売ります、という旨の投稿をネットのそうゆう掲示板に書き込んだら一晩で膨大な数のメールが届いて怖くなって結局全部無視した。
10代の終わりくらいだった。
携帯電話を初めて手にしたのは高校を卒業してすぐくらいの頃で、携帯を手に入れてもかける相手、メールする相手はひどく限られてて、ほとんど携帯が鳴る事はなくて、月額払ってるのにこんなんじゃ勿体ないなと思って、イトーヨーカドーの社員通用口で延々社員&パートの人達に笑顔でお疲れさまでしたを連呼するだけのバイトの時給は870円だし、そこから捻出した月額契約料。
無料分のパケット代みたいなのがあるのに、使い道もなくて、あと、わたしは昔から定期的に不穏な考えに頭を支配されがちな人間で。
だから、体、売りますみたいな事をなんとなく書き込んでみた。
汚れる事に奇妙な憧れがあった。
当時流行ってた携帯小説の主人公達みたいに援助交際とかしてちゃんと汚れる事ができれば、高校も卒業して少し今更だけど「JKの普通」に少しだけ歩み寄れる気がした。
「売ったことくらいあるし。普通に」
みたいなことをしれっとした顔で言える女性に憧れた。
体を売るなんて、別に大したことじゃないんだよ、みたいな顔でさ。
だからそういう需要と供給が集合するネットの掲示板的なのに書き込みしたら一晩で多分数百件のメールが来て、最初の数件を読んで、これがあと数百個もあるのかと思って、なによりこんなにメール一気に来ちゃったら今月のパケット無料分越えちゃうんじゃないかと不安になって、翌朝真っ先に投稿を削除して、メールの受信を一時的に停止にした。
多分値段や条件を意味するのだろう暗喩に埋め尽くされる件名達の中に、ひとつだけ質感の違う文字列を偶然見つけた。
「まるで生きてるみたいだね」
まるでわたしが既に死んでるみたいな投げかけ。
いや、死んでないし。普通に生きてるし。当時ホラー系のチェーンメールみたいなものが巷では流行ってて、自分にはチェーンメールを送ってくる相手すらいなかったけど、でもなんとなく文面的にそういうアレなのかなと思った。
多分チェーンメールなんだろうなと思いながら、でも巷ではチェーンメールが流行してますってニュースは頻繁にテレビで見るけど実際にチェーンメールきたの初めてだし、興味本位でつい開いてしまう。
「"生きてる"のと”死んではいない”のってさ、多分別なんだよ。あなたは死んではいないけど、でも、生きてる?」
なんとなく直感で女性からのメールだと思った。うまく言えないけど語感みたいなそうゆう部分。
わたしは大概の文面に大してまず大まかな印象で区分けする。
「これは、多分、お説教系のメールかな」
みたいな。
体なんか売っちゃ駄目だよ、もっと自分を大事にしなよ的なそういう事を暗に言いたい感じの、そういう意図のメールなのかなっていう第一印象。
でも文面には「体を売るなんてよくない」とか「自分を大事にしないとだめ」みたいな事は直接書かれてなくて、全ては受け取った読み手、つまりわたしに委ねられる形の文面で、その無駄に手の混んだ言語の手繰りに少しだけ好感が湧いた。
だから返事をしようと思った。思ったけど、なんて返せばいいかすぐには思いつかなかった。
第一印象。
多分、年上の女性からの有難いお説教の類。
きっとそういうやつ。
でも、本当に?
