SS 俺いも 2024長編17 高坂桐乃2
『アタシ、千葉に帰る気はないわよ』
LA郊外にあるトレーニングセンターの寮。瑠璃と京介の前に現れた桐乃は開口一番日本に帰国しないことを宣言してみせた。
桐乃のその返答は夫婦で事前に予測した通りのものではあった。友人には生存報告を入れても高坂家には一切の連絡を入れて来ない。実家を避けているのは明白だった。帰国したい意思は、少なくとも感じられない。
だが、2人は長時間を掛けて何千キロも旅をしてLAまでやってきた。予測した通りの回答だからと連れ帰るのを簡単に諦めることもまたできない相談だった。
「貴女ねぇっ! ご両親が、特にお義父さまがどれだけ心配しているのか分かって言っているの?」
怒ったのは瑠璃の方だった。初めての海外旅行、飛行機体験に心身ともに激しい消耗を強いられたのは彼女だった。苦労の分だけ苛立ちが言葉となって出ていた。
「……まあ、お父さんが心配していることは知ってる。あやせからも言われたし」
桐乃は渋い表情を浮かべて目を逸らした。
「あやせはあやせなりに手を尽くしてはいてくれたんだな」
京介にとっては何を考えているのかよく分からない妹の友達。新垣あやせがスポーツ留学の一件をソフトランディングさせようと努力していたことを知って京介の胸は少し熱くなった。
「だったら、連絡ぐらいは入れなさいよ。留学した娘が3か月以上も音信不通とか気が気でないのは当然の話でしょ」
瑠璃の方はまだ苛立ちが表に出てしまっていた。いつもの冷静さを欠いていた。
「便りがないのは無事な証拠って言うでしょ」
「貴女の場合には、追い詰められた時は沈黙してばかりでしょ」
瑠璃の表情が一層ムッとしたものに変わった。最初の時間軸のスポーツ留学の瑠璃を含めた関係人物が受けた心の傷、桐乃の追い詰められぶりを思い出していた。
「…………とにかく、アタシは陸上の記録は順調に伸びてるし。リア・ハグウィちゃんっていう超足が速いロリっ子もいるからオタク的な欲望も満たされている。日本に帰る気はないから」
「貴女ねえっ!」
素っ気なく話を打ち切ろうとする桐乃に対して瑠璃は詰め寄ろうとした。それを制止したのは京介だった。
「分かった。今日の所は一旦ホテルに帰る」
「えっ?」
面食らったのは瑠璃の方だった。
「何を言ってるの? まだ、話し合いは始まったばかり……」
「久しぶりの再会で互いに感情が上手く制御できない部分もある。ここは一旦冷却期間を設けよう。また明日も来る」
京介は当初の予定にはなかった二度目の訪問を告げたのだった。
「もう一度来たって、アタシは千葉には帰らないわよ」
「それならそれで構わない」
「へっ?」
今度面食らった声を出したのは桐乃の方だった。
「帰国したくないのならそれは構わない。だが、話しておきたいことは幾つかある」
「…………あっ、そう」
桐乃は目を細めて唇をギュッと噛み締めていた。京介たちが強制帰国の為にやって来たと思い込んでいたので読みが外れて対応に苦慮していた。
「桐乃だって、俺たちに聞きたいことがあるだろ?」
「…………ないわよ…………アンタたちが2人揃ってアメリカまでやって来た時点で」
桐乃は大きく首を逸らして完全にそっぽを向いてしまった。
桐乃との初日の対面はこれで終了となった。桐乃はトレーニングに出掛けるからと出て行き、京介は明日の訪問許可を貰う為にスマホを片手に職員に話し掛けた。瑠璃は軽く目を瞑ってその場に立ち尽くしたのだった。
***
**
*
「成田空港から少しも私のペースを発揮できないでいるわ……」
宿泊先のホテルのダブルサイズのベッドに寝転がりながら瑠璃は自責と後悔の念に駆られていた。トレーニングセンターに到着するまで。そして、寮内での義妹との会話。どれを思い出してみても頭を抱えたくなるものだった。
「上手くいかない日だってあるさ」
シャワーを浴び終えた京介がタオル一枚巻いただけの姿で戻ってきた。
「京介は寮内でも終始冷静な様子を保ったわね」
瑠璃は上半身を起こして夫を見つめた。
「瑠璃よりも期待値が低かった分だけ、冷静でいられたんだろうな」
「期待値?」
京介は頷いてみせた。
「桐乃の性格からして、理由を付けて会ってくれない可能性も十分に考えられた。その最悪な事態に比べれば、歓迎されなくても会って話ができただけでも戦果はあったさ」
「そして京介は帰国に同意するとは思っていなかったと」
今度は瑠璃が頷く番だった。夫は義妹の帰国に関して自分よりもドライな見通しを立てていたことを改めて知った。
「それじゃあ、明日は何の為に訪問するの?」
「対面時に言ったろ。幾つか話しておきたいことがあるって」
「具体的には?」
「跳ね返り娘に親に心配を掛けさせない様に色々とな」
京介はウィンクして親指を立ててみせた。
「お兄ちゃん目線というよりもお父さん目線ね」
「そりゃあ、オヤジの代理で来ているんだからな。父親目線にもなるさ」
「京介は私が考えている以上にいいお父さんになってくれるかもしれないわね」
瑠璃の中でまた夫の評価が上がってみせた。
危機に陥るほど頼もしさを発揮してくれる。瑠璃が最初に惚れた京介の意外な一面を改めて認識した。
「じゃあ、早速。いいお父さんになる為の下準備と行くか」
京介はベッドに乗って瑠璃を組み敷いてきた。
瑠璃は真上に見える夫の顔を見つめ込んだ。
「そうね。アメリカ初日の思い出が嫌なことばかりでは初の海外渡航としてよろしくないもの。貴方の愛で、アメリカのホテルの天井は素晴らしいものだったわと思い返せるようにして頂戴」
瑠璃は体の力を抜いて夫の愛を受け入れることにした。
「こうして貴方に抱かれていることが……高坂瑠璃にとっては一番の日常なのよね」
瑠璃は京介に抱かれるという“日常”を体験したことで異国に来てようやく我を取り戻したのだった。