SamSuka
myy
myy

fanbox


映画を観にきたら途中から隣席の熊青年がモゾモゾしだして気になる話

映画を観にきたら途中から隣席の熊青年がモゾモゾしだして気になる話  時間が空いたので、久しぶりに映画館へ映画を見に行くことにした。車で片道一時間、田舎特有の活気の薄いショッピングモールに併設された、外観にどことなく昔の雰囲気を漂わせる小さなシネマ館は、日曜日の午前のいま、無駄に広い駐車場の四分の一程度が埋まっていた。傍から見ればガラガラに見えるが、いかんせん駐車場が異様に広いのでこれでも頑張っている方である。このサブスク群雄割拠の時代、パソコンを開けばいつでも映画が見られるというのに、わざわざ映画館まで足を運ぼうというもの好きは意外といなくもないらしい。  映画館の入口に置かれたパネルに、現在上映中の映画とその上映時間帯が記されている。お目当ての『コズミック・ウォーズ9 帰ってきた大銀河超皇帝の再逆襲リターンズ』は腐っても鯛、もといいくら映画批評サイトの評価が「流石にネタ切れ過ぎる」「大銀河皇帝は何回帰ってくるんだ」「同じ三時間なら川の流れを観ていたほうがマシ」などとたいへん芳しくなくとも超大作映画の最新作なので、上映開始から一か月経っても過密な上映スケジュールが組まれている。ちょうど十五分後に控えている上映回に向けて、急いで準備をしなくてはいけない。  事前に購入しておいたオンラインチケットのQRコードを発券端末に読み込ませ、発券を済ませる。昔は席を確保するために上映開始よりかなり前に到着する必要があったものだが、いまではスマホひとつで簡単にチケットの購入が済ませられるのでいい時代だ。巷の噂では、都会部の映画館ではもう発券の必要すらなく、QRを入り口前の端末に読み込ませるだけでよいのだというから素晴らしい。いずれここもそうなるのだろうか。  発券を済ませ、上映まであと十二分。せっかく来たので視聴のお供を用意しようと、売店に寄る。物価高の波が押し寄せているせいか、前に来た時より売店のあらゆるフードが値上がりしていた。昔は500円だったはずのレギュラーサイズの塩ポップコーンが600円になっていて、しかも好きだったキャラメル味に至っては700円ときた。ポップコーン・ドリンクセットも昔は850円とかだったのに、塩が1000円キャラメルが1100円とくれば、元を知っているだけにどうにも割高な雰囲気が否めない。  とはいえ、渋るのもナンセンスといえばそうである。映画館まで来て節約を意識するのはなんだかさもしい。しかし1100円、1100円かあ、高いよなあ――という訳で、折衷案として、味は塩を選び、ジンジャーエールをレギュラーサイズからショートサイズに変更することにする。これでマイナス50円されて950円、これでもまあ財布には痛いが、やむなしである。額面上は50円の値引きだが、1000円と900円台では心理的なダメージが若干変わってくる。  売店の店員よりポップコーンバケットとドリンクのトレイを受け取る。子どもの頃にトレイを取り落としてポップコーンをぶちまけて以来、大丈夫なはずなのにしっかりと両手でトレイを持っていないと気が落ち着かない。そのせいで発券済みのチケットを受付の従業員に見せるときに若干手間取ってしまい、なんとなく申し訳がない。  右手通路の奥、一番スクリーンです――と学生バイトらしき青年に気だるげに誘導され、赤い絨毯張りの通路を進んでいく。受付より先の通路はなんとなく外とは雰囲気が異なり、若干薄暗い照明のせいもあってシックな趣のある空間になっている。これから映画を見に行くのだ、という期待を嫌が応にも高めてくれるような、いうなれば別世界の入口のような様相があって、スクリーン前の通路というのは結構好きなロケーションだ。  上部に「1」と記された扉を抜け、脇の誘導灯の鈍く光る緩い坂を上ると、大きな横長のスクリーンが現れる。なにせ超大作の最新作なので、映画館の中でも一番大きい上映設備の部屋を宛がわれているのだ。上映五分前なのでまだシートに着席していない人もいるはずだが、それでも座席の半分程度は既に埋まっている。日曜日の午前ということもあってか、子連れの客がやや多いのは失敗だった。