順序というのは大切だ。
順序を間違えると、伝えるべき情報が後ろに、趣旨と違う別のインパクトが全面に来てしまう。
そして趣旨を重視する際、判り易さが損なわれる事もある。
なぜなら時系列や情報の重要度の並びを入れ替える必要が出てくるからだ。
時系列通りに、あるいは単純に重要度の高いものから並べていくと、僕が言わんとする趣旨と違うテーマが最前列に陳列されてしまい、読む人の受け取るものが本質から遠ざかってしまうということだ。
人は往々にして本質よりも、理解り易いものを先に理解しようとする性質がある。
本質に至る前に、話題の中の最も目立つワードに意識を絡め取られて、その事を軸に以後の文章を読み進めてしまうようになる。
無論そうでない人もいる。
ただ、多くの人は大概そうなる。
僕自身も含め、人間というのは想像以上に情報の並び順に扇動されやすい生き物なのだ。
それ故に手品などが存在する。
人々の意識を、意図的にある一点に誘導し、意識、視点から外れた場所で「行為」を行う。
それが手品だ。
それと同じ手法は多くのマーケティングやプロパガンダなどにも用いられている。
人々の意識の誘導、扇動。
別にそれについて言及したいわけじゃない。
ただ人間は、視界の右側で動く気配を感じれば眼球が自動的に右側に動いてしまうから、左を着目して欲しい場合には、右側には極力動くものを配置しないように心がける、という話だ。
僕は俗に言うノンセクシャルである。
ノンセクシャルというのは「同性なり異性なりに恋愛感情は抱くが、性的な欲求は抱かない種類の人間」を指す。
恋するインポ野郎だと思ってくれればいい。
野郎なのかどうかというのもまた厄介な定義なのだけど、一応便宜的に野郎という事にしておく。
ただ話の流れの関係で唐突に野郎でない場面が出てきても、まあなんとなく雰囲気で察して欲しい。
・
僕は男性にも女性にも恋をする。
だけどそれ以上の感情を抱かない。
つまり「ヤりたい」とは、ならない。
もちろん付き合いたいとか、もっと親密になりたいとか、沢山一緒にいたいとかは思う。
でもその感情が性行為への欲求には繋がらない。
けど多くの人は自然と「好き」から「付き合う」から「セックス」と連鎖していく。
場合によっては好きじゃなくても、付き合って無くてもセックスしたりもする。
僕にはそういうのが無い。
「好き」
終わり。
そんな感じ。
シンプルなようでややこしいのがノンセクシャルという人種。
ノンセクシャルだけじゃない。完全な普通性愛者ではない、何かしらの性的問題を抱える大概の人がややこしい事情を不本意に引きずりながら生きてると言っていい。
無論、そういうのを抱えてない人もいると思う。
でも僕の周囲にはあまりいない。
大概皆何かを抱えてる。
その意味で、僕の抱えるものも別にさほど大したものじゃない。特別なものでもない。ただ普通と少し違うという程度の話だ。
・
人は時々恋をする。
頻繁に恋をする人もいるらしいけど、僕の場合は時々だし、僕の周りも頻繁に恋してる人よりは、時々恋してるくらいの人が多い。
頻度は重要だ。
それによって重みと質感が変わる。
毎日飽きるほどステーキを食ってるのか、人生で数えるほどしかステーキ食べたことないか、みたいな話だ。
恋愛なんて、頻度により質感が変容するその最たるアクティビティだろう。
時々。
と書いたけど、実際はそれよりもっと少ない。滅多に恋はしない。というかほぼしない。
今僕は30代半ばなのだけど、恋をした相手は2,3人くらい。
少ないくせに数が曖昧なのは、恋の定義によって2にするか3にするかが変わってくるという事だ。
そういう事ってあるでしょ?
