立ち上がりは静かだった。
互いに間合いを取り、注意深くそれを見切り合う。
だが、動きのキレと圧に差があった。
「しっ!」
わずかな踏み込みと適切なタイミング、そして滑らかな体重移動。
全く無駄の無いジャブが結衣の顔めがけて飛ぶ。すんでのところで腕が間に合い防ぐも、
「ぁっ……!!」
結衣の顔が苦悶に歪む。
あまりにも当然のことだが、格闘技においての男女差は埋め難いものがある。
骨格と筋量、そこから来る体重差はそれだけで確かな有利となる。男女それぞれの試合の映像を見れば動きのキレの違いに嫌でも気がつくだろう。
速さも重さも違う。無論男性が上という意味でだ。
バッバシッ!!
単純だが的確なジャブストレートが結衣を襲う。
「くっうっ………!」
ガードこそできているがそれでも威力を殺しきれない。
「………ふっ!」
結衣がジャブを返すが、章介はスウェーして鼻先でかわす。まるでボクサーだ。
スウェーから少しステップし、流れるように距離を詰める。結衣が咄嗟にジャブを警戒してガードを固めるが、構わず打つ。
バシッ!バスッ!
1分は経ったか。
「ふっ……はっ……」
結衣は息遣いが乱れ始めている。体力はまだ問題無いようだが、どうやら痛みによるもののようだ。表情が少し歪んでいる
「……………」
対して章介はほぼ汗をかいておらず、試合開始時と変わらない冷静な表情と動きだった。
両者は攻守でレベルの違いが見られた。
章介は動きに無駄が少ない。何度も繰り返された反復で体に染みついた動きが本番でも正しく再現される。
自分の動きの結果生じる相手の動きに即座に対応し、何ならその次起きることまである程度の見通しが立っている。そして予測が外れても対応してみせるという余裕があった。
言わずもがな先述の男女差が無視できない。かなり有利な状態にあると言えた。キックボクシング界の王座は時間の問題とまで言われる章介がこの戦いにおける支配権を握っている。
そんな国内トップレベルの男性選手と比較した時、結衣は流石に劣っていると言わざるを得ない。
結衣はジムにいた時よりかなりレベルが上がっている。ジャブやストレートの打ち方、フットワーク、章介が教えていないガード、そして果敢に打ち返すメンタル。いずれもかなりのものだ。ただ、『女子レベルにしては』という条件付きだった。
例え体重が同じだったとしてもこれでは章介には敵わない。技術面と精神面の差だけでも、この試合は結衣にとっては試練に見える。
章介のジャブからのロー。結衣は大きめに距離を取ってローだけをガードし、踏み込んでジャブからのストレートを打つ。章介は距離を取って体重の乗った単発のミドルを返す。ガードしてはいるが衝撃を殺しきれていない結衣に踏み込んでの細かいパンチの連打。すかさず距離をとる結衣。
試合時間2分に差し掛かろうかという頃、章介は結論に至った。
「(慎也さんは、負けてなんかいない)」
険しい顔つきでガードを固める結衣を冷めた目で見ながら、そう確信した。
速さも、技術も経験も。慎也や自分には遠く及ばない。
確かに章介のジャブ、ミドルなどをガード出来ているのは驚嘆に値する。
結衣は格闘技に触れてから半年ほどで女子プロの中でもほぼトップレベルの実力を身につけている。これは驚異的なことだ。彼女は間違いなく才覚に溢れた生まれながらのファイターと言える。
だが…………
「(どんな汚い手を使ったのか知らないが………きつめにお灸を据えてやんねえとな)」
今現在、慎也がどこで何をしているのかは分からない。だがバトルンの情報を信じるのなら彼の名誉は地に堕ちているはずだ。本来の実力を発揮することを許されないまま、強さへの真摯な思いを踏み躙られたことになる。
『キックボクシングという技術にその資格があるのなら、どこまでいけるか試してみたいんだよ』
慎也の言葉を思い出し、章介の中で激しい炎が燃え盛っていた。
結衣までの最短距離を風のように踏み込む。ジャブを警戒する結衣だが、フェイントだ。咄嗟に脚を上げる結衣だが、ローでも無い。
左フックが結衣の右側から襲った。
「きゃあっ!?」
右腕が跳ね上がっていたのは流石だった。すんでのところでクリーンヒットは免れたが、決まっていれば失神していただろう。
結衣はそのままスリップ気味にダウンするが勢いに任せて転がり、流れるように立ち上がる。
辛そうに目を細めながら距離をとる結衣と、余裕を保ちながら距離を詰めていく章介。
試合は3分を数えようとしていた。
結衣は序盤に見せていた闘志はどこへやら、今や距離を取るばかりになっていた。章介の踏み込んでのジャブや同じく遠目からのローなどが結衣のガードを揺さぶることはあったが、結衣からの攻撃はほぼ無い。
