々と水が流れる音が聞こえた。
急流である川の水が、滝つぼに落ちるのを川辺の真下から聞いているかのような、そんな音。
(んぁ……な、なんだ……? ――ッッえ!?)
妙な違和感を最初に感じたのは、視界に色が付いた時だった。
普通なら、瞼を開けて視覚を捉えるはず。
しかし、暗闇から意識が覚醒してゆく際、どういう訳か頭の中に直接映像が流れ込んできたからだ。
モクモクと、濃い霧がかった光景を。
(え!? なんだこれ? 目で見ている感覚はない。 ――だけど、見えている?)
とても奇妙な感覚である。
「――ッッッ!! …………ッ?」
驚いて声を上げているつもりだが、まったく出せていない。
そればかりか、口を開いたり閉じたりする感覚までもがない。
思えば、まばたきをしていない事にも今さらながらに気付く。
(……ど、どういう事だ? 目や口の感覚が何も感じない!)
まるで目や口が顔から無くなったかのよう。
そんな訳がないと慌てて自分の顔を触ろうとするが、手や腕の感覚すらなかった。
(そ、そんなッ! 俺の体はいったいどうしてしまったんだ)
自分の身体が存在している感覚は間違いなくする。
だけど、岩になったようにピクリとも動かせない。
(ああ、なんでだ! 何で自分の体なのに動かせないんだよ!)
今でも頭の中で映像が流れたまま。
ならばと、体がどうなっているのかを確認しようとするが、不思議な事に楕円を描いて一定方向のみ注視しながら回転するだけで、体を見るのが叶わなかった。
セキュリティーカメラを通して見ている……まさしくそんな感じ。
(何が何だか訳が分からないッ! ……いや、こういう時だからこそ冷静になって――)
一旦無理やりにでも気持ちを落ち着かせる。
そして今唯一できるのは、頭の中に流れる映像で周囲を確認する事だと結論づける。
(……そうだ。 今、俺がいる場所が何処なのかも分からないんだ。 くまなく探せば、何処かに手掛かりになるようなものがあるかもしれない!)
グルリッ! グルリと頭の中で流れる映像が動く。
楕円内のみにだが自由に移動ができ、そこから自分の意思で視界を180度動かせる事を知った。
(……何だか不思議な感覚だな。 まあ現状、これはこれで便利だが)
濃霧に包まれた周囲を確認する。 そしてまず、すぐ傍にある大きな円柱の建造物が目に入った。
建造物と言っても入口はどこにもないが、そんな大きな建物が二つ並んでいる。
さらに周りを確認していくと、霧が裂かれた箇所に見える壁には、巨大な鏡が貼り付けられている事に気付いた。
(――鏡か! しめた!)
鏡があって助かった。
これのおかげで幅広く自分の周りが確認できるからだ。
他に最も重要な事である、自分自身の姿も。
……だが、
(な、何故だ! 俺の姿がどこにも鏡に映っていない!)
本来なら在るべき自分の姿。 それが何処にも映ってはいなかった。
濃霧が邪魔で、ただ単に見えていないのではない。
――分かるはずだ。 映っている角度からして、自分のいる場所がおおよそ。
しかし、代わりに映っているのは石鹸。
……そう、汚れを落とす用途に使用する、なんの変哲もない石鹸が、本来自分の居るはずの位置に映っていた。
おまけに自分のすぐ近くにあった建造物だと思っていた物。
それが、家庭内に置いてある普通のシャンプーとリンスの容器なのだと知る。
(そ、そんな馬鹿な。 あ、ぁぁ……いや、俺は――俺はッ!)
現実離れした事柄に強い衝撃を受け、ここに来てやっと自分の身に何が起きたのかを思い出した。
体を小さく縮められ、そして得体の知れない液体の中で溶かされた事を。
(ああ、俺は溶かされたんだ……。 でも、あれ? 何で俺は生きているんだ?)