そして厳密性はここでは重要じゃない。
2か3、それでいい。
ノンセクシャル・・・非性愛者が恋愛をする時最も厄介なのは、やっぱり性行為だ。
自分はしたくない。
けど、相手は、したい。
で、大概最初は相手が理解を示してくれて、無理には性行為を求めてこない、けど次第に欲求が高まっていって、我慢できなくなっていって、性欲の不解消が関係性に亀裂を入れ始め、渋々性欲の解消に応じる、というのはノンセクシャルならそれなりの確率で経験する工程だと思う。
そういう時、ああ、遠いな、って感じる。
それまで一番近くにいた人が、遠くに行ってしまう感覚。
僕は同じ場所にいて、同じ姿勢で同じソファーの上に居て、相手だけが突然変異的に別の何かになってしまうような感じ。
性行為に及ぶ際、多くの人は顔つきや言動、挙動、声のトーンまで変化する。
性行為をする時、普段と全く1ミリも変わらない人というのはあまり見たことがない。
で、僕は「そういう変化が一切ない」わけだ。
厳密には違う。
僕は彼らの「逆」になる。
彼らは意欲的に増長するのに対し、僕は消極的に萎縮する。
ああ、早く終われ、とっとと終われ、できれば今すぐに終われ。
そして、行為が終わった後には、全部無かったことになってほしい。
性行為モードに突入した瞬間から、性行為が完了するまでの時間をまるごと切り取ってティッシュで雑に包んでゴミ箱に放り込みたい。
あわよくば便所で流してしまいたい。
みたいな気持ち。
だから僕の恋愛は大概長く続かない。
というより恋愛に至らない。
その前に終わる。
そうなるって理解ってるから、そもそもあまり恋をしない。
恋に似た質感が芽生えた段階で、そっと両手で握って、ゆっくり音を立てず磨り潰して、存在しなかった事にする。
その恋は、無かった。
完了。
で、結果的に、恋愛と呼べそうな関係性、恋愛と呼んでもいいのかなと思える関係性は2か3に留まるってわけだ。
突然だけど、僕には先天性魚鱗癬っていう生まれつきの皮膚病がある。
そう、最初に書いた序列の話。
時系列で言えば僕は産まれた瞬間から魚鱗癬だから、そっちを先に書くべきなのかもしれないけど、あえて「ノンセクシャルです」の方を先に配置した。
この順序を入れ替えると色々面倒くさい感じになると思ったからだ。
「同情」よりは「興味本位」を入り口にしてほしい、みたいな感覚。
同情から入られると僕は少しうんざりしてしまう。
まだ興味本位のほうが大分いい。
なぜなら僕も、自分の知らないさまざまな事柄に興味を示すタイプの人間だからだ。
「へ?ノンセクシャルって何??つまりどういう性指向なの??ノンセクシャルだと何か特別な問題が発生したりするの?自分の経験してきた人生の質感とどの程度違うんだろう?どのように違うんだろう?」
そういう他者への興味って僕自身すごく持ってる種類の人間だし、だから「興味本位」が悪いことだとも思わない。
むしろ興味持ってくれてありがとうって思う。
もちろん、興味持ってくれない人がいていいし、持ってくれなくてもその人の自由だからどうとも思わないけど。
よくある「性的マイノリティの事情や気持ちを理解って!」みたいな事は僕は正直あまり思わない。
理解りたいと思う人だけ理解ってくれればいいし、理解りたく無い人とはそもそもガチで親しくなる事自体ないだろうからどうでもいい。かなり。
人が、自分に関心を示してくれたら嬉しいよねって話。
無関心よりは。
そして同情よりは。
そういう事。
僕には先天性魚鱗癬という皮膚病がある。
あと際立つ僕の構成要素としては、母が小学生の頃自殺した。
で、この母の自殺を僕は一昨日くらいまでずっと「僕の肌のせい」だと思ってた。
「そんな風にしか産んであげられなくてごめんね」
肌が普通と違う事で幼稚園の頃から小学校、中学に至るまでずっとゾンビだ妖怪だと呼ばれて虐められてたから。
僕を健康に産めなかった、そして異質な肌のせいで虐められたり迫害されたりする僕を心底哀れんで、それを母である自分の非のように感じて、自罰的に母は自殺したのだと思ってた。
