『熊戦士が低級魔獣の慰み者にされるまでの話』
Added 2021-04-11 07:11:12 +0000 UTC眼前に火花が散り、地面へと崩れ落ちる。 完全に不意の一撃。眩む視界の中で懸命に眼を見開けば、己の身体を取り囲む無数の影。 (伏兵、か……!) 流血と共に力が抜けてゆく。相手の戦術を見誤った己の愚かさに歯噛みするだけの力さえ、もうない。 漫然とした意識の中、口内に広がる鉄錆びた血の味だけが鮮明に、己の慢心と過ちを物語っていた。 『熊戦士が低級魔獣の慰み者にされるまでの話』 覚醒。 体が酷く重い。腕を持ちあげれば節々が痛む。血を失い過ぎたせいか、意識は極めて漫然だった。 緩く覚醒を始める意識に伴い、五感が目覚め始める。背を伝う冷えた堅い感触。周囲は暗い闇に包まれ、一切の光がない。 息を吸えば酷く臭う。血と獣、泥、排泄物、それらの多くがない交ぜになって熟成されたような、名伏しがたい悪臭。それはこれまでの戦士としての生活において嗅ぎ慣れたモノで、私は戦士であるが故に状況を一瞬で理解する。 「ゴブリン……!」 ほんの一瞬だけ、或いは命が助かったのではないかと甘い想像をしていたが、それも即座に霧散する。危機はまだ去っていないどころか、自身の身体が未だに危機の掌上にいるという事実に戦慄する。 無様な話だ、と舌打ち、自嘲する。たかが低級魔獣(ゴブリン)だと高を括った結果、敗北してこうしてどことも知れぬ場所――恐らくは低級魔獣の巣だろうか――に幽閉されてしまっているのだから、歴戦の戦士の名が泣くというものだった。 鉛のように重い身体を起こす。ようやく目が慣れてきたこともあり、暗闇の中に空間の輪郭が浮かび上がってきた。 三方を岩肌に囲まれ、天井は中腰になるのがやっとなほどに低い。正面には木組みの格子が立ち塞いでおり、外へ出ることは叶いそうもなかった。どうやらこの場所は牢屋らしい。格子を挟んで通路のようなものがあり、その奥にもまた格子がある。 身体をぶつけて力任せに格子を揺すろうとも、弱った身体では壊すことも儘ならない。暫くの間牢屋から脱出する術を探ってみるも、結局成果はなく、完全に八方塞がりだという事実が明らかになるばかりだった。 「クソ……」 悪態を吐き、壁際に腰を下ろす。僅かにぬめりを帯びた岩肌のきわめて不快な冷たさに、苛立ち交じりの溜息を吐き捨てる。 今私が身に着けているのは、気絶する前に身に着けていた自前の物とは違う襤褸布の褌のみで、上半身は一糸まとうことさえも許されていない。褌と言っても糸のように細い腰紐と掌大の前布しかなく、下着というには余りにも粗末だ。勃起している訳でもないのに薄い布地にはくっきりと私の陰茎の形が浮かび上がり、玉袋の端は惨めにも外へはみ出していた。囚人でももう少しまっとうな格好を与えられるだろう、到底人前に出られる格好ではない。 気絶の間際まで身に着けていた筈の鎧や斧は見当たらず、靴さえないせいで足の裏が岩肌に触れて冷たい。両手は縄で括られ後ろ手に回されており、左の足首には重厚な鉄の枷を付けられている。そのせいで上手く身動きが取れないのが、ひどくもどかしい。 今現在逃げ出すすべがないと判ったならば、逃げ出すことの出来る機会を待つしかない。休息を取るには余りに劣悪な環境だが、それでも休まなければ身が持たないだろうことは、本能的に理解をしていた。 「なあ、おい。アンタ」 壁に寄りかかり、再度目を瞑ろうとしていた矢先、どこからか細々とした声が聞えてくる。音の主を探ろうと耳を澄ませていると、声は先ほどよりも大きくなった。 「アンタだよ、アンタ。さっき格子揺すってたろ、熊のダンナ」 「私のことか」 熊のダンナ、というのは、間違いなく純種の熊獣人である私の事を指していた。格子の傍に這い寄り、声のする方向――通路を挟んだ奥の格子の奥側――へと目を凝らしてみると、暗がりの中にてらりと光る何者かの双眸が浮かび上がってきた。 熊獣人はある程度夜目が利く方だが、こうも暗くては遠くの方は見えにくい。声の主はどうやら私のことが見えているようだが、私には相手の顔が分からなかった。 「すまない、暗くて君の姿がよく見えないのだが、向かいの牢にいるのが君か」 「おう。アンタとおんなじ囚われの身っす」 暗がりの中で何かが動き、じゃらりと金属の擦れるような音が響いた。彼もまた、私が足首を枷で繋がれているように、身体の何処かを拘束されているようだった。 「なあ、ダンナもゴブリンどもに一杯食わされた口でしょ。驚きっすね、あいつらが突撃以外の戦法を使ってくるなんて」 渇きで掠れたような、僅かにがさついた低い声が暗がりから響く。声音は低いが張りがあり、主は比較的若い男性といったところだろうか。暗がりによほど退屈していたのか、それとも不安を紛らわすためかは分からないが、いやに舌が回っている。 「君もゴブリンにか」 「オイラは魔術師なんだが、見事に前衛と分断されちまってなあ。