00 暗闇の中で目を覚ました時、僕は自分が誰なのかすら分からなかった。 意識が混濁する中、最初に感じたのは湿った空気と、鉄錆びた金属の匂いだった。手探りで体を起こすと、冷たい石の感触が指先を刺す。やがて目が暗闇に慣れてくると、周囲の状況が少しずつ見えてきた。 湿った石の壁に囲まれた牢獄。鉄格子越しに漏れる赤い光が、僕の手を不気味に照らし出している。その光に照らされた黄色い毛並み――狐の手のような爪を持つ手が、確かに僕のものだった。 頭を触ると、そこにも柔らかな毛並みがあり、尖った耳が指先に触れる。背後では、尾が不安げに揺れているのを感じた。そう、僕は獣人なのだと理解した瞬間、激しい頭痛が走った。 「っく...」 こめかみに手を当てながら体を丸める。断片的な映像が脳裏を駆け抜けていく。金色の狐の姿。何かを詠唱する声。青白い光。しかし、それらは水面に映る月影のように、掴もうとすると崩れ去っていった。 「気分は如何ですか?」 突然聞こえた声に、僕は驚いて身を竦ませた。暗がりの中から、優しげな声が響いてくる。光源に向かって目を凝らすと、同じ牢の中にもう一人の姿が見えた。 オレンジ色のパーカーの上に白衣を羽織った狼獣人。丸眼鏡の奥の瞳が、僕を心配そうに見つめている。その姿は妙に現代的で、この古びた牢獄の雰囲気には不釣り合いだった。 「僕は...どこに...」 「ここは地獄です」 狼獣人は淡々とした口調でそう告げた。その言葉に、僕は思わず笑いそうになった。しかし、彼の真剣な表情に、それが冗談でないことを悟る。 「地獄、ですか?冗談では――」 「私たちは48時間後に処刑される予定なのですよ」 その言葉に、笑いかけた表情が凍り付く。処刑。その重い言葉が、状況の深刻さを僕に突きつけてきた。 「僕の名前も、ここにいる理由も、何も覚えていないんです」 「記憶喪失のようですね。夜見野殿」 狼獣人は僕の名を呼んだ。夜見野彼岸。その名前に、かすかな既視感を覚える。そう、これは確かに僕の名前なのだと、体が記憶していた。しかし、それ以上の記憶は闇の中に沈んでいた。 「夜見野、彼岸...」 その名を口にした瞬間、また頭痛が走る。何かを思い出しそうで思い出せない。そんなもどかしさに苛まれながら、僕は狼獣人を見た。 「あなたは?」 「楓と申します。残念ながら、私にも詳しい事情は分かりません」 楓と名乗った狼獣人は、僕の方へ一歩近づいてきた。その仕草には、どこか計算されたような冷たさが感じられた。しかし同時に、この状況で彼以外に頼れる存在はいないことも分かっていた。 「ですが、このまま死を待つわけにはいきませんよね?」 楓は立ち上がり、僕に手を差し伸べた。その手に託された意図は明白だった。脱出――。この牢獄からの逃亡を図ろうというのだ。 「出口は知っているんですか?」 「ええ。ですが、そこまでの道のりは決して容易ではありません。地獄の獄卒どもが私たちを待ち構えているでしょうから」 僕は立ち上がり、自分の体を確認した。身に纏っているのは狩衣。手には扇が握られていた。この装束の意味するものが何なのか、それを考えようとした時、またしても頭痛に襲われる。 ただ、これらが陰陽師の装備だということは、どこかで覚えていた記憶が告げていた。陰陽師。その言葉は、懐かしさと共に、何かを失ったような切なさも感じさせた。 「行きましょう、夜見野殿」 楓の声に頷き、僕は重い足を踏み出した。記憶の底に沈んだ真実が何なのか、それを探る旅が始まろうとしていた。遠くで獄卒の足音が響く。逃亡の時は、今――。 扉の外では、赤い松明の光が不気味に揺らめいていた。それは、僕たちの前に立ちはだかる未知なる試練を暗示するかのように、牢獄の壁に歪な影を落としていた。 