「父さん!...父さん!」
母の腕を振り解いて叫んでいた。
無機質なベッドに横たわり、時折、車両の振動で体が震える以外の反応は無かった。
『赤信号直進します...赤信号直進します...』
寒空の下に響くけたたましいサイレンは、その内側にいることで、より鮮明に感じた。
カーテンが引かれているので外の状況は分からない。察するに、夜の幹線道路をとばし、搬送先の病院へ向かっているはずだ。
俺はこの日初めて救急車に乗った。必死で俺を抱き寄せる母と、物言わず心肺蘇生を受ける父と。
「父さん!ねえ父さんってば!」
「大丈夫よ、きっと大丈夫だから。いつも父さんは強い人でしょう?ダメだなんて、絶対にないから」
父の元へすがろうとする俺を、母さんは抱き寄せて引き留めた。
母さん、ダメ、ってどういう意味?
結局、最後までそれは聞かなかった。
俺を掴む母さんの腕も震え、寒さとは別に青ざめた顔をしていた。
「きっと、きっと大丈夫だから」
俺の手を強く握る母さんの手は、冷たかった。
サイレンは鳴り響く。
その中で俺は、何人かの救急隊員に囲まれて胸部を圧迫され続ける父を、ただ見守ることしかできなかった。
※※※
「...っ!はぁ、はぁ...」
いつの間にか眠ってしまっていた。手足が悴んでいる。
目を開けると、必要以上に強く白い光が網膜を刺激してくる。
呼吸が整わない。
白いリノリウムの床が、蛍光灯の明かりを眩しく反射している。
「今は...」
腕時計をしてこなかったので、時刻が分からない。ここに着いたときは23時より少し前くらいだった気がするが。
俺は、都内にある総合病院の廊下に備え付けられた長椅子に腰掛けていた。
背中を丸め、組んだ両手を額に当てて息を吐く。動悸は治まらなかった。
気持ちを落ち着かせるため、立ち上がって自販機へ向かう。
何も口にしたいと思わないが、HOTと書かれたお茶の下にあるボタンを適当に押し、カイロ代わりに拾って元の場所に戻る。
130円のペットボトルは、何の慰めも与えてはくれなかった。
『208 有栖川』
白い引き戸の左上に、そう書かれたプレートが設置されている。
「りうちゃん...」
クリスマス・イヴの夜、俺の自宅で、彼女は突然倒れた。
クリスマスプレゼントを渡そうとした時に、彼女は横たわって痙攣を起こした。
いくら呼んでも返事はなく、呼吸が不規則で、脈も弱まっていくのを感じ、俺はどうすることもできなかった。
慌てて救急車を呼ぶのが精一杯だった。
彼女は都内の総合病院に救急搬送され、医師は、担架で運ばれた彼女の意識が無いことを確認すると、すぐに診察室に入った。
診察の結果、彼女、りうちゃんの命に別状はないとのことだった。
だが、意識は未だ戻らず、不安定な状態が続いている。最悪の場合、記憶障害などの後遺症が残る可能性がある。医師にはそう告げられた。
朝までその場に留まっていたかったが、意識不明の彼女の容態では、面会などできる訳がなく、「今日は帰りなさい」と言われ、その日は深夜に帰宅せざるを得なかった。
家に帰ると、金色のネックレスが虚しく床に転がっていた。
彼女に渡す筈だった、クリスマスプレゼント。
俺は、壊さないように両手でそっと掬いあげ、胸に抱いた。
痛いほど強く握りしめ、涙を堪えた。
「りうちゃん...!」
どうして。
あんなに元気だったのに。
どうして急に...