分別のつかない子どもに罪はないのだが、静かなシーンでひそひそと喋られたり後方から椅子を蹴られたりするのはあまり好ましくないので、もう少し朝の上映回にすればまだ多少は静かに視聴できたかもしれない、などと思う。思ったところで、いまさらだが。  脇の階段を登り、H列の2番目の席を目指す。スクリーン全体ではかなり後ろの方、かつ通路に近い席だ。映画をしっかり堪能したいなら、もう少し真ん中寄りの席を選ぶべきなのだろうが、そこまでご執心な映画でもないし、通路寄りだと万が一トイレに行きたくなった時もさほど人に迷惑を掛けずに抜け出すことができるというメリットがあり、これがかなり大きい。いつでもトイレに行けるという心理的安心感というのは、リラックスして映画を見るための重要な要素の一つではないだろうか。  席について、上映開始時刻まで残り五分ほど。劇場が暗くなってからしばらくはCMが続くので本当はもう少し猶予がある。そこでふと、そういえばトイレを済ませていないことに気が付いた。  超大作ゆえに上映時間は二時間四十八分と重厚だ。映画が始まる前のCMの長さを加味して、三時間ほどは持っていかれる。今尿意があるかといえばそこまで見当たらないのだが、大抵こういう場合においては、映画の上映開始一時間後ぐらいに急激に催し始める傾向にある。よしんばそうでなくとも、“トイレに行った”という実績が存在していないと、上映中になんとなしに不安を感じてしまうものだ。いまはなくともいつか突然やってくるかもしれない、いうなればゲリラ尿意とでも言うべきものの存在を否定できなくなってしまうのがよくない。 ポップコーントレイのドリンク部分をドリンクホルダーに差し込んで、席を立つ。少しずつ増えていく客入りに逆らうようにしてシアターを抜け、すぐ対面にある男子便所へと足を運ぶ。1番スクリーンが最も大きいからか、トイレがすぐ近くにある。  劇場外のトイレは改修によって多少綺麗になったが、劇場内のものはかなり古いまま変わっていなかった。床も地面も無機質なタイル張りで、くぐもった臭気が漂い、白色電灯が薄暗く瞬く光景はどことなく学校の便所を思い出す。学校のそれと異なるところといえばその規模で、壁一面に並べられた旧型の小便器――よくある足元近くまで便器の伸びているタイプではなく、洋ナシを逆さにしたような形の、いわゆる朝顔型というやつだ――の数が五基、また奥の方には様々な体格の獣人に適応するために位置が調整されたものが五基、合わせて十基も存在する。絶対に行列を作らせない、という確固たる意志を感じるとともに、こんなに数が必要なのだろうかと疑問に思わなくもない。  既にいた先客たちと隣り合わせにならないような位置の小便器の前に立ち、チャックを下ろして用を足す。最近の小便器のように横壁がある訳でもなく、また便器同士に衝立のような遮りも存在しないので、用を足している最中の男性器が脇から丸見えになってしまうのが落ち着かない。同性しか存在し得ない空間なので気に病む必要はないのだが、奇妙な解放感があって不安になる。  トイレといえば、ドリンクとしてコーヒーやビール、エナジードリンクなどという利尿作用を促進する飲料が売っていることについて、何かしらの作為を感じてしまうのは気のせいだろうか。尿意を促進して重要なシーンを見逃させ、リピーターを獲得しようという戦略のように思えてならない。というか、百歩譲ってコーヒー、ないしビールについては分からなくもないが、映画館でエナジードリンクを飲むシチュエーションとは一体なんだろうか。未だによく分からないが、メニューに残っているということは需要があるということなのだろう。  用を足し終え、手を洗ってからシアターへと戻る。座席の七割程度は既に埋まっていて、しかしまだまだ後続が入場してくるのを見るに、最終的にはほとんど満席に近い状況になるのではないだろうか。なんだかんだで結構賑わっているようである。  H席通路寄りの1番席、つまり自分の右隣りの席にも、既に熊獣人が着席していた。紺のジーンズと緑のパーカーを身に着け、ゆったりとした首元から覗く毛並みは淡い茶色をしている。穏やかな顔つきからは威圧感のようなものはあまり感じられず、ずんぐりとした大きな獣頭と、同じく大きな手でポップコーンを鷲掴みにしてむしゃむしゃと口に運ぶ仕草には、どことなくコミカルな雰囲気さえある。  