防御しながらも最初は果敢に打ち返していたのに、これではもう負けを待つばかりだ。
「(まともな勝負にはもうならなそうだな)」
またも距離を取る結衣。
「(………まあ、チャンスが来れば畳み掛けるだけだ。)」
章介は依然落ち着いていた。
5分は経ったか。
試合は膠着状態の一歩手前だが、変わらず章介が一方的に攻めるシーンが目立った。
結衣は章介の接近を阻むための攻撃を出すことはあっても、進んで仕掛けてはこない。
「(ディフェンスは本当に上手いな)」
結衣は序盤の被弾も全てガードできていた。力の差があるせいでガード越しのダメージはどうにもできないだろうが、ディフェンス自体は序盤から一貫して成功し続けている。
しかし、攻め手が圧倒的に足りない。これでは章介を倒すことはできない。
それにいつまでも逃げ続けることはできないだろう。一瞬でも隙を晒せば蹂躙されてしまうことが予想される。章介はそれだけの力を持った格闘家だった。
ふと、結衣のフットワークに目が留まる。
序盤と比較してもほぼ動きが変わっていない。軽く跳ねるようなステップを混ぜながら、距離を離し続けている。
「(癖のある動きだな………)」
結衣はこちらの動きを注意深く伺いながら構え直した。
「ふーっ……」
「(……………)」
仕掛け方を変えてみるか。
大ぶりなロー。
フェイントをかけてのストレート。
フックも使ってみる。
「(………………乗ってはこないか)」
カウンターを狙ってみるが、結衣に攻め気が無さすぎるのか引っ掛かる様子がない。
特にローは空ぶって一回転するくらいの隙を見せたのだが、まるで近づいてこなかった。
「(勝つ気あんのか?こいつ………)」
やや白けを感じながらも、圧を緩めない章介。
不意に結衣が踏み込んできた。
垂らした釣り針にまるで反応しなかった結衣がここにきて攻めてきたことにやや間を外されるが、放たれたジャブを難なくガードする章介。
結衣は距離を取らず、続けて踏み込んできた。
またもジャブ、そしてストレート。工夫の無い攻めを難なく防ぎ、ストレートを序盤に見せたようなスウェーで避けようとする。
「(あれ?ちょっとミスったかな)」
結衣の拳が思ったより近い。ほぼ眼前に迫っている。
余裕を持って避けているため問題は無かったが、やや計算違いだった。
無論、すぐに修正する。章介は油断などしていない。
結衣は章介の反撃を警戒して素早く距離を取った。
「(…………続けて攻めてはこないのか)」
何故か章介は妙な感覚に囚われた。
何かが目の前を通り過ぎるのをたまたまよそ見して見過ごしたが、何かが通ったことだけは分かってそれが何だったのか不思議に思うような感覚だ。
章介は雑念を一瞬で振り払った。試合に集中するべきだ。
章介は知らないが、試合時間は10分を超えていた。
「(何かしっくりこねーな)」
それが何なのかを探し求め始めて3分以上経つ。この試合が初めからこちらのペースなのは間違いないのだが、違和感が気になって仕方がない。
結衣の消極的な動きは変わらない。
章介は不意に、荒っぽく行ってみることにした。
「!?」
驚く結衣。この試合が始まって初めての章介の明確なラッシュといえる。
左ミドル。脚を上げて受ける結衣。
追って右ストレート。ガードするが吹き飛ばされる結衣。
詰めてジャブ、やや待ってからストレート、フックと繋ぐ。ガードして後ろに大きく下がる結衣を追うように締めのロー。結衣はどうにか捌き切るが、カットした脚へのダメージはどうにもならないようだ。苦しそうな表情を浮かべる。
「(このまま攻めていいな。終わらせよう)」
彼我の実力差と状況から見て、ここで畳み掛けることを判断する章介。更に踏み込む。
軽いフェイントを入れてのジャブから入る。結衣は攻めが選択肢に無いのか、防御への反応だけは早い。半身に構えてきっちりガードするが、やや反応が鈍いように見える。
章介は冷静に結衣の様子を見、攻め手を緩めず右ストレートを繰り出した。
その瞬間。
結衣の体が不意に消える。
「しっ!」
ガッ!!
「っ!?」
章介の顎を掠める一撃。膝は落ちないが、一瞬重心がブレる。
何が起こったーーーいや、分かる。こちらのストレートに、これまたかがみながらの右ストレートをカウンターで合わせてきたのだ。
章介の状況把握、そして反応は素早かった。何が起こったのかを迅速に判断し、頭部付近のガードを固める。
結衣の体力を考えれば、この後の攻めはあってもジャブか、後退して間合いを取るかだーーー
どふっ!!!
