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黄土みきと
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定期更新(『秋の胸懐』その6)

フォロワーの皆さんこんにちは。支援者の皆さん、いつもお腹いっぱい食べさせてくれてありがとうございます。黄土みきとです。 13ページ目の上半分と下半分をつなげる接着剤的な展開をどうしてもおもいつかず、暗礁に乗り上げた気分で悩んでいました。なんとなく、ここで展開が断裂している気がしないでもないです。とりあえず展開進行を強行したのですが、はたしてこれでよかったのかという気がします。力不足で、これ以外の描き方がおもいつきませんでした。 先週もちらりといいましたが、大きいおっぱいを描くことに全く慣れていません。サイズが変動している気がしないでもないです。変動するなら大きい方に変動させればいいか、という気持ちで描いています。 奇しくもというか必然的にというか、前作の『夏の胸懐』と展開の進行速度がほとんど同じになっています(もうすでに秋彦くんが脱いでいるという点では先に進んでいるのかもしれませんが)。あんまり前作と比較しすぎずに描いていきます。なんとなく、前作よりも完成版のページ数が多くなるような気がします。 以下、読者の皆さんにとってはどうでもいいことです。プライムビデオで映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』を観た結果、考えを言葉で整理するという作業に心をひかれたので、この場を借りて書き連ねてみます。 私が本漫画(あるいは本シリーズ)を描こうとしているモチベーションの源泉のひとつは、「性欲の否定の否定」です。 性欲という欲望は、全人類に普遍的に存在し、生きるための力、あるいは生命そのものであるといってもいいほど、その存在を否定することができない明白な存在です。その一方で、性欲というものは痴情、劣情とも呼ばれ、場合によっては蔑みの対象となり、宗教的禁欲など、その存在を否定することは善いことであるとみなされることも多いものです。私はこの「性欲の否定」に違和感を覚え、これに異を唱えることがモチベーションのひとつになっています。 なぜ性欲を否定することが肯定されるのでしょうか。いろいろ理由は考えられますが、理由として一つ目に挙げられることは、性欲という存在はとりもなおさず犯罪につながることが多いからです。世の中の犯罪の大半は性欲を満たすため、あるいは性欲を発端とした情動の果てにおこなわれるものである。つまり、性欲は犯罪=悪の根源に位置するものである。だから、性欲もまた犯罪と同じく「悪いものごと」であり、よって否定されるべきだ、という考えがあるとおもいます。 たしかに、そのような過程を経ておこなわれる犯罪は、これまでも、そしてこれからも起こり続けるでしょう。しかし、犯罪を悪とみなして否定することはできても、そこから理論を敷衍して、性欲を悪とみなすことはできないとおもいます。なぜならば、先ほど少し申し上げた通り、性欲という欲求はすなわち生きることそのものであるからです。 生命という存在が、繁殖を繰り返して悠久の歴史を紡いでいくものならば、性欲という存在は生命にとって必要不可欠な要素です。私はむしろ、性欲と生命力(生きようとする力)を同一のものとして扱って差し支えないとおもっています。よって、私は性欲=生命力を悪として観てはいけないとおもっています。 ならば、性欲を発端とした犯罪は、どこにその悪の所在を追及すればよいのでしょうか。この議論について、私は先ほど申し上げた理論を再び適用することができるとおもっています。つまり、性欲とは生きる力そのものであり、それほど個人に密着したものである。そして性欲はその人自身の戸籍に属し、その人の固有名詞が冠せられ、時にはその人自身である。よって、その人の性欲がおもむくところで犯罪を犯せば、「その人自身」の所業として罰せられる。ということです。 簡単にいえば、性欲によって犯罪が犯されたとき、悪いのは「その人」である、ということです。人類が普遍的に持っている、なんぴとのものでも変わらない、客観的事物としての生命力である性欲は、たしかに全員がひとしく(例外は置いておいて)持っていますが、個人が所有し、個人の固有名詞を戴いた時点で、もうその人と同化した存在であるとみなすべきだとおもいます。結論として、私は性欲を発端とした犯罪が起きても、糾弾されるべきはその性欲を御することができなかったその人自身であり、集合的存在である性欲にはなんら罪はなく、したがって悪とみなすことができないと考えます。 性欲を否定することが肯定される理由として二つ目に挙げられることは、性欲という欲求があまりにもプリミティブな、動物的な、低次元な存在であるということです。「僕があの子を好きな理由はそんなやましい劣情があるからではない」といった言論です。 このことに関しては、直截的にいってしまうのであれば、「自分は高尚かつ紳士的な人間である」と思い込もうとしているから、というのがその実情だとおもいます。ここで私が強調しておきたいのは、性欲を抱くことが高尚かつ紳士的なことではないとおもわれるにしても、だからといってそれを否定するべきではない、ということです。 ここで、司馬遼太郎の『空海の風景』から一節を抜粋します。 「さらに理趣経は『一切自在主清浄の句、是菩薩の位なり』という。その一切自在の『自在』とは後世の禅家がしきりに説く自在ではなく、生理に根ざした生理的愉悦の境を言うのであろう。男女が相擁しているときは人事のわずらわしさも心にかかることもなにごともなく、いわば一個の人事的真空状態が生じ、あるいは宇宙のぬしもしくは宇宙そのものであるといった気分が生じ、要するに一切自在の気分が漂渺として生ずる。それも、菩薩の位である、というのである。」 私はこの一節の『人事的真空状態』という表現が大好きで、なんとかしてそれを表現したいと常日頃からおもっているのですが、今はいったんおきます。 要するに、理趣経においては、男女が会い、互いを求めあい、ひとつに和合しようとする情動というのは、清浄であり、悟りを開くみちであり、あるいは宇宙の真理である、といった意味のことを説いています。キリスト教的な禁欲主義とは真反対のことを言っていることに興味をそそられます。 哲学における重要な目的の一つとして、宇宙の根源、真理、 いわゆるἀρχήを解き明かすというものがあるとおもいますが、理趣経では性欲とセックスにそれを見た、ということです。以上のような理趣経、そしてそれを研究した空海の考え方に触れ、私は以下のような考えを持つようになりました。すなわち、どんなに人間が多層的な、重厚な、複雑な、高尚な、高次元な、微妙な、玄妙な、奥深い(と当人たちは信じ込んでいる)恋愛感情を経たとしても、最後の最後はどう転んでも最も低次元な存在であるセックスに落ち着くこと、そしてそのセックスは一見すると低俗に見えるが、実は宇宙の真理ともいうべき状態であり、形而下の存在である男女が形而上の世界に引き上げられる、最も窮極で高尚な状態である、という考えです。 限界まで嚙み砕いていうと、「セックスは低俗だけど実は同時にめっちゃ高尚なもの」ということです。だから、私は性欲はむやみに否定されるべきではない、ということがいいたかったのです。その思いをモチベーションにして描いていたりいなかったりします。 以前もちらりと言いましたが、私の創作のテーマは「清浄で静謐な神韻縹渺とした人事的真空状態」を描くことです。また、上述したような重厚で玄妙な恋愛感情が、セックスにおいて一点に集約される、という推移に趣を強く感じるので、そういうところの表現も力を入れたいとおもいます。まだまだ力不足ですが、理想を追い求めていきたいです。 そんなところです。プライムビデオでアニメ『恋は雨上がりのように』を見直していました。『多田くんは恋をしない』も見直したいのですが、プライムビデオにないので悲しいです。 P.S. 「どうでもいいこと」というハッシュタグをつくりました。こういう文章を書くのは私にとって一種の発作のようなものなので、気にしないでください。

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