01 「この鍵、どうにかできませんか?」 楓の囁きに、僕は躊躇いがちに鉄格子に手を伸ばした。冷たい金属に指先が触れた瞬間、体の中で何かが共鳴するような感覚が走る。それは温かく、確かな手応えのある力だった。 まるで古くからの友人のように親しみやすいその感覚に、僕は思わず目を見開いた。体の奥底から湧き上がってくる力は、青白い光となって指先から溢れ出す。 「霊力...ですか」 言葉が自然と口をついて出る。その瞬間、体が覚えていた感覚が一気に蘇ってきた。そう、僕には霊力を操る力があったのだ。それは記憶の底に沈んでいても、体に深く刻み込まれた能力だった。 指先から放たれた青白い光が鉄格子を包み込んでいく。錆びた金属は、まるで朝霧が消えていくように、音もなく溶けていった。不思議なことに、この程度の術式を使うことは、まるで呼吸をするように自然なことのように思えた。 「さすがは夜見野殿」 楓の称賛の声に、僕は少し戸惑いを覚えた。彼は僕のことを知っているようだが、その知識は一体どこから来るのだろう。そして何より、この力をもってしても捕らえられていた理由は何なのか。 そんな疑問が渦巻く中、二人は牢から抜け出した。通路は予想以上に広く、天井は闇の中に消えていた。両側の壁には等間隔で松明が灯され、その赤い光が通路を不気味に照らしている。 「右に行けば地獄の門に繋がる通路があります」 楓の案内に従って歩を進める。足音が反響しないよう、できるだけ慎重に。しかし、この静寂が長く続くはずもなかった。 突如、前方から重い足音が響いてきた。それは次第に大きくなり、やがて巨大な影が壁に映し出される。 「獄卒です」 楓の警告の直後、巨大な鬼が姿を現した。身の丈は優に三メートルを超え、真っ赤な肌には黒い刺青が這い、牙のような角が額から生えている。手には鉄の金棒を携え、その目は血走って僕たちを捉えていた。 「逃亡者発見!」 鬼の咆哮が通路に響き渡る。その声に、僕の体は一瞬すくんだ。しかし不思議なことに、すぐに冷静さを取り戻していた。 扇を開く手に迷いはなかった。体が自然と動き、口から呪文が溢れ出る。まるで、何度も戦ってきた経験が体に染み付いているかのように。 「子、現れよ」 扇から放たれた光が渦を巻き、そこから一つの姿が現れた。白銀の毛並みを持つ巨大な鼠の姿をした式神。子神将は月光のような白い輝きを放ちながら、僕の前に立ちはだかった。 「式神使いか!」 鬼は驚愕の声を上げたが、その目に宿る殺意は消えない。むしろ、より強い敵意を向けてきているのが分かった。 子は僕の意思を感じ取るように、鬼に向かって疾走する。その体から放たれる神聖な光が、鬼の体を焼き付けていく。地獄の存在である鬼にとって、神聖な力を持つ式神の攻撃は致命的なものだったようだ。 「ぎゃああっ!」 鬼の悲鳴が響く中、その体は光の中に溶けていくように消失した。戦いは、あっけないほどにあっさりと終わった。 「急ぎましょう。他の獄卒も気付いているはずです」 楓が僕の袖を引っ張る。その声に我に返り、子を消して二人で走り出した。しかし胸の中で、疑問が渦巻いていた。 なぜ、こんなにも戦いに慣れているのだろう。なぜ、これほどまでに強大な力を扱えるのだろう。そして何より――なぜ、そんな力を持ちながら、僕はここに囚われていたのだろう。 答えは、きっとこの先にある。そう信じて、僕は足を進めた。しかし、その確信の奥底で、何か重要なことを見落としているような不安が渦巻いていた。 通路は次第に下り坂となっていく。壁に並ぶ松明の光は、より濃い血のような赤色に変わっていった。空気も重くなり、僕たちの息遣いが荒くなっていく。 