実際にこうして意識があるのだから、死んでいないのは確か。
何故だかは知らない……知らないが、とりあえず生きていた事に安堵をする。
だけどこれで、何でシャンプーの容器等が大きく見えていたのかは知る事が出来た。
あの縮んだ状態のままであれば、どれもこれも全部が巨大に見えるのは当たり前だからだ。
(そうか、建物だと思っていたこれは、ただのシャンプーの容器なんだな。 じゃあ、ここは――)
大体での予想をつける。 今居る場所を確認しながら。
さらには予想したのをその通りだと強く証明するかのように、無機質な機械音声と、安らぐ音色が辺りに鳴り響き渡るものだから、それは確信に変わった。
《お風呂が沸きました》
――ここが、風呂場だって。
(なるほど、じゃあこの霧はなんてことはない湯気か。 それにあの滝の音は湯張りしていた音だった……のか?)
例え知ったとしても現状何も変わりはしないが、今居る場所、そして音の正体を知って幾分か不安な気持ちが薄まった。
自分の知らない未知な事柄は、怖くてたまらないから。
次に尚いっそう不安な気持ちを取り除こうと、自分の姿を探すためにもう一度鏡を確認する……が、
(やっぱ、俺の姿は映ってないな、何処にも)
鏡に映されたものには変化はなく、石鹸とシャンプーのボトル、風呂場で使用する道具類等が映っているだけであった。
(もしかして俺は、鏡に映らないほどまで小さく縮んでしまっているのか?)
普通ならありえないが、どうしてもそんな想像をしてしまう。
実際に体を縮められるという経験をしたのだ。 だから、決してありえない事ではない。
(最悪だ、これからどうしたらいいんだ俺は。 体もまったく動かないし、声も出せない。 あれからもっと縮んでいるとしたら、誰にも気づいてもらえないじゃないか)
悲観に暮れる。
自分では行動を起こせないため、何も出来ない事。 また助かる道が一向に思い浮かばず、現状、何も手立てがないのを実感して。
――そんな時だった。
風呂場のすりガラスの向こう側から、ドアが開き、そして閉じる音が聞こえた。
(な、なんだ? あれは……)
湯を張り終わって、湯気が薄くなってきたからぼんやりと見える。
一枚のすりガラスの向こうをドシドシと移動する、とてつもなく大きなシルエットが。
そんなシルエットは急に静止し、間を置かず絹が擦れるような音が自分の居る場所にまで聞こえてきた。
シュル……シュルシュル……パサリッ! と。
(なんか衣服を脱いでいるみたいだな……。 ん? 衣服を脱いでいる? そうだッ! 人だッ! あれは人なんだ!)
すぐさまあの巨大なシルエットは、人であると気付く。
淑やかに動く動作を見て、それが女性である事も。
(あれ? 待てよ……って事はッ!)
ふと思い至る。
湯を張り終わったお風呂と、そしてすりガラスの向こうで、女性がブラジャーを手にかけているであろうシルエットを見て。
――このお風呂に、あの女性は入浴をしに入ってくるのではないかと。
どうやら考えていた事は正解だったようで、ガチャリとすりガラスのドアが開かれた。
そうしてドアから顔を覗かせた人物の姿を見て、吃驚(きっきょう)の声を心の中で叫ぶ。
(ま、マジかッ!?)
「あら、すごい湯気ね。 設定温度を高くしすぎたかしら?」
驚いたのには訳がある。
なんせドアを開けたまま佇む人物は、昔から憧れ、恋をしていた美奈子さん、その人だったから。
(な、なんで美奈子さんがここに!? もしかして、俺がいる場所は美奈子さんの家の風呂場!? えっ? えっ?)
