SamSuka
myy
myy

fanbox


『英雄の条件 -2-』

これで完結です。 この作品は重めの暴力描写および性的描写が含まれています。 --------  度重なる戦火の余波によって、国中はひどく疲弊していた。  軍資金を賄うための徴税は幾度となく繰り返され、国民たちに一層の労働成果を求める反面、兵士不足による半強制的な出兵で男手は減少していく一方である。  国民に身を切ることを強いておきながら、取り巻く環境は一向に改善されない。無限に続くかと思われるほど長い戦争の最中、積もりに積もった国民の悪感情は今にも破裂する寸前であり、国内の雰囲気は鬱屈し切っていた。 「つまり、お前の存在を悪感情の『はけ口』として利用させてもらう、ということらしい」 「……」  汚物塗れの雪豹獣人の身体を嫌な顔一つせず布巾で拭いながら、犬獣人はさして感情の籠らない言葉を吐いた。  返事はない。牢屋の壁面から伸びる鎖で両手両足を繋がれた雪豹獣人は、先刻の山羊獣人の虐待に肉体的にも精神的にも困憊しており、朦朧とした意識のまま四肢を大の字に伸ばし、首を垂らしている。  しかし、普通の獣人ならば丸一日は目を覚まさないだろう責め苦を受けてさえ、朦朧とはいえ数刻もしないうちに意識を取り戻すのだから末恐ろしい。救国の英雄の、英雄たる所以の片鱗を見たようだと犬獣人は思う。  改めて見やれば、雪豹獣人の端正な肉体には夥しい量の裂傷や打撲痕が存在していた。純白の毛並みは赤黒い血や汚い液体が付着してぼろ雑巾のような風体であり、鼻を近づけずとも嗚咽を誘うような異臭が漂っている。  そして一番に目を引くのが、熟れた林檎ほどに赤黒く腫れ上がった睾丸である。ともすれば根元から引きちぎれても可笑しくないほどの衝撃を与えられ、肥大化したままぶらぶらと揺れるさまは大変痛々しい。 「まあ、こんな格好で民衆の前に出せば、ドン引かれるのは俺たちのほうだからな。死なれても困るし、多少の面倒は見てやるよ」  国にとって戦争の捕虜とは、利用対象であり玩具でこそあれ殺害の対象ではない。  その筈なのだが、山羊獣人の拷問官はいささかやりすぎなきらいがあり、捕虜達を一度の責め苦で瀕死寸前に追い込むことも少なくはない。ゆえに、今のように、犬獣人が尻ぬぐいの為の治療を行わなくてはいけないことがままあった。 「今から傷を消毒する。死ぬほど痛いがさっきみたいに漏らすなよ、掃除が面倒だ」  犬獣人は吐き捨てるようにそう言い、牢の隅に転がっていた雪豹獣人の下着を彼の口の中に詰めた。 「ん゛う゛っ」  朦朧とした意識でも、自分の下着を口の中に詰められるという屈辱には耐えがたいものがあったらしい。うめき声を上げ、何とか吐き出そうと口を動かすも、唾液が布地に染みることでいっそう悍ましい味が口の中に広がるだけだった。 「ん゛、う゛うっ……」 「おい、吐こうとするな。叫んで舌噛まねえように詰めてやってんだ」  犬獣人の静止を無視し、どうにか口腔から排出しようと舌を動かしても、口いっぱいに頬張られた布地は唾液を吸って重くなり、瀕死の雪豹獣人の力では動かすことは出来なかった。  せめて両手が使えれば引っ張り出すことも出来るのだろうが、鎖に阻まれて殆ど身動きの取れない状況である。吐き出そうと頑張る度に喉の嘔吐感がひどくなるばかりで、良いことなど何ひとつなかった。 「いいから大人しくしろ。さっきの山羊獣人を呼んできてもいいんだぞ」  その言葉に、雪豹獣人の身動きが止まる。酷く腫れあがった顔面に、僅かな怯えの色が射したのを犬獣人は見逃さない。 