「ぅぐぉっ……!!?」
ガードが上がり、空いた胴。結衣のミドルキックが章介の脇腹を捉えていた。
「(重いっ………!!?)」
骨にまで響くような重く鋭い一撃。
男女差、体重差、筋量の差。それらから想定される『女子の蹴りの威力』。そんなものを鼻で笑うかのような結衣の蹴りの威力に、思考が一瞬真っ白になる。
「ふっ!!」
前に出てくる結衣。章介は一瞬迎え撃つか守るか迷いが生じた。そして、時間が尽きる。
ジャブが来る。
いや、フェイントだ。こんな初歩的なフェイントにーーー
ジャブが鼻先を掠める。
本当に打ってきた。そして速い。
一瞬遅れて章介がジャブ、結衣のガードが間に合っているが構わずストレート。
空を切る。
直後に結衣のローキック。脚を上げてカットする。結衣は素早く戻り、ここでようやく後ろに下がった。まだ攻めきれないと判断したか。
先ほどまでと全く違う。動きの幅も、速さも。
試合を繰り広げる2人の横で、コメントの流れがまたも加速していくのだった。
章介は起こったことを整理しきれずにいた。
ダメージを受けているはずだ。
体力を消耗しているはずだ。
先ほどまで完全にこちらのペースだった。
ダメージを受けていたのではないのか?
何故まだこれほど動ける?
この蹴りの威力は一体?
そして何より、少しずつ予測がズレてきている。章介にとって悪い方向に。
「(どういうことだ!?ここにきて何故……っ!?)」
結衣が踏み込んでくる。章介の思考が乱れているのを感じ取ったのか。
ジャブか?いや、フェイントーーー
ビシィッ!!
「(ローか……!)」
ジャブ以外の選択肢が混ざってきている。
結衣は試合時間の経過を感じさせない軽快な動きでこちらを翻弄し始めている。
だが、章介にもまだ余裕がある。パワーと経験では不動のアドバンテージがある。それが彼に冷静さを維持させていた。
章介からも仕掛ける。
同じくローを放つ。
ビシッ!!
結衣は章介の右ローをカットし、流れるようにローキックを返してきた。
章介も左脚を上げてそれを受ける。
バシィッ!!
カット後の戻りが早い。章介は結衣のディフェンスと反撃に至るタイムラグの少なさに驚いていた。
そして何より……
「(何でこんなにキックが仕上がってんだよ……!!)」
結衣はパンチについては女子プロ相応クラスだったが、キックに関しては明らかに2段階は威力が違った。
男性選手のそれとはまた異質な痛みと衝撃が走る。普段対戦する男性キックボクサーの蹴りを鉄パイプで殴られるような痛みとするなら、結衣の蹴りは弾力性のある太い木刀の一撃のようにも思えた。
今度は章介が前に出た。間合いを狂わせることで結衣の予測を超え、同時にプレッシャーをかける。
だが、何故か距離が縮まらない。結衣が章介が迫ってくるのとほぼ同時に後退したのだ。タイミング的に見てからではなく、完全に予測した動きだった。
次の瞬間、逆に結衣が踏み込んできた。
一瞬反応が遅れ、オープンフィンガーグローブに包まれた結衣の拳が頬に突き刺さった。
体重差7kgの女子のジャブはこの状況ですらまだ章介にとって脅威では無い。
もし相手が男子だったならまずかったが、ジャブを当てられてもまだ逆に攻める選択肢があるのはまさに男女差だった。
章介の体が旋回し、左腕が結衣の顎を砕かんばかりに迫る。
ぶぉっ……!!
ゴッ!!
結衣のショートフックが章介の顎を捉えていた。
「がッ……!?」
結衣へ返したはずの左フックは虚しく結衣の後方を薙ぎ、逆に接近されカウンターのフックを貰ったのだ。
視界が揺れる中、結衣が後ろに下がる。
章介は先ほどのミドルを思い出す。出来れば脚で防ぎたいが、
「(腕で受けるしかない……!)」
結衣の蹴りの威力を思えば得策ではないが被弾直後ではやむを得ない。その場の状況に応じて最善手を素早く選べる章介の非凡さが、ミドルの高さにガードを下げさせた。
結衣が蹴りの体勢をとる。やはりミドルだ。
「(よし!)」
その技術は途中まではミドルと同じ動きをなぞる。
同じ姿勢で蹴りながら、軸足を爪先立ちにすることで高さを稼ぐ。
そうすることでーーー
ズパンッ!!!!!
「ぐぇあッ………!!!?」
結衣の左ハイキックが章介の首筋にめり込んだ。
javada
2025-12-19 06:28:23 +0000 UTCwhgusckd11
2025-12-18 13:23:11 +0000 UTCwhgusckd11
2025-12-18 13:16:44 +0000 UTC