並の男性格闘家なら失神してもおかしくなかったが、章介は膝をついて両手をつきながらも何とか意識を保っていた。
「はぁっ……はぁっ………!!!」
揺れる視界と呼吸の乱れ、そして首元の鈍い痛みに苦しめられながら章介は結衣の動きを思い返していた。
あれだけ動いていてなお結衣の体力はまだ余裕があった。単に癖のある未熟な動きだと思っていたが、違う。あれは自分の知るフットワークではない。
結衣の動きにはほぼ力みが見て取れない。リングを駆け回るのではなく、例えるなら縦横無尽にスキップしているかのような軽やかさだ。体重移動に全く無駄が無いのだ。そうすることで体力の消耗が抑えられるかなど章介にとっては見当もつかない話だったが、事実彼女は長い時間俊敏に動き回り続けた。
そして、兼ねてからの違和感の正体が分かった。
結衣のガードだ。
ディフェンステクニックが高いとは思っていたがそれは正確では無い。結衣のガードは天才のそれだ。ガードしておきながら実態は受け流しと変わらない。
信じられないことだが彼女の体は汗こそ浮かんでいるもののアザは全く無かった。一体どうやればそうなるのか、そんなことが可能なのかまでは知る由もないが、章介が感じていた違和感はパンチの感触から伝わる微細な手応えの無さだったのだ。だが、到底可能とは思えない。
「(ありえねぇ………!!)」
桁違いの天才。
その言葉以外にどう表現したら良いというのか。男女差という現実の高すぎる壁をこうも軽々と飛び越える存在がいることなど、ここにくるまで全く知らなかった。
「やったあ!みんな見てた!?ホントに立ち技だけで勝ったよ!褒めて褒めてー!!♡」
自分がリングに沈めた男のことなど放って好き勝手にPC画面に向けてはしゃぐ結衣。画面に向けて尻を見せつけたり投げキッスしたりとアピールする。
「てめ……ッ……!!!」
格闘家なら当然の相手への配慮や人としての礼儀に著しく欠ける振る舞いだった。歯を食いしばりながら立ち上がる。
試合は終わっていない。
結衣は振り返り、ふらふらと揺れる章介を見て軽く笑った。
「まっすぐ立てないの?あはっ、ウケるw」
明らかに不利な状態だ。こちらから攻めることも、守ることも厳しい。だがもはやそんなことを言っていられる場合ではなかった。
そして、この状況を客観視しているもう1人の自分がすぐそばにいるかのように、脳内に響き続ける声。
「(目の前の試合に集中しろ)」
もう負けてる。これ以上は無駄だ。
「(まだやれることがある。ベストを尽くせ)」
『まだ』?まるで絶望的な状況を認めているかのような言い方だ。
「(うるさい!このままで終われるか!)」
現実を認めろ。お前はもうーーー
整理できない思考への苛立ち。
自らコーチングした女に追い込まれているという事実への屈辱と怒り。
このままでは終われない。こんな結末は認めない。
「おらぁッ!!!」
大ぶりだが速度、威力ともに当たればタダでは済まない一振り。
速く重い一撃を、しかし結衣は僅かに横へ踏み出して避けた。
続け様にフックを繰り出すもやはり当たらない。
攻めるしかない。ここから勝つためには攻め続けるしかないのだ。
そしてついに集中力が著しく低下したことにより、
「(くそっ………!)」
今まで何とか見ずに済んでいたものを思わず見てしまう。
普段の試合では考えられなかった、『対戦相手という存在がリングコスチュームに包んだ胸を大きく揺らしながら向き合ってくる』という異常事態。
丸みを帯びつつ発達した僧帽筋や肩周り。上腕はアスリート然としたしなやかさだったが、下半身は上半身とは対照的にムチムチと力強く、部位によっては暴力的な印象すら受ける。
尻は蹴りの威力を裏付けるかのような圧倒的なサイズでありながらも美しく丸みがかっており、それを隠す役割を持つはずのコスチュームは生地が全く足りておらず時折履いていないようにすら見える。
巨大な臀部から伸びるムチムチと太い太もも。内に秘めた筋肉が皮膚越しに主張しつつも脂肪に包まれたなだらかなシルエット。それでいて章介を圧倒する質量をたたえており、彼女のファイターとしての非凡さを窺わせる。
汗の匂い。嗅いだ瞬間脳にまで達するような結衣の香り。
「(アホか……!!試合中に余計なこと考えてんじゃね………ッ!!?)」
結衣が高速で迫ってきた。姿勢が低い。
章介は咄嗟に膝を合わせようとし、
「よっ」
ゴッ!!