その日は一睡も出来ないまま、翌日を迎えた。
不思議と眠気はなかった。
本当は仕事なんて休んでずっと彼女のそばにいたかった。
でも、ただでさえ首切り寸前の窓際社員の自分には、その勇気がなく、そういう自分自身の不甲斐なさ、忸怩たる思いが、より自分を責め立てていった。
上司や同僚の冷たい視線を無視し、定時後、すぐに病院へ通う日々。
仕事納めの日がやってきても、彼女は目を醒さないままだった。
年の暮れ、今日も朝から病院へ向かう俺のスマホに着信があった。
病院からだ。
慌てて通話ボタンをタップする。呼吸が速くなる。
「はい、もしもし」
「あ、よかった!有栖川さんの意識が戻りましたよ!都合の良い時に病院へいらしてください」
「ほ、本当ですか!?良かった!今向かっています!」
俺の都合なんて、彼女のため以外に存在しない。
通話終了ボタンをタップすると、全速力で最寄駅へ駆け出した。
※※※
「りうちゃん!!」
白い引き戸を思い切り開け、息を切らしながら叫ぶ。部屋の中には、女性看護師と医師、そしてベッドで座って少し驚いたような表情の彼女がいた。
「すごい...すぐ来てくれたんだね、ありがとう」
「りうちゃん...良かった...本当に。もう大丈夫なの?体の具合は?」
「うん、平気だよ。ごめんね、すごく迷惑かけちゃったみたいで」
「そんなことない!俺、俺...りうちゃんがずっと目醒めなくて、もうどうしていいか分からなくて...」
たった数日間聞いていなかっただけだというのに、耳に届く彼女の声は、とても久しく感じられた。
今すぐ彼女に触れて、抱きしめたい衝動を必死で抑える。目頭が熱くなり、涙腺が崩壊しそうになりながら、くしゃくしゃな笑顔を作ってみせた。
彼女もこちらを見て、いつもの笑顔を向けている。
「えーっと。説明しても宜しいですか?」
「あ、す、すみません。り...有栖川さんが目醒めたので、つい...」
顔が熱くなる。
女性看護師は、含みのある笑みを浮かべ、俺と彼女を交互に見ている。
「搬送されてきた日から、毎日、有栖川さんのところへお見舞いにいらっしゃっていたんですよ、彼氏さん」
ふふっ、と笑いながらそう言うと、今度はりうちゃんが赤面した。
彼氏ではないです、そう否定した方が良いのだろうか。
でもここでその話をしてもややこしくなるだけなので、今は聞かなかったことにしよう。りうちゃんにそこを否定されたらちょっと切ない...と思って彼女をちらっと見るが、俯いて顔を赤らめているだけだった。
ああ、かわいい。
「有栖川さんが倒れた原因は、おそらく過労によるものです」
「過労...」
「点滴を打って、容態が少し回復していましたので、先ほどヒアリングをさせていただいたのですが。学業に部活動、アルバイトの掛け持ち...高校生の若さとはいっても、身体に無茶をさせすぎています。それに、学校は転校してきたばかりだとお聞きしましたし、心労も重なってのことかと」
アルバイトを掛け持ちしていることまでは知らなかった。てっきりどこかの店舗で働いているだけだと思っていた。学校生活は、友達がなかなか出来ないと言って悩んでいた。
「意識も回復しましたし、後遺症も今のところ無いように思います。ただし、くれぐれも無理は禁物です。本当はご両親にも連絡をとりたいのですが...」
「親は、遠くに住んでいるのですぐに会うことは出来ないんです。でも、電話でこういうことがあったと、ちゃんと伝えようと思います」
彼女はそう答えた。
彼女は、高校生ながら親元を離れて一人暮らしをしている。その辺の事情は混み入った話がありそうだったので、まだ詳しくは聞いていない。立ち入った話を聞いて良いものかどうか悩み、結局当たり障りのないことしか知らないのだ。
「そうしてください。有栖川さんは今日で退院となりますが、年末年始の外出は控えてください。まだ体力も完全に回復したわけではないのです。インフルエンザなどの流行時期でもありますし、体力が低下したままでは、他の感染症に罹ってしまうこともあるんですよ」
「はい、分かりました。家で大人しく過ごします」
「彼氏さんは近くに住んでいらっしゃるのですよね?」
急に自分に話をふられた。彼氏さん、と言われるのは悪い気はしないが、正式に恋人という訳ではないのでなんだかむず痒い。
「はい、すぐ近くです」
「有栖川さんの経過をしっかり観察してくださいね。何かおかしいところがあれば、かかりつけ医でもこちらの病院でも構いませんので、すぐに連絡をしてください」
「分かりました」
「では、お大事に」
病室を出る際、看護師がウィンクをしながら耳元で俺に囁く。
「お身体良くなって本当に良かったですね。家に帰ったら、優しくギュッてしてあげてね、ふふっ」
「ちょ、何言ってるんですか!」
「いくよー!」
廊下の奥でりうちゃんが手招きしている。
「し、失礼します!」
小走りで彼女の元に近づき、後ろを振り返る。看護師さんは、右手を振りながら、含みのある笑みを浮かべていた。
(からかわれてるな、完全に...)
