〜プロローグ〜
「すいません、お先に失礼します」 この保守的な会社にもようやく働き方改革が浸透してきたとはいえ、上司や同僚を置いて先に帰るときの挨拶は小声になりがちだ。週明けのテレワークのためにラップトップパソコンを鞄に入れ、席を立った。今日は短納期の案件に振り回されて、いつも以上に疲れとストレスを感じていた。 (よし、今日は【アレ】するぞ) 俺は高鳴る気持ちを抑え、できるだけ目立たぬようオフィスを後にした。会社の外に出ると、外はもう真っ暗になっていた。ついこの間までは帰宅する時でも明るかったのに、秋分をすぎると陽が落ちるのも早い。猛暑もようやく落ち着き、身体に当たる秋風が心地よい。俺は足早にオフィスの最寄り駅へと向かった。 帰宅ラッシュの時間帯の駅はいつも通り混雑していたが、幸い改札内にある多機能トイレは空いていた。本来の利用者を差し置いて、健常者の自分が利用することに申し訳なさを感じつつ、ドアが施錠されたことを確認した。鞄の中には先ほど入れたパソコンと、いつも隠し持っている灰色で中が見えないジッパー付きのビニール袋がある。ジッパーを開けると、およそ若手サラリーマンが着用するのにふさわしいとは思えない、可愛らしいデザインの「紙おむつ」が現れた。家ではほとんど毎日履いているのに、外で見ると改めてその可愛すぎるデザインに、恥ずかしさと背徳感と、胸の高鳴りを改めて感じる。全面にうさぎをモチーフにしたキャラクターがあしらわれており、ちょうど自分のへその少し下辺りには「Bigより大きいサイズ」と書かれている、いかにもお子様用と言ったデザインだ。俺はスラックスとトランクスを脱ぎ、標準体型の自分が無理なく履ける子供用のサイズがあることに感謝しながら、その紙おむつに履き替えた。さすがにローライズ気味ではあるが、適正体重を大きく超過しているにも関わらず千切れること無くしっかり身体にフィットしているのはもはや奇跡的ですらあり、この商品の開発者には感謝の念を禁じ得ない。トランクスの素っ気無い感触とは違い、ふかふかで安心感のある履き心地に仕事のストレスも溶けて無くなっていくような気分になった。 先に断っておきたいが、俺は決して何か身体に不自由があっておむつを履いているわけではない。いつ頃からか性癖が斜めになってしまっただけで、至って健康であるし、ただ子供用おむつが好きなだけで、特段子供に対してそのような欲求があるわけでもない。一般的に独身男性のストレス発散方法は、スポーツやスマホゲームをしたり、もしくは夜のお店に行くことなのだろうが、それがたまたま子供用のおむつになってしまっただけなのだ。理由は未だにはっきりと分からないのだが。 スラックスを履き直し、念のため鏡を見た。よほど目を凝らして見なければ目の前の鏡に写ったサラリーマンがおむつを履いていることなど分からないだろう。俺は多機能トイレから出て、電車に乗った。履いたばかりのおむつはまだ乾いたままだ。すぐに濡らしてしまっては、万が一何かあったときに言い訳もできないし、周りの乗客に迷惑がかかるやもしれない。それになにより、このサラサラ感をすぐに損ねてしまうのは惜しい。家に帰った後、何回かに分けて濡らしていき、リアル感を出していくのが俺の楽しみ方だ。 各駅停車しか止まらない駅から十分程度歩いた辺りにある、アパート二階の一室が俺の家だ。郵便受けに何も入っていないことを確認し、ポケットから鍵を出しながら階段を上がった。二階の廊下が視界に入ったところで、自室のドアの前に誰かが体育座りをしているのが見えた。 誰だあれは? 見たところ女性、いやそれよりは少女と言ったほうがよい体格で、白っぽいパーカーと紺色のハーフパンツを着ている。気づかれぬよう階段を後ろ歩きでゆっくりと降り、あの少女が誰であったか脳内のデータベースを全力で検索した。自分の同級生にしては少し幼すぎるし、親族の子供はまだ幼稚園児だ。もしかして、何か助けを求めて? それならば交番に駆け込む方が早いし確実だろう。心当たりのある人物は全く思い当たらなかったが、いずれにしてもこのままでは部屋にも入れない。直接話すか、警察を呼ぶしかないが、夜の住宅街にサイレン音を響かせるのは避けたい。