研究所に犬がいた日 前編
Added 2020-01-16 14:48:13 +0000 UTC※「彼女ペット」シリーズ(https://www.pixiv.net/novel/series/1110831)の外伝です
※つまりはそういうお話です。
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研究室のドアを開けたら、いきなり人並みのサイズの大型犬が飛びついてきた。
「うぉっ、っと!?」
咄嗟に悲鳴を上げずに、さらにその犬を受けとめることが出来たのは、ひとえに実家で犬を飼っているからである。
実家の犬はタロウというのだが、ゴールデンレトリバーという品種で、犬の中でもかなり大きい。そんなタロウはちょっとアホなところはあるが人懐っこくて憎めない奴で、たまの休暇に家に帰ると全力で飛びついてくる。油断すると腰を言わしかねない勢いで突っ込んで来るものだから、毎度実家に帰る時は構えなければならなかった。
その経験があったからこそ、突然の襲撃にも押し倒されずに耐えられた。
「ぬぉ……っ、ぐっ……!」
とはいえ、いま飛びついてきたその見知らぬ犬は、ゴールデンレトリバーのタロウよりもさらに大きな犬だったため、かなりキツい。
犬は無我夢中で走っていたところに俺が急に出てきたように感じたらしく、目をぱちくりとこちらに向けて、驚きを露わにしていた。
それなりに犬には詳しいつもりだったけど、その犬の品種がわからない。
黒い体毛は頭部と手足の先と体の一部、そして尻尾にしか生えておらず、かなり珍しい犬種であることは確実だ。毛の生えていない部分は肌色で、人間のそれにかなり近い、というのも珍しい。
マズルは長くなく、どちらかといえばブルドックとかシーズーとかみたいな低さだ。それより低いかもしれない。
尻尾はふさふさとしたボリュームがあるタイプのもので、くるりと丸まっている。うるうると涙を浮かべた目はまん丸と可愛らしい。
大型犬だけあって体重もそこそこあるのか、犬に飛びつかれたというよりは、人間の女性に飛びつかれたくらいの感覚だった。
とっさに犬を受けとめた俺に、研究室にいた伊好所長が声をかけてくる。
「ああ、よく止めてくれたね。長坂くん。助かったよ。彼女を離さないでくれ」
伊好所長がそう言いながら近付いてこようとしたら、俺に飛びついている犬がわかりやすくびくりと体を震わせた。
そして、俺の腕を振りほどいて部屋の外に逃げようと暴れ出したので、慌てて両腕で抱き締めて引き留めた。
「ととっ! よーしよし! 大丈夫だから! 落ち着け! 待て!」
頭をガシガシと撫でてやりつつ、声をかけ、ぽんぽんと背中を叩く。
なんだか犬の毛にしては妙にさらさらと気持ちの良い手触りで、背中に到っては人の肌に触れているような滑らかな感触だったが、それは置いておこう。
暴れていた犬はぴたりと動きを止め、「フーッ、フーッ」と荒い呼吸をくり返している。そんなに伊好所長が怖いのだろうか。
一方、伊好所長はその場で脚を止め、ふむ、と眉を顰めていた。
「うーむ……まさかここまで彼女に嫌われて……いや、どちらかというと、恐れ、かな? 恐れられているとは思わなかったよ……」
ぶつぶつと呟きながら、伊好所長は部屋の奥へと戻った。
いつもは自信満々で何事にも動じない伊好所長が、少し落ち込んでいるように見える。
「伊好所長?」
気になって声をかけてみたが、振り返った伊好所長はすでにいつもの調子に戻っていた。
「ああ、長坂くん。すまないが彼女を捕まえたまま、部屋のドアを閉めて鍵をかけてくれるかな。それで逃走出来ないはずだから」
どうしてこの犬がそこまで伊好所長を恐れているのか。
それは少々気になったけど、こんな大型犬が脱走したら大騒ぎになるのはわかるので、とりあえず伊好所長の指示に従った。
幸い、俺にしがみついた犬は伊好所長のことは警戒していたものの、それ以上逃げようとはしなかった。見知らぬ人間であるはずの俺のことは特に警戒していないようなのだが。
「よーし、良い子だ……っと」
腰を落として抱き留めていたその犬を床に降ろす。
大人しくおすわりの姿勢になったその犬と目線を合わせ、頭を撫でてやった。撫でられるのが気持ちいいのか、その犬は伊好所長を警戒して硬くなっていた表情を緩ませる。
実家のタロウならともかく、初めて会う犬だというのに、その表情の変化が手に取るようにわかった。犬にも表情のわかりやすいのとにくいのがいるが、この犬種は人間並みに表情が豊かなようだ。
伊好所長が「彼女」と言っていたので半ば理解していたが、おすわりの体勢になって開けっぴろげになった股間には何もなかったので、この犬は雌犬のようだ。
(雌……か。そういえば、やけにおっぱいが膨らんでいるような気がするけど……妊娠しているのかな?)