でも色々あって数日前父とディープな話をする機会があって、そこで僕の知らなかった事が発覚した。
まあよくある話だけど、僕には本当はきょうだいが居たらしい。
兄か姉かは分からない。
だからきょうだい。
中絶。
当時両親は非常に貧しくて、とても子供を育てられる経済状況じゃなかったから、堕ろす選択をした。
で、その後父が就職口を見つけて、僕が生まれるに至った。
ずっと違和感を感じてた。
母の死に対して。
「あなたをそんな風にしか産んであげられなくてごめんね」
それだけが理由で人は死ぬものなのか。
実際「そんな風」に産まれて虐められてる僕自身がひょうひょうと生きてるのに。
で、父からあれこれ聞かされて、なるほど、と。
「産んであげられなくてごめんね」
母のその言葉はきっと、僕だけでなく、母の子宮に確かに宿り、しかし産まれてくることがなかったもうひとつの命に向けての言葉でもあったのだ。
堕胎や中絶を経験した知人が何人か居る。
そのうち、堕胎・中絶の前後で人が変わってしまった子も何人かいる。
ノイローゼみたいなものだと思う。
「我が子」を失ったことで頭の中の、それまで正常だった回路が破損して、まともでいられなくなる。
これは男性には解りづらい感覚なのかもしれないけど、女性にとって子供って、宿った瞬間から既に「居る」んだ。
存在してるの。
「産まれて」から生命が始まるんじゃなくて、お腹の中にいる時からすでに「我が子」なの。
男性にとっては、お腹から出てきた赤ちゃんの姿を実際に目にしてようやく「我が子が産まれた」ってなるんだと思うけど、女性はそこが少し違う。
「子供を殺した」んだよね。
父が涙ながらに言ったんだ。
「殺したんだよ。殺したのと同じ事だ」って。
その自責をずっと抱えて、これも父から聞いたことなのだけど、母は僕を「中絶したその子の生まれ変わり」だと思ってたらしい。
その僕が先天線魚鱗癬、ゾンビみたいな肌で産まれて、その肌のせいで虐められて、そりゃ母からしたらもう死にたくもなるよな。
はじめて、ストンと納得がいった。
ずっと消化不良のまま、自分なりに物事に理由づけして内部処理したことにしてた事案が、適切な形で消化されたんだ。
みずきっていう名前だったらしい。
もし産まれてたら。
どんな漢字かは知らない。
漢字も聞いておけばよかったと思ったけど、今さらこの手の話題を父の前で掘り返すのも酷だと思うし。
とにかくみずきっていう姉だか兄だかが僕にはいた。
そしてこうも言ってた。
みずきが産まれてたら、僕は存在しなかったって。
みずきが居ないから、僕が生まれ落ちる分のスペースが我が家に確保できた。
みずきがいたら僕は製造すらされなかったわけだ。
なんだか不思議な感じがした。
みずきというきょうだいが存在したと聞かされて、自然と「会ってみたいな」って気持ちが沸いた。
もちろん胎児の段階で死んでるから会えないわけだけど、でも多分生き別れの家族に会いたいとかそういうのに似た感情が自ずと芽生えた。
みずきに会ってみたい。
でも、みずきが存在する世界では、僕は存在しない。
どちらかひとりだけ。
不思議だなって。
でも一つの命、一つの居場所を奪い合うような感覚でもなくて、むしろみずきに譲ってやれるなら全然譲っちゃっていいかなくらいの感覚。
軽い口調で書いてるけど、軽い意味合いで言ってるんじゃなくて、ほんとにそう思う。
なんなら僕よりみずきのほうがよっぽど人生をうまくやれたんじゃないかと思ったりする。
ノンセクシャルで、うまく愛したり、うまく愛されたりするのが苦手で、子供を遺すこともなく、多分独りでそっと老いて死んでいくだけの僕よりも。
ここでまた「ノンセクシャル」ってワードが再浮上。
多分ね、繋がってるんだよね。いろいろ。
だから順序が重要になる。
事実上の時系列よりも、ひとつひとつのファクターが孕む意味のほうが重要になってくる。
時系列順に話したほうがきっと解かり易いとは思うんだけどね。
そこは読んでくれる方々の読解能力に委ねちゃう。
信じるよ。
少なくともここまで読んでくれた、読もうとしてくれた人は「そういう意識」で読んでくれたって信じる。