※※※
自宅の前まで戻ってくると、一気に安堵感が押し寄せてくる。
別に好きでもない地元だが、こうして戻ってくると、気分が落ち着くのはなぜだろう。
「本当に、りうちゃんが元気になってくれて良かったよ」
「ごめんね、色々迷惑とか心配掛けちゃって」
「ううん、大丈夫。でも、先生も言っていたけど、あまり無理しちゃダメだからね?学費のこととか色々あると思うけど、俺で良ければ相談にのるし、この先のこととかも一緒に考えていこう」
「ありがとう...ねぇ」
「うん?」
「今日は、キミのお部屋が良い。...ダメ?」
「え、でも自宅でゆっくり療養しなくていいの?」
と、大人っぽいことを言いつつ、俺の心はもう決まっている。
断れる訳ないじゃないか。そんな懇願するような上目遣いでキラキラと見つめられたら。
「ただいまー!あーやっぱりここは落ち着くね〜」
「もうりうちゃんの自宅みたいになってるね、俺んち」
「『別邸:有栖川』なんちゃって」
「ははっ、それいい」
家に帰ってくると、彼女の言うようにホッとする。
「いつもの、淹れるね」
冷え切った部屋の暖房を強めに入れ、お湯を沸かして焙じ茶を淹れる。
こうして焙じ茶を飲みながら、小さなテーブルを挟んで彼女と話す。つい数日前まで当たり前になっていた日常が、こういうことがあると、とても有難いことだと再認識させられる。
「改めて、色々とごめんなさい。人の多いところも避けないといけないから、約束していた神社への初詣も行けなくなっちゃった」
「良いって良いって。全然。気にしないでよ。ここでゆっくり休むことが出来るなら、しばらく居ても良いから」
「ホント!?やった!じゃあお言葉に甘えて、キミの家で年越しさせてもらっちゃおうかな」
彼女の表情がパッと明るくなる。いつも思うが、可憐な華がパッと咲くように彼女は笑う。つられて自分も自然と笑みが溢れる。
彼女がたまに自宅に泊まることがあるので、安物ではあるが、以前、布団をもう一つ買った。毛布もあるし、彼女がゆっくり療養するくらいなら問題ないだろう。年始にはスーパーマーケットが休みになるかもしれない。年末のうちに食材などは買いだめしておこう。
それに、家でずっと独りで過ごすのも、きっと寂しい。自分だってそうだ。もちろん彼女の体調が最優先だが、自宅でもここでも一緒なら、誰かが居た方が楽しいはずだ。
こんなこと、彼女に出会うまでは思いもしなかったな、と改めて考える。
やっとの年末仕事休み。以前なら、独り家に篭って、映画を観るなり好きなだけ寝るなりゲームをするなり...一人の時間を邪魔されることなく謳歌できることに、束の間の安堵感と現実逃避を感じたものだ。
でも、今は彼女と一緒に過ごす時間を、1分でも1秒でも多く取りたいと思っている。人と一緒にいる時間というものが、これほどまでに幸福なことだなんて露ほども思わなかった。
「うーん」
湯呑みを口につけながら、彼女が唸った。
「どうしたの?」
「やっぱり、約束守れないのは申し訳ないなって」
