夏のおわり
Added 2020-08-10 13:01:10 +0000 UTC定時キッカリで仕事をあがった帰り道。西の空が夕焼けで燃えているようだった。夏の終わりは苦手だ。一番忘れたい記憶が、この季節と重なるから。そう、あの日も似たような空を見上げて歩いていた。今と違うのは隣にアイツがいないことくらいだ。 「ハルト〜、お前、民法のレポートもう終わった?」 「とっくに終わって提出した」 「はっ?嘘だろ?じゃあ俺はどうやって写せばいいんだよ」 「なに、しれっと写そうとしてるんだ」 「硬いこと言うなよ。俺、お前のことあてにしてたから何もしてねえよ」 このままじゃ単位を落とすと騒ぐ男は、大学の同級生のカイトだ。 「俺たち名前似てるね! 春のハルトと夏のカイトで」 そう言って初めてのゼミコンパで声をかけてきたのはカイトの方からだった。 「すまん。夏のカイトの意味がわからん」 俺は悪気のない無表情で冷静に返してしまってから、少し冷た過ぎたかもしれないと自身の対応に焦ったけれど、カイトはそんなことを全く気にしていないかのように続けた。 「カイトって海って書くんだよ。海って言ったら夏しかないっしょ?」 そう言ってニカっと笑う男に俺は一目惚れした。自分がゲイだということは高校生の頃からわかっていた。そして20になった夏の始まる少し前、俺は初めて恋に落ちた。 「ハルト〜、ゼミの発表って俺の番どこからどこだっけ?」 恋に落ちたからと言って、別にそれが成就するなんて思っていなかった。むしろ下手に距離を詰めることで、痛手を被るのではないか危惧した俺だったが、カイトの方は俺の思惑など知る由もなく、奇妙に俺に懐いてきた。 「ここからここだろ。お前メモくらい取っておけよ」 「ちげえよ、ハルトが女房役やってくれるから、つい頼っちゃうんだよな」 「女房役ぅ?」 「うん。俺、高校まで野球部だったもん。そんでもってピッチャー。そんときの相方だったキャッチャーの男もしっかり者でさ。なんか頼る癖が抜けねえのな」 日焼けした顔が黒っぽいのも、全体的にスポーツをしていた雰囲気も、野球をやっていた名残かと納得する一方、以前の女房役だったというキャッチャーの男に勝手に嫉妬の炎を内心で燃やした。そんな俺の汚れた内面と裏腹に、カイトの笑顔が眩しかった。 これでいいと何度も自分に言い聞かせた。これ以上を望むのは高望みだと。そのタガが外れたのは、カイトが一人暮らしの俺の部屋に泊まりに来ていた、3年生の夏の終わりのことだった。 「あっついな、この部屋。クーラー買おうよ」 「お前が買えよ。俺は扇風機で戦い抜くんだ」 「ハルトの部屋なんだからハルトが買えよ」 「部屋の主の俺がいらないって言ってるだろ」 夕飯を食い、アホみたいなやりとりをしながら俺は食器の片付けをし、カイトはダレて俺のベッドでパンイチ姿でスマホを見ていた。 「お前、人のベッドによくその格好で上がって堂々としてられるな」 台所から戻ってきてベッドを背に床に座りテレビをつける。 「んー、ハルトなら許してくれるかなって」 「別にいいけどさ」 そのままテレビの音に紛れて、俺は自分の心臓の音を落ち着かせていこうと試みる。なんでもないような振りをして会話を続けたが、好きな奴が下着姿で自分のベッドでごろ寝していたのだ。男なら反応しない方がおかしい。 「なー、ハルト」 「なんだ?」 「ちょっとこっち見てみ」 「なんだよ、今テレビ見てんだよ」 「いいから、ちょっとこっち見てみろって」 いい加減にしろよ、お前の姿は目に毒なんだよ! という言葉を飲み込んで、本当はすぐにでも振り向きたいのを悟られないように気怠げにノロノロと後ろを向く。するとそこにはパンツも下ろしてフルチンで俺のベッドにアグラをかいて座るカイトの姿があった。 「おまっ……なにやってんだ」 「へへっ、あっついから出しちゃった」 そう言って舌を出して笑うカイトを見て、俺の股間は最大限に勃起した。 「ばかっ……しまえよっ」 「いいじゃん。減るもんじゃねーし」 「そういう問題じゃねぇだろっ!」 「何いきってんだよ。キレすぎだろ」 「…別にキレてねえから。