つってもゴブリンどもだし逃げられるだろって思ってたんすけど」 あんな雑魚どもになあ、と舌打ちをする彼の心境が、私には強く理解できた。 脳なしの低級魔族、として扱われることが大半であるゴブリン種は、その粗悪で醜い見た目に比例して知能指数も低い。とにかく数が多いのと気性が荒いことさえ気を付ければ対して脅威でもなく、新米の冒険者たちのいい食い扶持となる。 しかし、ここ最近のゴブリン種は動向が奇妙だという噂が飛び交っていた。数の利を生かして妙に戦術的な攻め方をしてくるとか、普段なら引っかかるだろう見え透いた罠や陽動に引っかからないとか、それどころか冒険者が使うような罠をこちら側へと仕掛けてくるだとか、平たく言えば知性が高まっているという話だ。それ故に、ゴブリン討伐という新米のこなすような仕事さえやり手が少なく、ある程度の実績を持つ私まで仕事の話が回ってきて、そして今に至るという訳だった。 「最近連中が妙にずる賢いってのは聞いたんだが、まさかここまでとはなあ。あーあ、オイラもアンタも、麗しき奴隷ライフの始まりっす」 「奴隷……」 ゴブリンが敵を捕縛し、奴隷として扱うという話は余り聞き覚えがない。我慢の概念を知らない連中だから、大抵は死んだその場から丸齧りか、女ならば慰み者として『丁重に』扱われるというのが常なのだが。 だが寧ろ、殺されないのならばそれは有難い話だった。私には、なんとしてでも生きて戻らなければならない理由がある。 「どうしたんすか旦那、急に黙り込んだりして」 「いや、少し考え事をしていただけだ」 「なんだい、想い人かい」 「妹だ。きっとまだ、私の帰りを待ち望んでいる」 力と頑丈さだけが取り柄の兄と違って、妹――シシィは良く出来た、とても聡明な女性だ。熊獣人にしては珍しく身体が弱く、唯一の身よりである兄の私と共に暮らしている。 「アンタ、妹さんのことが大切なんすね」 「ああ。もうすぐ祝言を挙げるんだ」 そんな妹にも有難いことに、娶ってくれる男性が現れた。そして来年の初めには妻になるのだった。 ゆえに、私がまだここで生き永らえているという事実は――例えこの先にどのような地獄が待っていたとしても――幸運と言わざるを得ないだろう。彼女の花嫁姿を見るまでは、何が何でも死ぬ訳にはいかない。 「私は何が有ろうと絶対に生き延びてみせる。隙を見てここから逃げ出して、どんな無様を晒そうとも妹の下へ帰ってみせる」 私は拳を固く握り締め、心中に決意を浮かべた。どんな醜態を晒し、どんなに醜い姿に成り下がろうとも、必ず生き延びてみせると。その為ならば、どんな屈辱さえ甘んじて受け入れるだろう。 「なあ旦那、アンタの名前はなんて言うんだ。オイラあんたのこと気にいっちゃったよ」 ひひ、と湿っぽい笑い声が牢の奥から洩れてくる。今の私のどこに気にいる要素があるのかは不明だが、気に入られるのは余り悪い気分ではない。 「私の名はウルズ。君は?」 「オイラはシギー。長い付き合いになれるといいな」 長い付き合い。これから奴隷の身に堕ちようとしているというのに、それは余りに無謀な願望だろう。 しかし、こんな窮地だからこそ紡がれる絆もあるのかもしれない。姿は見えずとも、彼の声音や言葉に嘘はないように見受けられる。或いは気を許してもいいのかもしれない――と、その時の私は思っていた。 ◆ 「……ん」 精神的に疲弊していたせいか、いつの間にか眠ってしまったらしい。目覚めてもなお暗闇だが、体の痛みが長時間の眠りに落ちていたことを証明していた。 「シギー、すまない。私は眠っていたようだ」 向かいの牢の奥にいるであろう彼――シギーに声を掛けるも、返事はない。彼も眠っているのか、或いはもうその場にいない可能性もある。私が眠っている間にどのような事が起きているのか、ここでは何一つとして情報が得られない。 (しかし、私はいつまでここにいるのだろうか) わざわざ捕らえたのに、死ぬまで放置されるような事もないだろう。身に苦痛が降り注がないのは良いことだが、同時に何一つとしてこちらから出来ることがないというのは、それはそれで苦痛と言えるものだった。 (そろそろ、ここから出たいが……) 戦闘の前になるべく固形物を摂らないという性分のせいか、空腹や喉の渇きが顔を覗かせ始めていた。戦士として鍛えている私は、ある程度の時間であれば食料や水を取らずとも動く事は出来る。しかし空腹は集中力を散漫にさせるし、力も十分に発揮できるとは言い難い。水分に関しては不足すれば最悪死に繋がることもある。一応、渇きを満たす最後の手段はなくもないのだが……。 (それは流石に考えたくないな……) もぞもぞと身体を動かし、身を捩る。幾ら歴戦の戦士であり、屈強な獣人であったとしても、原初的な生理的欲求に関しては避けようがなく、いずれは限界がきてしまう。そして恐らく、唯一この欲求ばかりは鍛錬によっても耐えられる時間を延ばすことが出来ないだろうものだ。 (いずれ、こちらも堪えられなくなるか) 喉の渇きを満たす最後の手段とは、つまるところ己の尿を飲むことである。一応、戦士としての経験上、そういう決断をせざるを得なかった状況はなくはないが、正直あまり思い出したくはない。それにその時とは違い、後ろ手を縛られている以上褌を解くことも叶わないのだから、尿の染み込んだ下着を吸うという絵面となる。深く考えずとも、それは余りに地獄だった。 意識を失っていたせいか、まだ強い排泄欲求は存在していない。しかし今の幽閉環境が今後さらに続くようなら、いよいよどうするかを考えなければならない時が来るだろう。寝転がる程度のスペースしかない牢屋の中で漏らそうものなら、悪臭だけでなく生温い尿に浸り続けるという不快感を背負うことになる訳で、それは断固避けたいが。 どうにかここから出たい、などとしばらく考え続けていると、不意にひたひたという足音が近づいてくるのを捉える。 足音は軽く、そして靴らしきものは履いていない素足のようだ。足音の主は早足で歩き、やがて私の牢の前で立ち止まる。 (やはり、ゴブリンか……) 格子の隙間から私をじっとりとした眼で舐めつけるのは、まさしく茶肌ゴブリンの低級種だった。頭身が低く、肥大化した頭部の割りに胴体や腕は不格好に細い。薄汚い腰布を一枚垂らしている以外は裸で、骨ばって痩せこけた胸部とぶっくり肥大した腹部との不均衡さが酷く不気味だった。 はあはあと湿った吐息を漏らし、耐え難い据えた悪臭を撒き散らすさまは極めて不快で、殴り飛ばしたくなる。ゴブリンは手にした棘付きの棒をちらつかせたのちに、格子戸の鍵を解いた。出ろ、という事だろうか。 牢の外へ出る。凝り固まった身体を解す暇もなく、棘棒の柄で背中を突かれる。通路を先へと進め、ということらしい。 精々が私の膝ぐらいまでの高さしかないゴブリンだ、格闘なら負ける筈もない。が、しかし、両手が拘束され、片足に重しを繋がれている現状においては、幾ら低級のゴブリン一匹と言えど反抗するのは得策ではないだろう。防具もない素肌、まかり間違って急所などに棘付きの棒の一撃を受ければ、最悪そのまま命を落としかねない。それに地形も把握しておらず、敵がどれくらい潜んでいるのかさえ分からないのだから、逃げ出したところでどうしようもないだろう。 少しでも情報を取り入れようと周囲に目を配りながら通路を歩く。両脇には私が押し込められていたような牢がずらりと続き、時折左右に通路が枝分かれしている。暗闇という事もあり方向感覚が狂いそうだ。一度迷えば元の場所に戻って来られる自信はない。 陽の射さない地下では時間の判断が難しいが、概ね五分前後だろうか。長い通路が終わりを迎え、上へと延びる曲がりくねった坂を上った先に、光の射し込む洞窟の出口があった。 暗闇に慣れ切った視界では、淡い陽の光さえ酷く眩く感じられる。しかし眩さに目を顰めている暇もなく、ゴブリンは私の背を突いて外へと蹴り出した。 身震いをする。秋めく冷風が汗ばんだ裸身を撫ぜたためか――否それだけではない。外に出、眼下に広がっていた光景が想像もしないような驚きに満ちたものだったからだ。 すり鉢状に広がる、赤茶けた荒涼の台地。坂地には私が先程出てきたような洞穴がいくつか並び、襤褸と表現する他にない古びた木組みのバラックが点在している。すり鉢状の台地の最下層には赤錆に侵食された鉄製の建物が数個と畑らしき開墾地、トロッコのレールらしきものが台地に空いた横穴の先へ伸びているのも見える。 極めて殺風景で無骨な領域には見覚えがあった。所謂鉱山街という、大型の鉱山に併設される鉱山夫達の仮住居だ。大方打ち捨てられて無人となった鉱山街をゴブリン共が乗っ取ったのだろうが、それをする理由とは果たして何だろうか。 ゴブリン共に鉄精製の技術はなく、当然加工の技術も持たない。ゴブリンが鉄技術を持っていたら今頃我々は死滅しているだろう、という笑いどころの難しい冗談があるように、彼らの知能指数ではそもそも資源を大幅に加工しようなどという考えに至る筈がない。加えて、鉱山街とは得てして、草木の殆ど生えない荒涼とした土地にしか存在しない。食に関する欲求を満たすことが難しい土地にゴブリンが好んで居つく理由など、やはりどう考えても存在しないのである。 (調べてみる必要がありそうだな……) 何か酷く嫌な予感がするが、ともかく今はゴブリンに促されるままに移動する他にない。武器で突かれるままに私は台地の階段を下り(枷を付けられたまま階段を下るというのは、存外に重労働だった)、最下層にある鉄製の小屋のひとつへと連行される。 中は狭く、扉が開かれた瞬間余りの土埃の量に思わず咳き込んでしまう。血、脂、糞尿、それらの入り混じったような饐えた匂いに満たされた、立ち入ることを躊躇ってしまうような空間だった。 中は部屋の天井に吊り下げられたランタンの微弱な光しかなく、薄暗さが陰鬱とした雰囲気を掻き立てる。中央に鉄製の椅子が一つ置かれているほか、壁には磔台らしき拘束具が設置されていた。