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第7話:さいん、こさいん、たんじぇんと。




心、踊る。


胸、ときめく。




今日、俺は人生で初めての体験をすることになる。それはきっと、もう、ほんの5分後には訪れる。

自然と鼓動が高鳴り、家を出る足取りも軽やかだ。それもそのはず。

これから5分とかからずに到着予定の場所は、楽園そのものなのだから。




ピーンポーン。


「はーい!」


安っぽいチャイムの音。ワンテンポ遅れて、声の主がドアを開けて出てくる。

有栖川、と表札に書かれた二階の部屋から出て来たのは、りうちゃん。


「あ、その、つ、つまらないものですが!」

「キミ、どうしたの?」


俺の顔に何かついているのだろうか。彼女は俺の姿を見て笑っている。

服装がまずかったか。

普段、休日に、食材や日用品を買う目的以外で、お洒落な街に外出することなんて滅多にないので、外行きの服を探すのに手間取ってしまった。

お世辞にもセンスが良いとは言えないだろうが、一応、冴えない男なりに精一杯身なりを整えてきたつもりだ。


「何かついてる...?ふ、服おかしい、かな」

「ううん。なんでそんなに緊張してるのかなって」


そういうことか。

自分でもそこは不思議に思っていた。


確かに今日は、我が人生で記念すべき日。女の子の部屋に初訪問、それも大好きなりうちゃんの。

心のアルバムに、油性マジックで何度も書き重ねたいほどのビッグイベントだ。


けれど、彼女とは、何度も日課のように俺の自宅で時間を共にしている。成り行きや彼女の気分で泊まっていくことだってある。もちろん、一線を越えるような“お泊まり”ではないが、要するに、一つ屋根の下で二人きりという状況には、さすがの俺も慣れているのだ。


しかし、今、俺はガチガチに緊張しきっている。


「いや、やっぱり結構違うんだよ。自宅に招くのと、相手の家に訪問するのとでは...」


昔からほとんど女性と接点の無い俺にとって、“女の子の部屋”というのは、言わば知られざる秘境のようなものだ。それこそ漫画やアニメでしか見たことがない。


「そういうものなの?」

「う、うん」

「とりあえずほら、入って入って。寒いでしょ?」

「お、お邪魔します...」


促され、りうちゃんの自宅に一歩、足を踏み入れた。

彼女は、諸々の事情があって、高校生ながら一人暮らしをしている。


玄関の先は細い廊下となっており、奥の部屋に続いている。

なんというか、全体的に自分の家より明るい気がした。住んでいる人間の魅力に比例するのだろうか。

部屋に通されると、買ってきたお菓子を渡した。さっきよりは少し落ち着いた調子で、

「つまらないものですが」

「なんだか悪いね。私が勉強を教えてもらうのに、お菓子まで貰っちゃうなんて」

「良いよ良いよ、りうちゃんの家に招いてもらっただけでもすごく嬉しいし」

「それを言ったら、私、毎回招いてもらっちゃってるよ...お菓子、半分こしよっか?」


!?


「今、なんと?」

「え、私だけもらうのは悪いから、おかし半分ずつ食べない?って」

「は、半分もくれるの?あのりうちゃんが?」


甘いものと、俺を翻弄する術が書かれているであろう謎の本に対してだけは堅牢鉄壁のガードを堅める彼女が、お菓子を半分もくれるだなんて。


「むっ!それ、私がいつもちっとも分けてあげない食いしん坊みたいじゃん」


そのとおりじゃないか。




※※※




二人で向かい合って座椅子に座り、ローテーブルの上にお菓子と問題集を広げている。


彼女の部屋はそこまで広くない。俺の部屋と同じ四畳半程度だろう。

しかし、綺麗に片付けられているせいか、俺の部屋より随分広く見える。家具類の彩りも床の色に合っていて、こういう場所を落ち着いた女の子らしい部屋というのかもしれない。彼女のセンスの良さを感じる。

部屋の端には木製の本棚が置かれ、漫画、教科書や参考書などが棚ごとに分けられている。

“例の本”は...残念ながら確認できない。


そして一つ、異彩を放っているのがキッチン。

よく安いアパートにあるタイプのものではなく、少し小振りなシステムキッチンという感じの設えだ。料理好きの彼女のことだから、キッチンだけはこだわって選んだのだろうか。