自分の第一印象を疑ってみる自分。
この女性・・・(女性と言う部分に疑いは微塵もなかった)がわたしに送ってきたメールの真意。
それはわたしが第一印象で感じた「自分を大事にしなよ系のお説教」なのか、それとも別の何かなのか。
わたしはまだ10代で人の多様性というものをあまり知らなかった。
なんとなく漠然と大人は「体なんか売っちゃいけない」っていうタイプの真面目人間か、あるいは可愛い絵文字に下世話な性欲を滲ませていかにもおっさん臭い文面でエロ欲求ぶつけてくる大人の二種類くらいしかいないものだと勝手に思ってた。
それ以外の大人のサンプルが自分の中になかった。
だけど10代も終わりかけの頃で、遠くないうちに「まだ10代なんで」は通用しなくなる事も理解していて、わたしにとって20代は大人で、わたしは大人全般がなんとなく漠然と嫌いで漠然と見下してたけど、自分もそんな大人の側にもうすぐ入っちゃうんだという諦念のようなものがあって、なら、せめて20歳になるまでに、自分が知ってる大人たちよりはマシな大人になりたいと思ったりした。
まともになりたいとか言いながら「体を売ります」とか、自己矛盾の塊だけど10代の終わりなんて大概自己矛盾の塊なんだから別に珍しいものでもないと思う。
言ってることとやってることが違う。実像と理想が全然噛み合ってない。
現実の自分と、思い描く自分。その2つを隔てる絶望的な距離さえまだ測りかねてるような段階。
10代の終わり。
正しい憧れと間違った憧れの区別もつかない、そもそも何にどうして憧れてるのか自分でもよくわかってない、なんとなくかっこいい感じがするとか倒錯的な魅力を感じるとかそういう直感で多くの事を判断してた年頃。
間違っててもイケてればありだし、正しくてもダサかったらアウト、みたいな。
クールであることが自分にとって至上の価値で、ダサいのは最悪だった。
そんな虚ろな価値観で粋がって生きてる自分が最高にダサいことをまだ全然自覚してなかった。10代後半。
だからサンプルが欲しかった。
情報の質より量が重要だった。
けど質なんて判らないなりに、質も重要っぽい気がした。
その質ってゆうのをメールの女性は担保してくれそうな気がした。
勝手な思い込み。
試してみたくなった。
ただの「自分を大事にしなさい系の真面目レディ」なのか、それともわたしの想像もつかない全く別の意図でメールしてきた人なのか。
自分の頭の中にある概念の幅を広げたかった。幅を広げ際に参照する為の「外側の座標」が必要だった。
少なくとも女性は外側から交信してきた。
わたしの携帯のメール欄にあふれる「ヤリたい」メール群の中で別の色彩を放ってた。
それが意味するものを10代後半のわたしなりに真剣に考えてみた。
考えてみたけどもちろん分からなかった。
わたしは10代の中でもわりと知恵の発育が遅れてるタイプの10代だった。
10代後半のわたしが真剣に考えて分かる事なんてあまり多くない。
「死んではいないけど、生きてもいない」
彼女は一体何が言いたいんだろう。
「自分を安売りするような人生は死んでるも同然だよ」
そんな安易な意味なら、ばっさり切ればいい。断てばいい。所詮出会い系サイトの投稿にメールしてきた程度の見知らぬ女性なんだから。
別の意味を含有してるなら、それが知りたい。そっちに興味がある。
だからその前提で文面を考える。
彼女は別に「自分を安売りするな」とか「体を売るような方法は間違った青春の使い方だ」みたいな事が言いたいわけじゃなくて、きっと、多分、そういう話じゃなくて。
だけど、判らない。わからないから、そのまま返した。
「あなたは?」
あなたは、生きてるの?死んではいない、ではなく、生きてる人?