そして口で説明するのも悍ましいような、様々な拷問用具も。 恐らくは拷問部屋だ。しかし、一体何のために私を拷問するというのか。ゴブリンは我々と共通の言語を持たず会話は成立しない。となれば真似事か、或いはただの暇つぶしか――? ゴブリンに促されるまま椅子に腰掛ける。ロクに清掃もされていないだろう鉄製の椅子のぬめりを帯びた感触がむき出しの尻に伝わってきて、気持ち悪さに舌打ちをする。 ゴブリンは手練れた仕草で私の足と椅子の脚、両腕と椅子の腕を縄で括り付ける。鉄製の椅子は地面に固定されており、縄を解かれるか引き千切るかしない限り身動きは取れなくなった。 拘束をするだけして、ゴブリンは部屋から去っていく。入り口の扉は閉じられ、部屋には私一人しか居ない。静寂が訪れると、自分の心臓がばくばくと波打ち、体が震えていることに気付かされた。部屋が埃っぽくて息苦しいせいもあるが、それよりもこれから先の自分の身に降りかかるだろう恐怖を無意識的に感知して怯えているようだった。 恐ろしい、死にたくない。そんな根源的な恐怖を噛み殺すように歯を食いしばり、震えを止める。 (大丈夫だ、なんとしても……生きて帰るんだ) 捕まった時点で賽は投げられたのだ。いずれにせよ、どちらに転ぼうとも、この先に待ち受けているのは気が滅入るような出来事だろうが、それでも私は屈するわけにはいかず、死ぬ訳にもいかない。妹の晴れ着姿を一目見るまでは、なんとしても。 ◆ 私が椅子に拘束されて少し、もう一度小屋の扉が開き、中へゴブリンではない何者かが立ち入ってきた。 それは薄布のローブを羽織った小柄な蜥蜴人だった。湿った岩に蒸した苔のように毒々しい緑鱗で、体躯は小柄で極めて華奢だ。ぎょろりと見開かれた双眸がじっと私をの姿を捉え――にい、と笑むように歪む。 「よう、ダンナ。さっきぶりだね」 蜥蜴人特有の大口が開かれ、そこから聞こえてくるのは私の名を呼ぶ人懐っこい声。その声には、ほんの数刻ほど前に聞き覚えがあった。 「シギー? 君は、シギーなのか?」 「おうとも。お互い、元気そうで何よりだな」 先程私が牢から出るとき、彼の牢から返事はなかった。ゆえに眠っているか、或いは私より先にどこかへ連れ出されたのではないかと案じていたのだが、存外に無事そうで胸を撫で下ろす。思わぬ再会に、緊張で凝り固まっていた身体が僅かに解れていく。 「オイラ、寝てるダンナより先に外へ連れ出されたのさ」 「そうか……ともかく、無事でよかった」 「ああ、お互いに、無事でよかったっす」 と。互いに再会の喜びを分かち合う笑みを交わしたところで、私は己の身体が拘束されていることに思い至る。どうしてこの場にシギーが現れたかは分からないが、とにかくこの拘束を解いてもらわなくては、今のままでは身動きが取れない。 「シギー、すまないがこの縄を解いてくれないか。身動きが取れないんだ」 「んー、そうしたいのはやまやまなんすけど、それはちょっと無理なんすよ」 ごめんなあ、と困ったように笑いながら、シギーは椅子に拘束されている私の周りを歩き回る。 「オイラ、色々頼まれちゃってて。アンタにちょっとした根性試しのテストをしなきゃならないんす」 「シギー? ふざけるのは止めてくれ、良いから縄を――」 僅かに怒りを含んだ語気で言葉を放とうとしたその時、もう一度部屋の入口が開かれる。今度はゴブリンだった。何か、なみなみと液体の詰まった大瓶を数本抱えて部屋へと入ってきた ゴブリンは立っているシギーには目もくれず、雑に瓶を床に転がして出ていった。シギーはその瓶へと億劫げに歩み寄り、拾い上げる。瓶に付着した泥をローブの袖で拭う仕草に、緊張は見られない。 「ゴブリンって、ほんとこういうとこ雑っすよね。ま、別にいいんすけど」 私の方へ向き直ったシギーを見て、私はあることに気付く。 認めたくはない。ほんの少しとはいえ、同じ境遇に立たされたもの同士だったのだ。シンパシーがなかったと言えば嘘になるし、今の今までは間違いなく気を許していた。だが。 「シギー、君は……裏切ったのか? それとも最初から私のような囚われの身ではなかったのか?」 「んー、どちらかといえば前者っすね。ただ裏切ったってのはちと心外っす。オイラは生きるためにこの道を選んだんすよ」 「ゴブリンに、あんなケモノ共に下るのか、君は……!」 「ふんどし一丁で睨まれても怖かないっすよ。今はおいら達より、ゴブリンの方が立場が上っす。強いものに従うのは当然でしょ」 爬虫類特有の尖った口から、シギーは赤く細長い舌をちろりと覗かせる。飄々としたその眼差しはどこか淀んで疲弊しているように見えなくもない。しかしその意を問う前に、シギーは手に抱えた瓶の栓を抜き、瓶の口を私の口元へと押し付けた。 「ゴブリン達は、苛酷な状況でもよく耐える奴隷を欲しがってるっす。