キッチン周りだけが少し広い。


今日はりうちゃんに勉強を教える、という名目で彼女宅に訪問することとなった。

そろそろ定期試験があるとかで、どうしても教えて欲しいと言われ、休日にお邪魔しているのだ。

「せっかくの休日にごめんね」

「とんでもない!休みの日にりうちゃん家に招待してくれるなんて、光栄だよ」


自分のプライベート空間に、俺を招いてくれるという彼女からの信頼を感じ、心躍るとともに、嬉しさが込み上げている。


緊張が少し和らいできたところで、お菓子を一つつまみ、問題集に視線を落とす。


sin...cos...tan...


なるほど、数学の中でも、今回の試験範囲は三角関数がメインのようだ。

ここで躓き、理系の道を断念する学生も多いと聞く。


「難しくてよく分からないんだよね、三角関数」

「ここは今までの数学とガラッと雰囲気が変わるところだからね。ゆっくりやっていこ。ちゃんとレクチャーするよ。ところで、りうちゃんは数学が苦手なの?」

「うっ...そ、そんなこと!」


ああ、これは超苦手なヤツだ。


「sinって何か大体分かる?」

「へにょっとした曲線」

「cosは?」

「モニュメントバレーみたいなやつ」


重症である。

モニュメントバレーという単語が瞬時に出てくるあたりは、すごいというかなんというか。ただし、cosの説明としては的外れもいいところだ。


「...」

「わ、分かるよ!冗談だし」

「...本当に?」

「う、うん。三角比はちょっとだけ分かる」

「あー、なら大丈夫かな」

「ホント!?」

「うん、三角比の応用みたいなものだからね」

「この前の数学は平均点いかなかったんだよぉ...赤点ではなかったけど」

「よし。今回は平均点越えを目指して頑張ろう」

「おー!そういえば、キミは数学得意なの?」

「一応、理系大学出身だからね。得意っていうほど出来は良くないけど、文系教科に比べたら多少は...」


俺は一応、大学の理工学部出身だ。

優秀とは程遠いが、それでも理系教科で受験をなんとか突破した経験がある。

多少なら彼女の力になれるだろう。...多分。


「へぇ!そうだったんだ。すごいね!」

「ふっふーん」


りうちゃんに褒められるとすぐ調子にのってしまう。

「てっきり、一番得意なのは、保健体育かと思ってた」


実技以外はな!!


「こ、こらっ!集中!」

「はーい」


まったく、俺をからかうのが大変お上手になったことで。


「じゃあ、まずは問題を解いてみよう。始めは公式を見ながらで大丈夫だよ」

「分かった!やってみるね」


りうちゃんが勉強を開始した。

分からないところがあったら聞くから、それまで適当にマンガでも読んでくつろいでいてね、と言われたので、そうさせてもらうことにした。




適当に手に取ったマンガは、以前本屋に立ち寄った時にちょっと気になっていたものだった。


主人公が強敵に立ち向かうが歯が立たず、仲間の一人が人質として囚われてしまう。

仲間を助けるべく主人公は恥を捨て、そのライバル的存在の人物に頭を下げて、ともに戦ってほしいと頼む。

仲間のために、プライドの塊のような主人公が全てをかなぐり捨てる様は、涙ものなのだ。

ライバル的存在の人物もその心意気を察し、握手を交わす。

胸の熱くなるシーンに涙腺を刺激されたところで、りうちゃんの唸り声が聞こえた。


「うーん...うーん...?」

「どうしたの?分からない?」


マンガのページを繰りながら、声だけで彼女に話しかける。


「さっき書いた公式のやつ」

「うん?」

「メモ、知らない?...どっかいっちゃって」

「メモ?」


顔をあげてメモとやらを探そうとした、その時。











一瞬でメモは見つかった。


なんだ、あるじゃないか。

その美しいsinカーブのようなおしりの内側に。


...おしりの...ところに...


