デカチンポウイルス〜最初の感染者【プロローグ】
Added 2018-05-29 14:46:52 +0000 UTC窓のない部屋。不自然なほどテラテラしたリノリウムの白い床。天井の蛍光灯を反射してギラついているくらいに眩しい。 「ここが今日から俺のデスクか…。」 安い灰色の金属質のデスクが4つ向かい合って置かれている。そのどれもが薄っすらと埃っぽく、この部屋がしばらく使われていないことを表していた。 「あるとは知っていたけど、まさか俺がここに来ることになるなんてな。」 そう言って男は鼻を鳴らして笑った。 「庶務3課」というプレートがかけられた部屋にいるのはその男1人。総務部自体も人員削減の為に多くを派遣会社からの人員でまかなっているというのに、更にその中で庶務課の仕事など片手で数えるほどもない。内線がなるや、やれ蛍光灯が切れただの、ゴ◯ブリが資料室にいた、だの。そんな指令を受けても、それが仕事なのだからと重い腰を上げて向かうのが庶務の仕事と化していた。コピーだって今時庶務でやることではない。各フロアに何故か必ずいる「できることがない社員」が全てその場で処理してしまっているのである。 男はそんなコピー要員の社員をバカにして生きてきていた。都内のそこそこの大学を出て、営業として入社したこの国最大級の製薬会社。ドサ回りから始まり、いつしか医師や学者とのコンペのゴルフに駆り出されるようになり、その中で元来の器用さを巧みに利用して作り上げてきた人脈を活かし、仕事は順風満帆としか言えないまま30年。いつしか2課ではあったものの課長となり、営業部長の肩書までもう少しで手が届くところまで登り詰めたところで、男の全ての運は使い果たされてしまったかのようだった。 きっかけは、最も太い人脈を築いていたと信じていた大病院での医療事故。製薬会社である自分たちにはなんの落ち度も無いはずなのだが、マスコミや、世間がそれを許さなかった。 件の事故を起こした張本人である医師は今も外科部長の椅子に座り続け、その部下であった男が失意の内に「地方医療への貢献」を名目に陸の孤島のような公立病院に飛ばされた。 事故は結局、神の手などと呼ばれた外科部長のミスではなく、その補佐をしていた男と、そこに薬品をおろしていた男の勤める製薬会社が責任を被ることとなったのである。 「おっしゃっていることが…。」 「だからね、あそこの外科部長は前々から悪い噂があったんだ。それを部長補佐は散々君に警告していたそうじゃないか。なのに利益の為だけに強引にパイプを太くし続けた君が、我が社の中で1番責任を取るべき人間なのではないかなと、私は言っているだけだよ。」 「だから、私はそんな噂も聞いたことがなければ」 「沢村くん。君も男なら潔く身を引いたらどうなんだ?何もクビにしようと言うわけではない。少しの降格と、異動だけだ。給与はこれからも今より多少は減るだろうが、さほど変わらないよう手配するよ。」 「そういう問題では…。私は会社のために」 「会社のためだと言うなら、今すぐ君は営業課に戻り、自分の荷物をまとめて辞令に従うべきだと思うがね。」 それ以上は何を言っても無駄であることはわかっていた。 「少しの降格、ね…。」 営業部営業2課の課長から、総務部庶務3課の課長。同じ課長職であることから給与などの待遇はさほど変わらないのであろう。でも今までは数十人いた部下たちが、ここでは1人もいない。 いつしか窓際社員の行先の定番と化していた庶務3課に定住する者などいないのだ。自分が来るまで数年間1人もいなかったようだし、ここは言うなれば会社の墓場。俺は生贄にされたようなもんだな。そう思うと悔しさよりも自嘲しかこみ上げてこない。 「あの…私は何をすればよいでしょうか?総務の業務に携わるのは初めてでして…。」 隣の庶務2課に行って入り口近くに座っていた若いOLに尋ねる。 「あっ…じゃあ、お掃除していただけますか?あの部屋、もう半年位使ってなくて、掃除の方も入ってなかったみたいですから。」 そう言うと女はロッカーからバケツや雑巾を取り出し、遠慮がちに沢村に渡してきた。 「お手伝いしましょうか?」 「いえ、狭い部屋ですし、私1人で充分です。」 「そうですか。」 気まずそうな女に気を遣わせまいと、何事もないように振る舞うが、正直なんでこの俺がという気持ちが腹の底では煮えたぎっていた。こうなったら意地でもこの会社に居座り続けよう。それが唯一の慰めになるくらい、今の沢村には何もなかった。 沢村が庶務3課課長に就任してから半年が過ぎた日。家に帰るとダイニングテーブルには離婚届が置かれていた。 元々妻は強い女だった。そして沢村自身も気づかない沢村の落ち込みに気づいてフォローしようとしてくれた。しかしそのかいなく、沢村が持っていた若々しさやエネルギーが日に日に失われていくのが耐えられなかったのだろう。 