「あの方は偉くお前にご執心だったからな。今度はキンタマ引きちぎられるかもな」 「……!」  雪豹が腰を引き、股間にぶら下がる睾丸や陰茎がきゅっと縮こまる様子を見て、犬獣人は雪豹獣人の中に植え付けられた本能的な恐怖の存在を確信した。圧倒的な暴力に長時間晒され、生殖機能が死滅する瀬戸際まで追い詰められたのだから無理もないだろう。 「はッ、イキがっててもチンコは正直だな。いいか、呼ばれたくなければ大人しくしてろ」  それだけを吐き捨て、犬獣人は「消毒」の準備にかかる。  薄汚れた雪豹の身体に、まずは満遍なく消毒粉を塗していく。医療用の特殊な消毒粉であり、傷口に対しての強烈な殺菌と化膿止めの作用を持つ反面、市販のものとは比べ物にならないぐらい傷口に染みるという評判だった。  実際に用いられた負傷者曰く「粗塩を塗られているようだ」というのだから、相当なのだろう。 「ウ゛ウッ……!」  粉に浸した布で傷口を強く抑えられ、雪豹の固く閉じられた口から僅かにうめき声が漏れる。痛みで意識が覚醒したのか、大きく見開かれた瞳は処置を施す犬獣人をぎっと睨みつけていた。 「んな睨まれても怖かねえぞ。小鹿みたいに震えやがって」  鋭さを増す顔面とは裏腹に、雪豹の身体は神経をえぐり取られるような苦痛にかたかたと震えていた。血が出るほどに歯を食いしばって震えを止めようとしても、既に体を支える両足には力が入らず膝はがくがくと震え続ける。  しかし、足を折って地面にへたり込むことは、両手に繋がれた鎖が許さない。 「ウ゛ッ……グ、ガ、ゴヒュッ……!」  口腔内に溢れた涎が頬を伝い、涙や鼻水でぐちゃぐちゃになった顔面は大層無様で、雪豹の国の兵士達に見せたらさぞ面白い嘆きの光景が見られることだろうと犬は思った。  何の役にも立たないような有象無象の命と引き換えに、国を救うきっかけとなり得るだろう英雄が無様を晒し、惨たらしく痛めつけられる羽目になるとは、なんとも哀れなものである。 「お前も可哀そうになあ。王様が無能なせいで、死ぬまでずっと痛めつけられるんだぜ」 「……!」  その発言が琴線に触れたのか、雪豹は何かを言いたそうに唸り、犬を強く睨みつけた。 「はッ、王様を侮辱するな! ってか? この機に及んでご立派な英雄様だこと」  その視線を犬は一笑に付した。  幾ら鋭い眼光で凄まれようと、鎖に裸で繋がれ、ぼんぼんに腫れた睾丸をぶらつかせていては形無しというものである。 「なあ、お前の忠誠心はどこから来るんだ。誰のせいでこんな酷え目に遭わされてるのかぐらい分かってんだろ?」 「……」  雪豹は押し黙る。その瞳の中に、僅かな動揺の色が浮かぶ。  犬は雪豹の口をこじ開け、涎にまみれた下着布を引きずり出した。 「まだ誰かが助けに来るとか信じてるのか? 末期の戦争下で、人ひとりの救出に手が割けるわけねえってことぐらい分かるよな」  雪豹の全身に、念入りに消毒粉を擦り入れる。雪豹は歯を食いしばり、全身に染み込む強烈な激痛に身を震わせた。 「お前だって薄々察してる筈だ。捨てられたんだよ、お前」 「ち、違うッ……!」  耳元で嘯くその声を振り払うように、雪豹は強く首を振った。どこまでも頑ななその姿に、犬はいら立ちを募らせる。 「この期に及んでまだ否定か……うざってえ」  犬獣人は吊り下げられた雪豹に詰め寄り、激痛に喘ぐ両肩を両手で掴む。 「可哀そうだが、お前はここじゃゴミ以下だ。……今から分からせてやるよ」  犬が勢いよく突き上げた膝が、無防備にぶら下がる雪豹の睾丸に突き刺さる。 「……ご、あッ!!!!」  