「げぁっ……!!?」
左頬にめり込む結衣のパンチ。タックルと見せかけての大ぶりのフックだ。
それはキックボクシングではなくMMAで見られるような軌道で完全に章介の裏をかいた。
顔面を殴られ大きくよろける章介の腰にいとも簡単に組み付く結衣。強靭な下半身が生み出すタックルでいとも簡単にリングに倒される。
ガードポジションから一瞬でサイドへ、そして章介の未熟なグラウンドテクニックを嘲笑うかのように瞬く間にマウントポジションを取る。
何とか抜け出そうと無様にもがく章介の顔面めがけてーーー
ゴッ!!
「ぶッ………!!!」
馬乗りになって何度も拳を振り下ろす結衣。
ゴッ!バシッ!!
「ぐっ……!!」
章介はガードを固めるが、結衣は巧みに章介の腕を取り、ガードをどけてからパンチを繰り出してくる。
「くッ………!!!」
「ほらっ!!散々やってくれたお返しっ……だよっ!!」
ガードに成功したとしても殴られたこと自体が彼女の中で看過し難いことだったらしい。力んだ声が聞こえてくる。
とても全ては防ぎきれない。被弾が増えていく。
バスッ!ゴッ!!バシンッ!!ガンッ!!
そしてそのうちの一発がついに顔面の中央にめり込む。
ドゴォッ!!!
「がッ……!!!!」
ぷしっ………!
鼻血が噴き出す。
結衣はすかさず身を乗り出し章介の後頭部を押さえて脇の下へ抱え込み、後ろへ倒れ込みながら思い切り締め上げた。
ギロチンチョークだ。両脚を胴に巻き付けロックしている。
ぎゅうううううううッ!!!!
「かっ…………は…………っ!!!!」
「はっ……このまま落としたげよっか?ん?」
結衣は鼻を鳴らしながら捻りを加えて絞め上げた。
完全に極まっている。
的確に頸動脈を絞め上げられみるみる視界が暗転していく。
「(やべえ……マジで………死……)」
章介が本気で死を覚悟した瞬間。
ぱっ、と結衣が絞めを解いた。
「かっ……げほッげほォッ!!!!」
結衣はすでに立ち上がっており、転がりながら激しく咳き込む章介を見下ろす。
「ほらっ。早く立ってよ。もうちょい付き合ってもらうんだから」
「がはっ!!!はぁ……はぁ………!!!」
「もー。早くしてよね」
結衣は地面に手をついて荒い呼吸をする章介に背を向け、視聴者と話し始めた。
「どうどう!?すごくない?わーい、ありがと♡」
「どうして勝てたのかって?んーとね、序盤に時間使って相手の動きをよく観察したから………かな?だと思う!動きが分かれば痛いのは貰わないから!まあ、デカいのガードした時はちょっと痛くてムカつくけどw」
「スパコメしてくれた人ありがとー!えーっとなになに………『久我選手にキックボクシングで勝つなんて凄いです!本当に格闘技歴半年なんですか?』。うん、ほんとに半年くらいだよ!」
「ほんとだってばー!なんで疑うのお?」
「そうそう聞いて!あたしが入ったジムってプロの人が多かったんだけどさ、入ってから2ヶ月くらいでその人達の動きが見えるようになってきたの!」
「まあ最初は『見慣れただけかな』って思ってて、実際試合したらまた違うんだろーなって考えてたんだけどね」
「そのジムもうやめたんだけど、辞める寸前に『おれキックボクシング8年やってるよ』って言ってたやつに『スパーしませんか?』って誘ったの」
「前からちょいちょい私の体ジロジロ見てきてたの知ってたからこいつでいいかーみたいな。うん、なんか赤くなってたwそうそう、DT?みたいなw」
「で、やったらさあ………ほんとに相手の動きが全部スローに見えるの!!反撃でジャブ出したら全然ガードできてなくてwwモロ食らって鼻血出したりしてて!w」
「それからそいつキレて。なんか本気っぽかったんだけど相変わらず全部おっそくてw技全部捌いてやったらめっちゃショック受けた顔してたww」
「散々殴って失神させた後に撮った写真がコレね。後でアップしとくから皆見てね♡」
「あ!fighterJunさんスパコメありがとー!!♪えーとなになに………『性格悪くて草。スポーツマンシップ知ってるか?』。えーそんなの知らないよ」
「キックボクシング8年やってたくせに始めて1年も経ってないあたしに負ける方が悪くない?てゆーかあ、そんだけやってるくせに女に負けるとか才能無いんだから辞めたらいいんだよ。普段からあたしのことエロい目で見てたんだからおあいこじゃん」
「あ、やっと起きた!ごめんね皆、また後でね〜♡」
「………お……い」
「………何?」
掠れた声で話しかける章介に結衣がダルそうに返す。
心底このやり取りを無駄に思い、嫌がっている言い方だった。
「本当……か?」
「なにがー?」
「今の………話だ………」
「ウソつく意味なくない?てゆーか聞いてたんだ」
爪をいじりながら言う結衣。
「お前に………聞きたいことがある」
「まだ?早くして」
「俺の前に…別のキックボクサーと戦ってるな?」
「………は?」
「……試合………してるだろ」
「………」
「………………………」
「………………………………………………」
「……………あぁ。間吉…?慎也……だっけ?やってるけど?」
「…………」
「『怪我させたくない』とかナメたこと言ってたから金玉蹴り上げた後馬乗りでぶん殴ってトドメに脚で絞め落としてやったけど、それがなんなの?」
「…………その人は………俺の兄弟子だ…………尊敬してる……人だ」
「あそ」
「………す」
「?」
「て……めえは……ぶっ殺ーーー」
ズパァァァンッ!!!!
「え?なに?」
股間に深々と突き刺さる結衣の足。
「ごお"ぉ"ォッッッッ!!?」
脳天まで突き抜けるような耐え難い激痛に思考を塗り潰され、章介は頭からリングに倒れ込んだ。
股間から上がってくる重苦しい痛み。男にしか分からない絶望的なダメージを与えられながらも、章介は絞り出すように結衣への呪いの言葉を吐いた。
「死………ね………こ………この"……ク………ソ………お"ん………………ッ………!!!」
「さっきからなにブツブツ言ってんの?」
「……ぜ……っ………こ…殺……す………ッ………!!!!!」
「………え?『殺す』とか言ってる?うわー怖ー。でもさあ………」
「(クソッ………クソッ………!!!慎也さんを………敦を………こいつ………こいつが…………!!!許さねえ!!絶対に!!!)」
「怒ってるのになんでおっきくしてるわけ?」
「ねぇ、なんで?」
「…………!!」
「尊敬してた間吉も同じジムの奴もあたしに酷い目に合わされてるのに」
「……………っ………!!」
「ふつー悔しいとか悲しいとか……怒ったりするとこなんじゃないの?おっ立ててんのおかしくない?悦んじゃってる?もしかして」
「ぐっ……うぅ………!」
「Mってことー?えーマジー?キモすぎ」
「やめ…………ッ……」
「ジムにいる時からあたしのお尻とか見てたでしょ?ドMのエロガキってこと?やば」
そう言うと結衣は章介の背後へ回り込み、乱暴に蹴倒した。
「みんな〜⭐︎あたしがこいつにトドメ刺すところ見てて〜!いくよ〜!」
リングを囲むカメラに向かって呼びかける結衣。うつ伏せで倒れ込んでいる章介の両脚を踏み、足を曲げて絡ませる。そして両腕を掴んで勢い良く後ろに倒れ込んだ。
「よっ!!」
「!?ぐあああぁッ!!!!?」
プロレスの技だ。章介にはそこまでしか分からなかった。
肩と足首からミシミシと音が聞こえ、体のあちこちに激痛が走る。どこが最もダメージを受けているのかすら分からない。
そして。
「ほらぁ!あんたが勃起してるところみんなに見せてやりなよ!!w」
思い切り天井に向けて突き出され、いきり立つ章介の股間がライトに照らされる。
完全に身動きの取れない章介の痴態を晒し者にする結衣。
章介が戦いの最中感じた劣情の全てが白日の元に晒されていた。
「あっははははは!!どう?これも気持ち良いの!?このマゾ野郎!!!」
惨めな姿を嘲笑う結衣。
ビキビキビキッ…………
ミシ……ミシ………
章介は身体中の筋肉と骨が軋む感覚を味わわされながら、何故かジムにいた時の彼女を思い出していた。
天然な態度。
ほんわかとした語り口。
そして………何をしていてもどこかつまらなそうな態度と、給料の話への食いつき。
「(あぁ、そうだったのか)」
ふと、章介は結衣のことを理解した。
何故かは分からない。脈絡も無く唐突に彼女の本性が分かった気がした。
彼女には試合への真摯さも、対戦相手への敬意も無い。格闘技へのひたむきさなど無縁だ。
暴力的なまでの才能を自分の目的(配信が盛り上がることによる収入だろう)に使うことしか考えていない。
配信が盛り上がるなら敗者はそのための道具。
彼女は優しい人間でも、天然でもない。
スポーツすら未だに好きではないだろう。
楽しいか、そうでないかが彼女の判断基準。
自己中心的な快楽主義者。
「(敦…………慎也さん…………ごめーーー)」
ビキィィッッッ!!!!!
「(ッーーーーーーーー)」
「(あれ?こいつイッてる?キックボクサーって全員こんななの?………ーーー)」
結衣の声が遠くに聞こえ、章介の意識は闇の中に沈んでいった。
whgusckd11
2025-12-26 15:38:57 +0000 UTC