俺は意を決して、あの見知らぬ少女に話しかけることにした。 再び階段を上がると、今度は少女がこちらに気づいて立ち上がった。背は自分の胸くらいまでしかない。肩にかかるくらい長さの髪は黒く艶があり、健康的な感じだ。そして、少女の年齢よりも少し幼く見えるデザインの、ウサギの形をした髪留めを付けている。俺は口を開いた。 「あの、すいません。ここは私の部屋なのですが…」 少女が答えた。 「わー! やっと会えた、タカハシ君だよね! 最後に会ってからもう何年かな、ずっと会いたかったんだよ?」 いきなり自分の苗字を言われ驚いてしまった。こちらのことを知っているということは、やはり昔の同級生か? 「あの、私が忘れてしまっていたら大変申し訳ないのですが、昔のクラスメイトの方ですか?」 少女はいたずらっぽく笑いながら答えた。 「うーん、まあそんな感じかな? タカハシ君、あんなに小さかったのにこんな立派になっちゃって! 確か国立の大学に進学して その後は大きい会社に入ったんだよね? 昔なんかよくおもらししてたの覚えてるよ。幼稚園の時の音楽会とか、小学校の時の遠足とかでも失敗しちゃってたよね?」 進路はともかく、どうして出てくる思い出がそんな黒歴史ばかりなんだ。もう少しマシなものがあるだろう。 「待ってください、なんでそんなこと知っているんですか?」 「君は私のことを忘れちゃってるかもしれないけど、私はたっくんのことちゃんと覚えてるよ。とりあえずせっかくここまで来たんだし、家に上がらせてよ」 昔のあだ名まで知っているようだ。面識の無い人間を家に上げるのは気が引けたが、目の前の少女は本当に自分が忘れてしまった昔の同級生なのかもしれない。だとしたら、せっかく会いに来てくれたのに無下に追い返するのはさすがに失礼だろう。危害を加えて来そうな感じも見られないし、同級生なら家に上げても犯罪にはならないはずだ。俺はドアを開けた。 「散らかってて申し訳ないですが…」 「大丈夫、気にしないから! それとその取引先と話すみたいな口調やめてよ、リズム狂っちゃう」 彼女はすたすたと部屋の奥へ入っていく。まるでもう間取りを知っているかのようだ。 「あー、すいません。えっとね、ちょっとまって、分かった。じゃあ、今からはタメ語で話す、とりあえずここ座ってて。お茶でも入れるから」 俺は座卓の上に積まれた雑誌の束をどかしてスペースを作りキッチンへ行った。電気ケトルに水道水を入れつつ横目で後ろを眺めると、謎の少女はすでにくつろぎモードに入りつつある。いくら昔の同級生とは言え、初めて来たところでそんなにリラックスできるものなのか、自分にはまだガールフレンドがいたことがないから分からないが、女子とはそういうものなのか? 俺はティーバッグの入ったマグカップにケトルからお湯を注いだ。 「へー、アールグレイとか飲むんだ。部屋の汚さの割にオシャレなもの飲むんだね」 「別に何飲んだっていいだろ」 「ごめんごめん」 昔の同級生かもしれない彼女は笑いながら謝った。これ以上彼女のペースに持っていかれる前に、これだけは確認しておかなければならない。 「それでさ、まだ聞いてなかったんだけど、君は、幼稚園か小学校の頃の同級生なんだよね? 名前教えてよ」 彼女は少し考えてから答えた。 「そうね。私の名前はね、ウサダミツキ。兎の田んぼでウサダ、満月と書いて、ミツキね」 兎田満月。そんな名前の同級生はいただろうか? 自分の苗字が高橋だから、あ行の苗字ならそれほど出席番号は離れていないはずだ。だが、どの学年の時を思い出しても「ウサダ」という苗字には心当たりがなかった。 「あと、ごめん! 君の事はずっと昔から知ってるけど同級生じゃないの!」 また頭が混乱してきた。親族でも同級生でもないのに名前や進路だけでなく黒歴史まで知っている昔からの知り合い? お前は一体何者なんだ? 「まあ忘れてても無理はないよね。毎日会っていたのは、産まれてからの数年間で最後の方は夜だけだし、最後は確か九歳の冬の夜に二回、三回だったかな? まあ就職してからはほとんど毎日見てるんだけど…」 「ごめん、まだ全然分からない」 「私的にはそろそろ察してくれても良いんだけどな。