――ライトの熱がまだ頬に残っている。コメント欄は高速に流れ、画面越しの“世界”が確かに自分を見ているはずだった。
けれど慈の耳に届いてくるのは、観客の声ではなく――〔ギュルルルルル……ッ!〕と腹の奥で鳴り響く、不吉な音だった。
「……っ」
一瞬だけ顔が強張る。けれど画面の前で引きつった表情は許されない。すぐさま笑顔を貼り付ける。だが貼り付けた笑みの裏で、胃腸が確実に牙を剥いていた。
〔ドクン……ググゥゥ……!〕
脈打つように腹が攪拌される。ステージで映える白い衣装の裾を押さえながら、慈は配信の合間に小声で呟いた。
「う、嘘でしょ……今なの……?」
視線の先では瑠璃乃が笑顔で盛り上げている。姫芽もテンション高くコメントを拾い、画面の外まで明るさを拡散していた。――いつもなら慈が誰より率先してやっている役目だ。
だが今はその場に立っているだけで精一杯。呼吸のたびに痛みが波のように押し寄せ、冷たい汗が首筋を滑り落ちる。
「……っ、ダメ。止まんない……」
耐えるように腹を抱える。けれど抱え込むほどに〔ググググ……ッ!〕と押し広げられる感覚は強くなる。アイドル藤島慈としてはあまりに無様。だけど、生理現象は舞台を選ばない。
コメント欄が「めぐちゃん!?」とざわめいた。ほんの一瞬カメラに映り込んだ苦悶の表情に、視聴者が反応したのだ。
「……っ」
焦りが全身を駆け巡る。これ以上は隠しきれない。配信を回す仲間たちに任せるしかない――そう判断した瞬間、慈は小さく手を振った。
「ごめん、ちょっと抜ける!」
声は明るく振る舞った。だが足取りは明らかに不自然。舞台裏に回り込み、扉を閉めると同時に――
〔タッタッタッ!〕
制服のスカートを押さえ、廊下を駆け出した。
「……っ、はやく……トイレ……っ」

汗で張り付いた前髪を振り払う余裕もない。頭の中にあるのはひとつ、崩壊寸前の腹をどうにか解放することだけだった。
〔ギュルルルルル……ッ! ググゥゥッ……!〕
響く腹鳴は、空っぽの廊下でいっそう大きく感じられる。足音と同調して、不規則に揺れ動く。
――“可愛さを更新する”ことだけが自分の存在理由。
その慈が、今まさに崩れ落ちそうになっている。
「だめ……世界に夢中になってもらうどころか……わたしが壊れる……っ」
〔ドン……ッ!〕
壁に手を突き、肩で荒く呼吸する。視線の先、廊下の奥に見える「TOILET」のプレート。そこに辿り着けるかどうかが全てを左右する。
足を一歩踏み出すたび、痛みと便意がせり上がる。アイドルのステージでは華やかにターンを決める脚が、今はただ必死に前へ進むためだけに動く。
「っ……! もう少し……!」
喉が焼けるように乾く。頭の中に浮かぶのは、配信画面に残してきた仲間の笑顔。そして数え切れないほどのコメント。慈はそれを裏切りたくない。たとえ今、配信から抜け出すしかなかったとしても。
〔タッタッタッタッ!〕
靴音が響き、心臓の鼓動と混ざり合う。痛みと羞恥と焦燥が渦を巻き、ただ一つの出口へと彼女を駆り立てる。
「お願い……間に合って……っ!」
その祈りは、いつもの華やかな宣言ではなかった。藤島慈というひとりの少女の、必死で切実な願いだった。
――寮の廊下を駆け抜けた足音が、ようやく和式トイレの前で止まった。
慈は壁に手を突き、肩で荒く呼吸しながら、額に浮かぶ汗を拭うことすら忘れていた。
〔ギュルルルルル……ッ!〕
お腹の奥で爆ぜるような音。もう一歩でも遅ければ、惨状は廊下に広がっていただろう。
「っ……なんで、こんな時に……寮のトイレまで和式なの……っ!」
口から漏れるのは苛立ちと涙声が混じった叫び。いつもの配信者らしい明るい調子はそこにはなかった。
(ガタガタッ!)
乱暴に個室の戸を閉め、鞄を壁際に投げる。制服のスカートを掴み上げ、下着を慌ただしく下ろした瞬間――
〔ブリュリュリュリュリュッ!! ビチャアアアッ!!〕
泥水のような下痢が一気に噴き出した。重く粘ついた音が和式の便器に叩きつけられ、跳ね返る飛沫が太ももにまで散った。
「ううっ……止まんない……っ!」

慈は必死に口を押さえながらも、顔を真っ赤にして耐える。声を殺しても、排泄音は容赦なく個室に響き渡った。
〔ドボボボボボボッ……! グジュジュジュジュ……ッ〕
水気を含んだ便が流れ落ち、さらに続けざまに腸から押し出される。お腹の奥が掻き回されるたびに、身体ごと震えた。
「……これじゃ……“世界を夢中にさせる”どころか……わたしが……笑いモノじゃん……っ」
普段なら自信満々に口にするフレーズが、今は情けない泣き言のように響く。
〔ビチビチッ! ボタボタボタッ……〕
断続的に垂れ落ちる残滓が、床へと茶色い斑点を作っていく。慈は歯を食いしばり、羞恥で目尻に涙を浮かべた。
「……可愛い……更新するどころか……崩れてく……っ」
いつもなら“キュン♡”を届ける声が、今は震えながら自嘲を刻む。
〔ジュルルル……ッ ドロロロロロ……ッ!!〕
泥水のような下痢は止まる気配を見せず、容赦なく流れ出し続けた。慈は両手で腹を押さえ、肩で息をしながら呻く。
「はぁっ……はぁっ……もう……最悪……和式なんて、ほんと最悪……!」
涙と汗でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、狭い個室の天井を見上げる。そこに映るのはライトでもカメラでもない、ただの蛍光灯。
――あのステージの眩しい光から、そして大好きな配信から腹痛という情けない理由で逃げ出してきて、いま自分はこんな場所で、こんな音を響かせている。
その事実が、藤島慈という少女のプライドを容赦なく削り取っていく。
〔ボトッ……ポチャッ……〕
最後に重たい塊が落ち、ようやく腹の奥の波が弱まっていく。
慈は汗に濡れた前髪をかき上げ、膝に力が入らないまま便器の上で小さく震えていた。
「……っ……はぁ……こんなの……誰にも見せられない……」
胸の奥に浮かんだのは、配信画面に残してきた仲間たちと、数え切れないほどの視聴者。
――その誰にも、こんな姿だけは知られたくなかった。
だが現実は、和式の床に散った飛沫と匂いが、残酷なまでに“本当の藤島慈”を証明していた。