もし「自分が如何に人生を謳歌する事に長けてる生きまくってる人間か」をアピってくるようなら速攻着信拒否すればいい。
そういう人には興味ない。
?を含めて5文字のわたしの返信に対するその返事は少し時間がかかった。
朝、膨大な「買います」メールで目が覚めたのが8時過ぎで、投稿を消したり、着信拒否設定をしたり、送られてきたいくつかに目を通したりで9時過ぎ、彼女のメールを発見したのが9時半頃、わたしがあれこれ考えて5文字を返したのが10時前くらい。
卵を一つとハムを1枚冷蔵庫から取り出してフライパンで雑に焼く。
卵がいい感じに半熟になるように、まずハムだけ片面炒めて、裏返す時に卵を落とす。
理想より少し焼けすぎたハムエッグを米で食べる。パンに乗せたりはしない。
とろける黄身と少量のソースとお米の混ざり合う感じが至高。
だから朝は米派。
お昼ならパンでもいい。
でも朝はお米。
日本人だから。
食べ終わって、食器を洗って、片付けて、掃除をしようかどうしようか悩んで、めんどくなってやめて、敷きっぱなしの布団の上で二度寝するほど眠くもないけど起き上がる気力も沸かずゴロゴロしてた時、ようやく返信が来たのが11時過ぎ。
「定義によるかな。生きてるとも言えるし死んでるとも言える。死んだみたいに生きてるとも言えるし、生きてるみたいな死体だと感じる人もいると思う。欲望に生かされて、欲望に殺される、みたいな感じって分かる?」
なんだか小説の登場人物の台詞みたいだと思った。その言葉の小説っぽさは正直少し苦手だった。生身の声が聞きたかった。メールで、文字で、言葉だけだから余計に。同じ意味の言葉でも、生の質感を感じられる言葉に変換して送って来てほしかった。という勝手な願望。で、勝手に少しがっかりする。
けど彼女なりに真剣に考えて返してくれた事は分かったし、ステレオタイプのありがちな善悪観念・幸福観念を他人に押し付けたいだけの大人ではなさそうだ、と思ったから、やりとりを続ける事にする。
「たぶん、分かると思う。なんとなく」
多分。
欲望に生かされて、欲望に殺されるっていう部分。
なんとなくだけど、なんとなく。
年や身分を聞くのはなんだか無粋に思えた。
だからそういうことには触れず、ただその「存在感」に対して自分が感じたことをそのままぶつける。
「ずっと心の中にある汚れたさをどうしたらいいのか分かんない。性的な意味じゃなくて、でも性的な方法が一番簡単だから」
「ずっと?」
「嘘、ずっと常にっていうほどでもないかも。でも時々無性に汚れたくなる」
「わかる。あるよね」
「ある」
読んだ漫画の影響とか、ゲームとかドラマの影響とか、音楽の影響とか、色々あるけど、でも多分もっと根源的な部分で、コアの部分で、汚れることに対する責務のようなものをずっと感じてた。
「汚れるべき」
「そういう人種」
ああ、なるほど。短文のやりとりでなんとなく相手の姿が浮かび上がってくる。
この人、多分わたしと同じなんだ。
だからきっとわたしにメールしてきた。
わたしが同類であると感じて、察して、それで、多分。
「汚されたこと、ある?」
「あるよ」
「どんな感じだった?」
「あー、汚れ物になっちゃったなーって感じだった」
「安心した?」
「否定するべき場面だと思うけど、本心を言えば安心した」
「ちゃんと汚れる事ができました」
「うん」
「似てると思ったからメールくれたの?」
「わかんない。あんまなんも考えてなかった。ただ気づいたらメールしてた。あたしも売るつもりで掲示板覗いただけだし。そしたらなんとなくあなたの投稿が妙に気になって、うまくいえないけど」
「うん。あるよね、なんかそうゆう時」
「ある」
「生きるとか死ぬとか、正直良くわかんないや。生きてる人は生きてるし、死んでる人は死んでるし、魂とか心が死んでますとか言ってる人も体は普通に生きてるし」