彼女はメモを探すべく、ほぼ逆さまと言っていいような四つん這いになって床に這いつくばっていた。

その格好ゆえに、純白のパンツと、それを挟み込む滑らかなお尻が露出している。


肌は透き通るように綺麗で、まさにマシュマロを連想させるかのようだ。

パンツの一部が食い込み、一部は隆起している。それが、内側にある彼女の恥部の形状に沿っていることを意味していた。


「メ、メモって、二倍角の公式の?」

「あ、それそれ!どこにある?」

「え、あ、その...そこに...」

「うん?どこ?」


どこ?と言われても。


りうちゃんの心底困ったという表情と、もっとメモを、否、ぷりっとしたおしりとその谷に食い込む純白のヴェールを眺めるチャンスを天秤にかける。




...パンツの圧勝だった。


「うーん、困ったなあ」

「だ、大丈夫!ほら、二倍角の公式って、加法定理から導けるから、それも勉強だと思って」

「そっか。加法定理って、あの長い公式だよね」

「そうそ...あ、ちょっと待って。待った!そのまま!」

「え?」


そのままの格好でりうちゃんはキョトンとしている。


「お、俺が教科書取ってあげるから!」

「え、いいよー。テーブルに戻って勉強したいし、メモはまた作れば...」


体を起こし始めた彼女を慌てて静止する。


「ウェイト!プリーズウェイト!!」


さっきまでは、マンガの内容に涙腺を刺激されていた。

今は、前立腺近傍が大いに刺激され、心拍がドキドキと強く脈を打っている。


...まったく、俺ってやつは幾つになっても、


「健全な男子だな」

「うん?」

「な、なんでもない!...あっ!」


俺は大袈裟に声をあげた。


「な、なに!?」

彼女はびっくりして振り返る。

「あった!メモを見つけた!」

「え、ほんと?っていうかさっき見つけたって...」

「細かいことは気にしない!とにかくあったよ」

「どこどこ?」


えー、ごほん。


「と、と、取っても良い...でございましょうか?」

「うんうん」

「怒らない?」

「え、どうして?怒らないよ。むしろ大感謝!あれがないと次の問題解けなくて」


彼女のど天然ぶりに大感謝しつつ、彼女のメモ、否、おしりに近寄った。

パンツからだろうか、曰く言い難い、女の子独特の良い香りがする。











より鮮明に、肌質やパンツの布地、そして図らずして形成された皺や食い込み、膨らみで視界がいっぱいになる。


ドキドキはバクバクに。


そわそわはギンギンに。




三角関数における加法定理の確立に至るきっかけとなった古代ローマの天文学者プトレマイオス、古代ギリシャの数学者アルキメデスをはじめとする、御歴々に感謝の祈りを捧げる。


ありがとう。天才たちーーー


彼女のおしりに貼り付いた緑色のふせんに手を伸ばす。

そしてゆっくりと、糊の部分をーーー


ぺりっ。


「んっ...あっ」


りうちゃんが声を上げた。


その声はいかん。非常にいかん!

なんというか、その、とてもえっちだ。


声にならない甘い声が、俺の脳をとろけさせ、理性を吹き飛ばにかかる。

無意識に、りうちゃんのソプラノトーンの声が、脳内リピートされる。

...都合良く改ざんされた上で。



『んっ...あぁっ!♡』



下半身の硬化膨張現象は抑えられるはずもなく、眼前に迫る女神のパンツでさえ、視界が虚ろになってぼんやりとしている。


プトレマイオス大先生には申し訳ないが、これはもう数学なんてやっている場合ではない。

俺の高鳴りは収束を知らないtanθの無限遠に放り投げられた。


さぁ!保健体育のレッスンをはじめーーー




べしっ!