信じるに足る材料としては十分だと思う。
決して読みやすい文章ではない、特に深い事書いてるわけでも、面白いこと書いてるわけでもない、有用な教訓や学びを示すわけでもない、ただの一個人のぐだぐだな駄文。
それをここまで投げ出さず読んでくれてるような人は、物事を読み解くことに意義や価値を感じてる側の人なんだと思う。
同情心を生みそうな情報を後出しにしたのも、まあそういう理由。
信じるに値する人達になら見せてもいい。
きっと感動ポルノの延長みたいな安易な同情とは別の、もう少し人間的な受け止め方をしてくれる人達だと思うから。
僕はみずきの存在に関する話を聞いて、なんだか嬉しいような気持ちにもなった。
子供の頃からずっと虐められててほとんど友達がいなかったせいもあると思うんだけど、僕は小さい頃からずっと頭の中で誰かと会話しながら今日まで過ごしてきた。
頭の中の誰かに言葉を投げかけ、頭の中の誰かが言葉を返してくる。
ただの自問自答。
だけどそれが時に他問自答のように感じられたり、自問他答のように感じられたりもした。
みずき。
母の胎内で、形成されるその途中で分解され、掻き出された命。
きっとみずきを構成した全ての細胞が完全に綺麗に排出されたわけじゃなくて、母から分け与えられ、みずきになるはずだった細胞の幾らかは僕の組成に再利用され、そうして僕が成っているような心地というか。
なんだかちょっとオカルトチックで、僕は心霊現象とか神様とか一切信じない人間だから、この手のオカルト性はどちらかといえば得意じゃないのだけど。
みずきの存在を感じたい、みたいな欲求が僕の中にあるのも事実で。
ノンセクシャルから話を少し広げると、僕はそもそも自分の「性」がどっちなのか、いまいち確信が持てない。
男、女、どちらも違和感を感じてしまう。
男の格好ばかりしてた時期もあれば、女の格好ばかりをしてた時期もある。
男性と付き合った事もあるし女性と付き合った事もある。
全部、違和感しかなかった。
どれも、なんか、微妙に違う。
違和感。やんわり苦痛。
この際「わたし」でもいいのだけど、そうすると多分文体自体もちょっと乙女チックなテイストになって、理性より感情型の部分が前面に来てしまう。
こういう場で「語る」際には男性的な整然性というか、感情爆発させて書きなぐるよりは、淡々と書くほうがまだ幾分読みやすい、わかり易いだろうみたいな理由で概ね「僕」と自称する事にしてる。
硬い文体だけど、普通に乙女な部分もあるよ。
可愛いもの好きだし、ボーイズラブにキュンキュンするし、ヒステリーだって起こすし、普段友達と話す時とかはもっとふにゃってしてる。
少なからず皆そうだと思うけど、自分の中に色んな側面がある。
ゴツゴツした面、むにゅっとした面、ふわっとしてる時、ズーンとしてる時。
そういう多面性における「面の数」と、それぞれの面の奇抜さ過激さに関しては少しだけ一般の人より際立つ時もあるかもしれないけど、程度の話であって、基本は「色々な面がある、ただの人」って感じ。
「もうひとりの自分と頭の中で会話してる感覚」に関しては人より少し強めで、妄想癖通りこして若干統合失調症の気があるのかなとも思う。
人にそう言われたこともあるし、自覚もちょっとある。
だから「みずき」っていう存在を都合よく利用したいだけなのかも。
この頭の中で日常的に繰り広げられてるパッとしない夫婦漫才は、統合失調症じゃなくみずきが僕に半分宿ってるだけなんだ、と。
うまく愛せないこと、うまく愛されないこと、でも寂しさとか虚しさだけは普通に一人前にあって、だから愛されたいとか愛したいとか思っちゃうんだけど、なんせ性的な問題が立ちはだかるとそこから前に進めなくなっちゃうし、大概の場合性的な問題が立ちはだかるから。
魚鱗癬の問題もあるし。
人に、肌、見られたくない。
何人かの人に肌を晒して、何人かの人と寝ても全然慣れない。
同棲とか絶対無理だと思うし、結婚とかなおさら無理だなって思う。
そもそもそうしたいと思えるほどなかなか人を好きになれないしね。
で、それでもいっちょまえに寂しかったり物悲しかったりするんだ。
