貯金は全く増える気配がないが、疲労とストレスだけは加速度的に蓄積されていく。そんな生活を何年続けているのだろうか。
「ただいま...」
帰宅した時に呟くこの一言はただの習慣だ。誰もいない空間に霧散していくだけの言葉を、吐き出していただけ。けれど、
「おかえりー!」
今は違う。
自分の言葉に呼応してくれる声があった。
だから最近は、トーンを少し上げて「ただいま」と言う。
しかし、今日はため息とともに小さく吐き出すのが精一杯だった。
「どうしたの?元気ないね?」
パタパタとルームシューズの音を立てて玄関先にやって来た声の主は、心配そうに小首を傾げ、少し茶味がかった短い黒髪を揺らしている。
「いや、まあ...ちょっとね」
やって来た声の主は10代後半の女の子。俺よりも10歳ほど若い。
「玄関は寒いから、コート脱いで、お部屋に行こうよ。ね?」
にこっと笑って奥にある部屋を指差す。
「りうちゃんも今帰り?」
「うん。今日は部活の後にバイトがあってね。疲れちゃうな〜」
この女の子の名は『りう』という。漢字ではなく平仮名だそうだ。少し珍しい名前だと思う。
今ふたりがいるのは、一人暮らしをする俺のアパートの一室。
なぜ三十路手前で彼女いない歴=年齢の冴えないサラリーマンの自分が、10代後半の、控え目に言っても美少女と言わざるを得ない彼女と、一つ屋根の下で時間を共にしているのか。
それは、1ヶ月ほど前のある出来事がきっかけだった。
※※※
晩秋を迎え、空に浮かぶ雲が輪郭を失い始めた寒空の下。
セーラー服姿の彼女は、俺の住むアパートの前でうずくまっていた。
コートも羽織らずしゃがみ込んで何をしているのかと訝しんだが、最近は何かと物騒な世の中だ。こんなアラサーでおっさん顔の自分が、制服姿の見知らぬ少女に声なんて掛けようものなら“事案”と捉えられかねない。
素通りしながらさりげなく横目でチラッと彼女の表情を見るだけにしようと思った...が、俺は立ち止まってしまった。
彼女は泣いていた。
大粒の涙は瞳から惜しみなく溢れ、頬を伝う筋となって落ちていった。
涙の行き先には、彼女に抱きしめられた一匹の仔猫の姿があった。微動だにせず、目も開いていない。
人間の咄嗟の判断というものは、つくづくよく分からないなと思う。
これまで30年近くを生きてきて、華やかな青春はおろか、同年代の女性とまともに会話をしたことがない俺は、
「大丈夫ですか?」
思わず彼女に声を掛けていた。
嗚呼、神様。どうかこれが”事案”としてニュースになりませんように。
涙を拭うことなく振り向いた彼女の表情には、悲しみが満ちていた。
「ミーちゃんが...ミーちゃんが...!」
ミーちゃんというのは、きっと彼女が抱きしめている仔猫のことだろう。
「...猫?」
「はい。家に帰ってきたらミーちゃんがいなくて...外を探していたらここで倒れていたんです。...ミーちゃんはもう息をしていなくて。呼びかけても何の反応も...うぅっ」
涙がまた一筋、彼女の頬を伝い顎の先からミーちゃんの毛先にぽつん、と落ちた。
「あなたの...その、ペットの猫ですか?」
明らかに自分より年下だと分かる相手でも、敬語を使ってしまう。
女性と話す機会が少ないせいか、年下であってもタメ口で話すことに抵抗があるのだ。
「私が飼っている訳じゃないんです。でも、毎日うちの前で遊んでいたから。どうして...!」
そう言って彼女はミーちゃんをもう一度ギュッと抱きしめた。
ミーちゃんと呼ばれた仔猫は、目立った外傷は見当たらないものの、完全に息を引き取っていた。
きっと彼女はミーちゃんをとても大切にしていたのだろう。自分のペットではないようだが、まさにそうであるかにような存在だったに違いない。
「すみません、関係のない方の家の前で、こんな」
「あ、いや、大丈夫です」
「この子...ミーちゃんを、弔ってあげたいと思います。どうして亡くなったのか、何があったのか、何も分からないままで、私、不甲斐ないですけど、せめて安らかに...」
こういう時、何と声を掛けて良いか分からない。