下腹部に響く強烈な鈍痛と、追随してこみ上げる絶望的な苦痛が体を内側から灼いていく。一瞬視界が白に染まり、背筋に冷たい戦慄が迸った。全身の白毛が総毛立ち、生命の危機を本能的に予感させる。 「はは、ちったあ堪えたか? ……だが、まだ終わらねえぞ」  ゴスッ、と肉がひしゃげる鈍い音と共に、二発目の膝が雪豹の睾丸を圧し潰した。 「――ッ! ン゛オ゛ッ……オ゛オ゛オ゛ッ!」  血の垂れた口から洩れる、くぐもった悲鳴が牢屋の中に木霊した。  苦痛に苦痛を重ねられ、苦悶のままに雪豹は身体を激しく揺する。繋がれた鎖ががしゃがしゃと無機質な音を立てて伸び、雪豹の身体が崩れ落ちないように釣り上げていた。 「ン゛ン゛ッ! ン゛ン゛ン゛ン゛ッ……!」 「痛いか? 痛いよなあ? ……そら、もう一発行くぞ!」  喉が割けるほどの悲鳴も、身体に炸裂する激痛を体現するかのような身じろぎも、犬の加虐心を逆なでする他に意味はない。  愉快気な笑みを浮かべた犬の靴のつま先が、赤黒く腫れあがった雪豹の睾丸を二度、三度と執拗に蹴り上げる。  睾丸が衝撃に歪むたびに、雪豹の苦悶が加速する。さながら壊れた玩具のように、喉が裂けて血が出んばかりの絶叫が牢の中に響き渡るも、犬は無慈悲に蹴り上げる足を止めようとはしなかった。 「可哀そうになァ! 今まで沢山の女を泣かせてきたてめえのチンポも、今日で使い物にならなくなるんだからよォ!」  止めとばかりに犬は手を開く。万力のような怪力を込め、雪豹の睾丸をぎりぎりと締め上げる。既に雪豹の意識は限界を迎えており、口端からはごぼりと血交じりの薄桃色の泡が漏れだしていた。 「や……やめで……ぐれえッ……」  ひゅう、ひゅうと漏れる喘鳴に交じって、雪豹は喉の奥からか細い声を絞り出した。 「……あ?」  思わぬ言葉に、睾丸を捻り潰そうとしていた犬の手が止まる。雪豹の頭部を手で掴み、自身の顔を近づける。  雪豹の体液でぐちゃぐちゃに汚れた顔には、確かな怯えの色が差していた。昨日牢に運ばれてきた頃の凛々しい面影はもう既に殆ど存在せず、苦痛に怯える一人の男の姿だけがそこに残されている。 「おい、今なんつった」 「……た、の゛む……もう、タマ……だけは……ッ゛」  雪豹はうつろな瞳を見開いて、懇願の眼差しを犬に向けた。声色には純粋な恐怖が浮かんでいる。  犬は昨日の雪豹の啖呵を思い出し、愉快な気持ちになった。苛烈な虐待の果てに、いよいよ精神力が尽きたらしい。 「あ? タマがなんだって?」 「ぐあああああっ!!!」  犬はおどけたように聞き返しつつ、指先で雪豹の睾丸を弾く。  大仰に悲鳴を上げ、激痛にのたうち回る雪豹の姿は大層滑稽なもので、思わず鼻笑いが漏れてしまう。 「ああ゛……っ、う゛う……! もう、やめ゛……てぐれ……っ」 「はは、きったねえ。命乞いしてしょんべん漏らすとか、なっさけねえ英雄様だなあ、おい」 「……」  雪豹の萎え切った逸物の先端から、ちょろちょろと赤い血尿が垂れる。雪豹は気を失ったようで、がくんと首を垂らしていた。 「またおねんねか。ま、そろそろ潮時かね」  雄としての尊厳を踏みにじられるような苦痛を絶え間なく受け続けたことで、いよいよ頑強だった雪豹の精神にも限界が訪れようとしている。  しかし、まだ足りない。こんな薄暗い場所で折檻されるだけで、英雄のこれまでの所業を許す訳にはいかなかった。たとえ軍部が許したとしても、国民は未だ憎悪を昂らせ続けているのだ。  気を失った雪豹の頬を撫でる。英雄の最期が、もう間もなく訪れようとしていた。 ■ 「おい、起きてってば」  腹部に何度も強い衝撃を撃ち込まれ、雪豹は噎せ返りながら目を覚ました。  瞬間、身を切るような寒さと、追随するような鋭い痛みが全身を襲う。横たえられた地面が凍り付いた煉瓦であることに気づき、遅れて自分が居る場所が屋外であることに気が付いた。 「が、ごぼおっ……!」 「はいおはよう。ほらほら、立って」  かの山羊獣人に頭部の毛を引っ張られ、無理やりに体を起こされる。  雪豹の両腕は後ろ手にきつく縛られており、自身の首輪に繋がれた鎖はまるで手綱のようにして、傍に立つ山羊獣人の手に握られている。足こそ拘束具はなく自由だったが、凍てつく地面に裸足で立たされている為に既に足の感覚は途絶えていた。 「……ぐ、う……」  全身が激痛に軋み、節々が悲鳴を上げていた。脳まで凍え上がるほどの寒気に晒され、本来なら一瞬で意識が潰えても可笑しくはない状況だというのに、苦痛を伴う意識は嫌というほど鮮明だった。 「……おれ、は……い゛きて……」 「生きてるよ。死なない程度に守ってあげてるんだから、感謝してよね」 「が、ぐう……っ」  鎖を引っ張られてよろめき、首輪に気道を圧迫されたことで噎せ返る。さながら主人に引き回される飼い犬のようないで立ちだったが、それに義憤を覚えられるほどの体力は既に存在していなかった。 「今から、君のその立派な姿をみんなに見てもらおうと思うんだ。きっと、すっごく歓迎してくれるぜ」 「……み、んな……?」 「うん。まあ、君にとっては敵国の人たちだけどさ。ほら、耳を澄ませてご覧。君が現れるのを待ってくれてるよ」  山羊が指さす重厚な鉄門の向こう側から、ざわざわと群衆の声が熱気だっていた。 「おい、まだかよ! さっさとクソ野郎の顔を見せろ!」 「そいつが私の兄弟を殺したんだ! 絶対に、私が殺してやるッ!」 「ケツの穴から串刺しにして殺せ! 絶対に許すな!」  眩暈がするような罵倒と暴言、そして鉄の門越しに漂う強烈な殺意。  それらがすべて、自分の方へと向けられていることを雪豹は悟り、寒さとは違う震えに襲われた。 「お、れは……ころ、される……のか……?」 「いやあ、流石にそれはダメかな。殺されだけはしないよ」  山羊は満面の笑みを浮かべ、雪豹を見下ろした。   「だってほら、殺しちゃったらそれ以上苦しめられないじゃない?」 「……あ、あっ」  その言葉の瞬間、雪豹は自分がこれから何をされるのかを悟り、顔面に絶望の色を張り付けた。  その場から逃げ出そうともがこうとして、感覚の潰えた足がもつれて地面に叩きつけられる。痛い。もう十分に痛みは受けたというのに、まだ自分は許されないのか――! 「う、あああああっ」  叫ぶ。目尻に浮かんだ涙が、一瞬にして凍り付いていく。勇敢だった筈の雪豹の心の中には、もう恐怖の他には何の感情も存在していなかった。  首輪を引っ張られる。地面に張り付こうとして、突き立てる爪がもうないことに気づく。  無理やりに立ち上がらせられ、拳顔面を叩かれる。鈍い痛みに遅れて、もう慣れてしまった激痛に悲鳴を上げる。 「あああああっ! い、や゛だ……いやだ、いやだッ……!」 「はいはい、行きましょうねー」  雪豹の必死の抵抗も、顔面を泣きはらしての懇願も、山羊にとっては童が駄々をこねるようなものでしかなかった。  満面の笑顔を張り付けたまま、門衛に合図をして鉄門を開けさせる。 「やだ、やだやだやだ、しにたく、しにたくない゛い゛い゛……!」  悲鳴をかき消すように鈍い音を立て、鉄門が次第に開いていく。  その奥に集まった民衆の数は数えきれないほど多く、その全てが雪豹に殺意の籠った視線を向けていた。 