有り合わせの手軽な何かでどうにか埋めようと試みる事もあるし、ただじっとベッドの中でうずくまって、目を閉じて耳をふさいで嵐が過ぎ去るのを待つ時もある。
でもみずきっていう、血の繋がった存在がかつて確かにあったんだっていう確信が、なんだか少しだけ心を穏やかにさせてくれる。
そもそも父がみずきの事を打ち明けてくれたのも、僕が数年前にした人生で一番好きになった人との破局と、破局したけどそこに確かに愛が存在した確信について涙ダダ漏れで話した事で、父も涙声になって声を詰まらせながら「お前にはずっと言えなかったけど・・・」ってさ。
愛するのも愛されるのも本当に難しくて、だから不運が重なって望まない結果になってしまうことも往々にある。
だけど、関係の終わりが愛の終わりではなくて、あるいはもう愛も終わってて、愛したその人はもう前に進んで別の誰かを愛をしてるのかもしれないけど、でも「二人の間に愛があった事実」は変わらないんだ。
関係がどういう風に変化していっても、過去は変わらない。
みずきっていう命が存在した事実も。
喪失を嘆くより、その無念を呪いにしてしまうことより、僕らにはもっとするべきことがあると思うんだ。
在った事を慈しんで、祈るような気持ちで。
上にも書いた通り僕は無神論者だから神様に祈ったり死者の為に祈ったりって基本しないのだけど、みずきの事を聞いて初めて「ああ、祈るってつまりこういう心境をいうんだな」って思った。
後悔も罪も消えないけど、痛みは死ぬまで続くけど、それを理由にその生命を呪いにしない。
みずきの命の喪失も、愛して去った人の事も。
背負って生きていくけど、呪いにはしたくないの。
それが僕の言いたいこと。
皆いろいろあるよね。
父が今まで一度もみずきの事を語らなかったように、簡単に人には語れないこと、皆誰だって何かしら抱えてたりする。
辛いこと、苦しいこと、悲しいこと、無念なこと、後悔、懺悔、恨み、妬み、慟哭。
暗い感情を必死に押し込めて生きてる人って、それなりにいると思うんだ。
僕だって今こう淡々と書いてるけど、みずきの話を聞かされる前、失恋の苦しさに悶まくってた時は一日中泣いてたし、昨日だって結局頭ぐちゃぐちゃなまま一日が終わってた。
辛いよそりゃ。
誰だってそう。
辛いことがあれば辛いし、悲しい出来事があれば悲しいし、言葉にして話したからって重荷が綺麗さっぱり消え去ってくれるなんてこともない。
むしろ「話せば楽になる」とか皆言う割に全然これっぽっちも楽になんねーじゃねーか!って逆にイラってなるレベルだよ。
もうただ背負っていくしかなくて、背負い方は人それぞれで、そうやって生きていくしかない。
命が続く限りはね。
自分で絶ってしまう手もあるけど、別に生命至上主義者じゃないから自殺を否定する気もないけどね。
僕だって「ああ、この11階のベランダからサクッと飛んで終わりにしたいな・・・」って思うこと沢山ある。
実際にやったらきっと住人や家族に迷惑沢山かかるんだろうけど、そういう気持ちの時ってほぼノイローゼだから、自分自身の事すら自力で背負えなくて死にたくなるわけだから、周囲の事にまで冷静に考え及ばなくて。
だからそういう気持ちを否定もしないし、死にたい気持ちとか有って全然いいと思うし、言葉にして口にしてもいいと思うし。
うっかり実行しちゃって本当に死んじゃっても、まあその時はその時だよ。
ただ終わるだけ。
ただそれだけだよ。
昔音楽やってた頃、一番仲良かった友達の歌の歌詞に「生きてることが好きなんだ」ってフレーズがあって、その時、友達に「お前、こういうの好きでしょ」って言われて、「いや、正直別に・・・」って。
その時は「生きてることが好き」なんて気持ち、本当に全く分からなかった。
むしろ産まれてきたくなかったなぁ・・・産まれてこないで済んだなら、そっちのほうがよかったなぁってずっと思ってた。
正直数日前まで思ってたよ。
でも、僕を嫌いになって去ったんだと思った人が、本当は僕をちゃんと愛してくれてたから去るしかなかったんだってようやく気付いて、お互いがお互いを愛し合えてた瞬間も確かにあったんだっていう、そんな頃の二人で過ごした時間の感触、表情、声、心を思い出して、みずきの実存を自分の細胞の内側に感じた時、なんだか自然と「ああ、生きてるって、なんだか悪くないな」って思ったの。