それとも、そういう犬種なのだろうか。
そういえば乳首がふたつしかないのも気になる。犬種や個体によって数などは異なる場合もあるが、それにしてもふたつというのは珍しい。
犬が完全に落ち付いたので、俺は立ちあがって、改めて事の次第を伊好所長に尋ねる。
「それで……一体この犬はなんなんですか? 伊好所長。まさか、次の研究対象は犬ってんじゃないでしょうね」
伊好所長はその俺の問いに対し、にやりと笑みを浮かべて見せた。嫌な予感しかない。
こんな風に伊好所長が楽しそうな時、ろくなことになった覚えがないからだ。
「ふふ、ご明察だね」
どうやら。伊好所長はまた何か変なものを開発したようだ。
俺は足元の犬がじっと見上げて来ていることを感じつつ、深く溜息を吐いた。
うちの会社は、いわゆる新技術の研究開発を主に行う会社だ。
その中でも俺が配属されている伊好研究所という施設は名前の通り、伊好所長が中心となった……いや、伊好所長のために作られた施設だ。
この研究所の所長である伊好港さんは、端的に言って天才である。
正確な歳は教えられてないけど、外見的には二十代半ばほどにも関わらず、様々な研究と開発の成果を打ち立てていて、彼女の前では他の研究員など凡夫に過ぎない。
研究が全てで、そのほかの会社経営や開発した技術の拡散などにはまるで興味がない。
そのため、彼女は会社に利益を提供する代わりに、自分の行動に一切の干渉をしないという契約を結んでいる。それが許されるほど、彼女の研究開発の成果はずば抜けて会社に利益を齎していた。
ただ、そんな有り得ないレベルの存在であることに加え、彼女は協調性というものを欠片も持ち合わせていなかった。
だから会社は、研究所を彼女のためだけに新設し、彼女に存分にその力を振るわせている。彼女は彼女自身が認めた研究員だけを受け入れて研究開発を行っているわけだ。
そしてそんな伊好研究所に俺――長坂裕太は所属していた。
ちなみに彼女に認められた理由は、俺が相応の知識を持っているとか、能力的なものを評価されたわけではなく、むしろその逆で、伊好所長の邪魔をしない人畜無害な存在だから、ということが大きい。
下手に優秀だったり、自分の研究をしたがったりする、まっとうな研究者は伊好所長にとって邪魔でしかないのだ。
本来研究開発というものは、色んな人が関わって知恵を集め、協議の元に進められるものだけど、伊好所長の場合ひとりでなんでもこなしてしまう。
だから必要なのは彼女が研究に没頭出来る環境を整えるための雑用係であって、俺はそれに相応しいとされたわけだ。
実際、俺はなんとなく向いているから、という理由で研究開発の職についたくらいで、自分の手で何かを生み出したいという強い衝動はなかった。
そういう意味では、伊好研究所の職員というのは、いままで培ってきた知識を程よく活かしつつ、さほど大変ではない雑用作業をするだけで多額の給金が貰える。
たまにとんでもない研究成果の実験台にされることもないわけではないが、大怪我をしたり後遺症が残ったりしないよう、最低限の配慮はしてくれているし、普段の仕事内容としては多すぎる給金を貰っている理由としても納得出来るものなので、文句はなかった。
この仕事は、俺にとってはまさに天職と言えた。
そんなわけで、伊好所長の無茶ぶりに付き合うこと自体は苦ではない。
色々とツッコミを入れたいことはあるものの、基本的にはそれも仕事のうちと思えば耐えられないことはないからだ。
「それで、どんなものを開発したんですか?」
「それはまだ秘密だよ」
普通の研究所なら絶対ありえないことを言われてしまうが、そういう人だと理解しているのでそれ以上は訊けなかった。
彼女の機嫌を損ねないように、好きなようにさせるのも、仕事のうちだ。
「長坂くん。君には彼女の面倒を見てもらいたいんだ」
そうじゃないかと思っていたけど、やはりお散歩係が今回の仕事らしい。