「あなた、まるで別の人みたいよ。」 少し痩けた頬をさすりながら洗面所で髭をそっていると、いきなり声をかけられたのが庶務課に配属されて3ヶ月ほどたった頃であろうか。 「そうかな?」 「そうよ。なんだか顔色も悪いし、ご飯もちゃんと食べないし。」 「内勤になったからな。腹も減らないんだ。」 「土日は部屋でずっと引きこもってる。」 「接待に行く必要も無くなったからな。」 「仕事のことはどうでもいいの。なんだか見ていて心配なのよ。」 「ありがとう。でも大丈夫だから。」 「大丈夫な人間はそんな顔色してないわよ。」 「うるさいなっ!!」 「…。」 「…ごめん、怒鳴るつもりじゃ…。」 「いいの。私もいい大人のあなたにお節介だったわね。お互い自由で行こうって、結婚した時決めたのに。」 それがまともに交わした最後の会話だった気がする。 「ねえ。」 「なに?」 「離婚、してほしいの。」 「…。」 「ごめんなさい。でも、沈みっ放しのあなたといるの、私も辛いのよ。半年近く経ったのに、まだ自分でも自分のこと受け入れられてないみたいだし…。」 「お前に何がわかるんだっ!?」 思わず叩きつけた拳がダンッ!!と大きな音を立ててテーブルが揺れた。 「わからないわ。だから側にいるのが辛いの。友達みたいに適度な距離で、助けられることがあれば助けるから…。」 「…。」 「幸い、と言っていいかわからないけど、子供達ももう独立したもの。お互いいい距離で友人になれる気がするのよ。」 「…。」 「私のわがままよね。わかってる。でもずっと心配してきた私の声を聞いてくれなかったのは貴方でもあるのよ。私も辛かった。あなたドンドンくすんでいくみたいで…。」 「…わかった。」 「今日中には、ここ出るわね。一回実家に帰ろうかと思って…。」 「…わかったよ。荷物とかはどうする?」 「それは、おいおい。とりあえず今はお互い距離を取って、お別れの準備をしましょう。」 「お前は強いな。」 「強くなきゃ貴方の妻なんかやってられません。」 そう言って笑った顔を最後に見れたのがせめてもの救いだろうか。 「じゃあ、行ってくる。」 「行ってらっしゃい。」 そう言って握手して家を出てきた。 だからこのテーブルの上の離婚届を見たときは驚きはしなかったけれど、沢村は自分でも気づかないほどますます落ち込んでいた。妻からすれば自由を与えることで俺に新しく人生を歩いてほしいと言う願いだったんだろうなと思いながら、その気持ちを面倒だと感じてしまう自分がいる。 仕事の栄光をなくし、家族もなくした。もう失うものは何もない。強いて言えば命くらいのものか。でもその命は死ぬまでこの会社にしがみついて、最後の意地を通そうと言う怨念にも近い思いでドロドロと燃え滾っていた。 「おはようございます。」 庶務3課に入ったら誰もいないので、その手前の庶務2課に顔だけ出して挨拶して出勤の証人を作る。首から下げた社員証の電子チップがタイムカードと紐付けされているので、そんなことをする必要はないのだが、これも沢村の意地の一つだった。 「おはようございます。沢村さん。ちょうど良かった。」 庶務係長の痩せた男が声をかけてくる。 「ちょうどいい?」 ここに配属されて半年。俺がいなければいけない出来事なんて一つもなかった。給湯器の浄水器を変えたり、新入社員に配るマニュアルをホチキスで止め続けた日々の中で、必要とされることが久しぶりすぎて一瞬なんだかよくわからない。 「こちらが沢村さんです。沢村さん、この方は研究室の草岡さんです。新薬の研究をされてるんですよ。」 「沢村です。はじめまして。」 「草岡です。いや、噂通りの方ですね。」 「噂通り?」 「いや、庶務3課に配属されて半年以上ここにいた人はいないから、そんな豪傑がいたら是非教えてくれと庶務課には言っておいたものですから。」 なんだそれは。俺は見世物ではない。少しムッとしている沢村を舐めるように草岡という男は遠慮なく眺めた。 「うん、うん。いいですねえ。身長は177くらいですか?体重も、少しおちてるけど筋肉のバランスが良さそうですねえ。これならピッタリですよ。」 「お話が全く見えないのですが。」 営業を長らく続けた癖か、どんなに不躾な相手であっても沢村は微笑みを浮かべ社交辞令を述べることができる人間であった。 「いや、失礼。率直に言います。沢村さんに頼みたいのは治験です。」 「治験というと、薬の効能を試す?」 「はい。もう認可もおりたものですが、ちょっと特殊な薬でして…モニターを大々的に外部に集めることができないんですよ。」 「特殊な薬?」 流石に怪訝な顔になる。 「いや、危険なものではないんです。ただ…。」 そう言って草岡は沢村の耳元に口を寄せると 「男性器、つまりペニスをですね、増大させる為のものでして。」 と囁いた。