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あの夏の悶絶は思い出の中に(2日目#1)

1. 燃えろ水泳大会! 昨夜、ハクは自分で分かっていた以上に身体も心も疲れていたのだろう、風呂に入って歯を磨いてベッドに入ったら掛け布団に潜り込むまでに眠ってしまった。 昨日は帰りが遅かった空野家の主人 空野 文治(ふみはる)と初めて会ったのは、二日目の朝だった。文治おじさんは眼鏡をかけた細身の男性で非常に真面目そうで大人しい性格だった。 ハクはこの時、間違いなくユウはこのおじさんに似ていて、レイナ姉ちゃんは奈水に似たのだと確信した。 夏休みと言えど空野家の朝はそこそこ早い。午前七時には全員が起床して、一階のリビングに集まり朝ごはんを食べる。 朝早くからご飯を作っていた奈水と、これから部活動に行くというレイナ姉ちゃん以外はまだパジャマ姿だった。 テレビがかかっていたが、それを見ているのはレイナ姉ちゃんだけだった。 奈水「昨日はしずかたちに会ったって?」 奈水は器用に焼き魚から骨を取りながらハクに尋ねた。 ハク「あ、うん。ユウに川まで連れてってもらって」 ハクがユウを見ると、ユウも頷いた。 文治「あの子達、いい子だったかい?」 文治おじさんは新聞片手にご飯をパクパク食べている。 ハク「うん。優しいよ」 レイナ「なぁ少年。しずかに目つけられたでしょ?」 テレビを見ていたのに誰よりも早くご飯を平らげたレイナ姉ちゃんはそう言ってニヤニヤ笑った。 ハク「いや、別に…なぁ?」 ハクはもう一度ユウを見た。ユウはご飯を食べることに集中していて、今度は目が合わなかった。 レイナ「あの小娘が尻に敷きたがるようなタイプなんだよねぇ、少年は」 レイナはハクをジロジロ見てからまたニヤニヤ笑った。 奈水「レイナ。余計なこと言わないの」 奈水がピシャッとそう言ったが、レイナ姉ちゃんはまだニヤニヤしていた。 朝ごはんを食べ終えたレイナ姉ちゃんはさっさと食器を流し台に運んでいき、洗面所で歯を磨き始めた。シャカシャカと音が聞こえる。 ハクがご飯を食べ終えた頃には、レイナ姉ちゃんは港側の一階玄関で靴を履いていた。 レイナ姉ちゃんは、スポーツ用の半袖ハーフパンツ姿だった。そのそばにエナメルバッグが置いてある。 ハク「部活って…なにやってんの?」 ハクは歯を磨くために洗面所に立ち寄ろうとしたが、おじさんが使っていたため、レイナ姉ちゃんに声をかけた。 レイナ「ん?」 レイナ姉ちゃんは靴の中の砂を出しながら振り向いた。 レイナ「あぁ、私は陸上だよ」 ハク「陸上?走ってるってことか…」 レイナ「そういうことだな」 「少年は走るの好きかい?いや、聞くまでもないか!好きそうだもんねぇ」 「今度競争する?」 ハク「おれ、結構速いよ?」 走りは泳ぎよりもずっと自信があった。 レイナ「いいねぇ!じゃあ今度、勝負だ。負けたらそうだなあ…無限くすぐり地獄の刑なんてどう?あははは!」 レイナ姉ちゃんはそう言って笑ったが、ハクにはそれが冗談には思えず、背中に寒気を感じた。 レイナ姉ちゃんは蛍光イエローのランニングシューズの水色の靴紐をキュッと結び、立ち上がるとバッグを背負って「行ってきまーす」と大きな声で言った。それから、港の方へ向かって歩き出した。 ずっと奥の小さな港の方で、もう一人別の少女がレイナ姉ちゃんに向かって手を振っているのが見えた。 ◯ ハクが歯磨きを終えて着替えを済ませると、ちょうど二階の玄関先にシンとダイチがいた。二人はユウと話していてケラケラ笑っていた。 シン「お!ハク!準備はいいか?いこうぜ!」 ハクに気づいたシンが手を振った。ハクは手を挙げて答え、玄関へ駆けた。 シン「今日もあっついな。