「さあ、お待たせしました! こいつがボクらの敵国の英雄様だ! みんな、仲良くしてあげてね!」 「っ、があっ……!」  山羊は無慈悲に歩を進め、雪豹は鎖に引っ張られて地面に倒れ伏したまま引き摺られた。白い雪の上に、赤黒い血の跡が滲む。  あれほどヤジを飛ばしていたはずの民衆は、不思議と、皆一様に静まり返っていた。 「あれ、どうしたの? あれだけ殺したいって息巻いてたのに、意外と静かだねえ」  山羊が音もなくほほ笑む。  民衆の中には、強い動揺が生じていた。雪豹の、余りにも凄惨な仕打ちを受けただろうことが想像に難くないその姿を見て、ある種の憐憫のようなものが民衆の中に伝播されていたのだった。 「が、あぐ……ううっ……」  地面に転がった、まるで襤褸雑巾のような姿の雪豹から呻きが漏れる。一糸すら纏うことを許されていない、まるで家畜以下の処遇のその存在に、民衆はざわめきだった。 「ご、ろざ……ないで……」  それはもう、英雄などではなかった。無様に泣き腫らし、白銀の毛並みを薄汚い赤黒に染め、ありとあらゆる器官から血を流しながら命を乞うその姿は余りに矮小で、憐れでしかない。 「あはは、聞いたかい? 殺さないで、だって。さんざん僕らの国の人たちを殺しといて、殺さないでだってさ!」  山羊は重苦しい空気の中でただ一人、声を張り上げて愉快そうに嗤った。 「おいおい、どうして黙ってるんだ? こいつは君たちの、もう居ない家族たちの、友達たちの、知り合いの仇じゃないか! 誰も仇を取ろうっていう人はいないのかい!」  山羊の炊きつけるような言葉が、しかし静寂だけを民衆の中に広げていく。  そこには穢れたものに対する忌避と、瀕死の「それ」に追い打ちをかけることへの抵抗があった。それほどまでに、例え深い憎悪を抱いているはずの国民達でさえ困惑する程に、雪豹の身体は凄惨な状態になっていたのだ。 「……ま、すぐに動かなくてもいいや。これ、何日か門に縛り付けとくから、好きな人が好きな時に叩きなよ」  山羊はつまらなさそうに目を細めた。  吹きすさぶ寒気よりも冷たい眼差しを足元の雪豹に向け、動揺に押し黙る群衆へと言葉を並べる。 「じゃあ、あとは任せるよ」  雪豹の首輪から伸びる鎖を鉄門の脇の留め具に括り付け、山羊は閉じられていく鉄門の中へと去っていく。その無邪気な出で立ちの邪悪を民衆は畏怖の目で見送り、そして黙した民衆と雪豹だけがその場に残される。  雪豹の身体は既に凍り付き、もはや身動きを取ることすら叶わない。本来なら死んでいるはずのそれは、しかしどういう訳か、意識と痛覚だけは鮮明なまま残されていた。  雪豹は、白んだ意識の中で自身を取り巻く民衆を見た。その、無機質な鉄のような視線に恐ろしさを感じながらも、自身を罰しようと動かない、平凡な精神の彼らの姿には見覚えがあった。 「……が、ごぼ……っ」  喉の奥から、焼けつくような熱を帯びた血の塊を吐き出す。痛みでかすむ脳内のなかで、雪豹は回顧した。  自分が「救国の英雄」などと大それた名前を受けることになったのも、ただ、平凡な精神の人々を守りたかっただけなのだと。  自身が敵国の兵士を殺すたびに、自国の民衆たちの苦しみが少しでも減るのならば――と。ただそれだけだったのだ。  だが、眼前に広がる光景はどうだろう。敵国の民たちも、自国の民衆と何も変わらない、平凡な感性の人々たちである。戦火によって苦しんでいる、いたって変わらぬ人々である。  では、平凡な彼らを守るために、間接的にでも平凡な人々を傷つけた自分の行為は、矛盾と言わずして何になるだろう。 