「だから、大丈夫だよ。俺はりうちゃんと一緒に年越しできるだけで十分満足。っていうか年末年始ずっと一緒に居られるって思うだけで楽しみ過ぎるくらい」
「もーっ!ホントにキミはそういうところずるい」
彼女が頬を紅潮させる。
なんだか最近は立場が逆転することが増えた気がする。
彼女の直球ど真ん中とも言えるような言葉を受けて、こっちが赤面させられることが多かったが、最近は彼女の方が恥ずかしがることがある。
うむ、実にかわいい。
「あ、じゃあさ、代わりに一つ、何かして欲しいことない?」
「してほしいこと?」
「そう。初詣に行けない代わりに、私にして欲しいこと、一つ」
「うーん...」
自分は本当にりうちゃんと過ごせるだけで大満足なのだが、せっかくの彼女の申し出だ。
「分かった。ちょっと考えておくね」
「うん!」
※※※
『明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いしまーす!』
二人で手を合わせ、「寿」と金字で書かれた割り箸を手にする。近くのスーパーで買ってきたものだが、なんだかこれだけでも正月気分だ。
目の前には、お世辞にも豪華とは言えないお節料理が並んでいた。
大晦日に、りうちゃんは、お節を作ると言い出したが、それは断った。もちろん、料理の腕が達者な彼女の作るお節料理は、喉から手が出るほど食べたかったが、今は彼女の体力を極力消耗させたくなかった。だから、今回は頑として譲らず、代わりに俺が“お節料理もどき”を拵えたのだ。
「上手じゃん!おいしいよこれ!」
グー◯ル先生に大変お世話になりながら、黒豆や栗きんとん、松前漬けなどを作ってみた。もともと一人暮らしが長かったせいか、彼女には到底及ばないものの、料理のスキルはそれほど壊滅的ではない。
「ほんと!?よかったー。りうちゃん料理上手いからさー、ちょっと不安だったんだよね」
「全然!私の作るものとは味付けとかが少し違うし、自分ではこういう甘さが出せないと思う。キミすごいね」
「ありがたきしあわせ〜」
ひとしきりお節料理もどきを堪能し、りうちゃんも美味しそうにたくさん食べてくれる。この分だと体力も順調に回復するだろう。良かった。
食後に俺は珈琲を、りうちゃんには焙じ茶を淹れ、二人でずずっと啜る。
ふぅ、今年も良い年でありますように。
「ねえねえ、そこのダンボールの中、何が入ってるの?」
玄関脇にやや大きめのダンボールが置かれている。昨日宅配業者が届けてくれた品だ。
「おっと、これはですね...」
気を持たせるように言葉を切り、ニヤリ、と唇の端を上げた。
ダンボールのガムテームを雑に剥がし、中から品物を取り出す。
そう、これは年末に、善は急げとお急ぎ配達を指定したものだ。今日に間に合って良かった。
「じゃん!!」
「わぁ!かわいい!」
自慢げに見せたのは、巫女服を模した衣装。
コスプレや正月用の部屋着として使われるもので、そこそこ本物に近いクォリティがある。サイト内の評判もなかなか良かった。