彼の前を通って席に着きたいものだが、いかんせん大柄な体躯ゆえに、彼の太い両脚は見事に座席前の通路を塞いでいた。無理やり突破するのはむずかしく、どうしたものかと立ちすくんでいると、自分の視線に気づいたであろう熊獣人が顔を上げる。 「あ、お邪魔ですね。一旦退きます」  声の太さからして男だろう。そして若いようだ。彼はのっそりとした所作で椅子から立ち上がり、のしのしとした足取りで通路脇へと逸れた。立ち上がった彼の体躯はゆうに2mを超えるだろう巨体で、あまり熊獣人というものを間近で見たことのない自分としては、さながら大山が鳴動したような圧倒感に襲われる。 「どうぞ、お通りください」  えらく紳士的な熊に手で促され、私は通路を通ってすぐ傍の席に着いた。それからすぐに熊の男は己の席に戻る。すぐ隣に山が着陸したような感じがして、奇妙だ。 各列の両端、及び後ろから二番目までの列は中・大型獣人種優先シートと呼ばれ、人間と比較して背丈や体躯の大きくなる傾向にある獣人種たちが優先的に席を宛がわれるようになっているのだが、実際に隣に大型獣人が来たのは初めてである。背丈の大きな彼らが中央席に陣取ると、後ろの人がスクリーンを見づらい、という理由で開発されたシステムだが、通常席より若干安くなるらしく、扱いに不満が出ているところはあまり見たことがない。  どうにも気になり、隣席の熊獣人を横目で観察してしまう。まずもって、トレイに抱えているポップコーンとドリンクのサイズが規格外なのが目につく。いわゆるキングサイズというやつで、バケットからはみ出すほどの山盛りポップコーンにLLサイズのドリンク。しかしそれらを抱えてもあまり違和感がない、どころかむしろしっくりくるのは、熊獣人の体格の大きさゆえだろうか。  丸太のような手足に逞しい胸板、ややなで肩気味の背中に服の襟裾から覗くごわごわとした茶色の毛並み。それから逞しい爪と、獣臭隠しの香水の間際に僅かに漂う獣の匂い。熊が隣にいる、という実感が否応にも湧いて、心臓が高鳴る。  私がそんな気を抱いているとも露知らず、映画が始まる前にある程度嵩を減らしておく算段だろうか、彼のポップコーンを食べる手は衰えそうもなかった。さらにドリンクを啜る勢いも大層なものである。そんなにハイペースで消化して果たして大丈夫なのだろうか、と思わなくもないが、この映画が超大作の三時間上映であることは既知の事実であるだろうし、彼なりに何らかの策があるのだろう。余計なお世話、というやつだ。  照明が薄くなり、スクリーンに映像が映し出される。さして興味もない映画の予告編を大量に流し見せられるこの時間は如何ともしがたいが、予告編特有の面白さというものがあるのも否めなくはない。原作を知っているタイトルがいつの間にか映画化決定していた、などということもあって、たまに驚いたりもする。たまに予告編を見て気になったシーンを観に行こうとして、結局本編には存在しなかったなどということもあり、あれにはちょっとした理不尽を感じなくもないが。  さておき、ようやく映画の本編が始まろうとしていた。否定的な意見の多い映画だが、一応のファンとして、実際に見てからジャッジを下すのが筋というものだ。腰を据えて、スクリーンに集中することにする。 ◇  率直に言ってしまえば、退屈な時間だった。  上映開始から三分の二程度が過ぎたあたりだが、いまのところ目を引かれるのは壮大な劇半とCGの質だけで、設定が先行しすぎて内容が入ってこないシナリオに今までに張り巡らせた伏線を全部無視するかのような展開、老いた大御所特有の癖しかない演技、空滑りしているギャグ展開、外伝で人気が出た脇役キャラをプッシュするあまり存在感の薄い主人公、などなど、気になる点を列挙したら暇がない。正直制作サイドも惰性で作っているのではないか、と疑いたくなるほどお粗末で、確かに批評サイトでボコボコに叩かれるのもやむなしと言えよう。  正直なところ、今の自分の興味関心はスクリーンに映し出された壮大なだけの映画本編ではなく、隣席の熊獣人の青年の様子にあった。というのも、映画が大体折り返しぐらいまできたあたりから、彼の様子が若干おかしいように感じられたからだ。  