もういいから人のベッドでフルチンになってんじゃねえよ」 そう言ってカイトに背中を向けて無理やりテレビに視線を戻した。 デカさはそこそこだったと思う。暑さのせいかダランと垂れ下がっていたが、しっかりと先端は剥けていた。一瞬のことだったというのに、目に焼き付けてしまった自分に呆れてしまう。テレビに視線を戻して必死に情報を上書きする。頭の中でカイトを汚したくはなかった。このままではカイトが帰った後に、俺は間違いなく今見たものをオカズにしてしまう。しかし頭から先程の光景を追い出そうとする俺を尻目に、カイトの暴走は止まらなかった。 「なぁ」 「なんだよ」 「立っちゃった」 「はぁっ!?」 怒りを表した風で、実際は見たいという好奇心がなかったといえない。俺はもう一度振り返りベッドの上のカイトを見た。 そこには上に向いてそそり立った陰茎を握りしめて笑うカイトがいた。心なしか亀頭の割れ目の先端からは透明な汁が滲んでいるような気がする。 「おまっ……人ん家で何してんだよ!」 「だって弄ってたら立っちゃってさぁ。仕方ねえじゃん? ハルトも布団でシコったりするだろ? 許してよ」 「そういう問題じゃねえんだよ!」 怒りながら、俺の目は今度はカイトの股間から離れていなかったかもしれない。多分そのことからカイトは何かを嗅ぎ取ったのだろう。俺がずっと隠していた、隠せていたと思い込んでいたことを。 「……じゃあどういう問題なわけ?」 カイトは妖しく笑って、俺の目を見たまま陰茎を握りしめた手を上下に動かし始めた。 「おまえっ、なにやってんだよ!?」 「キレてる割にめっちゃ見てるね、ハルト」 「……」 図星を刺されて俺は怯んで言葉に詰まってしまった。カイトの手はその間も止まることはない。 「っつーかさ。ハルトも立ってるよね? ジャージだから、めっちゃわかるよ?」 ケラケラと笑いながら俺のズボンを指差してカイトは告げる。俺は慌てて腰を引いたが、それでもいつの間にか勃起していた自身の陰茎がテントを立ち上げているのがわかった。 「……俺ばっかり見せてさ、ズルくない? ハルトのも見せてよ」 カイトは手の速度を怪しく変えながら、俺に誘いをかけてくる。俺はどうしたらいいかわからなくなった。 「……お前が勝手に見せつけてるだけだろ」 力なくそう答えるのが精一杯だった。 「でもそれ見てハルトも興奮してる」 おかしな行動をしているのはカイトの方のはずなのに、言葉の筋はコイツの方が通っていた。そう、俺はこのおかしな状況に興奮を覚えている。エロ小説みたいな陳腐なイベントみたいだけれど、ずっと憧れを密かに抱いていた相手の痴態を見ることができたことに喜びに似た感情を抱いている。 「ハルト……お前も一緒にやろうぜ?」 そう言ってカイトが俺のテントを張ったジャージに手を伸ばしてくる。 「やめろよ……」 消えそうな声で答えるだけで、俺はその手を払い除けることができない。だって心の奥底ではずっと期待していたから。 カイトの手が俺の膨みに触れる。そう思った次の瞬間、俺の陰茎はジャージ越しにデコピンの要領でカイトの手で弾かれた。 「痛っ!!」 「はっはっは、マジになってやがんの」 そう言ってカイトはベッドから降りて立ち上がり、脱いでいたパンツを上げて、立ったままの陰茎ごと布地の下に隠した。 「ハルト〜、お前噂になってるよ? 男の事ねっとり見過ぎだって。ホモなんじゃねーの、って話だったけど。この様子だとマジでホモだったっぽいな」 完全に立ち上がった陰茎をデコピンされたので俺は痛みに耐えながら答えた。 「お前、何言ってるんだよ……?」 「だーかーらー、ハルトがホモだって噂が本当かどうか確かめただけだよ」 「お前だって勃起してただろ。そんな理屈が成り立つなら、お前もホモってことになるんじゃねーのかよ」 「俺はちゃんとスマホで女の子見てからたたせたもーん。でもお前は俺のフルチン見て立たせてたじゃねーか」 「……何のためにこんなことしたんだよ」 「うーん……ちょっとしたゲーム? みたいな。本当にホモなのかなー? って」 「……」 「いや、俺もなんかハルトって独特な目で見てくるなとは思ってたんだよ。