先日投稿した『おやすみ。』という絵についての、取り留めのない話です。
私は日記や落描きをするときに自身の心象風景を温室に、作品を植物に喩えています。
温室=作品(植物)の芽吹く場所、という比喩が自分にとってしっくりくるのです。
これまでFANBOXに載せた絵にも植物に関する絵がいくつかあったと思います。
この温室に立つ3つの墓標は、ある概念を示しています。
既に解を出してくれた方がいるので、あえてここでは解を言いません。
私の作品を昔から追ってくださっている人ならわかるかもしれませんが、わからない人のほうが多いと思うので適当に読み流して下さい。
この3つを、本記事では暫定的に『かれら』と呼称することにします。
『かれら』は特定のキャラクターではなく、概念です。
『H』は産声と共に世界からの刃を受けた初めての無垢な形。
『N』は全く新しい表現への挑戦とその重さを知った闇の形。
『C』は他者の期待と現実の重みの間で背負った光と影の形。
どれも、痛みと共に作られ、痛みと共に発表されて、痛みと共に私の過去を彩ったものです。
この絵は、『光と影』『温室(=芽吹く場所)と墓標(=弔いの印)』『喪服』という要素から、明るい絵にも、暗い絵にも読み取れるかと思います。
この絵はなんなのか。
一言で言うならば『過去への弔いと新しい出発』のための絵です。
すべての創作者の方に共感してもらえることではないと思いますが、私は『過去の作品と現在の自分の乖離』を事あるごとに経験しています。
自身の作品が芳しい評価を得られなかった時、もしくは作品が他人の激しい悪意にさらされた時、作品が鑑賞者に伝えたいことが全く伝わらなかった時。
『過去の私は何が良いと思ってこの作品を作ったんだろう』
『なんで自分が傷つくようなものを作っちゃったんだろう』
そう思ってしまいます。
そして、作品を『現在の自分を形作る作品』ではなく『もう過ぎ去った過去の作品』という括りにしてしまう。
おそらく、これは自己防衛です。負った痛みを『過去』という時間軸に押し込めることで鎮痛しようとする頭の働きが存在するのでしょう。
それが、『いま』私の作品を楽しんでくれている鑑賞者に対して失礼であることも承知しています。
それは鑑賞者にとっての『現在』を否定してしまうことになりかねない。
でも、私にとって私の作品は、ふとしたきっかけで『過去』のものになってしまう。
そういった現象が、ここ5年くらい私の心の中で絶えず起こっていました。
ただ悲しかったし、虚しかった。
だから、『かれら』のことを、そのまま『ただの過去』にしておきたくなかった。
私の中にある『かれら』という概念を、やさしい光の当たる場所へ、みやげさんが毎日見守る場所へ、眠らせておきたいと思った。
いわば、弔いです。
弔いという概念は生者のためにあるものだと常々感じています。
実家の先代犬が3年前に亡くなった後、家族で葬儀を行い、その後もあの子の好物だった鶏肉を時々写真の前に供えていますが、『あの子は私が地上で何しようと興味ないかもしれないな。これは他でもない私が気持ちに整理をつけるためにやっていることなんだな』ということを思うからです。
だから、これは自己満足。
でも、せめて『頑張ってくれてありがとう。』『ごめんね。』『おやすみ。』って言ってあげたかった。
誤解を避けるために言うと、この絵に『かれらは死んだのでどうでもいいです』『かれらは死にました、だからもうかれらに構わないで下さい』という意図は一切ありません。
ただ弔うことで、過去ではなく未来を見たいと思った。
それと同時に、この温室に花を持ってきてくれる人を大切にしたいと思った。
作品が土に還れば、きっと次の作品が芽吹くための土壌になる、と思います。
この絵のみやげさんは、喪服を着ていると同時に、植物の意匠が施されています。
それは、みやげさん自身もまた植物=作品であるから。
私の心象の温室では毎日、新しい作品が芽吹いては枯れていきます。
みやげさんは墓の下に眠る『かれら』のことを想ってくれる人を大事にできるように、心象の温室を守ってくれています。
ここまで読んでいただいてありがとうございました。
追記: