元日本チャンピオンに勝ったら100万円──。10年程前に引退したボクシング元日本王者は、小遣い稼ぎにこんなネット番組の企画に参加していた。
スポーツで一定の実績を残した選手とオーディションに合格した素人数名が戦うこの企画はかなりの人気コンテンツで、ボクシングの他にもムエタイやMMAで同様の事が行われており、当たり前だがいずれも経験者側の勝利で終わっていた。
引退して久しく、トレーニングもたまに汗を流す程しかしていなかった彼であったが、それでも売名目的の動画配信者や腕っぷし自慢のホスト、自称喧嘩無敗に聞いた事も無い地下格闘技団体の選手を一蹴するには十分な実力は残していた。
最後に用意された相手は、若いグラビアアイドルだった。「月本彩です、Jカップでーす!よろしくお願いしまーす!」際どい水着姿で周りに笑顔で挨拶する彼女に、思わず失笑してしまう。
番組側も撮れ高を確保する為のお色気要因として起用したのだろう。そこそこ打たせてやってお茶を濁そう、怪我はさせない様に気を付けないとな…そう考えていたが、試合が始まるとそんな気遣いもしていられない状況となった。
「シュッ!シュッ!」
彼女の繰り出す攻撃は、先ほどの素人達の比ではない程鋭かったのだ。元王者のディフェンスをかいくぐり、ジャブやボディブローが襲ってくる。
(何なんだ、この女…!?)
戸惑いながらも1ラウンド目を終え、コーナーに戻った彼に、セコンドについたかつて所属していたジムの後輩が声をかける。
「さっき情報を貰ったんですがあの女、ボクシングジムでかなり本格的なトレーニングをしてるみたいです。何でも近々プロデビューしてグラドルボクサーって売り出すみたいで。今回もその宣伝の為に出てるみたいですよ」
(なるほど、道理で強い訳だ。そして引退した俺は、試運転に丁度いいって考えたのかも知れないな…。舐められたもんだ、プロの“先輩”としてしっかりと厳しさを叩きこんでやる)
そう意気込んで臨んだ2ラウンド目であったが、試合の主導権を握ったのは月本の方であった。元王者の本気の攻撃を上手くスウェーでかわし、的確にパンチを当てていく。
最終3ラウンド、元王者は体格的有利、そして何より男女の体力差を利用し強引な圧力をかけて攻勢を仕掛ける。しかし、鈍った身体ではイメージ通りの動きが出来ず、月本は足を使って距離を取りながらかわしつつジャブやフックを当てていく。
残り10秒の拍子木が鳴ると、更に勢いを増しコーナー際に追い込み猛攻を仕掛ける。
(や、やられる…!)
そう思った瞬間、試合終了のゴングが鳴った。
結果は3-0、月本の判定勝ち。賞金の目録をその豊満な胸で挟み、撮影に応じる彼女を元王者は茫然と見守る事しかできなかった。
「彩ちゃんに賞金をあげる為に一芝居打つなんて、優しいですね」
「チャンプのお陰でいい画が撮れましたよ、ありがとうございます」
スタッフは元王者がグラビアアイドルに華を持たせる為に加減したと思っているのだろう。彼はただ一人、女に負けたという屈辱感と戦っていた。
──半年後。
「本当にやるんですか?」
「ああ、多忙なのに時間を作ってもらってすまないね。感謝している」
今日の営業を終え、施錠されたボクシングジム。そのジムのリングに二人の男女が立っていた。彼女に完敗を喫した事で燃え尽きていた闘志に火が付き、半年間鈍った身体を鍛え直しリベンジを挑む元王者と、噂通りプロボクサーデビューを果たし2戦2勝2KOを収めている月本彩である。
元王者の身体は明らかに別物で、全身の筋肉が隆起しており半年前はたるんだ腹回りによって身に付けることが出来なかった現役時代のトランクスを履いていた。月本の方も水着ではなく試合用のトランクスとグローブ、シューズ以外は何も着けないトップレスの姿であった。身体をほぐす為にその場で小刻みに跳躍している。その運動自体は小さなものであったが、豊かな乳房が大きく揺れていた。
裸の男女が深夜に二人きり…。文字だけ見れば艶めかしい展開が予想されるだろう。だがこれから2人が行う事は、そんな色っぽさとは程遠い場所にあった。
「いつ始めます?」
「もう始まっているよ」
こうして誰もいないジムで、ひっそりと2人だけの死闘が始まったのだった。
半年前の体験とプロ2戦のVTRを観て、彼女の実力は十分に承知している。元王者に全く油断は無かった。