「うん」
「でも死んでるみたいに生きてる自覚は若干ある」
「あたしも」
「生きる死体とゆうかゾンビとゆうか、なんか普通にちゃんと生きてる人達はわたしの世界と重なって見えてるだけの別の世界の別の生き物な感じする。あ、ゾンビはわたしの側ね」
「あたしもゾンビだ」
「ゾンビッチ」
「否定はしない」
「面白い人が釣れた」
「良かった。キモがられたらどうしようと思った。普通に我ながらキモいなーと思ってメールしたし」
「最初はどうゆう人がどうゆう意図でメールしてきたのか分かんなかったからちょっと警戒したけど、でもなんとなく、あなたが何言ってるか分かる感じするから」
「あるよね、そうゆうの」
「ある」
「なんか皆、多分一般的な事を普通に話してるだけのはずなんだけどなぜか意味分かんない、頭入ってこないみたいな。正しい文法で正しい起承転結で話してくれてるのに、自分の側がうまく受信できない感じ」
「ある」
「逆に文法とか文脈とかめちゃくちゃでも入ってくる言葉は普通にストレートに入ってくる」
「うん」
「波長みたいな」
「波長」
「会ってみたいとか言ったら、困る?」
「正直困るけど、でも会ってみたい」
「あはwでも分かるその感じ。なんか困るよね。あたしも困ってるよこの状況に」
「でも会ってみたい」
「うん」
「欲望に生かされて、欲望に殺される」
「既にゾンビだしね」
「怖くない怖くない」
「欲望って厄介」
「ほんとに」
数日後、平日のお昼前くらいに横浜で約束して会った。
横浜はうちからも相手の家からも遠かったけど、なぜか横浜だった。
下北原宿渋谷は10代の街という感じがする。
10代を終えようとしてるわたしにとって、そこは既に立ち退きが決定してる古巣みたいな居心地の悪さがあって、でも大人の街に繰り出すほど大人でもない。成人式も迎えてないし。
横浜は以前は大人の街代表みたいな雰囲気だったけど、バブルが弾けて平成も半ばになって、横文字の「ヨコハマ」のイメージは錆びた看板みたいに冴えない感じになって、少しだけお金持ち気味の人が多めに住んでる印象のただの横浜になった。
「じゃあ、ただの横浜で会おう」
で、会った。
約束した時間の5分前についたら、相手も丁度約束の時間の5分前に来て、あー、じゃあ同じ電車だったんだーって話して、でもわたしは正直もっと前に到着してて駅のトイレで無駄に髪とかメイク整え直したりして5分前に合わせて来たから同じ電車ではないのだけど、でもなんとなくそこはノリで話を合わせた。別に全てが真実である必要なんて無い。
そもそもわたしも本名名乗ってないし、相手の子も多分偽名だし。
「本名じゃないよね?」
「の訳ないじゃん」
年上のようにも同世代のようにも見える彼女がクスッと笑う。
そりゃそうだ。体を売るとか買うとかの掲示板で使うニックネームが本名なわけない。
「でもああいう掲示板って女性にメール送るのお金かかるんじゃないの?わたしとのやり取りで結構取られたんじゃ?」
「その程度で困らない程度には稼いでるし」
「売って?」
「売って」
「長いの?」
「どうだろう。高校の頃からしてるけど、それが長いのか短いのかは」
「長い」
「でもそんな何年もは経ってないし。売りはじめたの遅いから。卒業のちょい前くらい」
「なんかそのくらいのタイミングって変なテンションなるよね。色々ぐちゃぐちゃにしてやりたいみたいな」
「なるなる。義務教育の延長みたいだった高校が終わって、進学するわけでもなくて、当たり前に敷かれてたレールがぷつんと目の前で途切れて、したいことがあるわけでもなくて、周りは皆受験勉強とか必死で、なんか自分だけ宙ぶらりんな感じして、就活とかしてる子は別だけどあたし就活とか真面目にやるタイプじゃないから」
「わかるw」
「ひどいw完全に見た目で判断したっしょw」