「待ってください」 楓が突然立ち止まり、僕の前に腕を差し出した。足元を見ると、床に不自然な模様が刻まれている。六芒星を中心に、複雑な呪文が円を描くように並んでいた。 「罠ですね」 楓の言葉に頷く。しかし、その瞬間、僕の中で何かが反応した。この罠、どこかで見覚えがある。そう、これは―― 「封印陣」 言葉が自然と零れる。そう、これは陰陽師が使う封印陣だった。しかも、かなり高度な技術で作られている。普通の霊力では突破できないほどの強度を持っている。 「さすがですね。これを突破するには相当の霊力が必要かと」 楓の言葉に、僕は扇を開いた。先ほどの戦いで、自分の中に眠る力の存在を感じている。それを、今度は慎重に引き出していく。 「丑、おいで」 今度呼び出したのは、黒い牛の姿をした式神だった。丑神将は大地を踏みしめ、その角から土気を帯びた霊力を放出する。それは封印陣と共鳴し、次第に模様を薄れさせていった。 「見事です」 楓の称賛の声が響く。しかし、僕の心は別のことで騒いでいた。なぜ、地獄の通路に陰陽師の封印陣があるのか。しかも、これほど強力な物が。 考える間もなく、通路が大きく開けていく。そこには広間が広がっていた。天井から滴り落ちる水が、不規則なリズムを刻んでいる。 「これは...」 僕の声が震える。広間の床一面に、先ほどの封印陣よりもさらに複雑な術式が描かれていた。それは何重もの円陣が重なり合い、まるで曼荼羅のような模様を作り出している。 「結界の間ですね」 楓の声には、どこか強張りが感じられた。彼もこの術式の異常さを感じ取っているのだろう。 僕は床に描かれた術式をじっと見つめる。見れば見るほど、その技巧の素晴らしさに目を奪われる。いや、それ以上に――この術式のどこかに、懐かしさを感じていた。 「夜見野殿?」 楓の声で我に返る。彼の瞳の奥に、何かが渦巻いているような気がした。しかし、それが何なのか考える余裕はない。 「封印を解きます」 僕は扇を大きく開き、術式の解読に入った。しかし、その瞬間、脳裏に激しい痛みが走る。断片的な記憶が、まるで割れた鏡のように光を放つ。 黄金の狐の姿。 術式を描く手。 誰かの悲鳴。 そして――楓の姿。 「っ!」 激痛と共に、記憶の欠片が消え去っていく。冷や汗が額を伝う中、楓がそっと肩に手を置いた。 「大丈夫ですか?」 「え、ええ...」 その優しげな仕草に、先ほどの違和感が消え去っていく。きっと、記憶喪失の混乱で、必要以上に疑心暗鬼になっているのだろう。今は、目の前の課題に集中しなければ。 「寅!来て!」 今度呼び出したのは、白虎の姿をした式神だった。その威厳ある姿は、広間の闇をも払いのけるような気高さを持っている。 寅神将は術式の中心に立ち、轟くような咆哮を放った。その声に呼応するように、術式が淡く光り始める。 光は次第に強さを増していき、やがて広間全体を白く染め上げた。寅神将の霊力が結界と共鳴し、複雑に絡み合った術式を一つずつ解いていく。 「これは...」 術式が解かれていく過程を見つめながら、僕は違和感を覚えた。この結界、確かに強力だ。しかし、その作りには何か歪みがある。まるで、本来の目的とは違う用途で使われているような。 「何か問題でも?」 楓の声に、首を横に振る。説明しようのない違和感を言葉にする自信がなかった。ただ、この結界には何か秘密が隠されているはずだ。 術式の光が最も強くなった瞬間、寅神将が再び咆哮を上げた。その瞬間、結界が氷のように砕け散っていく。しかし――。 「これは!」 予想外の光が放たれ、広間が真っ白に染まる。目が眩んで何も見えない中、耳に聞き覚えのある声が響いた。 『我が封印を解くとは。