逆に言えば、忍耐力のないような弱っちいやつはポイしちゃおうって話になってて、オイラはその選別を任されたんすよ」 「だから、毒を飲ませて耐えさせようというつもりか」 瓶の奥から漂う、酸いような苦いような奇妙な臭気の液体に視線をやる。 「毒……まあ、括りとしてはそうっすね。けどオイラ、あんまり痛々しいの好きじゃないんすよね」 シギーが瓶の底を振ると、中の濃緑色の液体がたぷんと揺れた。 「だからこれ、利尿剤っす」 「……は?」 りにょうざい。利尿剤。 ややあって言葉の意味が正確に変換され、私はこれまでにないほど怪訝な声を上げた。 「ま、待て。飲ませるのか? それを、私に?」 「それ以外ないでしょ」 「何のために」 「小便してもらう為っす」 それはそうだろう。いやしかし、だが何故に? なおも怪訝に顔を歪める私に向け、シギーは大きく溜息を吐いた。 「さっきも言ったっすけど、ゴブリン達は忍耐力の高い奴隷を欲しがってて、オイラはその選別をするんすよ。でも、前任や前々任がやってたみたく、金玉握って一分声を上げなかったらセーフとか、三分ぐらい水の中に突っ込んで窒息しなければオーケーとか、そういうのはちょっと無理なんすね。己の手を穢したくない性分ってやつすかね」 シギーの語りの内にあった、聞くだけで(いろいろな意味で)縮こまってしまうような拷問めいた選別と比べれば、シギーのさせたいことは何回りも矮小に聞こえてしまう。 明かりの乏しい部屋に閉じ込められ、手足を椅子に拘束され、周囲には物々しい拷問器具が転がっていたことで、私の身に降りかかる悍ましい災難を嫌が応にも想像させられていただけに、本音を言えば少しだけ気が抜けてしまった。 「……まさか、君の選別方法とは、小便を我慢させることなのか?」 「そうっす。一時間漏らさなかったら合格ってことで」 「一時間……」 一時間ぐらい余裕だろう、と内心呟きながらも、一応私は顔を顰めることにした。 利尿剤などこれまでに使ったことはないが、私とて成人男性である。効き目がどれほどであろうと、一時間程度の我慢が出来ないことなどあり得る筈がない。 「あ、ちなみに漏らしたらアウトっす。ゴブリン、雑食なんすよね」 「……何が言いたい」 「失格! お家に帰します! ……って風にはならないってことっすね。行きつく先は連中の腹の中、って訳で」 死がちらつかされ、私は内心に冷や汗をかきながら虚勢を張った。 「分かり切ったことだ。今更臆するものか」 「頼もしいっすね。じゃ、口開けてください。でないと鼻から流し込むっす」 鼻から飲料を摂取する趣味はない。私が大人しく口を開くと、生温く口当たりの悪い、薬臭のひどい液体が口内へと入り込む。 シギーの瓶の傾け方は、飲ませるというより注ぐという方が正しいだろう。瓶先を口の中へ突っ込まれ、息継ぎの隙さえ与えられない。これではまるで水責めではないか、と憤りながら目を白黒させつつ、どうにか飲み干していく。 「……っ! はっ、はーっ……君には、手心というものがないのか……!?」 「時間を掛ければかけるだけ、辛いのはそっちっす。手心っすよ」 窒息寸前、陸地だというのに溺死の可能性がちらつき始めたところで瓶の口が離され、私はどうにか息を継ぐことが出来た。しばらく荒い呼吸を繰り返し、どうにか張り裂けそうに波打っていた心臓を整える。 大量の水を飲まされる、というのはそれだけでも堪えることだった。瓶一本分の水分が腹に溜まり、胃にずっしりとした重みを感じて酷く気分が悪い。 「じゃもう一本いくっす」 「なっ」 「あ、すんません言ってなかったんすけど、ここにある瓶全部ウルズの旦那に飲んでもらう分なんで」 大瓶を胸に抱え、シギーはにたりと粘っこい笑みを浮かべる。 私は彼の足元に転がされている瓶の数を数えた。シギーが抱えているのを含めて三本、全て大瓶だ。 ……冗談だろう? 「ま、待て。そんなに飲めない。私の胃にも限界がある……!」 「身体が大きいやつにはたらふく飲ませろってお達しなんすよ。はい口上げて、辛かったら手上げて下さいっす」 「私の手足は拘束されている! おい、待て、やめ――ごぼッ」 これまでの二十七年の人生において、苦境に立たされているという自覚は常々あった。物心ついた頃には既に父母と生き別れていた私は、まだ赤子同然の妹をどうにか生かそうと、糊口を凌ぐために何でもした。人には言えない経験であればあるほど金になりやすい、というこの世の真理に辿り着いたのは、丁度十七年前の今頃だっただろうか。 苦境に慣れ過ぎたが故に、私は慢心していた。この時の私は、これまでに体験してきた如何なる苦境よりも、これから始まる僅か一時間の方がはるかに地獄めいていることなど想像だにしなかったのだ。 ◆ 「旦那。御機嫌はいかがっすか」 「……っ」 退屈そうに部屋の隅で腰を下ろすシギーの問いに、私は口を開かなかった。否、厳密には開けなかったのである。 鼻で恐る恐る息を吸い、吐く。身体は酷く冷え込んでいるのに、全身の毛穴から汗が際限なく噴き出しては止まらない。