「見た目でわかるwでも別にバカにしてるとかじゃないよ。わたしギャルじゃないけど、別にただ高校時代陰キャサイドだっただけでギャル馬鹿にしてるとかじゃないし、わたしだって体売ってみようとか考えてあそこ投稿したわけだし」
「うん」
「むしろ若干尊敬」
「尊敬とか初めて言われた」
「そーゆう髪型わたしもしてみたいしネイルとかもしたいけど、何度か予約の電話してみようとしたけど怯んでできなかったw緊張して指震えるw」
「最初はね、怖いよねwでも一回行っちゃえば後は定期的にってなって、なんかもう何も感じなくなるよ」
「何も感じなくなるのも怖い」
「あー、わかる。当時は正直わかんなかったけど、今はちょっと分かるよ。前は人生の転機くらいの衝撃的だったのに段々慣れて普通になって、楽にはなるけど、でも人生のどんな事もこんな風に慣れて退屈になってくのかなーって思うとやっぱちょっと怖い」
「うん」
6月に入ってすぐだけどもうわりと結構暑くて、でかい飾り物みたいな船が泊まってる湾の公園まで歩いたけどすぐに戻ってきて海の見えない少し大きめのローカルな大衆喫茶みたいなお店に入って紅茶を頼む。バブル時代からあったんだろうなっていう感じの雰囲気のお店。店の前の通りにイチョウの木がズラーッと並んでるから秋には臭くなると思う。
彼女は白の水玉の薄手のシャツを脱いでキャミ一枚になって、キャミの肩のところから透明のブラ紐が見えてて、当時はまだヌーブラとか存在しなかったからキャミとか着る時はブラ紐がプラスチックみたいな透明なやつを付けてる子多くて、だけど透明でも光を反射して逆に安っぽくみえるそれはいいのか悪いのか分からなくてわたしは結局1枚もそういう下着は買わなかった。
とゆうかキャミ1枚を想定するファッション自体した事がない。
コットンパンツの時下着が透けないようにTバック履いて、そのTバックのTの━のところがお尻の上のところから見えちゃってるやつとかもだけど、隠したいのか見せたいのかよく分からない、隠しきれてない系のアイテムが当時は結構あって、高校時代陰キャだった自分はよく分からないなぁと思ったものだった。
彼女は普段コーヒー派らしいけど、わたしが開口一番「紅茶で」って言ったもんだからつられて彼女も紅茶を頼んじゃったらしい。
レモンと砂糖を入れてストローで混ぜるけど、古い遺跡の文化遺産扱いされてるオブジェみたいに不揃いに積まれた四角い氷達がガラスのコップの六角形に引っかかってうまく円を描けない。
カウンターっぽくなってる壁側でわたしの右隣に座った彼女の方を見れば器用に円を描いて混ぜてる。
きっとわたしのほうが紅茶を飲む頻度はかなり高いはずなのに、わたしは氷の入った紅茶をうまく混ぜられなくて、彼女は普段まず飲まないアイスティーを氷ごとうまくかき混ぜる。
彼女には六角形のグラスの中でアイスティーの砂糖を氷ごとうまく回転させる才能があって、わたしにはそれが無いらしいという現実こそがシビアな鉄則であるように感じられて、自分に少しがっかりした。
才能のある人と、ない人。
彼女の、赤いキャミの肩紐と並走する透明なプラスチックのブラ紐になぜか妙に意識がいってしまう。
わたしはTシャツの上に春夏用の透け感ニットみたいな出で立ちで、わたしも熱いし脱ぎたかったけど、どうせ見えないしなんでもいいやと選んだニットの下のTシャツがクソダサかったから恥ずかしくて、暑いけどニットのまま我慢した。
黄色っぽい内装の店内に初夏の真昼の日差しが差し込んで、壁際だから直射日光は当たらないけど、普通に暑い。
バブル期に、お金持ちではない若者たちがヨコハマを満喫するのに重宝したらしい風情がありありと漂う店内には様々な年代の客がいて、それぞれにそれぞれの世界を纏ってるように感じられた。
わたしの右にキャミ一枚で座る彼女もそうだった。