汝、並々ならぬ力の持ち主なり』 どこから聞こえているのか分からない声。しかし確かに、その声には聞き覚えがあった。 『されど、その力こそが汝の破滅を招くことになろう』 「誰です?」 僕の問いかけに、声は答えない。代わりに、床に描かれた術式が新たな光を放ち始めた。それは赤く、まるで血のような色をしていた。 「危険です!」 楓の警告の声と共に、僕は咄嗟に跳び退いた。その直後、術式から無数の赤い糸が噴き出す。それらは蛇のように宙を舞い、僕たちに襲いかかってきた。 「卯!」 三体目の式神が現れる。白い兎の姿をした式神は、背負っていた木槌を振り回し、赤い糸を払っていく。しかし、切り払われた糸は再び形を作り、執拗に襲いかかってくる。 「これは封印ではない」 戦いながら、僕は気付いた。これは単なる封印ではない。何かを捕らえるための罠。そして、その標的は――。 「夜見野殿、上です!」 楓の声に顔を上げると、天井から巨大な影が落ちてきた。人の形を成しているが、全身が赤い炎に包まれている。その姿は獄卒の鬼とも違う、もっと強い存在感を放っていた。 「陰陽師風情が」 炎の人影は低く唸るような声を発した。その声には、憎しみと共に、どこか悲しみのような感情が混ざっていた。 「我らが支配者の計画を邪魔させはせぬ!」 人影は両手を広げ、周囲の赤い糸を吸収していく。その姿は見る見るうちに巨大化し、やがて広間全体を埋め尽くすほどの炎の巨人となった。 「これは...」 圧倒的な存在感に、僕の体が竦む。しかし、どこかで見覚えのある感覚。そう、これは確かに――。 「怨念…」 言葉が自然と零れる。誰かの強い想いが形となり、依り代を得て実体化した存在。しかも、ただの怨霊とは違う。生前、強大な力を持っていた者の怨念。 「さすがですね」 楓の声が響く。振り向くと、彼は僕を見つめながら、どこか寂しそうな笑みを浮かべていた。 「この存在が何なのか、分かりますか?」 楓の問いかけに答える暇もなく、炎の巨人が攻撃を仕掛けてきた。巨大な腕が振り下ろされ、床を打ち砕く。衝撃で広間全体が揺れる中、僕は咄嗟に身を翻した。 「辰!」 四体目の式神が現れる。蒼い鱗を持つ竜の姿をした式神は、その体から水気を帯びた霊力を放出した。水流は炎の巨人に向かって渦を巻くが、蒸気となって消え去ってしまう。 「通常の消火では効かないか」 予想通りの結果だった。怨念の炎は、ただの火とは違う。魂そのものが燃え上がった炎は、物理的な力では消せない。 「では!」 扇を大きく振るい、式神の力を変化させる。辰の放つ水流は、青白い光を帯び始めた。通常の水流に、破魔の力を乗せたのだ。 「おのれ!」 怨念が苦悶の声を上げる。光を帯びた水流が、その体を少しずつ切り崩していく。しかし、完全に消し去ることはできない。むしろ、怨念の憎しみの炎は更に強く燃え上がっていった。 「夜見野殿!注意を!」 楓の警告の直後、怨念は両手を突き出してきた。無数の火の玉が、雨のように降り注いでくる。辰神将は水流で火の玉を消していくが、その数があまりに多い。 「くっ」 幾つかの火の玉が防御を抜け、僕の狩衣を焼き焦がしていく。痛みに顔を歪めながらも、必死に耐える。この程度では、倒れるわけにはいかない。 「巳!来て!」 五体目の式神、白蛇の姿をした巳が現れる。巳は辰と呼応するように動き、二つの式神の力が交差する。水流と蛇の毒気が混ざり合い、紫がかった霧となって怨念に襲いかかる。 「ぎゃあああっ!」 怨念の悲鳴が響く。その体が、霧に触れた部分から徐々に凍りついていく。しかし――。 「無駄なことを」 凍りついた部分が、内側から赤く光り始める。そして、一気に氷が砕け散った。