ご愁傷様です、と言って、静かに帰路につけば良いのだろうが、彼女はミーちゃんと抱いたまま、俺を見つめていた。
「良かったら、一緒に弔ってあげても良いですか?あ、その、あなた様のご迷惑にならなければ」
年下の女の子に向かって「あなた様」とはコミュニケーション経験不足にも程がある。
しかし、普段なら気にかけながら静かに帰宅していただろうけれど、つい、勢いで申し出てしまったのは、彼女の瞳に吸い込まれてしまった自分がいたからだ。
涙を浮かべた彼女の瞳には、人を惹きつける不思議な魅力を感じた。
大きな瞳は磨き抜かれた硝子玉のように美しく、どこか儚げでもあった。
今になって思えば、自分でも信じられない程に積極的だったと思う。
そうさせてしまうだけの魅力が、彼女にはあったのだ。
その後、俺と彼女はミーちゃんを動物の火葬場へ運び、弔った。
亡骸は無かったが、自宅近くの目立たず静かな場所に小さなお墓を作り、両手を合わせた。
自宅の前に戻る頃には、彼女はもう随分と落ち着いた様子で、自分に向かって丁寧にお辞儀をした。
「今日は本当にありがとうございました。あと、私事に巻き込んでしまってすみませんでした」
「あ、いえ、そんなことないです。えっと...」
「あ、すみません。まだ名前もお伝えしていませんでした。私『りう』って言います。今日は、本当に本当にありがとうございました!ミーちゃんもきっと喜んでいると思います」
「あ、はい。それは良かったです。あの、えっと、俺は」
「もう随分遅くなってしまったので、この辺で失礼します。今度必ずお礼をしに伺いますね。それでは!」
そういうと、彼女、りうさんはもう一度丁寧にお辞儀をし、トットットッと、走って行ってしまった。
(名前言いそびれた...)
夜も遅いので、と言われて引き止めるタイミングを逸してしまった。
もう時計の針は23時を少し回っている。こんな時間に学生を呼び止めて話し続けるのはさすがに気が引けた。それにとても寒い。
ミーちゃん、安らかに眠ってくれるといいな。
それにしても...
(りうさん、か。...可愛かったなぁ...)
※※※
翌日の夜、彼女は律儀にお礼をしにやって来た。
どうして自分の住所を知っているのかと思ったが、どうやら彼女は隣のアパートに住んでいるようで、俺が会社へ出勤する時間に、家から出て行くところをよく見かけていたらしい。
「つまらないものですが」と言い、手作りのお菓子をくれた。
玄関先で受け取ってはいさようならという訳にもいかないし、かといって玄関先で長話をするのもはばかられた。
「どうぞ」と言って自宅の部屋へ彼女を通す。
本当に、人の咄嗟の行動はよく分からない。
冷静に思い返せば、アラサーの自分が10代後半の女の子を自宅に招き入れるというのは、かなりキワドイ行為なのではなかろうか。
本当に彼女が来るのなら、ちゃんと部屋を片付けておくべきだったと激しく後悔しながら、キッチンでお湯を沸かし、二人分の焙じ茶を淹れる。
愛読書のエロ同人誌は、書棚の端に入れブックカバーを掛けてあるので、一見してそれとは分からない。
システム・オール・グリーン。
彼女とテーブルに向かい合うように座る。
持ってきてくれたお菓子はお手製クッキーで、間にチョコレートがサンドされている。
とても美味しい。
というか、女の子の手作りお菓子なんて人生で初めて食べた。それも作り手と一緒に、だ。
味云々よりも、このシチュエーションこそ感無量であった。
その日は二人でお茶とお菓子をつつきながら、彼女が如何に仔猫のミーちゃんを大切にしていたかという話や、自分たちがどんな生活をしているのか、簡単な自己紹介のような会話をした。彼女には、年相応に子供っぽい無邪気なところと、どこか大人びいた一面を感じた。
(しっかりした子、なんだな...)
自分は会社に勤め始めるのをきっかけに上京し、そのままこの街で何年か暮らし、これといって華やかな生活も友達も、もちろん恋人もいない、寂しいサラリーマンであることを、たどたどしく話した。美少女を前に緊張していたんだと思う。
1、2時間、楽しい会話が続いて、その日はお開きになった。
(夢のような時間だったな...)