だからその答えが知りたかった的な?」 「……」 「いや、でも誰かにバラしたりとかはしねーよ? 俺もガキじゃねえし。そこは安心していいからさ」 「……ふざけんなよ」 「えっ?」 「ふざけんなって言ったんだよっ! お前、俺のことオモチャにしたんだぞ!? 自分でやったことわかってんのか?」 「なっ、何そんなに怒ってんだよ? だから俺がちょっと興味あってやったことで」 「ちょっとの興味で人の秘密暴いて楽しいか!? 俺がオタオタしてるのみて面白かったかよ!?」 「お前べつにオタオタなんてしてなかったじゃん……」 「そんなもん表面に出ないように必死で取り繕ってただけだわ! ふざっけんなよ、マジで」 「……そんな怒らなくてもいいだろ。何マジになってんの。冗談だって」 「冗談で済むなら俺が何しても全部許すのか? そうだよ、俺はお前の思う通りにホモだよ。珍しいか? 珍獣でも見つけたような気持ちか? 冗談でやったんだよなぁ? だったら俺が何やっても冗談で済ませろよ。そうしなきゃフェアじゃねえだろ」 俺は本気で怒っていたんだと思う。展開が怒涛すぎて、カイトの言葉に返事をするのが限界で、正直よく覚えていないのだけど。ただ悲しかったことだけはしっかりと覚えてる。そしてこの後、自分がとった行動に後悔したことも。 「おい、ハルト。何すんだよやめろよ」 「冗談だよ? お前何マジになってんの? そんな怖がらなくたっていいじゃん」 俺はカイトに迫っていた。このままで終わらせたくない焦りと、苛立ちと、いろんな感情が混ざってわけがわからなくなっていたのかもしれない。 「いてえっ、マジでやめろって」 カイトの肩を掴んで無理やりベッドに再び座らせた。そしてパンツの上から股間を揉みしだく。さっきまでの勢いは既にそこにはなく柔らかくなっていたが、臆さずに乱暴に揉み続ける。 「痛いっ、ハルトっ、マジでやめろって」 「冗談だって言ってんだろ。何マジになってんの? お前もさっき似たようなことやって、そう言ったじゃねえか」 「俺のはマジで冗談だったけど、お前のは冗談じゃねえだろ」 「てめえ、どんだけ身勝手なんだよ。何が冗談かどうかは、さっきはお前が勝手に決めただろ。今度は俺が決めたっていいだろうが、なあ?」 そのままパンツを下ろそうとするのをカイトは足を捩って全力で抵抗した。なので俺はカイトの睾丸を容赦なく握りつぶした。 「痛っっ!!……ちょっ、待てっ、ふざけんな……」 その瞬間に俺に浴びせる罵声が弱々しくなって、力が抜けたカイトの体から俺は素早く布切れを取り払い、先ほどまで目の前にしていたカイトの陰茎を今度は自らの手で扱き始めた。 「痛い……金玉痛いから、マジでやめて……」 弱々しく懇願し始めるカイトの声が耳には届いていたが、俺は全て無視した。けれどどれだけ責めたてても、カイトのソコは先程のような形に戻ることはなかった。 「ハルト……無理だって……怒ったなら謝るから……もうやめてくれ」 カイトの懇願はいつしか俺への謝罪も混ざり始めていた。でもそれが本当に俺に謝りたくて出てきた言葉なのか、それともこの状況から逃げ出したくて機械的に出てきた言葉なのか、俺には判断がつかなかった。むしろその時は後者のように思えて、怒りに拍車をかけたような気がする。 俺はキッとカイトの目を睨みつけた。カイトは睾丸の痛みからかうっすら涙目になりながらこちらを見返していた。俺はそのままカイトの目から視線を離さずに、カイトの陰茎の先端に口を開けて近づけいていった。 「ハルトっ!やめろ!マジでそれだけは!痛ってぇ!」 再び抵抗の意思を見せたカイトの睾丸を軽く握るだけで、怯んだ男の抵抗は弱くなった。俺はそのままカイトの亀頭を咥える。先程の先走りの影響か、はたまた汗の味か。塩っぽい苦味が舌の上に広がる。 けれど俺の奮闘も虚しく、カイトのソコは硬くなる素振りも見せなかった。胸の奥で不快な 感情がブクブクと湧き上がってくるのを感じながら、俺は立ち上がってカイトに指示を出した。 「さっき見てた女のエロ動画観ろよ」 「……ハルト?何言って」 「いいからっ! 