怨念の炎は、より一層強く燃え上がっていた。 「なぜ、私の力が...」 困惑の声が漏れる。いや、違う。これは困惑ではない。どこかで、この展開を予想していたような気がする。そう、まるで――。 「夜見野殿」 楓の声が、妙に冷たく響く。 「その力では、怨念は倒せません。なぜなら、この怨念は――」 言葉の途中で、楓の姿が一瞬、光に包まれたように見えた。その光は血のように赤く、僕の記憶の中の何かと共鳴する。 「あなたが封印した、私の怨念なのですから」 楓の言葉に、広間の空気が凍り付く。彼の瞳の奥で、赤い炎が揺らめいているような気がした。そして、その炎は確かに――怨念の炎と同じ色をしていた。 「私の...怨念?」 問いかけた瞬間、激しい頭痛が走る。断片的な記憶が、まるで割れた鏡のように光を放つ。 黄金の狐の姿で術式を描く自分。 苦悶の表情を浮かべる楓。 赤い炎に包まれる広間。 そして――誰かの悲痛な叫び声。 「思い出しましたか?夜見野殿」 楓の声は、もはや優しさの欠片も感じられない冷たいものだった。彼は歩み寄りながら、ゆっくりと語り始める。 03 「一年前のあの日、私はただ人々を救いたかっただけなのです。しかし、あなたは――」 その言葉に、新たな記憶の断片が走る。御山の里。疫病に苦しむ村人たち。そして、禁忌の術式を描こうとする楓の姿。 「人を生き返らせる術は、タブーだった」 言葉が自然と零れる。そう、楓は死者蘇生の術を試みようとした。しかし、それは陰陽師として最も忌むべき禁術。人の死は受け入れ、魂を正しく導くことこそが、陰陽師の務めなのだ。 「タブー?人の命よりも大切なタブーがあるというのですか!」 楓の叫びと共に、怨念の炎が大きく揺らめく。その炎は楓の感情と共鳴するように、より激しく燃え上がっていく。 「私の弟は、あなたが止めさえしなければ...!」 弟。その言葉に、記憶が一気に蘇る。楓の弟、紅葉(こうよう)。疫病に倒れ、死の淵にあった少年。楓は弟を救うため、禁術に手を染めようとした。そして僕は――。 「術式を壊し、紅葉の魂を浄化した」 「浄化?私の弟の魂を、強制的に黄泉に送ったと言うのです!」 楓の憎悪に満ちた声が響く中、怨念の巨人が再び動き出す。今度は両手から赤い鎖が伸び、僕の体を締め上げていく。 「っく...!」 痛みで意識が遠のきそうになる。しかし、それ以上に心を締め付けるのは、蘇りつつある記憶だった。 確かに僕は、楓の禁術を止めた。いや、止めるだけでは済まなかった。禁術に染まった楓の心さえも、強制的に浄化しようとした。その結果、彼の中に強大な怨念が生まれ、そして――。 「覚えていますか?私が怨霊と化そうとした時、あなたは私を封印した。そして自らの記憶も封印し、私たちは地獄に幽閉された」 「自分の...記憶を?」 「そうです。私への共感か、罪悪感か。あなたは自身の記憶を封印し、私と共に地獄で罪を償おうとした。なんという傲慢さでしょう」 赤い鎖が更に締め付けを強める。視界が徐々に暗くなっていく。このまま意識を失えば、僕の命は――。 「午…!」 かすれた声で呼びかけると、黄金の馬の姿をした式神が現れた。しかし、既に体力は限界。式神を操る霊力も、残りわずかしかない。 「無駄ですよ、夜見野殿」 楓の声が遠くから聞こえてくる。 「あなたは私の心を浄化しようとした。しかし皮肉なことに、それは私の中により強い闇を生み出した。その闇は今や、あなたの光をも飲み込もうとしています」 その通りだ。陰陽師として、僕は正しいことをしたはずだった。けれど、その行いは楓の心をより深く傷つけ、取り返しのつかない結果を招いてしまった。 「楓...」 「何です?最後の言葉ですか?」 「僕は...