彼ら、彼女らが無言で纏ってる見えないそれを、わたしだけ纏ってないような心地がして、なんだか少し恥ずかしいような居心地の悪さを感じた。
「普段アパレルしてるんだけどさ、新宿のルミネで、一応正社員だけど手取り20いかないし時給換算したらバイトと変わんないし、ちんこ一本しばけばフルタイム勤務数日分の諭吉が一瞬で簡単に入ってきてさ、なんだろうこの世界って」
「なんか、生きてる世界違いすぎて分かるって言えないwでもなんかそうゆう感覚自体は多分分かる、と思う。真面目に働くのアホらしくなるよね」
「なる」
「お金、持ってる人は持ってるんだなぁって」
「持ってる人は持ってるね。わたしも昨日の売ります投稿で普通にビビるくらいの額提示してきた人とかいるし」
「あるところにはあるんだよ」
「うん」
「5万とかお小遣いくれる人普通にいてさ、躊躇う感じもなくて、余裕でポンって感じで出してきて、財布から取り出す手付きとかも慣れててさ」
「うん」
「1時間で諭吉5枚分の価値が自分にはある、とか一瞬思うけど、でも彼らにとって5万ってあたしのこの390円のキャミと同程度の価値なのかなーとか」
「いや、390円って安すぎない?どこのやつ?」
「社販あるから」
「ああ」
「70パー引きだから、なんか欲しいのあったら言ってくれれば70パー引きであたし名義で買って売ったげるよ」
「社販お得だなぁ。わたしもアパレルしよかな・・・」
「でも歩くマネキン代わりに半強制的に買わされるからあんまいいもんじゃないよ。宣伝目的で従業員に着させるならただでくれよって感じ。ただでさえ給料安いのに」
「20万いかないんだっけ」
「手取りだと全然いかない」
「せちがらい」
「でもさ、高校の頃から売ってたんでしょ?」
「うん」
「じゃあなんでそんな安月給の職場に・・・」
「お金は売りでどうとでもなるし、仕事はなるべくやりたいことをやろう、みたいな」
「なるほど。お仕事楽しい?」
「どっちのお仕事?」
「アパレル」
「思ってたのとは全然違った。見た目ほど華やかな業界じゃないよ。全然。めっちゃ肉体労働だし。ブラックだし。けど一応正社員だし、高卒で正社員で採ってくれるトコとかほとんどないしね」
「妥協」
「人生妥協大事」
「大事」
彼女が喋りながら姿勢を変えて、姿勢を変えた時肩からずり落ちたキャミの肩紐を無造作に定位置に戻す。白い指が綺麗で、多分ネイルの効果も相応にあって、やっぱネイルしたいなと思った。すぐに触発される。人に影響されやすい。
「体売るとさ、簡単にお金入ってくるじゃん。あたしからしたら大金でも、品川とか乃木坂にマンション持ってる彼らからしたら数万円なんてこの社販のキャミと同じくらいの感覚で、それってわたしが390円で買われてるのと本質的に何が違うんだろうって」
「思っちゃったりするわけだ」
「思っちゃったりするのさ」
「そうだよね」
「生きてるみたいに死んでる」
「とか思っちゃうわけだ」
「うん」
「たぶんね、悪意とか全然無いんだよ。ああゆう人達。めっちゃ優しくしてくれるし。でも彼らはバリバリの商社マンとか医者とかで、年収一千万とかあって、常にジェントルなんだけど、寝るとさ、思うわけ。わたしは380円のキャミソールであり、同時に歩くマネキンなんだなーって」
「うん」
「誤解しないでほしいのはね」
彼女が指でくるくる回してた紅茶のストローから指を離して、少しだけ声のトーンが変わる。
「なんだか居心地がいいってこと。分かるかな。あたし言ってること」
「ちゃんと汚れる事ができました」
「それ」
「汚れたかった」
「うん」
「モノみたいに扱われて性的に興奮するとかじゃないよ、分かってると思うけど」
「分かるよ」
「そういう性癖とかないし。そういう事じゃなくて、性的にとか肉体的にって意味じゃなくて、自分っていう命がちゃんと雑に扱われてる事に安心する」
「すごくわかる」
「理解っちゃうかー。やっぱわかっちゃう系かー」