私の身体はじっとりと汗ばみ、太腿から下にかけては小刻みに震えていた。 シギーの無慈悲な注入から数分も経たないうちに、私はこれまでにないほどの強烈な尿意に苛まれていた。胃の腑に落ちた緑色の液体が即座に吸収され、尿として膀胱に溜められていくのが直感的に分かるぐらいには、利尿剤の効能は強烈だった。尿意を催すといっても、せいぜいが酒をかっ喰らった時ぐらいの感覚だろうと高を括っていただけに、これはあまりにも。 「その様子だと大分辛そうっすねえ」 「……っ、く。あ、あと、どれくらいだ……?」 「あとだいたい五十分ぐらいっすね。まだ十分ほどしか経ってないっすよ」 「……っ、ぐ、ぅ」 息を吐き、身を捩る。心臓がバクバクと波打ち、強烈な眩暈に視界が揺らぐ。 たぷん、と下腹部に蓄えられた大量の温水が揺れるのを感じ、強烈な排泄感に喉元から絞ったような呻きが漏れた。 「(ああ、漏れる、漏れる漏れる漏れる――!)」 あと五十分。あと五十分耐えきらなくては、私は妹の元へ戻ることなくゴブリンの腹の中へ収められることになる。それは嫌だ、なんとしても耐えなくてはならない。絶対に、我慢しなくてはいけない、のだが……! 「……っ、う゛っ、平気だ……ッ」 下腹部で蠢く奔流。口から洩れた虚勢が虚勢であるだろうことは、誰の目から見ても明らかだった。 漏れる。ああ、漏れそうだ。一刻も早く小便がしたい。便所でもなんでもいいから、この下腹部に溜まったものを一刻も早く放出したい。じくじくと下腹部が苛まれ、膀胱が膨れ上がっていく不快な感覚に歯噛みする。尿意が促進されていくたびに、痛みと焦燥感が加速度的に増していき、酷く辛い。 股を閉じ、股間を抑えて耐えるための姿勢を取りたくとも、大股開きに開かされたまま椅子に座らされ、更に手足を拘束されている現状ではどうしようもない。欲求を紛らわすため乱雑に身を揺すれば、満ち満ちた膀胱の水面が揺れ、一層排泄欲求が刺激されて苦しいだけだ。 こんなに小便を我慢させられているのは一体いつぶりのことか。十三の頃、市場で盗みを働いたことが衛兵に見咎められ、懲罰として何もない地下牢に放り込まれたまま半日放置された時以来だろうか、それともオーガ族の集落の調査任務に赴いた際に集落長に見初められ、上機嫌の集落長にイヤというほど酒を飲まされ、夜明けまでくだを巻かれた時かもしれない(小用に立ってオーガ族の機嫌を損ねると調査は叶わないどころか、最悪命にかかわるので耐え忍ぶしかなかったのだ)。 あの時も失禁寸前まで追い詰められたが、奇跡的にどうにか耐えられた。だから今回も、なんとか、どうにか―― 「流石っすねえ。余裕ならもう一本追加しときます?」 「っ……!」 「あはは、冗談っすよ」 ――耐えられる、だろうか。 冷や汗が頬に滲む。シギーのにへらとした、悪辣極まりない笑みが酷く腹立たしい。 漏らせば死ぬことは、焼ききれそうな理性の残滓が理解している。それ故にすんでのところで押し留められている。しかし私の生物としての生理的本能が、脳に一刻も早くの排尿をすべしと促し続けていた。 いきたい。便所に行きたい。行きつけの大衆酒場の男性用便所の、あの薄汚い小便器でいいから放尿したい。 「ねえ、旦那。……今ここをぎゅーって押したら、妹さんは帰らぬ兄の姿を延々待ち続けることになるんすよね」 顎が割れそうになるほどの力で歯を食いしばり、憔悴しながら必死に堪える私の傍にシギーは歩み寄り、小刻みに震える下腹部に指を添えた。感情を伺いづらい爬虫類特有のぎょろりとした瞳が大きく見開かれ、私はその瞳の内側に悪魔を見た。 「や、やめろ……!」 「ひとつ、交渉をしてほしいっす」 「……こ、交渉?」 「飲んでくれたら、こっそりおしっこさせてあげます」 「……!」 ちろり、と口端から覗く赤黒い舌。どうせろくでもないことに違いない。 しかし、しかしだった。際限なく張り詰め、後は破裂するのを待つだけの膀胱を抱えた私にとって、その赤黒い舌先はもう垂らされた蜘蛛の糸のようにしか見えなかった。 「な、何をさせる、つもりだ……」 「教えてもいいっすけど、説明に10分ぐらいかかりますよ」 「じゅ、じゅっぷん……」 「さ、どうします? 悩ましいならいつまでも悩んでくれて大丈夫っすよ」 濁った瞳が二三と瞬く。 10分。最早一刻の猶予もないというのに、そんなに我慢できるはずもない。 もう一切の余裕がないことを察しているからこそ、彼の口ぶりはうやうやしく緩い。 彼が私に何をさせようとしているのか。懸念は有れど、もうそんなことを考えていられる余裕は無かった。 「わ、わかった……! なんでもする、何でもするから……小便、させてくれ……ッ!」 「はあい」 私の全身全霊の懇願に、彼は頬を不気味なほどに緩めた。 なにか、選んではいけない選択肢を選んでしまったのではないかという戦慄――をかき消すように、臨界を通り超した括約筋が緩み始めたせいで褌に染み出し始めた小便のじゅっという水音が、私の耳に届く。 