俺には越えなければならない壁がある。
それはとてつもなく巨大で、堅牢で、そして無慈悲だ。
「んーっ!...眠い」
これだ。
小さなテーブルを挟んで向かいに座るのは、10代後半の女の子。「りう」という少し珍しい名前の持ち主だ。大きな瞳が印象的で、控え目に言っても美少女と言わざるを得ない。
俺は彼女と、ある出来事をきっかけに出会い、彼女がこうして家に遊びに来るようになってから1ヶ月以上が経過していた。
女性にモテない男日本代表のような30歳手前の自分が、唐突に、容姿端麗な美少女と時間を共有するようになったものだから、嬉しさの反面、戸惑いも多い。そして何より、
「うん?どしたの?」
「あ、いや、別に」
伸びをする彼女のセーラー服は裾が捲れ、透き通るような白い肌と小さなヘソが見える。それに、形が良く程よい膨らみのある胸部が、胸を反らすことで強調され、目のやり場に困ってしまう。
咄嗟に目を逸らし、テーブルの上の湯呑みに視線を落とす。赤茶色の焙じ茶の水面に、冴えないアラサーの顔が映っている。
「ねー」
「ん?」
視線を落としたまま、短く反応する。
「最近、ちょっと距離あるよね」
「距離?」
「私のことちょっと避けてるっていうか、近づかないようにしている」
「そ、そんなこと」
無い、と言いたいが、彼女の指摘はズバリ事実である。
「せっかく仲良くなれたと思ったのにな...」
「あ、いや、りうちゃんのことが嫌とかじゃないから!それは絶対ない!」
「じゃあどうして?...も、もしかして私、クサい!?」
そう言って彼女は自分の腕や腋に鼻をあて、クンクンと匂いを嗅ぐ。
もちろんそんなことはない。むしろ、近くにいるととても良い香りがする。言えないけど。
うーん。どう説明したものか。
自分の気持ちを彼女へ上手に説明することができない。ここ1ヶ月間で彼女との会話に随分慣れてはきたが、彼女いない歴=年齢の自分には、この件を誤解させることなく説明するのはハードルが高すぎる。
前を向くと、潤いを帯びた瞳で彼女に見つめられている。この眼力は反則だ。
「えっと、なんていうかさ。俺は女性とお付き合い?とかしたことないし、その、ちょ、ちょっと緊張してしまうっていうか」
「私といると?」
「うん...特にその、近くで色々見た時なんかに...」
「色々?」
「は、肌とか...」
なんとかそう告げると、彼女は小さな口に指先を当てて考える仕草をした。そして、
「分かった!」
「お、おぅ!?」
パッと明るい笑顔が弾け、身を乗り出してくる。
それ!それなんだってば!色々近くて生々しいのが!
また目を逸らしてしまう。
「分かったって、何が?」
「慣れれば良いんだよ!」
「な、慣れる?」
「そう!習うより慣れろって言うし、肌を見る?ことに慣れれば緊張もしなくなるんじゃないの?」
そういう問題なのだろうか。確かに一理あると思うけど...
