白昼夢の青写真 CASE-1原作小説『追楽園』15
Added 2021-09-30 01:36:11 +0000 UTC「お口に合うといいんですけど」 凛が微笑みながらそう言った。食卓にはカレーライスと、大きなボウルに入ったサラダ、それに炒めたウィンナーが並んでいる。 「おいしそうに見える」 凛が吹き出した。 「褒めてるんですか、それで」 「……そのつもりなんだが」 「まぁ、カレーならなかなかマズく作れないですよね」 「いや、そんなことはない。一度、驚く程まずいカレーを私は食べたことがある。カレーを不味く作ってしまうことも、理論的に可能らしい」 「……それで?」 凛は目を細めて攻撃的な視線を私に向けていた。 「……だけど、きみが作ったカレーはおいしそうだから……」 私は言葉の途中でまごついた。凛は片方の眉だけをあげて続きを促した。 「私は期待に胸を膨らませている」 「あっはは!」 凛は口を大きく開けて笑った。 「フォローしてくれたんですよね、きっと」 かわいげのある皮肉が笑顔の名残に混ざっていた。私は黙ったままうなずいた。 「ありがとうございます。食べましょうか」 「あぁ、いただくよ」 「先生が昔食べた、驚くほど不味いカレーよりはおいしいといいんですけど」 私はスプーンを手に取ってカレーを口に運んだ。 「どうですか」 「驚くほどおいしい」 「市販のカレー粉なのに」 「いや、本当においしいよ。嘘じゃない。この前作ってくれた鍋よりもおいしいよ、本当だ」 凛は私を見つめたまま、少し頬を赤らめた。 「よかった」 「ここ数年、ずっと外食だった。こんな家庭的な料理を振る舞ってもらうのは、久し振りだよ」 「数年……。そうだったんですか」 「やさしい味がするよ。本当だ。本当においしいよ」 「それはそれは」 私はもう一口、カレーを口に運んだ。凛も静かに咀嚼している。私は真ん中の皿に並べられたウィンナーを眺めた。 「これが、愛着のあるウィンナー」 「はい。今日だけで一生分のウィンナーを焼いた気がする」 「まさかの延長戦だったな」 「だって、わたしは食べてないんだもん。何百本も焼いたのに」 「なるほど、たしかに。試食販売員が試食しているのは見たことがないな」 私はそのウィンナーを一本フォークに刺して口に運んだ。凛も同じように、一本頬張った。 「一日焼き続けたウィンナーの味はどうだ」 「……驚くほど――」 「……」 「――ふつう」 私と凛はしばらく声をあげて笑った。 夕食を食べ終えて、食器は私が洗った。 「きみが初めて自分で稼いだお金で夕食を振る舞ってくれたんだ。これくらいはやらせてくれ」 「いいのに……」 凛はキッチンカウンター越しに私の手元をぼんやり眺めていた。キッチンテーブルの上にインスタントコーヒーのパッケージが見えた。 「このコーヒー、良ければ淹れるよ」 「あ、はい。先生が飲むかなと思って買ってきたので」 「きみは?」 凛がうなずく。 「いただきます」 水切り台にこの前私の使ったマグカップと凛のマグカップがまだおかれていた。それを並べてドリップバッグを付ける。湧いたお湯に少し水を足してから、交互に注いでいった。 「なんで水を足すんですか」 「温度が高すぎると香りが飛んでしまうらしい。一人で飲むときはそのまま淹れてるけどね」 私は苦笑いを浮かべながら言った。 「今日のは、こだわりのインスタントドリップコーヒーだ」 凛が小さく笑う。 「心していただきます」 私たちはふたたび、食卓を挟んで向かい合った。 「今日も……、父の日記を読みにきたんですよね」 私はうなずいた。 「そのつもりではあった」 「そんなに、面白いんですか? 毎日読みたくなるくらい……?」 私は薄く笑い、もう一度うなずいた。 「不思議だよ。