「りうちゃんが、初詣の代わりに〜って言ってくれたから、色々考えてね」
「え?」
「初詣といえば神社。神社と言えば巫女さん。でしょ?だから、これをりうちゃんに着てもらって、自宅で初詣気分を味わおう!っていう」
「わー!それ楽しそう!え、でもこれ私が着て良いの?」
まさか俺が着る訳にいかないでしょう。
「もちろん!絶対似合うよ!着替えてみて」
彼女に巫女服を持たせて脱衣所に促し、自分はソワソワしながらテーブルで珈琲を啜る。
「こ、こんな感じ、かな...」
「...!」
辛気臭い四畳半の空間は一転、神聖なる神社の境内へと姿を変えた。
深窓の舞姫が今、自分の為だけにましましている。
その背後には、赤鳥居まで見えてきそうだ。
「か、か...」
「か?」
「かわいい...!めちゃくちゃかわいいっ!」
これを初詣と呼ぶのなら、俺、365日初詣しちゃう。
「あ、ありがとう...///でも、本当にいいの?どちらかというと、これ私へのプレゼントになっちゃってない?」
「そんなことないよー!りうちゃんの巫女さん姿が見られるだなんて、俺氏、もう、思い残すことはない」
「ちょっと!縁起でもないこと言わないの」
まったく。と彼女は頬を膨らませ、それでも目元は笑っている。
「まあ、こっちに来て、お茶会の続きをしましょう。巫女様」
自宅に舞い降りた可愛らしい巫女さんを手招きし、椅子を引いて、恭しくお辞儀をしながら座らせる。
「結構着心地良いんじゃない?」
「う、うん。でもこれ...」
「うん?」
「は、袴短くない?///」
緋色の袴は短く、その中、つまり下着が見えてしまっている。
白く清い色の綺麗な布地が、彼女の股下の形に合わせて凹凸を成していた。
「そ、そそ、そうかな?ちょっと短いかもしれないけど、ほら、コスプレとかそういう、ね」
予想より15センチは短かった。
その15センチが、更に素敵な元日を提供している。
今まで彼女の胸は何度か見てしまったのだが、パンツは初めて拝見した。
それも間近で見てしまっているので、否応なしに、その布地が形成する膨らみや食い込みが、何によるものなのか分かってしまう。
これはまずい。
いや、パンツを拝見できたことはまさに棚からぼた餅なのだが、ここ最近、りうちゃんの心配ばかりしていたせいか、男として日々蓄積される欲求の処理をしていなかった。
眼前にまします白きヴェールの内側に、一体何があるのか。それを想像してしまうことで、下腹部の更に下、男を男たらしめるモノが、急激に活力を得てしまう。
行き過ぎた想像をするな俺!!
除夜の鐘ではなく、自分の頭を鉄鎚で108回小突いた方がいい。
「ねえ、これパ、パンツ見えちゃってない?」
「え、そ、そんなことあるようでないです。大丈夫です、膨らんでません食い込んでません」
ぺしっ。
しゃがんで密かに彼女のパンツを眺めていたところ、頭を引っ叩かれた。
彼女は立ち上がって膝掛けを取って戻ってきた。
純白の天使は隠蔽されてしまった。
カムバック!ホワイト・パンティー!!