「でも、どうやって慣れたら...」
彼女とこうして過ごすようになって、もう1ヶ月以上が経つというのに、全く慣れる気配はない。
「もうちょっとこっちに来て」
言う通りにする。
彼女は部屋の床に座り、それに倣って、自分も彼女の前に腰をおろす。
「んっしょ...」
肩に手を置けるくらいの至近距離まで近づくと、彼女はおもむろにセーラー服のジッパーを下げ始めた。
「ちょっ!な、何して!?」
「近くで肌を見る練習」
「いやいやいや、それは、ちょっと」
ジッパーを下げると、彼女の胸や下着が顕になる。透き通るような綺麗な肌がより一層鮮明になり、左右の乳房がつくる谷間がとても柔らかそうなラインを形成している。暗い色のブラジャーが、そのコントラストで彼女の肌をより白く見せている。
「ほら、ちゃんと見ないと」
「ちゃんとって...りうちゃんは、は、恥ずかしくないの?」
「そりゃ恥ずかしいよ。でも、男の人ってこういうの好きって本で読んだし」
だからそれは一体どんな本なのですか。
少し前にもこういったやりとりがあったことを思い出す。あの時は、自分が自暴自棄になりかけていたことを、彼女が察してくれて、彼女に抱きしめられながら下乳に顔を埋めるという幸福の極みのようなシチュエーションを経験した。今回は上から彼女の胸を眺めている。
今回も彼女なりの気遣いなのだろう。
「じゃ、じゃあ...は、拝見させていただきます...!」
「う、うん」
やっぱりとても綺麗だ。表現しようのないほどに美しい。...が、しかし。
世界の美術品をうっとりと鑑賞するのとは訳が違う。
彼女は生身の人間であり、美少女であり、拝見させていただいているのは、程よく膨らんだ胸。
要するに、おっぱいだ。
心拍数は上限まで競り上がり、その鼓動で自分が揺れ動くほどだ。
さっき、彼女には“緊張する”という言葉で、彼女との距離が空いてしまう理由を伝えたが、正確にはそうではない。
緊張ももちろんあるが、それだけではないし、それは一番の理由ではない。
俺はアラサーであっても、何を隠そう、まだまだ健全な男子なのだ。
彼女と近距離で接すると、女性耐性の低さも相まって...そう。下半身に熱いパトスが滾るということだ。
「ち、近い...///」
彼女の声でハッと我に帰る。谷間に吸い込まれるように、無意識に更に距離を詰めていた。
「ご、ごめん!」
「ううん。大丈夫。思ったより恥ずかしくなっちゃっただけ...」
さすがに近すぎたようだ。彼女を見上げると、顔を赤らめて曰く言い難い表情でこちらを見ている。その表情が、更に俺の...男心を猛烈に刺激した。
「もうちょっと...脱ぐ?」
少し潤んだ瞳をして、彼女が尋ねてくる。
この一言で、俺は限界に達した。
「だ、大丈夫!!ちょっと、ご、ごめん!その、ちょっと待ってて!待ってなくてもいいけど!ちょっとごめん!!」
意味不明に叫びながら、部屋から出る。トイレに駆け込む。
まずい。非常にまずい。
パターン・レッド。緊急事態発生。
俺を揺さぶる、俺の中のエネミーを直ちに粛清しなければ。取り返しのつかないことになる。
※※※
感じたことのない罪悪感を背負いながら、自室へ戻る。
この時ばかりは、彼女に部屋で待っていて欲しくない、と思った。
しかし、彼女は同じ位置にちょこんと座っていた。セーラー服のジッパーは上がっていた。
「ただいま...」
「...おかえりなさい」
なんと気まずい雰囲気か。
彼女の前、少し離れた場所に座った。彼女は俯いたままさっき以上に顔を紅潮させている。
嗚呼、これは...
「よ、欲求の処理...ですか?」
この敬語はキツい。
勘づかれない訳がなかった。
いきなりトイレに駆け込む自分を見て、ただ“お手洗い”に行ってきただけ、などという都合の良い解釈をしてもらえる筈がない。
彼女は年齢的に大人ではないものの、とても多感な時期だ。この手の事にはより一層敏感だろうに。
「ごめんなさい...」
数分前まで、目の前の彼女が欲求の対象だったことを思うと、自分が気持ち悪く、吐き気がする。自分は最低な男であるとさえ思ってしまう。実際、最低だ。