間違って...ない」 絞り出すような声に、楓の表情が僅かに揺らぐ。 「この期に及んで、まだそんなことをいうか!」 「いいえ...」 鎖の締め付けに耐えながら、僕は続ける。 「確かに禁術は...許されない。でも、弟を想う気持ちは...否定するべきでは...なかった」 楓の瞳が揺れる。怨念の炎も、わずかに揺らめいた気がした。 「人の死を受け入れ...魂を導くのが陰陽師の務め。でも...それは決して...感情を否定することでは...ない」 午が、僅かに残った霊力を受けて輝きを放つ。その光は、かつて僕が使った浄化の光とは違っていた。押し付けるのではなく、受け入れるような、優しい光。 「君の...想いを...否定せず...受け入れるべきでした」 光は楓と怨念の双方を包み込んでいく。しかし、それは以前のように強制的に浄化を試みるものではない。ただ、その場に存在する全ての想いを、受け入れようとするかのような光だった。 「うっ...」 楓が胸を押さえる。怨念の炎が大きく揺らめき、僕を縛る鎖が緩んでいく。 「な...何を...」 「浄化では...ない。共感...です」 光の中で、楓の姿が変化していく。憎しみに歪んでいた表情が、かつての優しい表情を取り戻していく。 「私は...私は...」 楓が膝をつく。怨念の炎は徐々に収束し、巨人の姿が薄れていく。しかし――。 「ふふ...ふふふふふ...」 不気味な笑い声が広間に響き渡る。楓が顔を上げると、そこにはもはや穏やかな表情はなかった。狂気に満ちた笑みを浮かべ、眼鏡の奥の瞳が異常な輝きを放っている。 「弟?そんなもの、とうの昔に実験台として使い切りましたよ」 「な...何?」 僕の困惑した声に、楓は更に大きな笑みを浮かべる。 「あぁ、感動的な話に騙されましたか?不治の病に倒れた弟を救いたい兄の悲しい物語に」 楓はゆっくりと立ち上がる。その姿からは先ほどまでの苦悩の色が消え、代わりに冷徹な狂気が満ちていた。 「弟は私の最初の実験体でした。死の淵で苦しむ彼の魂がどう変容するのか。実に素晴らしいデータが取れましたよ」 「お前...弟を実験に...」 「そうです。そして彼は決して最後の犠牲者ではありません。御山の疫病も、私が放ったウイルスです。より多くの実験体が必要でしたから」 楓の告白に、僕の体が震える。怒りか、恐怖か、判別がつかない。 「疫病に苦しむ者、死の淵にある者。彼らの魂がどう歪むのか。怨念がどう育つのか。全ては私の研究のためです」 「お前は...善良な科学者だったはずでは!」 「ふふ、陰陽術など、私にとっては単なる研究材料。霊的現象を科学的に解明し、応用する。それこそが私の目的です」 楓は白衣のポケットから試験管を取り出す。中には漆黒の液体が渦を巻いている。 「この世の理を解き明かすには、いくらの犠牲も厭わない。人の命など、データの一つに過ぎないのです」 「化け物...」 「ははは!そうですとも。私は人の道を外れた化け物です。でも、それこそが科学者の本質ではありませんか?」 試験管を掲げる楓。漆黒の液体が不気味な光を放ち始める。 「さて、夜見野殿。あなたにも私の最新の実験に参加していただきましょう。この液体は、人の魂を強制的に外道に変貌させる触媒です。御山で集めたデータを元に作り上げた傑作ですよ」 「お前を...止めなければ」 「止める?無理ですよ。私の方があなたのことを研究し尽くしている。あなたの記憶を奪ったのも、全て計算済みです」 楓は試験管を自分の口に運ぶ。 「では、実験を始めましょうか。被験体A-13、観察開始」 「人の想いなど、所詮は脆いもの」 その声と共に、楓の体が痙攣を始める。彼の影が、不自然に揺らめき始めた。 