話したこともないのにどんどん秋峰に親近感を覚える。こんなことなら、意地をはっていないで大学時代に話してみるべきだった」 「意地? 先生のですか?」 「私も大学時代にデビューしたくて書いていた。その夢を目の前で叶えたのが秋峰だった。秋峰に憧れるその他大勢の一人にはなりたくなかったんだ。自分も真剣にデビューを目指しているつもりではあったんだろうな」 私の口元にはまた自嘲が浮かんでいる。 「言葉を交わすなら、せめて自分もなにかの新人賞をとって同じ立場に並んでから、なんて考えていたんだ」 「だから学生時代の父のことを知らなかったんですね。同じゼミなのに」 「今から二十年以上前の話だ。結局私はまだ秋峰と同じ立場になんて立てていない。というか、もう誰も彼と同じ立場に立つことなんてできなくなってしまった。秋峰が死んで初めて私は秋峰と向き合い、その人物像に共感している。彼が死者になったからできているんだと思うと、皮肉なものだよな」 「……わたしは……」 凛が呟き、私は顔をあげて凛を見つめた。 「父が高みにいったとは、思いません。たしかに父の商品はよく売れたし、そのおかげでわたしはこんな広い部屋に住めている。そのありがたみも、今日よくわかった」 凛が細めた目で、手元のマグカップから上がる湯気を見つめる。 「でも、彼がわたしに届けたのは、わたしを産んだ人との一夜の過ちを悔いている言葉だけ。それしかわたしには届いていない。そんな人がなにかの高みにいるとは、わたしには思えない」 私はしばらく黙っていた。やがて私から口を開いた。 「作家として高みにいることと人間として高潔かどうかは、まったく関係がない」 そう言うと、凛の揺れた瞳が私に向けられた。 「きみの気持ちもよくわかるが、波多野秋峰は確実に――」 「先生」 私の言葉に被せるように言ってから、凛は静かに首を振った。 「先生に、わたしの気持ちがわかるわけがない」 凛はきっぱりとそう言った。 「……ごめんなさい。そもそもわたしが、あそこに先生を連れていったのに。でも、先生がこんな風に父に傾倒していくとは思ってなかったんです」 「秋峰は過大評価されている作家だったと、どうしようもない人でなしだったと、言って欲しかったか?」 凛の視線がまた揺れた。さっきより大きくゆらめいている。 「責めているんじゃない。誤解はしないでくれ。ただ……、単にきみと口を揃えて秋峰を罵ったってたぶんきみは救われない。それは、きみを助けることにはならないように思う」 凛は手元のマグカップを見つめている。私は小さくため息をついた。 今日、凛はわざわざアルバイトをして、そのお金で私に好物を振る舞ってくれた。なのに何故、結局はこんな雰囲気になってしまうんだろうか。 「空気を悪くするつもりはなかった。だが、きみはそれを乗り越えるしかないように思う」 凛が顔を上げる。 「秋峰がきみの父として失格だったとしても――愛していない女性を孕ませるような男だったとしても、彼の作品がきみに全く届いていないとしても、彼の文章が多くの人を救った事実は変わらない。そして、彼の業績は作家として高みにいる人間にしかできないものだと断言できる。きみは自分の中の父親像と、他人の中の波多野秋峰像を切り分けて考えないといけない。そうしないと、不毛な不満と怒りを抱え続けることになる」 「そんなこと、わかってます……! わかってるんです……! わかってるけど……」 凛はそう呟いてうつむいた。 ――きみは、わかっていないよ。そうやって生きてきた私が言うんだから間違いない。 「きみは、間に合うよ」 凛が顔をあげる。 「きみは間に合う。大丈夫だ。この前の私の説教臭い話をまっすぐ受け止めて、ほんの数日で成長した姿を私に見せてくれた。きみは素直だ。そして若い。