妙に視界の端に蠢く影があると思ったら、隣席の熊の彼が、どうにも落ち着きなく身を揺らしているようである。これまでは一切身じろぎなく、どっしりと構えて映画を視聴しているようだっただけにどうもおかしい。どこか気分でも悪いのか、とこっそり横顔を伺ってみても、正直獣人の顔などよくわからない。ただ明らかなこととしては、彼は今自身の身体に何かを抱えているという事だけだった。  彼の抱く苦悶の正体を掴んだのは、それからしばらく経ち、映画本編が水辺のシーンに差し掛かったところである。大銀河超皇帝の魔の手より間一髪逃れ、エネルギー切れの小型救命船で広大な大河を一人さすらう主人公。先刻の騒々しい戦闘シーンとは対照的に、静まり返った夜の星空を見上げ、犠牲になった仲間の存在と己の無力さに涙するという、正直かなりクサイが主人公を演じている若手演技派俳優の名演技もあって悪くない仕上がりのシーンだ。先ほどまでの賑やかな音響から一転して、川の穏やかなせせらぎだけが劇場に漂い、嫌が応にもしんみりとさせられる。  しかしその時、劇場全体の雰囲気とは別に、隣の熊の青年の揺れ動く様子は一段と激しさを増しているようだった。さすがに少々目に余るので、様子を伺うべく視線を横に向けてみると、熊の青年はさりげなくジーンズの股間部分を片手で抑え、もぞもぞと揉みこんでいるところだった。そこでようやく、私は熊の青年がかなりの尿意を堪えているだろうことを理解する。  劇半の水のせせらぎと、彼の前のトレイに鎮座しているLLサイズの何らかのドリンクが悪さを働き出したのだろう。確かに上映開始からもう二時間程度は経過しており、摂取した水分量によっては催し始めるのも無理はない。見る限り彼はかなりのハイペースでドリンクを飲んでいたので、つまりそういうことだろう。  青年は心身に押し寄せる内なる波と戦っているようである。時折股間を強く握り込んだかと思えば、そわそわと膝を揺らし、ふうと深く息を吐いたかと思えば、張り詰めたように息を止めてみせる。熊特有の顔に反比例して小さな丸耳はぱたぱたと揺れ、ぎゅっと顔を顰めてみせたりもする。しかし、視線はスクリーンに釘付けになったままだ。  この映画はあと五十分以上は続くのだが、彼の膀胱は果たしてもつのだろうか。よしんば我慢できなくなったとして、彼の席は最も通路側にあるのでトイレのために抜け出すことは容易だろうし、むしろそれを見越してギリギリまで粘る算段なのかもしれないが、既に股間を抑え始めている時点でかなりの苦境に立たされていることは間違いないだろうし、早めに向かうべきだと思うのだが。  まあ、とはいえ結局は他人事なので、自分がどうこうする筋合いはないのだが。  さらに展開が進み、恐らくは最後であろう大銀河超皇帝との再戦のシーンに差し掛かるころには、隣の熊青年の様子はもう誰がどう見ても尿意を堪えているようにしか見えなくなっていた。ジーンズの上から股間を両手でぎゅっと握り込み、僅かに身体を前に傾け、大音量の劇半に紛れてはっきりとは聞こえないが、荒い吐息とともに僅かに呻くような声が沁みだしている。あまり意識して飲料を取らないようにしている自分さえ無視できないレベルの尿意を感じ始めているのだから、いくら大型の獣人とはいえもう彼の膀胱は危険域に達しているに違いない。これはものの例えだが、いま彼の下腹部に肘のひとつでも打ち込んでみたら、その時点で彼の尊厳は粉々に砕け散ってしまうだろう。  展開が佳境に差し掛かってしまったせいでもう後には引けないのか、彼は映画が終わるそのときまで我慢し続けることに決めたらしい。隣の席の身としては、まかり間違って漏らされても大変困るのだが、それ以上に人目を憚る余裕もなく身を縮め切っている彼の所作が可愛らしいので構わない。そして自分はお察しの通り、もうしょうもない映画の顛末なんかより隣人の顛末の方にご執心なのだった。 ◇  『コズミック・ウォーズ』シリーズは通例として、エンドロール後にちょっとしたおまけ映像のようなものが用意されている。例えばシリーズ作者のカメオ出演だとか、作中でフェードアウトした脇役のその後だったりとか、見返すとちょっとだけニヤリとできる要素が盛り込まれていることで有名だ。  まさかそれを見終えるまで待つのではないか、と勝手に危惧をしていたのだが、隣の熊の青年は流石にそこまで無謀な判断を下そうとはしなかった。