と、その晩、クッキーの包み紙を枕元に置いて寝たことを覚えている。
その日を境に、彼女、りうさんが、たびたび家に遊びに来るようになったのだ。
自分の仕事のこと、彼女の学校生活のこと、お互いの趣味、好きな映画やアニメの話など、日々話は尽きなかった。
そうこうしているうちに、互いに自然と敬語を使わなくなり、友達のように話せるようになった。俺は彼女を名前で「りうちゃん」と呼ぶようになっていた。彼女は俺のことを名前ではなく「おにいさん」と呼んでくれている。「おじさん」じゃなくて本当に良かった。
彼女を信用しているということもあったし、どうせ盗まれて困るようなものもほとんどないので、自分が不在の時でも気軽に来られるように、合鍵すら渡してある。
唯一、絶対にバレてはならない例の愛読書は、秘蔵の場所に仕舞い込んだ。
だから今日、こうして残業から帰宅した俺を、彼女は「おかえり」と言って出迎えてくれたのだ。
これまでの自分の人生を考えれば、長い夢を見ているような、幸せと驚きで充満している状況なのだが、どうしても笑顔で帰宅することができなかった。
もちろん、彼女が家で待っていてくれたのはとても嬉しかったのだけれど。
「おにいさん、大丈夫?」
部屋に入って立ち尽くして黙っていると、彼女が下から覗き込んできた。心底心配そうな表情で。そんなに自分は顔色が悪いのだろうか。
確かに今日は、嫌なことばかりだった。でもそれは今日に限ったことではない。
仕事は上手くいかず、上司からはいつも叱責され、隣の席の女性社員からは煙たがられ、後輩からは蔑んだ視線を浴びせられ続けている。
何が悪いのかは分からないが、俺はどうも“出来が悪い”らしい。昔からそうだ。
何をやっても人並み以下。それどころか、底辺と言って良い。
学校生活だけでなく、社会に出てからもそんな自分を変えることが出来ず、結局バカにされ、嫌がらせを受ける毎日だ。
それでも、生きていくために、餌にありつこうとする野良犬のように、這いつくばって会社へ向かう。死んだ魚のような光のない目で帰路につく。
「りうちゃんに話すようなことじゃないんだけどさ...」
「うん?」
心配そうにこちらを見る彼女から、視線を外して続ける。
「生きていくのって、思っていたより理不尽で、思っていたよりずっとつらいことなのかもしれないなって。分かっちゃったっていうか。ごめん。せっかくりうちゃんが遊びに来てくれているのに、最近ずっとこんな調子で...」
そう言うと、彼女は「何があったの?」とは聞かなかった。代わりに、
「ねえ、おにいさん」
「うん?」
「しゃがんで、後ろ向いて」
俺に向かってそう言った。よく分からないが、言われるがままにする。
しゃがんで後ろを向くと、後頭部の辺りから、すぐに彼女の声がした。
「もういいよ」
そのままの姿勢で彼女の方を振り返ーーー
思考は完全に停止した。
彼女はセーラー服の裾を捲り上げ、目の前で、彼女の胸があらわになっていた。
下から彼女の形の良い胸を見上げながら、混乱を極める。
「なっ、ちょっ、どういう!?」
「ギュッってしてあげようと思って」
「ギュッてって、あの、その、えっと...」
「私だって恥ずかしいんだから、は、早くしてよっ///」
彼女の顔も紅潮している。
「ははははやはや$%&`@!?」
「...別に嫌ならいいけど」
「わああああ!嫌じゃない!嫌じゃないですはい!!で、でも、なんで?どういう!?」
「本に書いてあったから。男の人はこういうの好きって」
一体どんな本をご覧になったのでしょうか、お嬢様。
「な、なるほど!」
何がなるほどなのだろうか。いやしかし...
(母さん以外の女の人のおっぱい、生で初めて見た...)