きっと、これからどんどん魅力的な人間に成長していく。だから……大丈夫だよ」 凛は私をしばらく見つめてから小さく笑った。私はぼんやりと、凛が笑うのを眺めていた。 「先生って、意外に女心がわかってない」 「おんなごころ?」 「わたし、強情だと思いますよ。だから今日、先生を誘ったの」 凛の表情に、女の色がはっきり浮かび上がってくる。 「わたしの言ってること、わかる?」 私は凛の言葉について深く考え込んでしまった。 「わたし、いやなんです。先生に子供扱いされるの。あと、先生の中で他の人に負けるのも嫌」 凛は強気な微笑みを私に向けている。その微笑みをぼんやり眺めていた。 「わたしの行動に父の影を感じ取られるなんて耐えられない。だから波多野秋峰とは無関係に、わたしの稼いだお金でもう一度振る舞いたかったの。素直に負けを認められない。強情でしょう?」 凛はそう言った。その視線には薄い氷のような鋭さがあった。 「……なるほど。わかった。わたしも気を付けるよ。子供扱いはやめよう。ここでは、きみが私の生徒だということを意識しないことにする。……なるべく」 凛の顔に、ゆっくりと微笑みが広がっていった。 マグカップを片付け、私は鞄を手に持った。 「ありがとう、おいしかった」 「よかったです」 「……来週末なんだが」 凛が小さく首をかしげる。 「あそこに泊まってもいいかな」 「泊まる……? あそこにですか?」 私はうなずく。 「もうすぐ学校も夏休みになる。その間に――」 そこで、私の言葉は詰まった。その間に、私はなにをするのだろう。その間に、自分の書いた原稿をなおす? その間に、なにかを新たに書くのか? 「問題はないんですけど」 凛が伏せた目を泳がせる。 「お風呂場だけは使わないでください。入るのもやめてください。あそこは……」 凛は続きの言葉をのみこんで、静かに呼吸を続けた。小さく浮き沈みする凛の胸元をぼんやり見つめる。凛の脳裏には今、最後に見た秋峰の姿が浮かんでいるかもしれない。 「わかった。約束するよ。浴槽には入らない」 凛はうなずいた。私は玄関に向かい、靴をはいて凛に向き直った。 「ここでいい」 「また、作ってもいいですか。夕食」 私は呆然と凛を見下ろす。伏し目がちな凛を眺めてから、私はうなずいた。 「ぜひ」 凛が顔をあげて微笑んだ。 「だけど、次は一緒に買い物にいこう。今度は私が払うよ」 「はい。じゃあ、明日は一緒に。おやすみなさい」 凛のマンションを出る。雲のない夜空が広がっていた。最寄りのバス停まで歩く。途中で勤め先の生徒とすれ違ったが向こうは私に気付かなかった。 凛と初めて言葉を交わした日、あのときの私は、学校の生徒である凛と必要以上に親しくなるべきではないと考えていた。それが今では、彼女が一人で住むマンションで手料理を振る舞われている。気付かないうちに、私は変わっているのだろうか。 ……変わったんだろうな、間違いなく。きっと、今日ファミリーレストランで眺めていた父親たちがいつのまにか父親になっていたのと同じように。わたしも無自覚のうちに、変わっているんだ。 なにせ、小説を書きはじめ、妻が出ていき、秋峰が命を絶った場所で彼の日記を読んでいる。激動だ。 全ては、凛との出会いから始まった。あの日、雨が降り始めて、一本の折りたたみ傘に二人で入ってから――そうだ、あの日は教授の通夜の日だったんだ。私たちの出会いの日にも、そこには死があったのか。 死をきっかけにして出会い、秋峰という第三者の死を中心にして、そこをまわっている二人。もしもこの二人が最終的に死に行き着けば、その物語には、三幕の全てに死があることになる。 私は小さく笑った。なるほど。 もしも私がこのまま死に向かっていけば、私の人生もどうやら物語になるらしい。