俺にこれ以上恥かかさないでくれよっ! どうせ明日になったらいろんな奴に言うんだろ? 俺がホモでお前のこと犯そうとしたって。それなら最初にタチの悪い悪戯しかけてきたソッチの責任を今とってくれよっ!」 無茶苦茶だ。自分でよくわかっている。でもそれがその時の俺の全てだった。怒りと、虚しさと、そして明日になれば全てが破滅に向かう予感への恐怖。 状況からして、襲われているカイトの方が泣いても仕方ないような状態であったと思うが、俺の方が涙声になってしまった。それでいいじゃないかと、俺の中で声が囁く。俺が先に泣いたことで、カイトはきっと泣くことができまい。怒ることも泣くことも先手を取ってやった。カイトに残された手札は少ない。 「……わかったよ」 俺の目を見てカイトはそう答えると、いつのまにかベッドから転げ落ちていたスマホを拾い上げて、その画面を指でなぞった。 「……お前のことは、見ないから。それで俺がやった冗談が許されるなら、好きにしてくれ」 カイトは動画の音は流さなかった。甲高い女の喘ぎが流れたら、俺は癇癪を起こしてしまったかもしれないからありがたかった。もしかしたらカイトはそこまで気づいていたのかもしれない。でもそこまで思考が至る余裕はなく、俺はもう一度カイトの陰茎を口に咥えて舐め始めた。 今度はほんの少しだけ手応えがあった。勿論それは俺へと向けられた欲情じゃなくて、スマホの画面の中に向けられたものであろうけれど。それでも俺の口の中で少しずつ容積を増していく思い人の陰茎は、愛しさを覚えるものであった。 「うっ…」 カイトの声が呻きになって溢れる。こんなに男らしい声だっただろうか。こんな状況だからそう聞こえているだけか。その頃には多分最大限の硬さと体積を保っていたカイトのソコを、俺はデザートを舐めるようにしつこく往復して責め上げる。唾液の音がピチャピチャと卑猥だった。 カイトの視線はスマホの中だけに集中していると思っていた俺は、彼の顔を盗み見ようと試みた。今この瞬間の何もかもを記憶しておきたかった。その記憶でこれから先、何度も自分を慰めるだろうことがわかっていたから。睾丸の辺りを舐めてやると、少しだけカイトの吐息が変わる。その瞬間に口元はそのままに視線を見上げると、こちらを見下ろしているカイトの視線とばっちり絡み合った。俺は驚いた。まさかカイトが俺を見ているなんて思いもしなかったから。そしてその状態で陰茎の勃起を保っていることが予想外であったから。カイトのスマホはいつしかベッドの上に放り投げられていた。 「うまいか? ハルト」 そう言って俺の頭を撫でてくる。この男は残酷だ。何がどうなって、こうなったのかわからないが、俺に夢を見せてくる。 その後も無言のままで優しくカイトは俺の頭を撫でた。本当に酷いことをする。このままじゃ勘違いしそうになる。だから俺は先程のカイトとのやり取りを何度も頭の中で反芻して、これはあくまでも同情を主とした契約なのだと思うことにした。怒ることも、泣くことも俺が先に取り上げた。カイトは受け入れるしか選択肢がなかったのだ。受け入れるという選択肢を取った自分をカイトが後で許せるように、俺はあくまで同情でひと時の夢を見せてもらっているに過ぎないのだと思うと同時に、せめてものカイトへの罪滅ぼしにそう見えるよう演技した。 どんなに複雑なことを中身で考えていても、男の性は単純にできている。興奮が階段を駆け上がるように昂まり、絶頂に達すれば射精する。俺のしつこい口腔での愛撫による刺激であってもそれは同じことのようで、俺の髪を撫でるカイトの息が徐々にあがっていく。 「うっ……ぉおっ……」 カイトの口から漏れる呻きも、艶やかさを増していく。男にイかされることをカイトはどのように捉えるだろうか。屈辱的だと思うだろうか。惨めさを覚えるのだろうか。男は射精すれば変わる。同じ男である俺はそれをよく知っているので、この時間がずっと続いてくれればと願った。終わりが来てしまうことが怖かった。自分から始めたことのくせに。 「ハルトっ……悪い、俺もう出るわ、口離せ……」 俺の頭に乗せた手をそのままにカイトが絶頂の訪れを告げる。