そうね、じゃあもっと直接的に言うしかないか…」 彼女は片目をつぶりながら左手の人差し指を俺の方へ指し、こう言った。 「キミ、今おむつ履いてるでしょ」 突然の爆弾発言、それも図星だ。予想外のタイミングで自分の一番知られたくない趣味を指摘されてしまい、声が出なくなった。すぐに恥ずかしさが込み上げてきて、顔から火が出そうな気持ちになった。 「やっぱりそうか! じゃないと私のこと見えない筈だもん。あ、あと安心してほしいんだけど、上手くズボン履けているから私以外の人は気づいてないと思う! 昔はズボン履くのにも苦労してたのにすごい成長だ」 彼女はうんうんと満足そうに頷いている。こっちは思い出したくないような思い出ばかりほじくり返されて、恥ずかしさで頭がおかしくなりそうだ。第一、おむつを履いていないと彼女のことが見えないとはどういうことだ? だが、これまでの話の流れで、ある仮説が浮かんできた。名前も進路もトイレの失敗の黒歴史も知っている、小さい頃は毎日、大きくなってきたら夜だけ、その後は就職後毎日見られている、もしかして彼女は…。 「やっと気づいたみたいだね」 少し改まった表情でこちらを見つめる。 「私はね、おむつの精霊なの」
*******
いきなり目の前に現れた少女に「実は私はおむつの精霊なんですよ!」などと言われて信じられる者がいるだろうか? まだ半信半疑の俺に彼女は言った。
「だよね〜、やっぱりすぐには信じられないよね。了解、今からその証拠を見せるから、ちょっとインターネット出せる?」
ネットで調べれば何か分かるというのだろうか。俺は怪訝な表情を隠せないままタブレット端末でブラウザ画面を開き彼女へ手渡した。
嫌でも距離が近づく。改めてその顔をじっくりと見ると、とても可愛い。有り体に言えば自分のタイプの顔立ちだ。髪からは、桃のような甘く清潔感のある香りがした。
「見て、このページ」
彼女はあるウェブページを開いた。俺の今履いているウサギのデザインのおむつを作っているメーカーのホームページだ。
「ほら、ここ。横にスクロールできるでしょ」
そのページには絵本のような絵柄で、ある物語が書かれていた。内容を読むと、どうやら産まれたばかり赤ちゃんには遠い星からやってきた二羽のウサギがやってきて、色々お世話をしてくれるらしい。赤ちゃんの成長とともに徐々に見えなくなってしまうけれど、いつでもそばで見守ってくれている、とのことだ。
「どう、分かった? この二羽のウサギのうち、元気でおせっかいな方が私ってコト!」
「ちょっと待ってくれ、俺はまず赤ん坊ではないし、お前の姿はウサギではないだろ!」
ツッコミどころが満載だ。
「赤ん坊じゃないって、その下着でそんなこと言われても説得力ないなあ。いい? この物語にはちょっと脚色があって、正確には子供用のおむつを履いている子には精霊が現れて成長を手助けしてくれるってことなの。このホームページでは二頭身の白いうさちゃんだけど、その姿はおむつを使っている人によって変わるのよ」
「だから、俺の前では若い女性の姿ってこと?」
「大体そんな感じ。まあ、まず成人男性の成長をサポートをするために現れることなんてめったにないんだけど」
まだ頭の中には沢山のクエスチョンマークが残っているものの、内心こんな可愛い女の子が一緒に生活してくれるのなら正直悪くないのでは、と思いながら俺は言った。
「わざわざサポートしてもらわなくても俺はちゃんと生活できてるよ」
「この部屋の散らかり具合からして、健康的に生活できてるようには見えないけどな。仕事だって、大変なんでしょ?」
俺の足元にはエナジードリンクの空き缶が転がっている。そもそもこの趣味にハマってしまったのも就活と仕事のストレスによるところが大きい。第三者から見て、あまり褒められた状態でないことは俺にでも分かっていた。
「少し甘えて、それからまた成長していけばいいんだから! それまでの間、私がサポートしてあげる」
「そこまで言うのならまあ、無くは無いかな。で、実際のところサポートって何してくれるの?」
散らかった部屋を見渡しながら彼女は言った。
