「は、は……ふぁーっくしょん!!」 邸宅の一室からけたたましい音が響く。半ば押し付けられる形で受けた右衣との手合わせの中で、庭の池に投げ落とされた凛太郎は、濡れた体を乾かす為に自室へと戻っていた。ぐっしょりと濡れたままの前髪をぞんざいに掻き、くそっ、と小さな悪態を吐く。 しつこく肌に残る水気を手ぬぐいで拭いていると、戸の向こうから穏やかな声が届く。 「凛太郎様」 声の主が嘉禄と知るや否や、凛太郎は飛び跳ねるように戸の方に顔を向け、無意識だろうか、まるで生娘のように持っていた手ぬぐいで胸元を隠した。 「大丈夫ですか?着替えをお持ちしましたよ──」 「まっ、待て!!」 すす、と軽い音を立てながら開かれようとする戸に向かって、凛太郎は慌てた声を上げる。 「は、入ってくるな!着替え、は……そ、そこに置いておけ…!」 「え?しかし……」 「一人でできると言っておるのだ!」 まるで思春期の子供のような文句を一通り吐きつけると、少し開かれた戸の隙間を凝視しながら、はー、はー、と上がった息を整えるように小さく肩を揺らす。 戸の向こうの嘉禄が何かを考えているのか、少しの静寂が流れた。 「…左様でございますか。それでは、こちらに置いておきますからね」 変わらない優しい声と、柔らかいものが床に置かれる気配を感じ、凛太郎はほっとしたように短く息を吐いた。お茶を淹れますから、後でいらしてくださいね。とだけ残し、ゆっくりと足音が遠のいていくのを確認した凛太郎は、そこでようやく自分がおなごの様に体を隠していた事に気づいて、ぎょっとした。 「な、何をしているのだ……」 男同士、裸を見られる事くらいなんてことはないはず。けれど、凛太郎には何故だかそれが無性に耐え難かった。百龍の王たる者が、たかが狛犬の一匹にしてやられたなどという醜態を、これ以上どうして晒せようか。彼の自尊心が、そう言い聞かせる。 まるで、真っ赤に染まった頬と、一向に激しさを増す胸の鼓動の真意に気付かせまいとするように。 * * * 「ふふっ」 部屋で待たせている客人達をもてなす為台所へと向かう途中、嘉禄は堪えきれず、小さな笑みをこぼした。 着替えを届けに凛太郎の部屋へと足を運んだが、顔も見ぬまま追い返されてしまった。しかし、このような事は初めてではなかった。凛太郎が裸を見られる事を強く拒んでいる事実に、嘉禄は当たり前のように気付いていた。 1200年前、山奥で瀕死の状態の凛太郎を見つけて以来、意識が戻るまでの500年間、さらに体がしっかりと動くようになるまでの数百年、ほぼ付きっきりでの看病。 そう、凛太郎の裸など、嘉禄はとうに見慣れているのだ。 凛太郎が普段何気なく身にまとっている衣類をこしらえたのは、紛れもなく嘉禄だ。もちろん、きちんと採寸をしている。 しかし、どうにも凛太郎はその辺りの事実に気付いていないようで、それがふと可笑しくなってしまったのだ。 とはいえ、相手が必死で隠そうとしているものを、正直に見慣れているといえば、繊細な凛太郎でなくても傷付けてしまう事は想像に容易かった。だから嘉禄は、あえてその事には自分から触れないようにしてきた。 龍というのはまさしく伝説の生き物。本当は触れる事も、話す事さえ叶わなかった存在なのかもしれない。 けれど、いつか一緒に大きな温泉にでも足を運んで、背中を流して差し上げられる日が来たらいい。 なんてのんきな事を考えながら、嘉禄は台所へののれんをくぐった。 凛太郎のあの行動が、自分にだけ見せる素振りだったと知るのは、もう少し先の話になりそうだ。 ◇◇◇ 2020.08.26 閑神第六話の隙間を埋めるお話でした。