エンドロールに入るや否や、彼は脇に自分の鞄を抱え、緩慢かつ焦った様子で立ち上がると、もうほとんど破裂寸前の膀胱をかばうように手で前を抑えながら、ゆっくりとした足取りで脇の通路を下っていく。  転べば一貫の終わり、ということは本人も重々承知しているようで、まだ暗闇が続く劇場の階段を恐る恐る下っていく様子はどうにも痛々しい。いくら1番シアターの出口のすぐそばに男子トイレが存在するとはいえ、席を立ってからたどり着くまでには意外と距離がある。彼の膀胱の括約筋がそこまで保ってくれるか、もはや祈るばかりである。  さておき、流れていくエンドロールに集中しようと向き直ろうとしたところで、先ほど熊の青年がいた座席の足元に、何か小さな正方形のものが落ちていることに気付く。目をやればそれは使い古された革の財布のようで、察するにあの熊の青年のものだろう。バッグを抱えるときに取り落としたまま、気付く余裕もなく行ってしまったのだ。  しばらく待っていれば、やがて用を足し終えた彼が異変に気付いて帰ってくるかもしれない。だがもし戻ってこなかったり、財布を落としたことに気付いていなかったらどうだろう。映画館のスタッフに預けておけばいずれ彼の手に帰っては来るだろうが、それなりの時間を要するのは間違いない。となれば、今届けてやるのが義理ではないか。  これがもし、極めて感銘を受けた映画のエンドロールなら席を立つことはしなかっただろう。しかし前評判通りの微妙な作品であるという結論が出た今、私はわざわざおまけ映像まで座して待つほどの興味さえなくしていた。私は後ろの席の人をなるべく刺激しないよう手早く席を立って、熊の青年を追って劇場から出ることにした。  熊の青年の姿はすぐに見つけることができた。シアター出口のすぐ対面にある男子トイレの入口へ、その大柄な背中をすっかりと縮めて、赤子の歩行のようなよたよたとした足取りで向かっている。  一瞬、いまここで呼び止めて財布を返してあげたらどうなるだろうかと悪魔的な発想が脳を過る。だが別に、私は彼に小便を漏らしてほしい訳ではないので、やめておくことにした。その代わりに、なんとか彼が無事に小便器の前までたどり着けるよう、彼の背中に祈りを投げかけながら続いてトイレに入る。  トイレに立ち入った瞬間から、熊の青年は「あぁっ」とか「んうっ」とか、強烈な切迫感と悲壮感の入り交じった大きな嬌声を漏らしはじめる。映画館の中という衆人環境故に憚られていたが、ずっとこのように大きな声で呻きたかったのだろう。そうでもしないと正気を保てないほど彼の思考は尿意に支配されきっているのだと思うと、愛らしさが増してくるというものだ。そしておそらく、彼はまだ背後の私の存在に気付いていない。気づいていたら、こんな子どものような素振りを見せるはずもないだろう。  小便器が見えた瞬間、彼はこれまでの生まれたての小鹿が如き衰弱っぷりからは想像もできないぐらいの速度で目の前へと走り寄り、だしだしと乱暴な足踏みをしながら激しく身を捩った。さりげなく彼の二つ隣の小便器に陣取って、横目で彼の切迫した様子を伺う。 ぐねぐねと身を揺らしながら、彼は膀胱の圧迫を緩めるためか、もとより前ボタンを外していたらしいジーンズのチャックを震える爪の先で乱暴に下ろしていけば、人に見られれば言い逃れの出来ない位置に黒々しい染みの広がったグレーのボクサーパンツが現れる。人間の“それ”と比べ、明らかに巨大としか言いようのない、今にもはち切れそうに大仰な股間の膨らみも。  彼は指の先を乱暴にパンツのゴム部分に引っ掛け、勢いのままにずり下ろした。獣『人』なのだから当たり前ではあるのだが、現れた彼のペニスは形状だけなら極めて人間に近い。ただしその大きさは下着の膨らみが示していたように規格外のそれであり、人間のものさしで巨根と呼ぶのさえ烏滸がましいほどの逸品だった。ふてぶてしささえ感じるほどに太ましく、恐ろしささえ感じるほどの長さ。半剥けになったソレの先端から覗く亀頭は赤黒く煮え滾る溶岩のようで、あの温厚そうな顔立ちの青年がこれほどに強烈なシロモノをぶら下げているという事実に眩暈さえしてくる。  