【小説】海外旅行に行くのにおねしょおむつが取り替えられないお話(前編)
Added 2023-09-19 10:30:00 +0000 UTCお風呂から上がったあと部屋着のスウェットに着換え、鏡台の前で髪を乾かしている時、夜の10時を過ぎたことに気がついた。階段の下から母親の声が聞こえてきた。
「優衣、今日は早く寝るのよ、明日早いんだから」
「分かってるって、髪乾かしたらすぐ寝るから!」
母親は少し過保護だ。確かに私は身長こそクラスメイトよりも少し低いが、あと半年でランドセルを置いてセーラー服を着るというのに、まだ私のことを幼稚園児とでも認識しているようだ。でも今日に限ってはその心配も分からなくはない、なにしろ明日から4日間、生まれて初めての海外旅行へ行くのだから。ちなみに行き先は台湾だ。沖縄よりも南なので今の時期でも暑いくらいなのだろう。
勉強机には明日着る服と真新しいパスポートが置かれている。服は少し大人っぽく白のブラウスとネイビーのジーンズを選んだ。パスポートをめくると、髪をポニーテールに結んだ自分の顔写真が印刷されており、アルファベットで【Yui Kimura】と印刷された下には、まだ少し歪な自筆の名前が印刷されている。
(私、明日初めて海外に行くんだ。クラスの友達よりも私の方が一歩大人ってことだよね)
楽しさがまた湧き上がってくる。旅行先のことはよく調べたし、お土産に何を買おうかももう考えた、家族全員分の荷物はもう車に詰めてあるので明日は家を出るだけだ。後は早く眠り、体調を万全にしておかなくてはいけない。私はパスポートを閉じ、寝るための大事な「着替え」を始めた。
部屋着のスウェットを脱ぎ、次に惜しまれつつも布のパンツも脱いだ。そしてタンスの横に置いてある、ランドセルと同じくらいの大きさのビニールのパッケージから、その歳にしてはやや幼いデザインと機能を持った、もう3つ下の妹もとうに使っていない下着を取り出した。それは世間一般には「おむつ」もしくは「おねしょパンツ」と呼ばれている。そう、私はこの歳にして、まだおねしょが治っていないのだ。
(クラスのみんなより、大人! 私は明日からみんなより大人になるの!)
そういくら念じたところで下腹部を覆うピンク色をした夜専用のパンツは、おねしょが治っていないお子様がそこにいることを如実に表していた。寝る前に水を沢山飲んで、我慢に我慢を重ねたおしっこを出し切っても布団を全く濡らさずに守ってくれる不織布のふかふかした感触は、安心感こそ抜群だがまだ夜のお守りが必要な証でもあった。私だって夜も布のパンツ、いわゆる「お姉さんパンツ」で過ごしたいが、そんな見栄を張ったところでベッドも布団も大惨事になるのは火を見るよりも明らかだ。まるで遊園地で、身長制限のために乗れないアトラクションの前にいるような気持ち。朝、私の失敗を顔色変えず笑顔で受け止めてくれるカラフルに印刷された人気キャラクターも、この時ばかりは少し嫌になる。それでも、無地の味気ないものよりはずっとましか。
ベッドに入り、リモコンで部屋の電気を切った。暗くなればお姉さんパンツもおむつも見えなくなるのだ。
*****
気がつくと、私はどうやらどこかに座っていたようだ。右を見ると自分の顔と同じくらいの四角い窓があり、その下には白い雲が見え、海面には雲の影が写っていた。ここは飛行機の中か、随分長く眠ってしまった、今はどこの海の上を飛んでいるのだろう。そう思うや否や世界が激しく揺れ始めた。
「ただいま乱気流を通過しています、皆さまご着席の上シートベルトをお締めください」
私は全身に力を込め気流が落ち着くのを待った。しかし、揺れは一向に納まらず、先ほどまで下に見えていた雲は自分の遥か頭上、今や海が目の前に迫ってきていた。水面に激突すると思われた瞬間、ふと揺れが収まり、辺りが静寂に包まれた。
(着水、こんなに静かに?)