当たり前である。
彼女いない歴=年齢であり、その手のお店にも縁が無かったのだから。
相変わらず脳は回らない。それに反比例して心臓の鼓動は急加速していく。自分の鼓動と血流の音が耳をつん裂き、目眩がする。
「ちょっとだけだかんね///」
「...はいっ」
生唾を飲み込もうとするが、喉に引っかかって上手く下せない。
手を伸ばせば触れられる距離から、手を伸ばさずとも触れられる距離へと近づいていく。
彼女の透き通るような白い肌が、より鮮明に網膜に焼き付く。
時間は水飴のようにトロッと甘く引き伸ばされ、永遠であるかのような錯覚をもたらしている。
もうあと数センチメートルで、鼻先が彼女の乳房に触れるというところで、ピタッと動きを止めた。
彼女。りうちゃん。
1ヶ月程前に出会い、日課のように家に遊びに来てくれるようになった。
多分、一生で一度も会話をすることなんてないだろうなと思うような美少女。良い子。
この1ヶ月間、彼女には、今までの人生の何万倍、何億倍もの素敵な日々をもらっている。
こんな日々が自分に訪れるなんて、夢にも思わなかった。いや、今もまだ長い夢の中を過ごしているんじゃないかと、時折思う。
そして、もしかすると彼女は、彼女なりに今、自分を慰めてくれようとしている。
でもそんな彼女に、俺は甘えて良いのだろうか。汚してしまうのではないだろうか。それにーーー
「...怖く、ないの?」
ずっと聞きたかったこと。でも聞けなかったこと。
怖いのはむしろ俺の方だった。
「怖い?」
「うん、なんていうか...俺は男だし、その...急に襲ったりするかもしれない。いやそんなこと絶対しないけど!でも、出会って間も無い、何処の馬の骨かも分からない大人の男の家に来て、その、危ないこととかあるかもしれないとか、そういう...」
言葉にならない。焦れば焦るほど、口の中が乾いて声が掠れた。
彼女は可愛くとても良い子で、正直すごく好みだ。ずっと一緒に居たい。一緒に二人の時間を過ごしたい。そう思っている。思ってしまっている。
だからこそ、言い出せなかった。
もし、彼女が身の危険を意識して、距離が離れていってしまったら。軽蔑されて二度と会えなくなってしまったら。そんなことを考えると、震えが止まらなかった。
俯いていた顔を上げて、彼女を見上げる。
硝子玉のような綺麗な瞳は、こちらにじっと向けられたまま動かない。口も開かない。恐怖が膨れ上がっていく。
「りうちゃんはいつも遊びに来てくれるし、こうやって癒しもくれる。一緒に過ごす時間は、俺の中でもう何にも変えられない宝物みたいになっていて。でも!どうしても不安で。もし自分がりうちゃんの立場だったら、怖くはないんだろうか、とか。今まで意識していなかっただけで、そういうことがあるかもしれないと思ったら離れていっちゃうんじゃないか、とか」
止めどない想いが、拙い言葉となって喉から掠れ出る。膨れ上がった恐怖や不安が破裂したように、噴出する。
「俺、今、毎日しんどくて。必死に頑張って、生きてくために仕事して、でも何も上手くいかなくて。今日だって会社に行って、嫌でつらくてしんどくて、周りに蔑まれたり。死にたいと思うことだってある。でも...でも、りうちゃんに会えると思うとなんとか頑張れるんだ。...依存しているのは分かってる。迷惑かもしれない、いやきっと迷惑だって」
もう、止まらなかった。止まれなかった。
「だから、りうちゃんを失いたくない。ずっと一緒にいたい。でもそれは自分勝手な感情で、りうちゃんのことを何も考えていない!そんな自分に気付いて、自分を許せなくなったんだよ。気持ち悪い俺の気持ち悪い感情だけだったんだ!だからいっそ、いつか終わりが来るならもう」
「おにいさん」
鼻先にある彼女の乳房が微かに震え、自分を呼ぶ彼女の柔らかい声が、頭の上から響いた。
彼女は微笑んでいた。
今までもずっと可愛いと思っていた。俺はいい年をして彼女にベタ惚れだった。
でも、今、彼女がつくる微笑みは、今までで一番可愛く、そして美しかった。
「おにいさん」
もう一度俺を呼ぶ。その声はまるで、休日の午後に窓辺へ差す温かい太陽の光のよう。
「おいで」
「え?...あっ」
俺は彼女に抱きしめられた。
強く。とても優しく。
自分の頬が彼女の肌に触れる。
この世界のどんな言語を駆使しても、決して形容できない感覚が、心身を満たしていく。
「私も寂しかったの」
俺を抱きしめながら、彼女は続ける。
「知らない街に転校して来て、知らない人たちと毎日を過ごして。そんな時にミーちゃんに出会った。学校でも友達ができない私の唯一の理解者が、ミーちゃんだった」
彼女の言葉と心臓の鼓動が、自分の中に流れ込んでくる。
