5月を通じて瑠璃の生活は非常に忙しかった。家事を一手に引き受ける主婦、高校に通う学生、そしてゲーム研究会の部長。これまでの時間軸でも忙しい日々だったが、今回の時間軸はもっと忙しい。瑠璃は日々をこなすので精いっぱいだった。目の前のことで精いっぱいで他のことをじっくり考える余裕がなかった。だが、前回の時間軸と過ごし方が大きく変わったのは彼女だけではない。彼女の予想外のところで変化が生じていた。
「お義父さまの様子がおかしい?」
夕飯の片づけを終えて宿題をしていた瑠璃はその手を止めて夫の話を聞かざるを得なかった。高坂家の嫁としてのアイデンティティを強く抱いている彼女にとって、義理の両親との関係は非常に重要だった。義父の心の乱れは瑠璃にとっても乱れに繋がるものだった。
「昨日今日にどうこうという話じゃなくて、ずっとだな。腑抜けてるな、アレは」
「ずっと……」
瑠璃には京介が述べる『ずっと』という表現がピンとこなかった。忙しい彼女の目には義父の様子に以前と変わった点は映らなかった。ただ『ずっと』という単語の意味なら思い当たる節があった。
「桐乃からの連絡がずっとなくて。お義父さまは寂しいということかしら?」
「俺の見立てではそういうことだ。もっとも、聞いたところで認めねぇだろうけどな」
京介は瑠璃の推測に首を縦に振ってみせた。
厳格で不愛想で口数が少ない。そんな人間故によく誤解されるが、高坂大介という人間は娘を溺愛している。本当は海外スポーツ留学などさせたくなかったが、読モで大金を稼いでいる桐乃は留学費用を全額自分で捻出してしまい、ノーとは言えなかった。
娘のことをいつも気に掛けているのに、アメリカの地にいる桐乃からは何か月も全く連絡がない。年頃の娘を持つ親としても当然心配でないわけがなかった。
「桐乃の方からは相変わらず連絡がないわけだけど……京介ルートはどうなの?」
瑠璃は新垣あやせと来栖加奈子の表情を思い浮かべながら訪ねてみた。
「俺のところは相変わらず音信不通だが、あやせや加奈子には週に一度生存報告という形でSNSに書き込みを出してるな」
「生存報告するなら相手が違うでしょうに……」
瑠璃は大きなため息を吐き出した。
家族に安否を知らせずに学校の友達にだけ連絡を取る。京介があやせや加奈子と個人的な繋がりを持っていなかったら、瑠璃たちも音信不通のままだった。
「俺の予感だが。桐乃が高坂家に連絡を寄越さないまま後数週間で親父の精神は限界を迎えるだろうな」
「新垣あやせに、せめてお義父さま、お義母さまには連絡する様にお願いして頂戴」
「あやせは俺に言われずとも既に頼んでるよ。で、現状がこれだ。それよりも、だ」
京介は瑠璃の顔をジッと見つめ込んだ。
「瑠璃ってパスポート、持ってるのか?」
夫の質問は予想外のものだった。だが、返答は簡単だった。
「持っていないわ。五更の家は残念ながら海外旅行できるような経済状態でなかったもの」
「なら、今の内に準備しておかないとな」
「えっ?」
キョトンとした表情を見せる瑠璃。今回は珍しく京介が先読みするターンだった。
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*
「今はパスポートが申請から1週間で取得できるのね。思ったよりも早くて驚いたわ」
義父の様子がおかしいことを聞かされてから10日後。新たにパスポートを取得した瑠璃はその速さに驚いて興奮していた。風呂場で身体を洗う手が度々止まっていたが、笑顔だった。
「今は昔と違って色々な電子化されたデータベースがあるからな。前よりも審査もし易いんだろう。多分だけどな」
「でも、何で急にパスポートを?」
瑠璃は高坂家に嫁ぐ時間軸を送る様になってから海外旅行に出掛けた覚えはない。旅行に行くことはあっても全て国内。それも千葉に戻ってきやすい所を好んで出掛けていた。
「何故かと言われればそれが必要になるからだ」
「必要って?」
「これから起きる事態は俺一人では対処が手に余るということだ」
「何よ、それ?」
京介は煙に巻く言い方に徹していた。
瑠璃がその言葉の意味を理解したのは、入浴を終えて廊下に出た時のことだった。
「京介、瑠璃ちゃんっ! お父さんを止めて頂戴っ! 桐乃を迎えにアメリカまで行くって息巻いちゃってるのよっ!」
義母である高坂佳乃が義父を後ろから羽交い絞めにして抑えつけていた。捕まれている大介の右手にはトランクが握られていた。アメリカに行く気満々なのは明らかだった。
「オヤジ、仕事はどうするんだよ?」
「無断欠勤すれば良い」
「せめて有休を取ると言ってくれよ……」
京介は呆れた。クビを覚悟というかクビ上等の渡米を大介は考えていた。そして、それが本気であることは長年連れ添った妻や息子がよく分かっていた。
「京介、何とかしてっ!」
佳乃は大声で叫んだ。京介はもう一度大きなため息を吐いてみせた。
「桐乃の様子なら俺と瑠璃が見てくる。それで、良いだろ?」
「えっ? 私もなの?」
瑠璃にとっては意外過ぎる夫の提案だった。
最初の時間軸でアメリカに旅立つ京介を見送ったことならあった。けれど、それ以降の時間軸で桐乃がアメリカに行ったことはない。京介はもちろんのこと、瑠璃のアメリカ行きの話が出たことはなかった。
「ああっ、俺と瑠璃で桐乃の様子を見てくる。だからオヤジは大人しく職場に行ってくれ」
京介は淀みなく断言してみせた。
夫はこの展開を読んでいた。だからこそ、瑠璃に早急にパスポートを取得させた。
今日、パスポートを受け取れたことで、大介の我慢が限界を迎えるまでにギリギリ間に合った。
夫婦でアメリカまで桐乃の様子を見に行く。京介が思い描いていた展開通りだった。
「私が……アメリカ?」
あまりにも予想外の展開に瑠璃は硬直していた。
つづく