※※※
「全く、キミはホントに油断も隙もないね」
「いや、素晴らし...素敵だった!」
「どっちも同じでしょ!」
このやりとり、前にも経験した気がする。
彼女は俺を、ジト目で見ながら焙じ茶を啜る。
でも、巫女服は気に入ってくれたようで、巫女服はそのままに、上から羽織を着ている。膝掛けによりパンツは完全にお蔵入りだ。
「そういえばりうちゃん」
「膝掛けの下から覗いたら踏んじゃうからね」
もう完全に変態扱いである。
「違うって!そうじゃなくて。りうちゃんはご両親の元を離れて一人暮らしをしているんでしょ?年末年始は実家に帰ったりしないの?」
「うん。今年は体調も崩したばかりだし、ちょっとキツいかな〜って。でも連絡はしたよ」
「そっかそっか。りうちゃんの実家ってどの辺なの?」
そういえばまだ聞いていなかった。
「遠い、遠いーーー最果ての場所」
なぜだろう。
彼女は憂いを帯びた表情で窓の外を見ていた。辛そうではないが、いつもの笑顔はない。俺の思い過ごしかもしれないが、少し、表情に切なさの色が混じっているようにも見えた。
「サイ、ハテ...?」
「そう。最果て」
彼女は時折、珍しい言葉を使う。
最果て、というからにはとても遠い場所なのだろう。北海道か沖縄か。あるいは海外かもしれない。
続きをじっと待っていたが、それ以上、彼女が口を開くことはなかった。
彼女、りうちゃんは、年の割にはすごく大人びいたところがある。逆に、年齢よりも子供っぽい無邪気なところもあり、極端な性格と言えなくもない。
こういう彼女が持つ独特の雰囲気は、その“最果て”での生活に起因するものなのだろうか。
つまり、過去に何かがあり、それが少し風変わりな彼女の内面を構築したのかもしれない。
もちろん、知りたい。
彼女のことならなんだって知りたい。
でも、彼女が口を閉ざしているということは、今はまだ聞くべき時じゃないのかもしれない。だから俺は、あえてそれ以上聞かないことにした。
話題を変えるべく、俺は前から少し考えていた一つの提案をすることにした。
「ねえりうちゃん。近いうちにさ、休日に旅行しない?」
生まれて初めて女の子を旅行に誘った、記念すべき瞬間である。
「えっ!行きたい!いいの?どこいくの!?」
そこにはもう憂いを帯びた彼女はいない。いつも通り、向日葵のようなパッと明るい彼女がいた。
「りうちゃんの体力がちゃんと回復したらね」
「はーい」
口を尖らせて頬を膨らませる。
ころころと変わる表情を見ていると面白い。本当に表現の豊かな子だ。そういうところは子供っぽい一面であり、愛おしい。
そんな彼女を見て、俺は急に、彼女の頭を撫でたくなった。
そういえば、自分は年上らしいことを何もしていないじゃないか。
たまには格好もつけてみたいものだ。
「りうちゃん、ちょっと、その、触ってもいい?」
「え?う、うん。もう、しょうがないなぁ///」
彼女はそう言って緋袴に収めた白衣を引っ張り出そうとする。
「え?...って、ちょっと待って!」
「うん?だって、お、おっぱい触りたいって言うから」
誰もおっぱいだなんて言ってません。さすがにそこまで勇気ありません。
「違います。違わないけど、違います」
「何その俳句」
口元に手を当ててクスクスとりうちゃんは笑った。
いえ、おっぱいももちろん触りたいですけど、ええ。
「ちょっと、頭を撫でてみたいなって」
「あー、子供扱いしてるー」
また拗ねる。
「してないしてない。なんかこう、仔猫みたいだなって」
仔猫のミーちゃん。彼女と出会うきっかけとなった仔猫だったが、彼女はミーちゃんとどこか似ているのかもしれない。
彼女の頭にそっと手を置いた。そのまま左右にゆっくり撫でてみる。
ふわっと、淡く良い香りがした。
ずっと、こうしていたい。
視線を下げると、彼女は恥ずかしそうに上目遣いでこちらを見ているが、嫌がる様子はない。
むしろ、ちょっと嬉しいと感じているのかもしれない。
「体調良くなったらさ、温泉旅館にでも行こっか」
「行きたい!」
「ちゃんと良くなってから、ね?」
「うんうん!」
「りうちゃんは、どこか行きたいところはある?」
「雪が、見たい」
「雪?」