「ミーちゃんが死んじゃって、そしておにいさんに出会った。おにいさんは、独りぼっちになるはずだった私を、独りにしないでいてくれた。私はミーちゃんを守ってあげられなかった。初めてギュッて抱きしめてあげた時には、ミーちゃんはもう生きていなかった」
1ヶ月前のあの日、彼女は涙を流しながら仔猫のミーちゃんを抱きしめていた。強く、そして優しく。
「だからね、今度こそは守ってあげるって決めたの。私の大切な存在を、生きているうちにギュッて抱きしめてあげようって。そして、ずっと一緒に生きていきたいって」
彼女の大切な存在。
生きる。一緒に、ずっと一緒に。
自分を、あの日のミーちゃんと同じように抱きしめて、あの日のミーちゃんと重ねて、そして今度は守りたい、ずっと一緒に生きたいと、そう言った。
「だから、生きて。強くなくたっていい。誰に蔑まれたっていい。生きて、私と一緒に」
途切れてしまうかもしれない生命線の真ん中で、彼女は俺を、柔らかく掬いあげてくれた。
「りうちゃん...俺、ちょっ...と...だめ...かも...」
彼女の言葉が温かかった。彼女の想いが嬉しかった。
彼女のことが、ただ、愛おしかった。
涙が溢れ、視界を滲ませた。もう止められなかった。
一緒に生きてと言ってくれた彼女の胸の中で、俺は泣いた。
ありがとうと、大好きだと、それだけを伝えたいのに。
嗚咽が溢れて言葉が出ない。
溢れる涙が彼女の胸に染みていく。
恥ずかしくて、情けなくて、たまらなかった。
10も年下の女の子に守られて、抱きしめられて、ありがとうも言えずに嗚咽している自分が。本当は自分が彼女を守ってあげたいのに。抱きしめてあげたいのに。
自分が泣いている間、彼女は何も言わず俺の頭を撫で続けていた。
咽び泣く俺の声にならない声だけが、四畳半の空に反響していた。
※※※
「大変お恥ずかしいところをお見せいたしまして申し訳ございま...あっちぃ!」
「ちゃんとふーふーしてから飲まないから。火傷しちゃうよ?」
「はい...」
ひとしきり泣き、落ち着いたところで、二人はテーブルを挟んで座っていた。
俺が泣き止んでしばらく経ち、気分もスッキリしたところで、彼女のおっぱいに顔を埋めているという状況を改めて理解し始めたものだから、
(もうちょっと裾捲ってみたいな)
などとよこしまな感情を抱いた訳だが、即刻バレてしまった。
女の勘はスルドイ。
そして、罰としてお茶を飲みながらお説教を食らうということになった。
「ミーちゃんと違って、キミは油断も隙もないね」
「いや、その、とても気持ちよかっ...じゃない!心地よかった」
「どっちも一緒でしょ!でも本当に男の人っておっぱいが好きなんだね」
「そりゃもう!りうちゃんのなら尚更」
「反省してるの?」
「...すみません」
自分からセーラー服の裾捲ったくせに。
思っても口には出さない。出せない。
そしてよこしまな企てがバレてから、「おにいさん」ではなく「キミ」に降格した。
おにいさん。...甘美な響きだったのに...
思い切り甘えて恥を晒したことで、彼女との会話に随分と慣れてきた。だが、何を隠そう、彼女いない歴約30年のコミュ力は伊達じゃない。調子に乗ってはいけない。
「ねーおにいさん」
「あ、戻った!」
「間違えた。ねーキミ」
なんなんすか。
「これからも遊びに来ていいかな?」
「え、もちろんだよ!大歓迎!」
「...毎回おっぱいは無しだからね?」
「ん?...ってことは、何回かに一回の割合でおっぱいさせてくれるっていうk」
「帰る」
彼女はお茶をグイッと飲み干し、スクールバッグを手に玄関へ向かう。
「ああああ!嘘です冗談です!猛省します!許してくださいなんでもしますから!!」
「...プッ...あははっ!」
廊下を滑りながらスライディング土下座をキメる俺を見下ろし、堪らず彼女は吹き出した。
「キミは本当に面白いねえ!いいよ、今この瞬間から私のシモベにしてあげよう」
おにいさんからキミ、そしてシモベに。
小一時間の間に二階級降格を余儀なくされてしまった。
「ははぁ。お嬢様、思うがまま、わたくしめで宜しければ何なりとお申し付けくださいませ」
でも、そんなことは気にしない。
だって、
「私、明日カレーが食べたいわ。そうね、チキンカレーがいいかしら。時刻は19時。ディナー会場はそこのテーブルで。シモベのあなたもご一緒して宜しくてよ?」
俺と彼女の物語は、ずっと続いていくのだから。
fin.
れぶん
2021-06-09 03:52:10 +0000 UTCPoppin_Oyaji
2021-06-07 15:15:44 +0000 UTCれぶん
2021-05-07 11:18:01 +0000 UTCれぶん
2021-01-07 09:47:02 +0000 UTC