「あ、う゛う゛……ぐ…え゛…っ」  雪豹の目から沁みだした涙が、一瞬のうちに凍っていく。最早悲嘆に暮れることすら許されなかった。  自分の行ってきた行為が、矛盾に満ちた過ちであることも。英雄などと呼ばれる筋合いはないことも。雪豹は全てを理解し、絶望した。 「……ゆ゛……じ、で……」  雪豹の壊れた喉から、掠れきった声が漏れる。 「ゆ゛……る゛……じ、で……ぐ、だ……さい……」  雪豹は明滅する意識の中で、ありとあらゆる液を流して許しを乞うた。しかし、取り囲む民衆の瞳は、暗く冷たいままである。  いくら詫びたとして、この敵国の悪魔を民衆が許す理由など、当然どこにも存在しなかった。 ■  気付かぬうちに、また意識を失っていたらしかった。  殆どの視力を失い、凍り付いた視界で見上げた空は黒い。曇っているのか夜なのか、それすらももう判別出来なかった。  体の感覚は既に存在しなかった。か細い、張り詰めた糸のような聴覚が、傍に誰かが居ることを感じ取る。 「おい、生きてるか。……起きろ!」  凍てついた睾丸に衝撃をねじ込まれ、雪豹の身体はびくんと跳ねた。最早痛みは生じない。ただ、悪趣味なまでに鮮明な思考が苦痛を思い出し、雪豹の精神は絶望と恐怖に包まれた。また、自分に暴力を振るう輩が来たのだと。 「……あ゛、う゛……」 「よし、意識はあるな。そうでないと困るぜ」  じい、とチャックを下ろす音の後に、生温く悪臭を伴う液体が雪豹の身体にぶちまけられる。鼻を衝くアンモニア臭と、冷え切った身体を伝っていく下品な熱。それは小便であった。  身体の全体に満遍なくかけられ、それから開かれた口の中に注ぎ込まれる。口を閉じるほどの力も、悪趣味極まりない仕打ちを拒む精神力もとうに存在せず、雪豹は無感情のまま熱い液体を嚥下していった。 「マジかよこいつ、飲み干しやがった。プライドとかねえのかよ!」  傍から、別の人物の嘲笑が聞える。どうやら複数人らしいが、雪豹にとってそれはもうどうでもいいことだった。  既に心は折れていた。許される権利もないのだと理解した瞬間、雪豹は全ての仕打ちを受け入れる覚悟を決めていた。  小便を終えたらしいその人物は、雪豹の頭を掴み上げ、その淀んだ瞳を強く睨みつけた。 「……お前のせいだ。お前のせいでオレは片腕を失って……それだけじゃねえ、妻も、息子も、両親も、姉ちゃんも全部……!」  その男の声は、途中から糾弾に変わっていた。そしてその言葉は、当然雪豹に与えられるべきものであった。 「許して、ってお前言ったよな……? 許すと思うのか? 沢山殺してきた癖に! 今更! どうしてお前が許しを乞える!」  雪豹の心の中には、深まる冬の白のような、鮮明で逃げ場のない絶望が広がっていた。  四肢は凍り付き、精神も凍り付いた雪豹は、もうどこにも行くことはできなかった。 「……お゛……、あ、あ゛……」  言葉は浮かばず、雪豹は淀んだ声と共に血を吐いた。その要領を得ない所作に、声の主の激昂は一層加速していく。 「……ぐちゃぐちゃに踏み躙ってやる。お前の尊厳の全部を、全部だ!」  口を開けた喉の奥に、槍のようにして生暖かい肉の塊が突き立てられる。口の中に、尿のにおいと混じった生臭い感触が目いっぱい広がっていく。それは雪豹にとって初めての性的な暴力で、そしてそれはこれから嫌になるほど永く続くことを理解していた。  もう、ありとあらゆることがどうでもよかった。自国の安否も、閉ざされた自分の未来も、これから自分の身体が文字通りの玩具として、永遠にもてあそばれ続けることすらも、もうどうでもよいことだった。  