「...俺、気持ち悪いよね」
「ううん。そうじゃないの。私の方こそごめんなさい。少し、勘違いをしていたことに、やっと気付いて」
俺の気持ち悪さを否定してくれる彼女の優しさが、逆に胸に刺さる。
「私、少し寂しいと感じていたの。キミと仲良くなれたのに、なんだか避けられているような気がして。それは、お互いの心の距離があるからかなって。だから、もっと親密になれば、そうすることに慣れればきっと心を開いてくれるんじゃないかって。不器用すぎるよね、私」
心の距離。
意外な言葉が彼女の口から漏れた。彼女の言う『距離』というのは、物理的なものに限った話ではなかった。自分の方こそ、彼女の気持ちを完全に勘違いしてしまっていた。
「あ、いや、俺の方こそ、勘違いしていたみたいでごめん」
ちゃんと告げよう。彼女の想いに背かないためにも、勇気を出して。
「あのさ、俺、りうちゃんに嫌われたくなくて、距離を取っていたんだ」
「嫌われたくなくて?」
「うん。俺、男だし、りうちゃんのことをすごく魅力的だと思っている。だから、その...近づいたり肌を見たりすると、なんていうか、変な気持ち...えっちな気分になってしまうことがあって。だ、だからと言って手を出したり襲ったり、そんなことはしないけど!でも、りうちゃんを見てそういう気持ちになってしまう自分がすごく嫌なんだ。りうちゃんともっと近づきたい。心の距離も縮めたい、仲良くしたい。でも、距離を詰めれば詰めるほど、自分の煩悩も膨れ上がっていく。そういう気持ちを上手くコントロールして一緒に過ごしたいっていつも思うけど、どうしようもなくて。もちろんそれはりうちゃんに魅力を感じているからなんだけどさ...目の前の男がしょっちゅうそんな目で自分を見ている、なんて思ったら、嫌じゃない?」
自分の告白を聞いて、彼女は真剣な眼差しでこちらを見返している。間が持てなくて、次の言葉を紡ごうと必死で脳を回転させるが、言葉が出てこない。そんな俺を察してか、あるいは偶然か、彼女の方から口を開いてくれた。
「だから私、キミと一緒にいるの、好きなんだよ」
「え?」
そんなに良いことを言っただろうか。いや、そんなことはない。
「そういう経験無いし、私は男じゃないからちゃんと理解はできていないと思うけど。こういう状態って、有り得ないと思うの。普通だったら」
「有り得ない?」
「うん。それこそキミが言うように、私は襲われたりしていてもおかしくないって。そうなっても相手だけに責任があるなんて言えないようなこと、しちゃってるよね」
「いや、そんなことは...」
無い、と言い切ってあげたい。だが、そうではないことを、彼女自身がちゃんと分かっているようだ。
「きっと、すごくつらかったよね?変な気持ちにさせてしまっていること。ちゃんと気付いてあげられなくて、ごめんね?」
なんという優しさだろう。優しいという言葉がちっぽけなワードにさえ思えてくる。
「りうちゃんが謝ることじゃないよ」
「ありがとう。でもこのままじゃダメだって感じているの。だから、選択肢は3つだと思う」
「3つの...選択肢?」
「うん、今の状態を改善するための。
1、私たちは二度と会わない。
2、キミが私を襲う?んー、え、えっちするのを許す。
3、全て受け入れる」
「1つ目は絶対いに嫌だ。2つ目もダメだ。少なくともりうちゃんが大人になるまではダメ。だから1と2は却下。...3つ目の『全て受け入れる』っていうのはどういう?」
前者2つの選択肢は色々とダメだ。これは絶対に選択してはならない。
けれど、3つ目の選択肢は、一体何だろう。今、全てを受け入れられていないということだろうか。
「キミは本当に優しいんだね。嬉しい」
優しいのはどう考えても彼女の方だ。
「『全て受け入れる』というのは、そのままの意味」
「えっと、その、つまり?」
「すごく優しいけど、すごーく察しが悪い」
そう言って彼女はクスクスと笑う。
「キミは、私と過ごしていると、その...えっちな気分になることがあるんだよね?」
「えっ、あの...はい」
目を見ながらストレートに言わないで!