「楓!」 駆け寄ろうとした僕の足が、突然止まる。影が、床一面に広がっていく。それは先ほどまでの赤い炎とは違う、漆黒の闇だった。 「私の支配下にある魂を、勝手に浄化されては困る」 声の主が姿を現す。黒い霧が渦を巻き、人の形を作り出していく。現れたのは、黒衣を纏った狼。しかし、その素顔は霧の中に隠れたままだった。 「冥王!!」 言葉が思わず漏れる。地獄を統べる存在――冥王の気配を、僕の体が本能的に察知していた。 「御山の陰陽師の長、夜見野彼岸」 冥王は僕の名を呼ぶ。その声には、どこか愉悦の響きが含まれているような気がした。 「この怨念は、私が育て上げた傑作。その想いを、簡単に消されてはかなわん」 黒い霧が楓の体を包み込んでいく。彼の瞳が再び赤く染まり始める。 「やめろ!」 必死の叫びも空しく、楓の体が宙に浮き上がる。黒い霧は彼の体の中に流れ込み、その姿を変えていく。 「うあああああっ!」 楓の悲鳴が響き渡る。彼の体が歪み、膨れ上がっていく。パーカーが裂け、白衣が闇に溶けていく。その姿は次第に人の形を失い、巨大な漆黒の獣へと変貌していく。 「見るがいい。これこそが、真の怨念」 冥王の言葉と共に、獣と化した楓が咆哮を上げた。その姿は巨大な狼。漆黒の体から赤い炎を纏い、瞳は血のように赤く光っている。 「困ったな」 呟きながら、残された式神たちに目を向ける。辰神将も巳神将も、まだ健在だ。午神将の力も、わずかながら残っている。 「もう、倒すしかなくないじゃないか…」 全ての謎が繋がり始める。全ては楓の計画だったのかもしれない。しかし、それを考えている暇はない。 獣と化した楓が、牙を剥き出しにして襲いかかってくる。その爪は、闇そのもので出来ているかのように、空間を引き裂いていく。 「未!申!」 新たな式神たちを召喚する。羊と猿の姿をした式神が現れ、即座に防壁を張り巡らせる。しかし、楓の爪は神聖な結界すら引き裂いていく。 「ふふ、面白い」 冥王が薄ら笑う。その姿は次第に霧の中に消えていく。 「存分に楽しむがいい。私の、私たちの...実験を」 04 冥王の姿が霧の中に消えていく中、獣と化した楓が咆哮を上げる。その声には、もはや人としての理性は感じられなかった。 「やめろ楓博士!」 呼びかける声に、獣は一瞬だけ動きを止める。しかし、すぐにその赤い瞳が憎悪の炎を灯し、再び襲いかかってきた。 「戌、亥!」 僕は即座に二つの式神を前に立たせる。獣の爪が闇の軌跡を描き、空間を引き裂いていく。その一撃を、かろうじて防ぎきる。 「これは...純粋な怨念とは違う」 戦いながら、僕は気付いていた。楓の体から放たれる力は、ただの怨霊の持つものとは明らかに異質だった。その中には、冥王の力が混ざっている。 「う...ぐぅ...」 獣の喉から、苦しげな唸り声が漏れる。その瞳に、一瞬だけ人としての意識が戻ったように見えた。しかし次の瞬間、より強い憎悪の炎が灯る。 「そうか...まだ完全体ではないんですね」 僕は扇を大きく開く。十二神将が、円陣を組むように配置される。 「申」 猿の姿をした式神が前に出る。その手から放たれる光が、獣となった楓の体を包み込んでいく。 「ギャアアアアッ!」 獣の悲鳴が響く。しかし、それは苦痛の叫びではない。むしろ、解放を求めるような響きを持っていた。 「お前には...お前にはそんな権利は...!」 人の声と獣の咆哮が混ざったような声。楓の意識が、まだ完全には闇に飲み込まれていないことを示していた。 「権利?」 僕は静かに問いかける。 「確かに、僕には楓さんを裁く権利なんてない。だからこそ...」 申の光が強くなる。