何故なのかと半ばパニックに陥るが、美奈子さんの一糸纏わぬ姿を見て、そんな思考はピンク色に一瞬で染められる。
なんせ生で始めて見た、初恋の相手の丸裸の姿なんだ。
(す、すごッ! これが美奈子さんの……)
肉付きが良く、女性の象徴たる部分がブルンッ! ブルンッ! と波打って揺れ動いている。
また、股間部にある逆三角地帯の黒い茂みは、大事な部分を隠そうと覆っているが、かと言って男のようにただ生えているみたいにみずぼらしくは見えない。
――むしろ、
(美しい……)
とさえ思える。 自分が想像していたよりも、美奈子さんのあられもない姿にとことん魅了されて目が離せない。
~ 一種の芸術作品 ~
陳腐な言葉であるが、そのように思えてならなかった。
(ああ、綺麗だ。 どこもかしこも本当に。 このまま時間が止まってしまえばいいのに。 ……ずっと見ていたい)
そんな風に考えるが、時間なんて止まる訳はない。
呆けている間も、構わず美奈子さんは開けていた風呂場のドアを閉め、ペタッ……ペタッと風呂場のタイルを一歩、二歩と踏み歩き、浴室内に入ってきた。
片手に何か、写真スタンドらしき物を持って。
「あら? どうしてかしら、設定温度が45℃になっているわ。 間違って押しちゃった?」
風呂場にある備え付けのリモコンを見て、心底不思議そうにしながら浴槽のすぐ傍でしゃがみだす美奈子さん。
そして温度を測るためか、手を湯の中へ入れるが「――熱ッ!」という驚いた声を出して、慌てて手を引き抜いた。
「やっぱり湯の温度が高いわ。 少し水で薄めておかないと火傷しちゃいそう。 んーーーッ!」
可愛らしく息張り、四つん這いになった恰好で水栓ハンドルに向けて手を伸ばそうとする美奈子さん。
(ちょ、ちょっと! 美奈子さん!?)
自分の方にお尻を向けているせいで、憧れていた女性の不浄な肛門や女性器がもはや丸見え。 なんと言うか、ワンコスタイルである。
(うっ……わ……)
さらには目の前でお尻をフリフリと動かすものだから、『誘われている』というそのような幻想を抱かされてならない。
もし、美奈子さんの口から「久志くん……いいよ?」などと言われたりなんかしたら、間違いなく飛びつく。
――しかし現状は、自分の意思で動く事も出来ず、劣情を催しているというのに下腹部の熱すらも感じないし、男として何も出来ないのだが。
(それにしてもでっかいなぁ……。 美奈子さんのお尻は)
罪悪感を感じるが、改めてまじまじと見る。
一生見る事が叶わないと思っていた好きな人の大事な場所を、記憶に焼き付けるために。
(俺の顔よりも絶対に大きいよな。 もし、あの大きなお尻で顔に乗られたりなんてしたら……って、馬鹿か俺はッ!)
プリンッ! プリンッ! と揺られ揺さぶられるお尻を見ていたら、『埋もれてしまいたい』『乗られたい』等という、邪な考えを抱いている自分に気づき、自己嫌悪に陥った。
でも、そんな考えを抱かされるほど、女性らしい肉付きの良い美奈子さんのお尻は――蠱惑的でたまらなかった。
そんな馬鹿な考えをしていると、激しく水が流れる音が風呂場内に響き渡る。
「んッ! ……ふぅ~やっと届いた。 横着しないで立って回せばよかったわ」
どうやら美奈子さんは風呂にある水栓ハンドルに手が届いたみたいで、無事、水を流す事に成功したようだ。
そして湯を薄める目的を果たした美奈子さんは、一分ほど姿勢をそのままに、回した水栓ハンドルをキュッ! と元の位置に戻して水を止めた。
「うん、ちょうど良い湯加減だわ♪」
風呂桶に汲んだお湯で体を流し、適温だと判断したのかその場で立ち上がる美奈子さん。
すぐさまバスチェアを自分のいるすぐ前まで移動させて、どっかりと腰を下ろしてしまった。
「よい、しょッ」
(うぁ……まじか)
美奈子さんが座ったせいで、椅子からの軋む音が激しく鳴る。
人間に座られる為に作られたはずの椅子から、苦しみに近い悲鳴の音が……。
――先ほど自分が考えていた事を訂正したい。
何がお尻に乗られたいだ……。
こんなのに乗られたりなんてしたら、潰されてしまう。
無遠慮に全体重をかけられた椅子の惨状をまざまざと見せられ、如何に自分は馬鹿な事を考えていたのかと思わざる負えない。
「う~んと、これは何処に置こうかしら。 どうせなら、使っている最中も目に入る位置がいいわ。 うん、ここに置きましょう♪」
呆気にとられていた自分の前で、のほほんと何やら思案をしていた美奈子さんは、手にずっと持っていた写真スタンドを自分のすぐ傍に置いた。
(えッ! な、何で!?)