「いや、まだ身体売ったりした事無いし、わかるとか言っていいか分かんないけど」
「あなたは分かってると思う。なんかそういう感じしたからメールした。こうゆうのって分かる人とわかんない人いるから。分かんない人のほうが断然多いから」
「うん」
「別にあなたが道を踏み外そうとしてるのを阻止したいとか、社会人としてまともな人間とはみたいなことがいいたいわけじゃなくて」
「わかるよ」
「うん」
「汚れたい」
「なんだろね、これ」
「なんか多分、いろいろキラキラしすぎてるんだよ。人生は素晴らしくて、命は尊くて、働くことは立派で、夢を追いかける人が美しくて、清楚で慎ましい子がモテて、沢山の人の命を救ってきたお医者さんがそのお金でわたしとかあなたみたいなのを買う」
「うん」
「命が汚れてる事をちゃんと知っておきたいのかな」
「自分にキッチリ知らしめておきたい」
「うん」
「変な夢とか見すぎないように」
「見過ぎちゃうからね」
「そういうタイプ」
「わかる」
紅茶を2回位おかわりして、トイレにお互い3回ずつ位行って、夕方日が傾き始めた頃に別れた。
「じゃあそろそろ仕事だから」
「稼げる方のやつ」
「うん」
「あのさ、多分わたしもやっぱり売ったりすると思う。そういう人種だから。でも今回はやめた。メール沢山来すぎて単純に怖かったのもあるけど、でもそれだけじゃなくて、あなたと話しててなんとなく今はその時じゃないのかなって。いずれは何かよくわからない衝動が爆発して自分を制御できなくなって結局売ったりすると思うけど」
ゆるくウェーブのかかった長い茶色い前髪の片側を指で耳にかけて、彼女が少し寂しそうに、だけど少し満足したように笑う。
綺麗な形の耳に装着された、小さな宝石みたいなのがたくさんついた十字形のキラキラのピアスは祈りのようにも見えたし、罰のようにも見えた。
片側のそれを外して、おもむろに手渡された。
「あげる。わりといいやつだよそれ。でもあたしピアスは基本片側しかしない派だから」
「わたしピアスホールとかないし」
「いつか開けた時に」
痛いの苦手だから多分開けないと思う、って正直に返そうとして、でもこれはそういう話じゃないんだなと察して飲み込む。
「別に善意でプレゼントしたいわけじゃなくて、持っててもらえるとあたしが嬉しいみたいな」
小さな宝石みたいなものが沢山くっついた、いかにも安物っぽくも見える銀色の、でも多分彼女が高価だというからにはきっと多分高価なのだろうその片側の十字形のピアスは今も当時から使ってる化粧箱の奥に、梱包用のプチプチに包まれて保管されてる。
結局ピアスホールは一度も開けなかったけど、時々取り出して手のひらの上に載せてまじまじ眺めると、不意に自分の耳から外して手渡してくれた時の彼女の手の感触とかその時の街のにおいとかが蘇ってきて、懐かしいとも心強いとも違う、もう少し虚ろで曖昧な不思議な感情が沸く。
帰りの電車の中では珍しくあまり多くのことを考えなかった。
普段電車に長時間乗る時は大概考え事をする。その多くはあまり気分のいい考えじゃなくて、考えたくて考えてるわけじゃなくて、自動的に脳が言葉を編んでいくような具合で、不本意に、不快な言葉達を時速120キロで手前勝手に編み上げられてゆく。
けど、その日はただぼんやりと電車の振動に揺られて、乗り継ぎの時もぼんやりしたまま、気がつくと地元の駅に着いていて、陽はほとんど沈んでいて、改札を出ると地元の夕方のにおいがして、非日常から日常に引き戻される感じがして、携帯には彼女から「今度飲みに行こう」とメールが来てて、「うん、いこう」と返したけど、それっきり特に会う事もなく今に至る。
なんとなく無性に汚れたかった10代後半の初夏の日の事。
部分的にやけに鮮明で、部分的に抜け落ちていて、けど多分ずっと忘れることもないそんな日の出来事。