今は冬の真っ只中。この辺ではまだ雪は降っていないが、地方に行けば随分積もっている頃だろう。どこかの高速道路が積雪と吹雪によって封鎖され、数千台の車両が立ち往生した、なんていうニュースも最近見た気がする。
「真っ白で、キラキラしている、一面の雪が見たい。あ、でもキミは寒いのが苦手なんだっけ?」
「うん。でも、全部が全部苦手っていう訳じゃないんだ。なんていうのかな、街中のどんよりとした寒さが好きじゃないっていうだけで」
そう。
父が倒れたあの日も、暗澹とした冬空に覆われていた。
「俺さ、幼い頃に父さんを亡くしていて。その時も、この間のりうちゃんみたいに急に倒れて救急車で運ばれたんだ。その日も空はなんだか寂しくってさ、どんよりしていて寒かった。だから、そういう寒さがちょっと苦手なんだよね」
「...そう、だったんだ。ごめんね、そんな気もしらずに。...思い出させちゃったよね」
りうちゃんは申し訳なさそうに、そして心配そうに眉根を寄せた。
「この話、まだしていなかったんだから、りうちゃんが知らないのは当たり前だよ。それに、りうちゃんはこうして俺の元にちゃんと戻ってきてくれた。だから、悲しいんじゃなくて、嬉しいんだ」
「本当に?」
「本当に。気に病まないで。うーん、そうだなぁ...パッと澄んだ冬空っていうのは結構好きだよ。心がピリッとして、スーッと心地よいっていうか。だから、もし良かったらそんな場所に行こっか」
「いいの?無理してない?」
なおも気遣わしげにこちらを伺う。
「大丈夫だって。もうずっと昔のことだし、それに」
「それに?」
「りうちゃんは、ずっと一緒にいてくれるんでしょ?」
彼女の表情が次第に変わっていく。
断崖の氷壁がゆっくり溶けていくように。
トーストにのせたバターがじんわり染み込んでいくように。
いつもの柔らかく温かい、あの笑顔が戻ってくる。
大きな瞳が一層潤いを帯びて、美しく輝いている。
この表情が、瞳が、俺は何より好きだ。
「ずっと一緒だよ。これからも、たくさん思い出を作っていきたい。キミと」
「うん。俺、この部屋でりうちゃんと過ごす毎日がすごく好きなんだよ。大したものもないけどさ。りうちゃんがいると、世界の色が変わるんだ。薄暗いと思っていたこの部屋だって、今じゃ眩しいくらいに感じてる」
言って、猛烈に恥ずかしくなる。
これではまるで、プロポーズみたいだ。
「私もここが好き。でもね、ここじゃないどこかで、ちょっと非日常を感じてみたいとも思う。...真っ白な雪に囲まれて、温かいお湯に浸かって、コタツに入っていつもみたいにお話をして。そこには変わらずキミが居る。寒いけどあったかい。そんな思い出も作ってみたいなって」
寒いけどあったかい。
彼女に出逢ってから、俺の心に宿り、今もなお灯り続けている感情そのものだった。
曰く言い難い、素敵な心地よさ。
彼女にも、胸いっぱいにこの気持ちを感じてもらいたい。
「寒いけどあったかい。うん、そんな場所に行こっか」
「うんっ!」
彼女の弾ける笑みを見る度に、その身体を抱きしめたいと思う。
でも、それは少し早いかな、という気がした。
今はこうして、彼女の髪に触れ、頭を撫でていたい。
「りうちゃんの髪、良いにおい」
「ちょっと変態っぽい、その発言」
プッ、と彼女は吹き出す。
「う、うるさい!せっかく褒めたのに!ちゃんと体力戻さないと、旅行も行けないからね!」
「早く治すもーん」
父を奪い去った冬が、俺は嫌いだった。
でも、今年、少しだけ冬の寒さを許し、好きになれるかもしれない。
さらさらと滑る濃茶色の彼女の髪に指を絡ませ、そんなことを感じていた。
Fin.
Poppin_Oyaji
2021-06-12 23:02:05 +0000 UTCれぶん
2021-01-10 04:07:09 +0000 UTCしょこにゃん
2021-01-07 13:27:27 +0000 UTCれぶん
2021-01-05 11:53:32 +0000 UTCyoshinomura
2021-01-04 12:51:42 +0000 UTCれぶん
2021-01-04 09:50:50 +0000 UTCメイ
2021-01-03 12:31:50 +0000 UTC