視界が闇に閉ざされていく。叫ばれ続けている暴言も、喉の奥に繰り返し突き立てられ続ける生暖かい肉の棒の感覚も、胸の内に生じ切った深い絶望も、凍てつくような寒さも、忠誠を誓った王のことも、仲間たちの顔も、命を奪った敵国の兵のことも。  ――すべてが、白に染まっていく。 ■ 「やあ、おはよう。酷いありさまだね」  声がした。誰の声かは思い出せないが、その柔らかい声は自分にとって何よりも恐ろしいものだった。  自分。自分とは何か。それすらも思い出せない。ただ、暗闇の中で、何かを考える思考回路だけが残されていた。 「君に君の姿を見せてあげたいよ。あちこちからいろんなものが出てる。口とか、お尻からは色んなものが垂れてるし、おちんちんは……ああ、もう潰れちゃってる。かわいそー」  声は嘲笑をした。闇の中で響くその声は、ただ淡々と事実であろうことだけを述べていた。 「……ねえ、君は英雄の条件って何か知ってる?」  声は問う。英雄。酷く懐かしくて、恐ろしい響きだった。 「ま、それはいいや。あのね、君の国から面白い文書を盗んできたんだ。聴かせてあげる」 『護国の為に刃を振るい、幾百の兵の為にその御身を捧げた雪豹の英雄を悼んで、その御霊を偲ぶ為の慰霊祭を開催する』 『今は亡き英雄に感謝と、忌避すべき戦災を戦い抜く為の覚悟を再び固める為の催事である』 「……だってさ。君、凄いんだね。まさか祭られるぐらいの偉人だったなんて」 「でも笑っちゃうよね。君、まだ生きてるのにね。それに、君が居なくても戦災を切り抜けられるって思ってるんだぜ」  それだけではない、と無意識のうちに思考をした。誤っているのは、それだけではない。  そう、自分は。  祭られるべき、英雄などではないというのに――!   「ねえ」  声がした。 「英雄の条件って何か、教えてあげようか」  声は笑う。 「英雄は、本当の英雄は、偉大なる結果を残してもう死んでしまった人のことを指すんだ。だから、君は本当は違うんだよ」  だってまだ生きているからね、と声は嗤う。 「君は死なないよ。ボクが死なせない。だから、君は矛盾を抱えて生きることになる」 「そもそも、向こうは君がどういう状況であるかを理解していない。なのに英雄として祭り上げられるってことは、君の生存は諦められているということになる」  声が重なる。山羊と、犬の。    ――君は見捨てられたんだ。 「誰よりも尽くそうと頑張ってきた君に、君が守りたいと思った国民達は振り向かない」  ささやくような声が、思考の中に直接溶け込んでいく。  ああ、そうか。見捨てられたのだ、自分は。  いや、自分は気付いていたはずだ。最初から、この地に投獄された時から、もう二度と助けは来ないのだと。  どうして助けは来ないのだろう。  自分はこんなにも――気が狂うほどに耐え抜き、多くの敵を殺し、英雄として戦火の口火を切っていたというのに。  沢山の、平凡な敵国の民を追い詰めて。多くの恨みを買い、人ひとりが背負えないほどの憎しみをぶつけられてきたというのに。  いくつもの苦痛を与えられ、いくつもの恥辱を与えられ、いくつもの羞恥を味わってきたというのに。  男しての尊厳を、生命としての尊厳をすべて踏みにじられてきたというのに。 「救われないね、君。だってほら、全部無意味なんだよね、君の行動って」  ああ、まったく。  腹立たしいほどに、その通りで。  もう、すべてが、どうでもよかった。      完


More Creators