明日にはまた死にたくなってるかもしれないけどw
でもそうやって生きていくんだ。
僕だかわたしだか分からない何かを搭載した、僕だかわたしだかよく理解らない生き物として、多分うまくいかないことのほうが多い人生をただ行き止まりにぶち当たるまで歩き続けるだけ。
辛くて、苦しくて、悲しくて、虚しくて、わびしくて、何かを呪ってしまいたくなったりする。
自分の失態を死ぬほど恥じて後悔して、自分自身を呪いたくなったりもする。
魚鱗癬の肌、痒いし痛いし気持ち悪がられるし、だから好きな人にさえ絶対見せたくないし、こじらせすぎてノンセクシャルになっちゃった感あるし、やっぱやだな、普通の肌がよかったなって思ったりする。子供の頃からずっと何度も思ってきた。
普通がよかったなって。
どうして自分は、自分なりに頑張っても、ただの普通程度にすらなれないんだろうって。
お風呂で2時間かけてひたすら擦って垢を落としても、翌日にはゾンビみたいな肌。
別に特別綺麗じゃなくていいから、普通の健康な肌が死ぬほど羨ましいとかやっぱり思っちゃうよ。
泣きたい、消えたい、死にたい、辛い、苦しい、もう終わりにしたい、ここで終わりでいい、今日で終わりでいい、これ以上生きてたくない、先の事なんて考えたくもない、夜なんて明けないままでいい、明日なんか来なきゃいい、今夜のうちに世界まるごと静かにそっと終わってくれって何度も願ったりした。
愛されたい、愛されない、愛したい、愛せない、人を傷つけたり、自分も傷ついたり、もうなんか生きてても嫌なことだらけ。つらいことだらけ。もうほんとうんざり。
そんな風に考えちゃう日のほうが全然多い。
だけど時々、なんとなくいい風が吹いて、ほんの僅かでも、今はもうなくても、愛したり愛されたりした時間もあったんだなってふと思い出して、失ってこんなにも辛いのは、在ってくれた時が超幸せだったからなんだなぁって今さら悟ったりして。
失って死にたくなるくらいの幸せをありがとうって思う。
もう気持ちを伝える事もできないけど。
君も幸せで在れよって祈るだけ。
幸せって単純じゃないから、一瞬幸せに感じてもまたすぐしんどくなったり、ちょっとした不運や失敗で簡単に壊れたりして、また結局薄暗いいつもの場所に舞い戻ってきて、幸せなんて大体いつも一瞬だけ。
それでもその一瞬を慈しむような気持ちになれたら、呪いは少しだけ晴れる。
水子は呪い、生者を不幸に引きずり込む鬼になる。
伝承。
みずきを呪いにさせたくない。
愛した気持ちを呪いに反転なんてさせたくない。
愛は愛だったし、みずきは家族だし、不運や病気や苦しみを呪いのように感じてしまっても、でも、やっぱり呪いにはできないよ。
僕はもうそれを呪いとは呼ばない。
これを読んでくれてる人が、自分自身の人生をどう捉え、どう受け止めて、どう扱うかはもちろん人それぞれ、その人次第。
僕に出来るのは呪いについて語ることだけ。
願いについて語ることだけ。
人には、呪いを願いに孵す力があると信じたい。
・
ほんと数百年前まで人と人が斬り殺しあってた。
侍は農民を斬り殺してもいい法律が当時は普通にあって、農民は侍に「不愉快だから」程度の理由で斬り殺されても何も言えなかった。
つい数百年前までね。
だけど今、僕みたいなド底辺のセクシャルマイノリティが珍妙な格好で街なかを歩いてても、うっかり誰かの反感を買っていきなり斬り殺されたりはしない。
廃刀令だとか明治維新だとか、そういう事じゃないんだと思う。
願いが人々をそのように導いたんだと思う。
殺しあわない世界を、生かしあう世界を望んだんだと思う。
呪うことより、願うことを。
僕はそう信じるよ。本当に。
ありがとう。
メランコル
2020-04-14 15:09:20 +0000 UTCニコ・C
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