「そうね、まずは部屋を片付けて、自炊も仕事もできるようにしてあげる。最終的には二度目のおむつを卒業して、彼女作って結婚できるところまでなったら、私の事も見えなくなるんじゃないかな」
「そんなこと本当にできるのか?」
「精霊の力ってすごいんだから! もちろん、本人のやる気次第ではあるけどね」
ここまでの話からすると、にわかには信じがたいものの彼女がおむつの精霊というのは、どうやら本当のようだ。それに生活が荒れがちなのは事実だし家事を手伝ってもらえるのは純粋に助かる。数日間いてもらって、不都合があれば、塩でも撒いて出ていってもらえば、多分、大丈夫だろう。多分だが。
「分かった。そこまで言うならしばらくは家にいてもらってもいいよ」
半ば観念、少しドキドキしながら俺は答えた。いいか、変な気を起こすんじゃないぞ、俺。
「ねえ、今、変な気を起こすんじゃないぞ、って自分に言い聞かせたでしょ、そういう顔してたよ? その点なら大丈夫。ちゃんと大きい赤ちゃん向けの対策があるから!」
対策とは一体なんの事だろうか。
「そうね、じゃあまず、腰にバスタオルを巻いてからズボンを脱いでみて」
俺は言われた通りに風呂場から持ってきたバスタオルを腰に巻き、スラックスを脱いだ。タオルの下はおむつだけだ。
「おっけー。次は右手をパーにして身体の前に出して」
言われた通りに右手を身体の正面へ伸ばし、右手で、止まれ、とジェスチャーするようなポーズを取った。何かの儀式だろうか?
「いいね。ここに私の左手を当てるよ」
彼女は左手を伸ばした。俺と彼女の手のひら同士が触れた。自分より少し小さいが、血の通った温かい手のひらだ。
「よし、じゃあ手を下ろしていいよ。それで次はおむつ、脱いでみようか、ひとりでできる?」
「それくらい自分でできるから!」
俺は少し震える手でゆっくりとおむつを脱いだ。バスタオルの下にはもう何も着ていない。ただでさえ恥ずかしいのに、精霊とはいえ女の子の前だ。冷静ではいられなかった。
「ふふ。おむつ脱ぐくらいで恥ずかしがっちゃって、かわいいね」
「そういうの、いいから!」
思わず中学生みたいな反応をしてしまう。
「よし! じゃあさっきと同じように手を出して、私の手に当ててみて」
おとなしく従う。さっきと同じように彼女と手を合わせようとしたが、うまく合わせられない。触れようとしても、触れる感覚が全くしない、まるで虹を掴もうとしているかのようだ。慌てて俺の手と彼女の手を見てみたが、透明になっているわけではない。
「分かった? 基本的にキミが私に触れられるのは、おむつをしっかりと身に着けているときだけ。今までの習慣を見ているとそんなことはしないはずだけど、寝込みを襲おうとしても無駄だからね」
一体どういう原理なのかは全く分からなかったが、とにかく彼女と生活する間はおむつを履いていないといけないらしい。
「全然分からないけど、分かった。とりあえず家にいるときは履くようにしておくよ。もうバレてると思うから言うけど、一人暮らし始めてからは大体ずっとそうだったし」
「飲み込みが早くて助かるわ」
「あとさ、ご飯とか服とかはどうするの? 俺、女子の服とかないけど?」
「私は精霊よ、ご飯は食べても食べなくても大丈夫だし、外見だって人間用の服くらい自由自在に変えられるわ」
「分かった。まあでも一人で黙々と食べるのもなんだか申し訳ないし、ご飯は2人分用意することにしようか。あと最後に、名前は何って呼べばいい?」
「優しいところも変わってないのはうれしいな。これから私のことは、ミツキって呼んでね」
彼女は心底嬉しそうな表情をする。こっちの女子への耐性は中学生で止まっているのだ、いちいち心臓に悪い。
「ふふ。じゃあ早速、簡単に作れる晩ごはん教えてあげる。食べ終わったら今日はもう寝ようね、明日は部屋を片付けるから」
「分かったミツキ。まずはこれからよろしく」
「こちらこそ、改めてよろしくね!」
こうして、おむつの精霊と名乗る兎田満月と俺との同居生活が幕を開けたのだった。
池野くるめ
2023-10-29 07:20:47 +0000 UTCト
2023-10-29 06:40:03 +0000 UTC