「ッ、頼む! 早く、外してくれえッ! 漏れる、漏れるッ……!」 恥じらいを一切かなぐり捨て、私は縄に括られた両手足をぎちぎちと激しく揺する。そんな切羽詰まった私とは対照的に、シギーはゆっくりと傍らの空き瓶を拾い上げると、私の方へと歩み寄ってきた。 「外しても外出るまでに漏れちゃうでしょ。こっちの方がめんどくさくなくていいっすよね」 彼は縛られたままの私の股座――汗と漏れ出した尿とでじんわりと湿った褌をずらし、私の逸物を露出させる。尿意を堪えに堪え、限界まで縮こまった私のペニスを乱雑につかみ、瓶の口へと宛がった。 「な、なに、を……!」 「はい、しーしーしましょうねえ」 ぐい、と張りつめた膀胱を指先で押し込まれる。 圧迫。一瞬の虚脱感。直後に下腹部を駆け巡る熱いものが先端へと達し―― 「……っ、あ……」 ――じょおおおおおおおっ…… がくん、と拘束されたままの身体が一つ震え、それを皮切りにして私のペニスの鈴口から熱いものが勢いよく迸る。ガラス瓶の内側に水流が勢いよくぶち当たり、たぽたぽと水が溜まっていく音と共に小便特有のむせ返るような濃い臭気が立ち込め始めた。 「は、っ゛……んっあ、はああ……っ」 下腹部からじんじんと押し寄せる、凄まじい排尿の快感。身も心も張りつめ続け、ようやく待ち望んだ解放にありつけたことでの緩みが、喉の奥から絞り出される嬌声にも似た震え声によって表される。本来ならだれにも見せることのない排尿の姿を、今目の前で瓶を支えるトカゲの男に目の当たりにされているという事実も、今この心地よさの前ではどうでもいい。体の内側から蕩けてしまいそうなほどの強烈な性的快感に、無造作に開かれた口から涎が垂れる。 「旦那の今のおしっこしてる恰好、妹さんに見せたらきっと泣いちゃうっすね」 「っ、だまれ……」 なおも大瓶の中に溜まっていく小便を冷めた目で見つめるシギーの冷やかしを受け、そこでようやく快感のもやを振り払って私は我に返った。殆ど全裸で椅子に括り付けられ、得体の知れない蜥蜴男に己の縮こまった陰茎を掴まれ、瓶の内側に小便を注ぎ込んでいる今の姿のなんと滑稽なことか。大の大人が排尿を介護されているという事実も合わさり、屈辱と羞恥と苦痛とが一気に胸の内に込み上げて全身が火照り上がる。 とはいえ、排尿は一向に止まらなかった。飲まされた分がまるごと尿に変換されているのか、三本ある大瓶の内の三本目の注ぎ口間際まで水位があがったところで、ようやく竿先から噴き出し続けていた尿が止み、身の内を叩き続けていた排尿欲求が霧散する。 「っ、はあっ……はーっ……」 かれこれ三分以上は出し続けていたせいか、体の疲労が著しい。ばくばくと打つ心臓と上がった息を整えられるほどに落ち着いたころには、全身の毛並みは発汗によってじっとりと湿っていた。ねっとりと舐めあげるように冷たい部屋内の空気に晒され、強烈な悪寒が私の身体にまとわりつく。 「いやあ、いっぱいおしっこ出ましたね。まさか大瓶三本で溢れそうになるなんて思わなかったっす」 「……」 瓶の中身が溢れないよう慎重に蓋を締め、シギーは私の目の前の床に小便の詰まった大瓶を三つ置いた。濁ったガラス越しにでも分かるぐらい濃い黄色の匂い立つこの液体が、瓶三本ぶんも私の膀胱の中に詰まっていたのだと考えると恐ろしい。あの提案に頷いていなかったら、今頃私の膀胱は破裂して死んでいたに違いない。 「シギー」 「なんすか」 「……助かった」 私の礼に、彼は一瞬驚愕に目を丸くし、それからすぐに若干ばつの悪そうな表情を浮かべた。 「いや、どっちかっていうと助かったのはオイラの方って言うか……あ、縄解きますね」 「……そ、その前に……竿を、しまってくれないか。出しっぱなしは、流石に恥ずかしい」 「ああ、はいはい」 布面積が狭すぎるせいで、一滴染みただけでもうほとんどが濡れそぼった褌の脇からはみ出た私の陰茎は、小便を出し切ったことで萎れ切っていた。己の陰茎を他人に触られることは極めて不快だが、手足を拘束された現状では彼の手に頼るしかない。 椅子に括り付けられていた手足を解放され、私はようやく四肢の自由を得て立ち上がることを許された。意識を取り戻した時から縄でどこかしらを拘束され続けていたせいで、体中の関節が軋んで痛い。 「……そ、それで、私はいつまでここにいればいいんだ」 埃っぽく、血と糞尿の据えた臭いで満ちたこの空間に長くいると、それだけで体調に著しい不調をきたしそうだった。とはいえ、あの薄暗く狭い地下牢に戻るのも嫌ではあるのだが……。 「ん、んー……そうすね、たぶん、もうすぐ……」 と、シギーが言い終わらないうちに、入り口の鉄扉が乱雑に叩き開けられる。ぎいい、と錆鉄の軋む不快な金属音に耳を塞ぐことも出来ず、私は開いた扉の奥から射し込む光に目をくらませながら、来訪者を睨み付けた。 「おっと、もういらしたっすね」 シギーの憐れみを含んだ声を耳にしつつ、私は扉の奥から現れた数匹のゴブリンを見据える。