それ以上のことを考える間もなく、足元から水が上がってくるのが分かった。自分の足の裏が濡れている。いやそれどころではない、水位はどんどん上がり膝、そして顔まで上がってついには息もできなくなった。
(もう、ダメ)
そこで視界が暗転した。
*****
階下からの騒がしい音で目が覚めた。階段を急ぎ足で上がってくる音が聞こえる、おそらく母親だろう。
「優衣、早く起きなさい。今すぐ出発するから!」
母親に揺すられ目を開けると、時計は朝6時を指していた。飛行機の離陸時間は、確か8時過ぎだ。
「ごめん、父さんも母さんも寝坊しちゃった。とにかく今すぐ出発するわ、着替えは車の中で、朝ごはんも空港でなんとかしましょう」
母親はそう言うと勉強机に置かれた服を手に取り下へ降りていった。私もパスポートとバックパックを手に、母親に続いてパジャマのまま車へ移動した。スライドドアを開けると奥には妹が、運転席には父親がすでに座っていて、車はすぐに出発した。
バイパスに乗った辺りで着替えることにした。確か今は後部座席でもシートベルト着用がルールなのでこっそりと。そして着替るためにパジャマのボタンを外した辺りで気がついた。
(やば、今日は結構失敗しちゃってる! きっとあの夢のせいだ)
ひと晩中の失敗を受け止め続けたおむつは、履く前よりも一回りも大きく膨らんでおり、その仕事を完璧にこなしていた。昨晩と違い、今は印刷されたキャラクターが妙に頼もしく思える。吸収体は前側のわずかを残して使い切ってしまっていて、こんなに濡れてしまっていては、通気性も何もあったものではない。とたんにお尻に広がるぐっしょりとした感覚がはっきりしてきた。いますぐ取り替えたいが、妹の手前少し気恥ずかしい。第一、変えるべき布のパンツが見当たらない。
「お母さん、パンツ持ってきてる?」
「朝部屋に落ちてたやつ?私は机の上の服しか持ってきてないわよ」
不覚だった。おむつに履き替える時にきちんとたたんで机の上に置いておけばよかった。残りのパンツは後ろに積まれたスーツケースの奥底にあり、今は出すことができないし、バックパックにパンツは入れていない。ひとまず空港に着くまではおねしょおむつで我慢だ。座ったままジーンズに履き替え、シートベルトをつけ直した。デニム生地と身体に挟まれたおむつは、その膨らんだ吸収体をしっかりとアピールしていた。
思えば朝起きてから、まだ一度もトイレに行けていない。幸い水も飲んでいないが、あんなに失敗した後なのに身体の中にはまだ結構残っているようだ。昨日の夜、暑いからといって麦茶を飲みすぎてしまったのかもしれない。まだしばらくは我慢できそうだが、もしもまた失敗したら今履いているおむつでは、さすがに受け止めきれない。吸収しきれなかったおしっこは、おむつの最後の防衛ラインである不織布のギャザーを乗り越え、せっかくのジーンズを濡らしてしまうだろう。もしかしたら足元に水たまりを作ってしまうかもしれない。
車は高速道路のトンネルの中を走っていた。空港が見えないどころか、今どこを走っているのかすらよくわからない。
「お父さん、あと何分くらいで着く?」
「あと15分くらいだと思うよ」
あと15分か、際どいが間に合うだろう。搭乗手続きだけでなく、トイレにも。意識し始めるとより尿意が強まってきた。
(おしっこ…おしっこ行きたい…)
私はいつの間にか両手でジーンズをぎゅっと押さえつけていた。圧力がかかっていると多少気が紛れたが、膨らんだ吸収体はより一層身体に押し付けられ、その余力がほとんど無いことを暗に伝えてきた。
「お姉ちゃん、おトイレ行きたいの?」