どうせここまで来てしまったのなら、最後まで俺は味わい尽くしたかった。ここでカイトの言う通りに口を話したところで、今更カイトの俺への評価が変わるようなこともあるまい。俺はズルくて自由な選択をした。口をすぼめてカイトの陰茎を根本まで飲み込むと、そのまま力を込めてありったけの力で吸い尽くす。 「おいっ……ハルト、マジで口に出しちゃうって……離せ、離せ……離せよっ!」 無理やり俺の頭を股間から外そうとしてくるカイトに抵抗して、腰に抱きついてカイトへと思いっきり吸い尽く。この腕の力で俺の心が伝わればなんて、やっていることとは似ても似つかない願いを抱いたりしたけど、カイトはそんなこと夢にも思わないだろう。あくまでも俺は変態のホモであって、その秘密を乱暴に暴こうとしたカイトにキレて、こんな強姦紛いのことをしているだけなのだから。 「やべぇっ……やべぇって……出るっ! 出るっ!!」 一際大きな声を上げて、俺の口の中でカイトの雄が噴火した。口の中いっぱいに苦い味が広がる。そうか、これがカイトの味か。大好きなはずの奴の種なのに、こんなにも苦いものなのか。他の男でも同じ苦さを俺は感じるのだろうか。そんなことを僅かな時間の中で俺は考えていた。 「……満足したか?」 沈黙が部屋に鳴り響いていた中でカイトが口を開いた。 「口の中の、出せよ。きたねぇぞ」 そう言って枕元に置いてあったボックスティッシュを箱ごと渡してくる。 俺はもう無駄な抵抗はやめて、大人しく数枚の紙を取り、その束に口の中の苦味を全て吐き出した。 そしてその後はどうしたらいいかわからなくなった。俺はカイトに次の行動を任せた。ずるい男だ。 「帰るわ」 カイトはけれど優しかった。最中に俺の頭を撫でてくれたのと同じくらいに優しかった。けれどもうその視線が俺と合うことはなかった。 「じゃあ、な」 玄関で靴を拾うカイトの背中に声をかけた。 「うん。また学校でな」 そう言ってカイトは一度も振り返らずにアパートのドアから出て行った。 俺の口の中は苦い匂いでいっぱいだった。別れの挨拶を告げた時に広がった青臭い匂いでむせそうになった。そのまま泣いてしまえればよかったのかもしれない。けれど実際は淡々と後片付けを始めた。カイトの種を吐き出したティッシュの束が俺の手の中で丸まっている。握り潰せばどうなるだろうか。そんなことを考えたけれど、俺は大人しくそれをポリ袋に入れて、きつく口を縛って取り出せないようにしてゴミ箱に捨てた。石鹸で手を洗いながら、これでよかったと何度も自分に言い聞かせた。 それから俺とカイトはどうなったかというと、どうにもならなかった。カイトは相変わらず学校で俺にノートやレポートで助けを求めてくるし、俺はそれに説教をしながらノートのコピーを取らせてやった。変わったことは互いの家に行かなくなったこと。校外で会う約束をしなくなったこと。飯を食う時も2人にはならない、なりそうなときは互いに1人で食事を取るのが暗黙の了解になったことくらいだ。 俺たちは普通の学友に戻った。たぶん互いに近すぎたのだ。だからあんな間違いが起こってしまった。だから二度とそんなことが起きないように、俺たちは大人たちが決めるような学生らしい付き合いをするだけになった。 幸いすぐに4年生になったから、就職活動も本格化し、俺たちの普通の学友としての日常もそれほど長い期間は続かなかったのだけれど。 卒業式の日もカイトとは普通に話をした。他の仲間も大勢いる中で、相変わらずのことを、何も取っ掛かりなどないように話をした。カイトは演技が上手だった。また一つ、知らなかった彼の顔を知ってしまったことに胸が痛んだ。 そして今、卒業して最初の夏の終わりを俺は迎えようとしている。あの日の気温によく似た、肌にシャツが張り付く不快な湿度が懐かしい。違うのは俺がスーツを着ていること、2年ほど歳をとったこと、そしてカイトが隣にいないことくらいだ。 これから先の夏の終わりにも、俺はたぶんスーツを着ているだろうし、歳をとっていくのだろう。でも隣にカイトがいた夏は、もう二度とないのである。口いっぱいに広がった唾液が、なんだか苦く感じた。