あの夏の悶絶は思い出の中に(1日目#2)
Added 2023-08-12 14:16:47 +0000 UTC2. 波都のまち 二〇〇八年八月十一日。 ハクはその日、まだ朝の虫が静かに鳴いている中、母の乗る軽自動車に乗った。 その時間は、まだ日差しも弱く、半袖半ズボン姿がちょうど気持ち良いくらいの涼しさだった。 五年になって、4ヶ月が過ぎた。早くも一学期が終わり、半月ほど前の7月の下旬には夏休みに入った。 待ちに待った夏休みだ。 だが、この頃、進学したことで仲の良かった友人たちのほとんどと離れ離れになってしまい、さらに放課後だってこれまでみたいに毎日みんなで集まれなくなったこともあり、ハクはすっかり元気を無くしていた。 そんな息子を見かねた母は、仕事の合間を縫ってハクを映画館に連れて行ったり、色々と遊び相手になったりしたが、ハクの気が晴れることはなかった。 そんな中、遠方に住む母の母…つまりはハクの祖母が骨折してしまい、祖母は大事な時期に農業が出来なくなってしまった。 娘である母は、祖母を手伝うべく遠方の実家に行き、二週間以上も家を空けることになった。 そこで母は、ハクの気分転換も兼ねて、親友の住んでいるとある田舎町にハクをしばらく預けることにしたのだった。 ハクも実家に連れて行っても良かったが、なんせ実家のあたりには老人しかいないし、ハクを退屈させ、さらに気を落とさせかねないと思い、断念した。 ハクは反対した。見知らぬ土地に一日どころか二週間くらいも泊まり込むなんて絶対に嫌だった。 だが、子どもが一人で二週間以上も家で生活できるわけもなく、結局、ハクはこの日を迎えた。 「まだ不貞腐れてんの。あんた」 母は、助手席に座っているハクをチラリと見た。 ハクはむすっとしたまま答えなかった。 「あっちにもね、あんたと同じ歳の子たちがいるって、奈水(なみ)が言ってたから」 「奈水のとこの"悠(ゆう)"くんだってそうでしょ?」 空野 奈水は、母の学生時代からの友人だった。 ハクは会ったことはなかったが、話を聞く限り"気の強そうな怖い人"という印象をハクは持っていた。 「まぁとにかく…」 「自然に癒されて来なさいや」 「いいところだから」 母は、ハンドルを握りながら前を見てニカニカ笑った。 それでもハクがむすっとしていると、母は信号待ちの時、指先でハクの脇腹をつついた。 ハク「わっ!?やめろよっ!」 ハクが飛び上がって怒鳴ると、母はケラケラ笑った。 「汚い言葉遣いだなぁ〜。まったく!誰に似たんだか!」 母はまた笑った。 この時、母は40歳だったが、それにしては若々しい見た目をしていた。 母はよく、「お母さん、昔はモテたんだから」なんてことを言っていたが、ハクはその度に「嘘つけ」と言い返していた。 だが最近、ハクは、自身の母親のいつまでも若々しいままの見た目を見て、案外それが本当だったのではないか、と思うこともあるのだった。 休憩を挟んで三時間ほど走ると、末潮(すえしお)にある末潮港に到着した。 そこは、大きな土産物売り場が併設されたちょっと規模の大きい港で、朝から大勢の人で賑わっていた。 母が広大な駐車場に車を停めると、ハクはリュックを背負って車を降りた。 「奈水がもう着いてるって」 母はメールを確認すると、素早くパタンと携帯を閉じた。 末潮港や土産物屋の向こうには、海が広がっていて、思わず吸い込まれそうなその青を遠目で見たハクの心臓がドキドキと高鳴った。 さっきまでずっとずっと感じていたモヤモヤがほんの少し、ほんの少しだけ晴れた気がした。 母に連れられ、土産物屋を貫通して奥にある船乗り場に行くと、待合のベンチに座っていた、頭と顔の小さいセミショートヘアの背の高い女性が立ち上がり、ハクと母に手を振った。