それは浄化の光ではなく、ただ純粋に相手の心に触れようとする優しい光だった。 「認めてあげたいんです。楓の奥にある、優しい想いを」 光は獣の体の奥深くまで達し、その心の闇に触れていく。漆黒の毛並みが、少しずつ元の色を取り戻していく。 「や...やめろ!私の研究を...私の全てを否定するな!」 楓の叫びが響く。獣の姿が不安定に揺らめき、形が不安定に入れ混じっていく。 「否定なんかしません」 僕は歩み寄る。申の光は、より深く楓の心に触れていく。 「ただ...理解したいんです。楓の痛みも、怒りも、そして...寂しさも」 「寂しさ...?私が...寂しい?笑わせる」 獣の姿が徐々に獣人の形に戻っていく。しかし、その過程で楓の表情に苦悶の色が浮かぶ。 「科学者に感情など...データ以外に価値などない...それなのに...」 楓の声が震える。彼の瞳から、大粒の涙が溢れ出す。 「なのに...なぜ、こんなにも...胸が痛むんだ...」 完全に狼獣人の姿に戻った楓が、膝をつく。その灰色の毛並みは荒れ、白衣は引き裂かれていたが、狂気に満ちた姿とは違い、どこか哀しげな表情を浮かべている。その周りを、申の光が優しく包み込んでいる。 「楓...」 僕が近づこうとした瞬間、異変が起きた。楓の影から、突如として黒い霧が噴き出したのだ。 「おや、これは予想外」 冥王の声が響く。霧の渦の中から、再び黒衣の男が姿を現す。 「まさか、私の力を振り払うとは。面白い...実に面白い」 冥王の口調には、怒りではなく純粋な興味が込められていた。それはまるで、予想外の結果を得た研究者のような響きだった。 「ここまでか?」 楓は弱々しく笑う。彼の体が、徐々に透明になっていく。 「力の反動で...魂が冥府に消えて…」 「都合が悪いことから逃げるな‼」 僕は慌てて駆け寄る。しかし、楓の体はもはや触れることすらできないほど希薄になっていた。 「ふふ...夜見野彼岸...今回はどうやら私の...」 楓の獣人としての瞳から、また涙が零れる。尖った耳が悲しげに垂れ下がり、尾も力なく地面に付いている。 「夜見野くん...またいずれ...」 その言葉と共に、楓の姿が完全に消え去った。残されたのは、一枚の眼鏡だけ。 「見事な最期だ...悠久の果てに、再び我が悪魔として転生させてやろう」 冥王が静かに告げる。 「だが、これで実験は終わりではない」 黒衣の男は、楓の眼鏡を手に取る。その瞬間、眼鏡が黒い炎に包まれ、形を変えていく。 「むしろ...本番はここからだ」 冥王の手の中で、楓の眼鏡が禍々しい黒炎に包まれていく。炎は次第に形を変え、細長い刀の形となった。刀身には狼の紋様が浮かび上がり、柄には楓の眼鏡のレンズが埋め込まれていた。 「これは...残留思念体の付加術!」 「そう、彼の執念が具現化したものだ。科学者としての冷徹さと、獣人としての野性が融合した究極の力」 冥王は刀を掲げ、その刃を僕に向ける。黒い刀身が、まるで生きているかのように脈動している。 「子!」 即座に白い鼠の式神を呼び出すが、冥王は微動だにしない。 「夜見野彼岸」 冥王の声が、重く響く。 「お前は強大な霊力を持つ陰陽師。しかし、それは諸刃の剣」 黒衣の男は、ゆっくりと歩み寄ってくる。その足跡には、漆黒の霧が渦巻いている。 「強すぎる光は、それだけ濃い影を生む。お前の清めの力こそが、あの狼のような怨霊を生み出す源なのだ」 「っ!」 その言葉に、僕は思わず後じさる。確かに、楓を浄化しようとした行為が、逆に彼の心を深く傷つけ、怨霊を生み出す結果となった。 「さぁ、お前の力が生み出す闇を、存分に味わわせてもらおう」 冥王が黒い刀を振り下ろす。その瞬間、広間全体が濃密な闇に包まれていった。