ぶるる、と毛むくじゃらの巨体が一つ震えたかと思えば、すぐに彼のペニスの先端からぶじょろっと細い黄金の水流が噴きだし始め、彼は慌ててペニスに手を添えた。  奥にある大型獣人用のところまでたどり着く余裕もなかったのだろう、熊獣人にとってはかなり小さい一番手前の人間用の小便器を使用しているためか、小便を外にこぼしてしまわないようペニスの角度をこれでもかと下向きにし、陶器に穴をあけるのではないかという勢いで便器に小便を叩きつけている熊の青年。  その放水口を惜しげもなく白日に晒し、はああ、と熱く蕩けるような息を吐き、視線を天井近くに向けながらエクスタシーによく似た表情を浮かべる様子はなんとも無防備極まりなく、また思わず見入ってしまうような野性的な色気を纏っている。繰り返すようだが、あの温厚そうで紳士的な口調の彼がここまで乱れた姿を晒しているという事実が、私の心内に奇妙な昂りの炎を灯しそうになる。  びちゃびちゃと下品に木霊する水音と、もうもうと立ちのぼるアンモニアの臭気に誘われるように、私も強い尿意を催し始める。彼の所作をちらちらと横目で見つつ小便を始めると、そこでようやく熊の青年は私という隣人の存在に気付いたようで、便器に視線を落としてどことなく所在なさげな、あるいは恥じらいとも呼ぶべき表情を浮かべ始める。どうやら、排泄欲を開放する一部始終を見られていた可能性に気付いたようだった。  私が「あの映画、流石に長いですよね」と声を掛けると、彼は少し驚いたような表情をしてから、何とも照れ臭そうに深く頷き、「ほんとうに長かったです」としみじみ語る。それからしばらく押し黙った後、「オシッコ、本当に漏れちゃうかと思いました」と呟いて、照れ笑いを浮かべる。  その言葉はやはり本当のようで、十数秒に渡る私の放尿が止まった後も、彼のペニスからどくどくと吐き出される黄金色の水流は全く勢いが止むことなく、寧ろ先ほどより勢いを増して白磁の陶器の底に黄金溜まりを作っていった。じょぼじょぼじょぼ、と水に水が突き刺さるときの、あまり小便器では聞かない水音が男子トイレ中に響き渡る。 「あの、お隣の席の方ですよね。その、すみません、多分すごく身動きが煩かったかと」  彼は自身のペニスを両手で支えながら、極めて申し訳なさそうに肩を落とした。 「おしっこ我慢しているんだろうな、とは思いましたね」 「うう、お恥ずかしい。……すみません、ご視聴を邪魔してしまって」  漸く緩やかになってきた小便の雫をぼたぼたと竿先から滴らせつつも、彼は極めて紳士的な口ぶりで頭を垂れた。私が「あんまり面白くなかったので大丈夫ですよ」と返すと、彼も深く頷き、「まったく同意です」とひどく不満げに口を尖らせ、ぶるぶるぶるん、と擬音が聞こえてきそうな勢いで、逞しいペニスを乱暴に振りしだいて残尿を払う。 「これならさっさとトイレに行っておけばよかったと思います。あーあ……」  彼はボクサーパンツの中にペニスをしまい込みつつ、本当に心からの気持ちで噛みしめるようにそう言って、ずっしりと両肩を落とすのだった。 ◇ 「あ! 僕の財布です! あああすみません、本当にご迷惑を……」  落ちていた財布は、やはり彼のものだったらしい。中身は見ていませんからと念押しをしながら彼に返してやると、青年は申し訳なさそうに何度もぺこぺこと頭を下げた。頭を下げられるたびに熊の大きな頭が眼前に降ってくるので恐ろしい。万が一でもぶち当たれば骨がへし折れそうな質量の塊であることを、彼は恐らく理解していないようだ。 「あの、もしお暇なら、少しお茶でもしていきませんか。その、財布の御礼もありますし……良ければ映画の感想会とか、一度してみたくて」 「え、ええ。いいですよ」  おずおずと申し出る彼に、私はやや焦りつつも首肯する。  感想会という名目の多種多様な悪口大会になりそうだが、これはこれで違う意味で楽しいかもしれないなどと思う。いままで同好の士と感想を交わし合った経験などないので、突然降って湧いた機会については是非とも大切にしたいところだ。  ただ一つ問題があるとすれば、上映中の私の興味は映画の方ではなくかの隣人の状況にあったということと、先ほど目の当たりにした熊獣人の豪快な放尿の絵面があまりに印象的すぎて、正直映画の内容などほとんど印象に残っていない、ということだろう。


More Creators