母はニコニコと手を振り返したが、ハクは手を振るなんて恥ずかしくて出来なかった。 「久しぶり」 母の古い友人である空野 奈水(そらのなみ)は、日に焼けているのか地黒なのか定かではなかったが、肌はうっすらと浅黒い。身体は非常にスレンダーかつ、出るところは出ている体型だった。 微笑んではいるものの、奈水の奥二重の目は、子供のハクにさえ気の強さを感じさせた。 「久しぶり!元気してた?」 母は笑顔を弾けさせ、奈水に飛びつく勢いではしゃいでいた。 奈水の方は、笑顔を見せながらも落ち着いた様子で、はしゃぐ母の手を取って喜びを分かち合っていた。 母と同じ歳の奈水も40を超えているのに、顔にはシワ一つなかった。 奈水「ハクくん。おばちゃんのこと、覚えてる?」 ハク「あ、いや…どうだろう…」 奈水に話しかけられた途端、ハクは、緊張して目を泳がせた。 奈水「まぁ、そうだよねぇ」 「昔、よく抱っこしてたんだよ」 「それがまぁ、こんなに大きくなってさぁ」 奈水は、ハクの頭をポンポンと撫でて感慨深そうに頷き、そう言った。 「悠くんは元気?」 母が尋ねると、奈水はコクコク頷いた。 奈水「ハクくん。うちにね、ハクくんと同じ歳の男の子がいんの。悠って言うんだけど、仲良くしてやってね」 「あと、高校生のお姉ちゃんがいるから…まぁ…あんまり頼り甲斐はないと思うけど…困ったらそのお姉ちゃんにも声かけてやって」 ハク「う、うん…」 いつもの活発で威勢の良い性格はどこへやら。 ハクは緊張し切った状態で硬い返事をした。 それから、母が「末潮港発 波都ゆき」の乗船券を買って、ハクに渡してくれた。 「じゃあ、ハク。迷惑かけないようにね」 「また帰る目処が付いたら、電話するから」 母は珍しく笑うことなく、真面目な顔をしてそう言ってハクを抱きしめた。 母の胸の中で顔を埋められながら、まるでこれから永遠に母親の元を離れるような気がして、ハクはなんだか胸がキュッと傷んだ。 母と別れた後、ハクは奈水のあとをついて船に乗った。 周りに大型の船が並ぶ中、ハクが乗ったのは、"潮騒丸"という名のついた小さな連絡船だった。 ハク「船…小さいんだ…」 周りにある大きな船に乗れると思っていたハクがガッカリしたように言うと、奈水はアハハと笑った。 奈水「うちの町は、小さな島の田舎町だからね」 「あんなに大きな船をつけるところはないよ」 ハクの人生初めての船旅は、船こそ小さかったが決して悪いものではなかった。 船を吹き渡る潮風が心地よく、ハクはその風に頬を当てて髪をなびかせていた。 奈水は脚を組んで座りながら、そんなハクを見つめていた。 ハク「おばちゃんは…波都の町の人?」 奈水「うん。そうだよ」 「中学に上がるのと同時に外に出て…それでハクくんのお母さんと出会ったわけ」 「外は楽しかったけど、やっぱり…波都が一番だよ」 「私が保証する。すごく良いところだってね」 奈水は、ハクの目を見て言った。ハクは、奈水の言葉とその笑顔を見てなんだ少しだけ緊張の糸がほぐれた。 奈水「ほら、見えてきたよ」 奈水は顔を上げて船の目指す先へ視線を向け、指差した。 ハクが奈水の指差す方へ目を向けると、海の向こうにぽつりと島影が見えていた。 島に近づくに連れ、その全貌がはっきりと浮かび上がっていく。 潮騒丸が速度を落とし始めた頃、大きな雲が浮かぶ真っ青な青空の下に、広大な山々と雄大な自然が広がった島がハクの目の前に広がっていた。 ハクは思わず笑みを溢した。 近くで見ると、遠くで見るよりもずっとずっと大きく見える。