水泳大会にはもってこいの日だ!」 「ハク。川に飛び込んだらきっとすっごい気持ち良いぞ!」 家の裏側を回って登美の川まで向かう途中、シンは余程泳ぐのが待ちきれないのか、ちらちらと海の方へ視線を向けていた。 地面は今日もアツアツに熱されており、サンダルがなければとっくに飛び上がっているほどだった。 せせらぎが心地よい登美の川の岩場は、今日も涼しい空気が流れていた。 岩場にはもう既に女子たちが集まっていた。 未悠は岩に片足のカカトを乗せて念入りにストレッチを行っており、木の下のしずかとヒカリは二人で何か話していて楽しそうにクスクス笑っていた。 しずかは、林道からやってきたハクたちに気づくと、すぐに笑顔を消して「遅い」と言ってハクを睨んだ。 ハクは咄嗟に言い返してやろうかと思ったが、昨日のユウのことを思い出してやめておいた。 シン「川の流れは良好だな」 シンは岩場にある一番高い岩の上で腕を組み、川を見下ろして言った。ダイチは日陰のある林道で軽く走ったりしてウォームアップしている。 ユウは何もせず、岩場に仁王立ちしており、やけに落ち着いていた。泳ぎが得意なのだろうか、ハクはそう思った。 ヒカリ「見て、ほら!割り箸でクジ作ってきたよ!」 「これで誰が誰と競争するか、決めよう!」 木陰のヒカリがみんなを呼んだ。 くじ引きの結果、 一回戦:ユウ 対 しずか 二回戦:ダイチ 対 未悠 三回戦:ハク 対 シン に決まった。勝ち上がった者たちで決勝戦となるようだ。 ハク「あれ?ヒカリは泳がないの?」 ヒカリ「うん!私は審判!泳ぐのへたっぴだから」 「えっと、最初はしずかとユウだね!」 しずか「だね」 しずかは冷静に返事をし、ユウの方を見た。 ユウもしずかを見た。ユウの目からは火花が散っていたが、しずかの目は落ち着いていた。 着順を判断する審判のヒカリが、ゴールである河口に行くため、林道の方に消えていくと、しずかはTシャツとズボンを脱いで水着になった。 ハク「いつもはどっちが速い?」 シン「いつもはしずかだな。ただ、今年よく泳いでるのはユウの方だから、なんとも言えない」 未悠「だね。今年はまだあの二人は戦ってないし、勝負は分からない」 ハクたちが予想している間に、準備ができたユウとしずかの二人は、スタート地点である川から顔を出している岩の上に立った。その岩は岩場と向こう岸の崖との間のちょうど真ん中付近にあり、さらにその岩の向こうからは一気に深みが増すので、レースのスタート地点としてはもってこいの岩だった。 しずか「負けても泣かないでよ?」 ユウ「そ、そっちこそ」 ユウは少し怯んで言い返した。 未悠「それじゃあ位置について!」 「よーい…」 「スタート!」 未悠の合図で二人は川に飛び込んだ。飛沫が上がる。しずかの方が僅かに反応が良かった。 ハクは、しずかとユウの二人よりも、静かに冷静に話すイメージだった未悠が森中に響き渡るような大きな声を出せることに驚いていた。 しずかとユウの姿は、透き通った美しい川の中に消えていく。岩場からは、どっちが勝っているのか分からない。 シン「しずかがリード!さあ、どうなるかな」 高い岩から観戦していたシンが言った。 二人が完全に見えなくなると、川の岩場にはせせらぎだけが残って、みんなただ無言で二人の帰りを待っていた。みんな黙ってはいたが、ハクには、みんな頭の中はどっちが勝ってどっちが負けているか、どんなレースになっているかを想像しているように思えた。 しばらくすると、林道の方から二人が帰ってきた。 「最初に足を痛めちゃったよ。あーあ。本気出せなかった!」 ユウが不満そうな顔をしてぶつくさ言っていた。 足を痛めていると言っている割には、ユウの方がしずかよりも早く歩いていて、その後ろにしずかがいた。二人ともびしょ濡れだ。 