「やっぱりそういう話ですか……」
普通の研究所で、部下の研究員にそんなことを理由も言わずに命じたら、大問題だ。
だけどここは伊好研究所で、その暴挙がまかり通る。
ここでは伊好さんがルールなのだから。
「君は実家で犬を飼っていたことがあるんだろう? 犬と接するのは問題ないかと思ってね」
確かにそういう話は伝えてあった。
何かの拍子の雑談程度だったと思うのだが、正確に覚えている当たり、さすが伊好所長というべきか。
「まあ、俺は問題ないですけど……俺の家に連れて帰れと?」
「うん」
あっさり頷く伊好所長。俺は額に手をやらざるをえなかった。
「さ……いえ、波野は犬が嫌いなんですけども」
俺は同棲している彼女のことを思い浮かべる。犬と触れあう機会がなかったので、苦手だと話していた。嫌がらせだろうか。
「ああ、波野くんのことなら心配ないよ。ちょっとお仕事を頼んでるから」
「出張、ということですか?」
「ある意味そうだね。暫く連絡はつかないだろうけど、今日の夜には連絡つくようになるから心配は要らないよ」
俺の彼女である波野サヤは、俺と同じで伊好研究所に勤めている。
元々は本部の受付嬢をしていたが、伊好所長が俺を研究所付きにするときに、当時から俺と付き合っていたサヤも一緒に異動させたのである。
言う必要もなかったし、付き合っていたことは公にしていなかったのだけど、伊好所長には何故か把握されていたようだ。
サヤは特に専門技術とか知識とかは持っていない、普通のOLみたいなものだったのだが、所長には気に入られたようで、何かと用事を言いつけられていた。
今回の出張もその一環だろう。あるいは俺に犬の世話を押しつけるために、出張を命じたという可能性もありそうだったが。
ともかく、問題がないようにしてくれたのなら、それでよしとしよう。
そう思っていた俺は、伊好所長がニヤニヤと俺のことを見ているのに気付いた。
「……なんですか?」
どうしようもなく嫌な予感がしても、尋ねなければならないのは雇われの身の悲しさだ。
実際その行動は正解だったようで、よくぞ聞いてくれたとばかりに、上機嫌な伊好所長は口を開いた。
「いやいや。長坂くん……別に、普段通りに呼んでも私は気にしないよ?」
一瞬サヤのことをプライベートの時のように、名前で呼びかけたのに気付かれていたようだ。
「俺は構わないんですけどね……サヤの方が公私は分けろと――」
「わんっ!」
大人しかった犬が急に吠えて、びっくりした。
思わずまじまじと足元でおすわりをしている犬の顔を見つめてしまう。犬はきょとんとした顔で、不思議そうに俺を見上げていた。なんでこちらが不思議そうに見つめられなければならないのか――不思議なのはこっちだった。
そんな風に見つめ合っていると、伊好所長が笑いを含みながら説明してくれた。
「ああ、ごめんよ。言ってなかったね――その彼女の名前は」
悪戯を成功させた子供のように、天才が告げる。
「サヤ、っていうんだよ」
後編につづく
Comments
時間軸が本編より後だと思ったら前だなんて意外ですね。 彼女がなぜ犬を嫌やがるのかについても出てくるそうなので、次の話を楽しみにしています。
festo
2020-01-18 15:02:04 +0000 UTCコメントありがとうございます。時間軸は本編より前です。この技術の開発秘話として見ていただければ幸いです。犬嫌いにも色々ありますので、彼女がどうして犬嫌いかにもよると思われます。その辺は後編で明らかになる予定です。
夜空さくら
2020-01-18 10:00:49 +0000 UTC前のシリーズと同じ人が犬の立場になると思ったのですが、今回は違う人が犬の立場になりましたね。 犬が嫌いなのに犬の立場になるのはどんな気持ちでしょうか。
festo
2020-01-17 11:28:24 +0000 UTC