相変わらず薄汚い茶肌を晒し、原初的な腰布一枚(とはいえ、隠れている面積で言えば今の私より彼らの方がずっと多いのが腹立たしい)で、糞尿と土泥の入り混じったような据えた臭いを放っていた。 彼らは武器を持っている。しかし、手足を拘束されていない今ならば、先程までよりも逃げおおせられる可能性は高い。寧ろ、牢に戻れば今後どうなるのか分からない以上、今ここで逃走を図るべきだ。 一瞬。一瞬のスキを突いて奴らの合間を抜け、この小屋の外に出る。あとはもう、とにかくどこでもいいから走り抜けて―― 「すんません、旦那」 ――ごっ。 鈍い打撃音。と共に、下腹部から全身に向けて一瞬で駆け巡る灼けるような鈍痛に、私はその場に崩れ落ちた。 「あ゛、ご……おッ……」 強烈な痛打に視界が眩み、息を吸うことさえままならない。床に倒れ伏せてようやく、このじくじくと膨れ上がる鈍痛の根源が私の股座にぶら下がるものからやってきていること――つまり、後方から金玉を打ち据えられたのだと気付く。気付くも、私に出来ることと言えば身体を丸め、両の手で打ち据えられた金玉を抑え込んで震えることしかない。 「ふ゛うっ……う゛う゛、おおお゛……ッ!」 無遠慮な一撃。他の何においても避けたい、雄が最も忌避すべき苦痛。衝撃自体はあまり強くなくとも、急所の中でも最も大切な箇所なのだ、指ではじかれるだけでも目尻に涙が浮かびそうになるというのに、思い切り叩かれた日にはもう無様に玉を握り込んだまま床を転げまわる外にない。 「すんません、ほんと。オイラにはぶら下がるもんがないんで分かんないんすけど、キンタマに膝入れられるのは死んだ方が良いって思うぐらいには痛いらしいっすよね」 「し、シギー……な、なぜ……?」 なおも地面に伏したまま苦悶に顔を歪める私に、シギーは憐れむような眼差しを向ける。 「今脱走しようとしてたでしょ。手足の拘束も解けたから、とりあえずどうにかここから逃れようと目論んでましたね」 「……っ、いや、そんな……ッ」 「でもダメなんすよ。だってほら、まだ『取引』は終わってないんで」 取引。 尿意が限界に達した私に、一時間を待たずして小便をさせる代わりに――と、そこまで聞いておいて、その代償に私が何をさせられるのかということまで疑問が及んでいなかったことに気付く。先程は、とにかく小便がしたくてたまらなかったせいで、それ以外のことは何一つ考えられなかった。 「ご存知かどうか分かんないので説明するんすけど、ゴブリンって基本的に年中発情してるんすよ」 「なんの、話だ……」 発情。そして取引。これらの響きから連想されることに一瞬思い当たり、強烈な悪寒に苛まれる。 血の気が引く。似たような事例は知っていたが、それらの被害にあうのは総じて女性だった筈だ。 まさかと思い、しかしこの状況で考えられるのは一つしかない。いや、私は男だぞ。まさかゴブリンは、私を――? ぱさり。 布擦れの音に視線を送れば、ゴブリンたちが己の腰布を解く姿が見える。 でっぷりと肥大した腹、そして枯れ枝のように細い両脚――そして、股座にぶら下がる逸物が露わになり、私は目を見開いた。 ゴブリンらの、その醜悪に伸びる陰茎のどれもが、皆一様に雄々しくそそり立っていた。竿先からぼたぼたと垂れ落ちる白濁の雫が、胸やけするような生臭い臭気を放っている。性欲に歪んだ醜悪な相貌のゴブリンが、皆一様に私の肉体を取り囲んで見下す。 「ほんとはオイラがこの役目だったんすよ。でも、『取引』の結果、アンタはオイラの代わりにこの役目を請け負ってくれるってことになった」 「ま、待て……そんなの聞いてない……!」 生臭くぬらりとした粘り気を纏う肉棒の束が、まるでナイフの刃のようにして私の顔面へと突きつけられる。息を吸えばそれだけで、吐き気を催すような精液の臭いが胸一杯に飛び込み、これから待ち受けるだろう地獄を嫌でも予感させられた。 「大丈夫っす。これから一杯使われることになるんで、殺されはしないっす。だからまあ、結果的には旦那の得にもなってるんす」 「ふ、ふざけるな……! こんな、私は、慰み者など――!」 逃げようにも、未だに尾を引く睾丸の痛みのせいで手足に力が入らない。もう待ちきれないとばかりにはあはあと息を荒げ、そそり立った肉棒の先端からだらだらと先走りを垂れ流すゴブリンの隙間を抜け、シギーは小屋の入口へと足を運び、私を一瞥した。 「んじゃ、あとはごゆっくりっす。妹さんの晴れ姿、正気のままで見られるといいっすね」 「ま、待て……! 待ってくれ、シギー! 嫌だ、助けてくれ、こんな――!」 ガチャン! 無慈悲に鉄の扉が閉ざされ、小屋の中には私とゴブリンとが残される。 天井で揺れるランタンの微弱な火が、不意に掻き消えた。訪れる暗黒と、その中で蠢く悍ましい何か。 この先に起こりうる、凄惨で過酷な凌辱の宴が、私の人生にとって最大の悪夢であるだろうことを察し―― ――私は、全てから逃げるように目を瞑った。