「それは抑えきれない衝動で、自分ではコントロールできない」
「うん」
「なら、そのままで良いんじゃないかなっていうこと」
「えっ!?」
「だって、さっきみたいに、“処理”?をすれば鎮まるんでしょ?」
つい先ほど、堪らずトイレに駆け込み男の欲求を“処理”したことを思い出して赤面する。恥ずかし過ぎて脳天から湯気が出そうだ。
「完全には無くならないし、また度々そういう気持ちになっちゃうけど...」
「でも一時的には抑えられるんだよね?」
「う、うん。まあ、いわゆる『賢者タイム』と呼ばれる間が一定時間訪れるという...」
「『賢者タイム』。後で調べておくね」
調べなくていいです。
「キミは、そういう気持ちになることを自然なことだと受け入れて、抑えきれなくなったら、さっきみたいに“処理”をする。逆に私は、男性とはそういうものだ、ということを理解して納得する。そうやってお互いを分かった上で、今までどおり楽しく一緒に過ごす。こういうこと」
「ちょ、ちょちょ、ちょっと待て。一旦落ち着こう」
落ち着くべきなのは自分である。
「だってそれじゃ、お、俺はりうちゃんを度々性欲の対象として考えてしまうってことだよ!?」
「うん。だって仕方ないんでしょ?」
「そうだけど...気持ち悪いとか思わないの?」
「うん」
なんということだ。
彼女には年齢の割にどこか大人びたところがあると思っていたが、もはやそんなレベルではない。
普通の子だったら、この場で110番通報されてもおかしくないようなことを、さも名案だと言わんばかりに自ら提案している。
「おにいさんはさ」
「あっ!」
「間違えた。キミはさ」
クソッ!今のは惜しかった。思わず反応してしまった。
「私に対してえっちな感情を抱いたり、そういう妄想?をすることに罪悪感を持っちゃうって言うけれど。それは違うと思う」
「違うの...?」
「うん、違う。さっき、すぐに否定してくれたよね。私たちが二度と会わないとか、一線を越えるという選択肢を。色々と思うところはあるだろうし、キミにはつらい思いをさせてしまうこともあるかもしれないけれど」
彼女は一旦そこで言葉を切って、姿勢を正した。真っ直ぐに俺を見据える。
この瞳から逃れる術は存在しない。
どんな魔法を唱えても、俺は彼女へと吸い込まれていくだろう。
「キミは、何とかしてこの心地よい関係と環境を守ろうとしてくれたんだから」
「あ...」
「お互いに少しずつ理解が足りなくて、どこかですれ違って、心の距離が離れちゃっていたんだと思う」
そのとおりだ。
彼女に対する罪悪感。そして胸中に秘めた感情が露呈した時、俺は彼女に気持ち悪いと思われて、関係が壊れてしまうことを、何より恐れていた。
全て話せば彼女が受け入れてくれるなんて、想像もしていなかった。
彼女は逆に、理解し、受け入れようとしていることを俺に伝えきれていなかったのだ。
「わがままかもしれないけど。私は、今までどおり、キミと一緒に過ごしていきたい」
「俺も...俺もりうちゃんと一緒にいたい!俺、ちゃんと自分を受け入れて、ちゃんと全部話すから。りうちゃんを信じて、全部。だから、俺の方こそ迷惑をかけるかもしれないけど、一緒に、いたい」
「うん!」
彼女がつくる満面の笑みが眩しい。
全部話す、と言ったけれど、俺は早くも一つ嘘をつく。でもこれは、ご愛嬌ということにして良い筈だ。
鼻がムズムズすると言ってティッシュで鼻をかむ...ことにして、こっそり、目尻に浮かんだ涙を拭ったのだ。
※※※
彼女はその夜、初めて俺の家に泊まることとなった。
彼女の小さな寝息が暗闇の四畳半を覆う。
もう少し危機感を持っても良いのではないか、とどうしても思ってしまう。
反面、こうして自分の隣で無防備に眠る彼女を見ると、嬉しくなる。
すなわち、安心しきっているという何よりの証拠だからだ。
信じてくれている。俺の、彼女に対する言葉や想いを、本当に信じてくれているからだろう。
もちろん、こんな情けない自分は、いわゆる異性として、大人の男性として見てもらえていないことも大いにあるだろう。自分にそんな魅力がないことは、自分が一番分かっている。
けれど、今はそれで良い。
いつかは、互いを互いに、恋だとか、愛だとか、そんな風に甘く定義付けできたら...なんて、いい歳をして夢見るが、今は、これで。
師走の夜は冷え、これから季節は一層過酷な冬の真ん中へ向かっていく。
けれど、自分の胸のあたりには、柔らかい灯籠のような温かさが宿っていくのを感じていた。
fin.
れぶん
2021-06-09 03:53:21 +0000 UTCPoppin_Oyaji
2021-06-07 21:14:03 +0000 UTCれぶん
2020-12-18 09:39:06 +0000 UTCメイ
2020-12-17 13:38:17 +0000 UTC