遠くにある山々は吸い込まれそうなくらい雄大で、潮の混じった空気はハクの知っているものとは違って澄んでいる。 潮騒丸が防波堤に着くと、ハクは太陽光に熱された硬い防波堤の上に飛び乗るようにして波都の町に上陸した。 3. 空野家 奈水の家である"空野家"は、防波堤からは程近い。 漁の行われていない夏の季節には使われていない小型の漁船がいくつか陸にあげられているコンクリートで整備された小さな港を横切り、二メートルはどの小さな小さな橋を渡ってまっすぐに歩いていくとそこにあるのが空野家であった。 空野家は海の真ん前にどんと構えてある木造二階建ての建物で、一階の海側には海を望めるリビングがある。 奈水「おっ。うちのガキが見てるよ」 奈水は木造二階建ての二階部分へ視線を上げた。 ハクが釣られて見上げると、ちょうどベランダに人影が見えた。ハクが人影を見てすぐ、人影は奥へ引っ込んでしまった。 奈水「ごめんね。あの子人見知りで」 ハクは奈水に案内されて一階の防波堤側の玄関から家に入った。 来たこともないのに、なぜか懐かしいような香りがハクの鼻に飛び込んできた。 奈水「うちは玄関がいくつかあるから、どこから出入りしてもいいからね。二階にもあるし、ほんと、好きにしていいよ」 奈水はそう言ってサンダルを脱ぎ捨てるようにして玄関へ上がると、向きを揃えることもせずつかつかと奥へ進んでいく。ハクも遅れないよう後へ続いた。 フローリングはびっくりするくらいツルツルで、滑りそうだった。 トイレらしきドアの前を通り過ぎ、その奥のお風呂らしきドアの前も通り過ぎ、目の前には和室とリビングの二つの入り口が現れた。奈水はちょうどその真ん中に立って考え込むようなそぶりをした。 奈水「こっちの和室は、私が昼寝したり、叔父さんが寝たりするのに使うんだけど、本棚に色々本もあるから読みたかったら自由に使って」 和室は十二畳ほどの広い部屋で、押し入れの横に焦茶色の本棚が三つと、座卓が一つ。それから、開けっぱなしのガラス張りの引き戸の向こうに、縁側がある。涼むにはちょうど良さそうな和室だった。 奈水「それからこっちが…」 奈水は和室には入らず、向かって右手にあるリビングに入った。 リビングには、黄緑色のカバーがかけられたファミリーテーブルが一脚真ん中に置いてあり、椅子が人数分添えられている。奥には台所があって、黄色い古めかしい冷蔵庫がぶーんと音を立てていた。 ハク「海の真ん前なんだ…」 解放されている海側の窓を覗くとそこはもう海だ。 奈水「そうだよ。良いでしょう。泳ぎたくなったら、そこからでも泳げるよ」 奈水は少し笑いながらそう言って正面の玄関戸を指差した。台所のすぐそばのその玄関の向こうは、太陽に照り付けられている白いコンクリートで固められた通路があり、柵も何もないその向こうには海面が見える。 確かに、泳ぎたくなったらいつでも飛び込めるのは便利だとハクは思った。 後ろで足音がして、ハクが振り返ると、リビングと和室を繋いでいる引き戸の隙間から先ほどの少年が顔を覗かせていた。 ハクと目が合うと、少年は慌てた様子で顔を引っ込めた。 奈水「あ!悠!挨拶しな。ハクくんだよ」 奈水にそう呼び止められ、少年は恐る恐るリビングの方に出てきた。 奈水の息子であり、末っ子の空野 悠(ユウ)は、ほんの少しだけ日に焼けている細身の少年で、大きな丸い眼鏡をかけていた。 ハクを見て緊張した面持ちでそわそわしており、母親の奈水とは違ってとても大人しい雰囲気を放っていた。 ハク「俺、矢内 ハクって言うんだ。白って書いてハクって読むから、その、よろしく」 ハクはあまり自分から進んで手を差し出したり、自己紹介したりが得意ではなかったが、ユウがあまりにソワソワしているので、やらざるを得なかった。 