妹が心配そうに小声で訪ねてきた。思いやりがあるのは良いことだが、こっちの余裕の無さも察してほしい。ただでさえ、妹はお姉さんパンツ、私はおねしょおむつで劣等感を感じているのだから。
「ううん、まだまだ全然大丈夫よ」
ここで虚勢を張っても全く意味がないのについ余裕があるよう見せてしまう。声は少し引きつっていた。
車はいつの間にか海沿いの工業地帯を通る高速道路を走っており、遠くに管制塔のシルエットが見えてきた。空港が近づいていることが分かった。
(早く…もう漏れちゃう…)
駐車場の発券所でのわずかな停車すら長く感じた。やがて車のギアがリバースに入りビープ音とともに、車の後部タイヤが縁石にあたる感触があった。家を出てからまだ1時間と経っていないのに、半日の大移動にすら感じられた。
トランクから二つの大きなスーツケースを父親が降ろしている。私と妹と母親の着替えは右側の方に入っている。今や旅行のことよりもトイレと着替えの方が優先順位が高かった。おむつも替えたいが、それより前にトイレにいって自分の中の貯水槽が溢れる前に開放してあげねばならない。
「ごめんお母さん、ちょっとトイレ行きたいから先行ってる! 終わったらここのターミナルのカウンターに行くから」
「あっ、ちょっと!」
返事を聞く余裕もなく私は走った。全速力のつもりだったが傍から見れば、きっと小走り程度の速さだ。駐車場とターミナルをつなぐ渡り廊下に差し掛かると、あの見慣れた赤と青のピクトグラムが目に入った。
(よし、なんとか間に合う!)
ようやく安息の地にたどり着けたが、折しも今日は連休初日の朝。無情にも個室のドアは全て閉まっていた。
(早く…早くぅ………)
たまらず両手で前を押さえてしまう。周りの目線が気になるがそれどころではない。すでに自分の我慢は限界に近かった。コップに満杯の水が表面張力だけでかろうじて溢れていないような状態だ。無情にもそのコップには今も水が一滴ずつ注がれている。
(じゅ……じゅわ……)
すでに決壊が始まりつつあった。おむつにわずかに残った吸収体もしっかりと膨らんでいく。しかし、ひと晩中のおねしょに朝のおもらしまで少ししてしまっても、まだおむつとしての役割を保っていることは今や奇跡的だった。
ようやく個室に入れると鍵を閉めるのと同時にジーンズとおむつを一緒に降ろし、我慢を開放した。
(か、かろうじて間に合った……あと3分遅かったら本当にヤバかった……)
視線を下にやると、黄色く染まった吸収体が目に入った。幸いジーンズは無傷のようだ。おむつに印刷されたキャラクターは頼もしいどころか、私の足りないところを埋めてくれる相棒のようにすら思えた。昨日はあんな風に思ってごめん。
長い我慢と少しのトラブルがあったが、もたもたしてはいられない。ここからは気を取り直して行かなければ。私はあと数分で取り替えるおむつと無傷のジーンズを引き上げた。
航空会社のカウンターの前へ戻ると、母親と妹だけが待っていた。父親と2つのスーツケースはどこへ行ったのだろう?
「あれ、お父さんは?」
「今チェックインカウンターで荷物預けてるわよ」
「えっ、ちょっと待って!私のパンツは?」
「あらやだ、すっかり忘れてたわ! 優衣まだおむつのままだったわね」
「あんまり人前でそれ言わないでよ! 気にしてるんだから」
本日二度目の不覚である。旅先に着くまでおねしょおむつ決定だ。
おむつはもうただの一滴も吸収できないほど膨らんでしまっている。よく考えれば失敗したら大惨事なのはお姉さんパンツでも全く同じなのに、私は焦燥感に駆られていた。
(続く)