「いたっ」


頭上に軽い衝撃を受けた。

上を向くと、腰に手を当てて頬を膨らますりうちゃんが、半眼でこちらを睨んでいる。その頬は高熱を帯びたように紅潮していた。

「あ、ほら、め、メモを...」


少しだけ彼女の温もりが感じられる付箋紙をそっと差し出すと、彼女はそれをひったくるように俺の手から奪った。


「キミはミーちゃんと違って、油断も隙もないね」


お嬢様に隙がありすぎるんです。

...と言わない代わりに、バツの悪い表情を浮かべて後頭部をポリポリと掻く。


「だ、だってメモがそこにあったから!」

「言ってくれれば自分で剥がせたもん」


まあ、確かに。


「目のやり場に困る位置にあったから、その、口で説明するのが難しくて...」

「でも、ずっと見てたでしょ」

「うっ...」

「まったく。えっちなんだから、キミは」

「すみません」


ふう。と短い溜め息を吐いて、彼女はこちらに向き直る。

相変わらずの硝子玉のような美しい瞳は、この世の光を全て吸い込んでしまったかのように、煌めいている。


「キミと一緒だと、勉強になりません」

「ご、ごめん!そんなつもりじゃ...」

必死に謝罪する。調子にのりすぎた。


「ふふっ」

しかし、彼女は楽しそうに笑った。


「良い意味で、ね」

「え?」

「キミといると、楽しくて勉強どころじゃなくなっちゃうんだもん。マンガを読んでいる時、感動して泣きそうになっていたでしょ?」

「え、なんで知って!?」

「見ていたから」


あの、勉強は...


しかし。


彼女のパンツは最高だったが、これでは本末転倒。彼女の成績が心配だ。

パンツとおしり、そして彼女の甘美たる声を、断腸の思いで一旦思考の外に追いやり、テーブルに向かう。


「よし、それじゃ、改めて問3(2)からやってみよう」

「えー。ちょっとだけゲームしよ?」


懇願する瞳を向ける。

俺はこれに非常に弱い。この瞳を向けられると、なんでも「はい」と言ってしまいそうになる。が、しかし。


「だめ。それ、気づいたら夜まで遊んでるパターン」

「むー...」


りうちゃんは勉強モードではなくなってしまっている。でもここは、切り替えが大事。


「ちゃんと今日の予定が終わったら、一緒にゲームして遊ぼう」

「ほんとに?」

「うん、約束」

「やったあ!じゃあ、頑張ってあげないこともない」


彼女は、ずい、と小指を突き出してくる。

その意味を理解し、俺は彼女の華奢な小指に自分の小指を絡ませた。


ゆーびきーりげーんまーん...


彼女は問題集とノートを再び開く。

シャープペンシルをくるっと一回転させてから、問題を読み始めた。


その姿を見て、俺はなんとも懐かしい気持ちになった。

自分も、頑張ったと胸を張って言えないまでも、大学受験の前は嫌々ながら、それなりに勉強していたなあと。

もう、10年以上前のことだ。


デジャヴのように彼女が問題集に向かっている姿を横目に、なんだかんだ、10年間なんていう月日はあっという間に過ぎ去っていくものだと感じる。


その10年間で得たものは決して多くはないが、今、こうして彼女と一緒にほのぼのとした日常を過ごしていることは、想像もつかなかった幸せだ。



※※※




「終わったぁ!」


彼女が歓喜の声を上げ、大きく伸びをする。


「どれどれ...おっ!出来てる!正解!」

「わーい!やった!...じゃあ」

「うん、約束どおり、ゲームでもしよっか」

「うん!」


とても嬉しそうに笑顔を弾けさせる。

彼女の表情は豊かだ。真剣な表情から一転、夏に咲く向日葵のような明るい笑顔に変わる。こうやってころころと表情を変化させるところは、子供っぽくて可愛らしい。


「鬼太郎電鉄しよ!」

「お、良いねー!あれだよね。電鉄会社の社長になって、電車で全国駆け回って、物件を買い漁るマネーゲーム」

「そうそう。あ、でもキミは物件独占しちゃダメ。あと貧乏神私につけるの禁止ね」

「えっ、ちょ、何その飛車角抜き将棋みたいな!」


彼女は悪巧みが成功した時のような、にやっとした笑みを浮かべる。


「勉強中にパンツ覗かれちゃったしなー」

「あれは不可抗力だって!あんな格好してたら見ない方が難しいでしょ!」

「おしりも触られちゃったしなー」

「触ってない!付箋しか触ってない!」

「はい、決まり!ゲームスタート」


ぽちっ。


軽快な音楽とともに、鬼太郎電鉄がスタートする。

とてつもないハンデを背負って、俺はりう社長と対戦することとなった。


ま、確かにパンツやおしり、甘美な声を堪能させてもらったのは事実だし、これくらいはお愛想だろう。


「それ以外は手加減しないからね?」

「望むところだぁー!」


二人の社長は、真剣な眼差しで戦地へ赴くのであった。





fin.

第7話:さいん、こさいん、たんじぇんと。 第7話:さいん、こさいん、たんじぇんと。 第7話:さいん、こさいん、たんじぇんと。

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