写っている写真を見て驚いた。
なんせそこに写っていたのは、俺と美奈子さん、そして加恋ちゃんが三人並んだ写真だったからだ。
「懐かしいわ~この写真。 久志くんの写真を探してたら一枚だけあったの。 この時って確か無理言って来てもらったのよね」
鮮明に覚えている。 この写真を撮った時の事を。
これは加恋ちゃんが黒百合女学院の入学式の時に、三人で撮った写真だ。
本来ならここに写っているのは夫である真矢さんのはず……なのだが、あの人は色々と問題が多く、だから代わりに美奈子さんにお願いをされて、自分が行ったのだ。
「突然のお願いだったのに、嫌な顔なんてせずに来てくれて嬉しかった。 加恋ちゃんの晴れ舞台だーって言って、会社まで休んでくれて……本当に優しい人」
そうだ。 あの時はすっごく感謝して喜んでくれていた。
でも、そうじゃない。 純粋な優しさだけじゃなく、自分には下心があったんだ。
美奈子さんとの夫婦気分を味わうという下心が……。
「でも、そんな人が今ではこんな姿になってしまって……」
(――えッ!? ウワァァァッ!!)
物凄いスピードで高く上昇してゆく視界。 美奈子さんの片手で持ち上げられたからだ。
「もう一生久志くんと話せないんだなって思うと悲しいけど、ごめんね? 実は私、悲しい気持ちの他に嬉しくもあるの。 だって、久志くんという石鹸をこれから使えるのだもの」
そう言って大事に、宝物のようにそっと自分を胸に抱きしめる。
人よりも大きく発達した爆乳の谷間に、沈み込むほどブニュッと。
(や、柔らかい……。 しかし何だ? さっきから美奈子さんは石鹸だとか言って、何の話を……ん? お、おいおい、嘘だろ! まさかッ!?)
鏡に映っている美奈子さんの姿。
その胸に沈み込む石鹸を見て、ようやく気づいてしまった。
この石鹸こそが、今の自分の姿じゃなかろうかと。
(そうだ! 俺達はあの時に確か――)
~思い返す。
あの沸騰した白い液体に入れられていた、自分や他の奴等の最後を。
熱でドロドロに溶かされ、完全に液体そのものと同化していたあの姿を。
(……溶かされていた、俺達は間違いなく。 なら、白い液体のあれは――)
『石鹸の素』だったのかもしれない。 いや、まさしくそうなのだろう。
そんな考えに至ると、色々と謎だった部分が見えてきた。
何故、体が岩のように固まって動かなかったのか。
何故、目や口などの感覚がなかったのか。
(それはこの鏡に映るように、石鹸、その物になったからなんだ――俺は)
未だ自分が生きている事や、周りの景色が分かる事は謎のままであるが、そうに違いないと確信する。
そして同時に美奈子さんが言っていた言葉を思い出し、恐ろしさが込み上げてきた。
(じょ、冗談じゃないぞ! 確かに美奈子さんはこれから使うと言っていた。 この石鹸を。 ――お、俺をッ!)
そう、美奈子さんは俺だと認識していて、今、まさに使おうとしているんだ。