鋭いジャブを繰り出し、流れるように右ストレートを放つ。その右をかわした月本は、お返しのジャブを放つが元王者はこれを余裕を持ってブロッキングした。
半年前とは違う。月本も彼の覚悟を感じたのだろう、表情が引き締まる。いつもグラビアアイドルとして明るい笑顔を振りまく彼女の顔はそこにはなく、合理的に獲物を仕留めるボクサーの顔となっていた。
しばらくはお互いがジャブを打ち合い、拮抗した展開が続いたがそれを破ったのは間合いを見切り、より深く踏み込んだジャブを元王者の鼻先に当てた月本であった。
「ぐっ」
一瞬怯むがすぐに立て直し、お返しのフックを放つ。だがそれをパリングし、体勢が崩れた元王者を月本のジャブの連発が襲った。
ジャブにKOを期待できる程の威力はない。だが、顔に残る衝撃は確実に元王者の心身にダメージを与えていた。
このまま上品に戦っていてはジリ貧になる。彼のプロの直感がそう警告を出し、圧力をかけ無理矢理にでも体力を奪うパワーゲームに切り替えた。半年前は体の鈍りにより効果を発揮しなかったが、この一つの戦術に固執せず相手に合わせた対応を選択できる柔軟さが彼を日本の頂点に導いたのだった。
だが。
月本は強引に前に出る元王者の圧力にも屈せず、打ち合いに応じるのであった。半年前は足を使い圧力をかわしていたが、プロの試合を経験する事で力強さを身に付けていたのである。
足を止めた打ち合い。体力勝負では明らかに男の方が有利である。しかし、足を止めながらもなんと月本は元王者の攻撃に合わせ、ギリギリの所でいなし威力を殺していたのである。
元王者の攻撃をいなし、細かい連打を与える。接近戦でも彼女の回転力が上回っていた。そんな中、ついに元王者渾身のボディブローが彼女の鍛えぬいた腹筋を貫いた。元王者がこの試合─いや、半年前も含め、はじめて彼女にまともに攻撃を与えたのである。
「ぐへぇ!ゲェェ…!」
おおよそアイドルとは思えないうめき声を上げながら彼女は両手で腹を抑え、身体をくの字に曲げた。どんなに有利に進めても一発の攻撃で流れが変わる。これが、男女の理不尽な体力差であった。
更なる追撃を加えようと王者がガラ空きになった顔面にストレートを放つ。これで終わりだと思ったその瞬間─
月本はそのストレートにカウンターを合わせたのである。ダメージから鼻水と涎を垂らし、足は震えている。だが、それでもファイティングポーズをとり、見事なカウンターを決めたのである。
彼女は本物のボクサー。そして一度負けている俺は、挑戦者だ。改めてそう意識し、元王者も再びの接近戦を挑んだ。
ダメージは互角。お互い防御よりも攻撃を意識した前傾姿勢で打ち合いを演じた。
パンチの的確さと回転力では月本に軍配が上がるが、元王者には一撃の重さがある。月本のパンチが連打で当たる中、彼の拳も僅かではあるが彼女を捉えつつあった。僅かとはいえ両者の耐久力を比べると、それでも月本にとっては無視できないダメージとなる。
2人きりのこの試合にはレフェリーもセコンドもドクターもいない。もちろんラウンド間のインターバルも無ければタオル投入も無く、この試合が終わる時、それはつまりどちらかが力尽きる時を意味していた。
無限にも思える殴り合いの中、先に力尽きたのは元王者であった。
月本のパンチで両眼は塞がり、顔は血で染まり、腹回りは痣が無い所を探す方が難しい状態だった。
勝者は敗者を見下ろしていた。間違いなく強敵だった。プロをはじめ、スパーリングでも自分にここまで食い下がった相手はいなかった。そんな強敵を叩き潰した余韻とは別に、彼女は身体に残る鈍い痛みを感じながらある考えを巡らせていた。
(お腹だけじゃなくて顔にも痣、出来てるよね。撮影の仕事入ってるのにまずいかも…。ファンデで誤魔化せるかな、明日メイクさんに相談しなきゃ)
しばらくの時が経ち、傷も癒えた元王者が自宅でたまたま点けたテレビに彼女が出ていた。
水着姿でグローブを身に付け、芸人の持つミットにパンチを打ち込む彼女がそこにいた。
「この子、可愛い顔してえげつないパンチですよ!男相手でもボコボコにできるんとちゃう!?ええか、結婚しても夫婦喧嘩とか絶対やったらあかんで!」
芸人がおおげさな素振りでそう言うと、スタジオから笑いが起こった。
観ていられなくなりテレビを消し、彼は一言、こう呟いた。
「出来るさ」
ayane1
2025-07-23 07:28:47 +0000 UTC