ユウ「僕、空野、空野 ユウ。よろしく…」 ユウは勇気を振り絞ってそう言ったが、最後の方は消え入りそうな声でハクにはよく聞こえなかった。 時間は昼過ぎだった。 奈水「ユウ。ハクくんを部屋に案内してあげて。そのあとは、夕飯までテキトーに遊んでもいいし。あぁ、"しずかたち"に会わせてあげたら?」 ユウ「あ、うん。そのつもり」 ユウは、ハクと話す時よりもはっきりした声で返事をすると、ハクの方をちらりと見てから歩き出した。着いてきて、という意味だろう。ハクはそう思ってユウについていく。 リビングからツルツルのフローリングの廊下に出てすぐ左手にある階段を登る。傾斜がきつい上に妙に薄暗くて、もし夜中にここを一人で通ることを想像するとハクはちょっとゾッとした。 階段を上がると、渡り廊下があった。両サイドに窓があって海や港の方を見渡せる。渡り廊下を抜けたすぐ右手にドアがあった。他のドアはほとんど開けっぱなしのなのにドアはぴしゃっと固く閉ざされていた。 ユウ「あぁそこはね、お姉ちゃんの部屋。勝手に入ったら殺されるから気をつけて。それから、一応ここもトイレだから」 ユウはそう続けて"お姉ちゃん"の部屋の真正面のドアを指して先へ進む。夜中に小便がしたくなったらここを使おう。ハクは密かにそう決めて安心していた。 空野家の二階は思ったよりも広い。廊下を進むともう一つの玄関があって、玄関のある角を右に折れると広い和室が広がっている。ユウによると、奈水はここで寝ているらしい。その和室のある通りをさらに奥に行くと、ユウの部屋がある。 和室とユウの部屋の手前には、ちょっとしたスペースがあり、そこにはテーブルと椅子とソファが置かれていて談話スペースになっていた。 ハクは空野家の広さにびっくりしていた。まるで二階にもう一つ平屋の家があるくらいデカい。 ユウ「あ、ごめん。部屋、通り過ぎてた」 ユウは来た道へ向き直り、渡り廊下の方へ戻ると、二階のトイレの横にある部屋の前に止まった。ドアは開けっぱなしだ。 ユウ「ここだよ。お母さんたちがげすとるーむって呼んでるとこ。ゲストなんてそうそうこないから、たまにお姉ちゃんがごろごろしてるけど、しばらくは、うん、ここ使っていいって」 六畳の広さの和室で、ベッドがどんっと真ん中に置いてあり、その奥には机と椅子がちょこんと設置されている。 机のそばの解放されている窓からは涼しい風が入ってきていた。 ハク「いいな…ここ」 日中でも涼しい空気が漂うこの小さな部屋を気に入ったハクは思わず心の声が漏れた。 ハク「ありがとう」 ハクがユウの方を見て言うと、照れくさそうに目を逸らして頷いた。 ユウ「それで…さ。これから友達と遊ぶんだけど…よかったら…くる?」 ハク「友達?あぁさっきなんか言ってたけど、その人たち?」 ハクは腰に手を当てて考えた。行って良いものだろうか、と。 この島の人たちにはその人たちのグループがあるはずだ。そこへ、よそ者の自分がずかずか入っていって良い気がしなかった。 なんせ、ハク自身がよそ者を簡単に認めないような性格だ。一年前に転校生が来た時も最後まで彼女を認めなかったのもハクだった。 ユウ「大丈夫だよ。みんな良い人だし、同い年だし」 「しずかはちょっと怖いけど、未悠は大人だし、ヒカリは優しいし、シンは頼れるし…ダイチは勉強も出来るし、うん…仲良く出来ると思う」 ユウはなんとかハクを安心させようとしていた。 ハクは悩んだが、せっかくの誘いだし、二週間もここにいるなら友達はいて損はしない。 もし、受け入れてもらえなさそうなら大人しく関わらないでおこう。そう決めてハクはユウについて行って外へ出た。