しずか「言い訳しないの。負けを認めなよ」 しずかは呆れたような顔で言った。 ユウ「いやでもさあ、ほんとに痛めたもん」 「これじゃ本気出せないよ。でもまあ、負けは負けでいいけどさ。仕方ないし」 しずか「まだ何か言うんならくすぐろうか?」 「どうせ、もう泳がないんだから」 しずかが両手をユウに向けて脅すと、ユウは静かになった。 ユウはそれでも悔しそうな顔をしていた。ハク はこの時、ただ大人しいだけだと思っていたユウがかなりの負けず嫌いであることを知った。 シン「ユウ。そうしょげんなよ」 「泳ぎで負けたって、他で勝てばいいさ」 ダイチ「そうだぜ。速く泳げることが全てじゃないんだから」 シンとダイチがユウを慰めるが、ユウは不貞腐れたままだった。 誰ひとり、ユウの"足の怪我"を心配してはいなかった。きっと、そう言うことなんだろう、とハクは思った。 続く二回戦は、未悠とダイチの勝負だった。 未悠はブルーの髪留めを外すと、「これ、持っといて」と言ってハクに渡した。ハクは日差しのせいでちょっと熱くなったその髪留めを無くさないように握っておいた。 二人の飛び込みはほぼ同時。スタートが順調だったのは未悠で、彼女は魚のようにしなやかにスイスイと泳いでいった。ただ、ダイチも負けてはいない。必死に泳いで追いついていた。 数分が経って、林道から清々しい笑みを浮かべている未悠と、いかにも悔しげな顔をしているダイチが帰ってきた。結果を聞くまでもなく、どちらが勝ったかは一目で分かった。 ダイチ「ちくしょー。追いついたのに、追い抜けなかった!未悠!お前、はめただろー」 未悠「バレた?追いつけそうで追いつけない速さで泳いで、ダイチを引きつけて疲れさせてから…引き離したんだ」 未悠は勝ち誇った顔で言った。未悠は運動能力だけでなく、頭もキレるようだった。 ダイチはあからさまに悔しそうで、あの時こうしておけば良かった、とかなんとか文句を垂れていた。 ユウも素直にこれくらい悔しがれば良いのにな、ハクはそう思った。 シン「よし!ハク!次は俺たちだ」 シンは既にスタート地点の岩に立っていた。 ハクも準備を済ませて岩に向かう。川に足を入れると、一気に太もものあたりまで沈んだ。登美の川は意外と深いのだ。ひんやりとした川の水が下半身を冷やしてくれて心地よかった。 岩に立つ。裸足で踏むと、岩の熱さが直に伝わってきて、じっとしてられないくらい熱かった。 ハクが隣のシンを見ると、シンはリラックスした様子でぴょんぴょん跳ねたり、ニカニカ笑みを浮かべたりしている。 シンが相当手強いことは既に分かっていた。 全力で立ち向かわねばならない。 未悠のよく聞こえる合図と共に、ハクとシンはほとんど同時に飛び込んだ。 冷たい川水が全身を包み込み、火照っていた身体が優しく冷やされる。 大人が立っても足がつかないくらいには深さはある。水の透明度が高く、横を泳ぐシンの姿がはっきりと確認できた。 シンとハクは並んでいる。 もっと引き離してやろうとかと考えたが、未悠とダイチの一戦を思い出してよしておいた。 それにしても、川はやはりプールとは違う。流れがあるため、思うように泳げない。 高い崖と崖の間に入った時、水がさらに冷たくなり、深さも一気に増した。そしてそのあたりで、シンが一気に加速した。 まずい。 ハクは焦り、追い上げようとしたが、やっぱりさっきのダイチを思い出して冷静になった。まだそんなに離されてはいない。 息継ぎの際、ハクが水から顔を上げると、川を挟む高い崖の左側の崖にハシゴのようなものが見えた。気がした。 なんであんなところにハシゴがあるんだ? 一瞬、そんなどうでも良い疑問が浮かんだが、すぐに振り払ってシンを追った。 流れが速くなってきた。河口が近いんだ。ハクはそう判断し、スピードを上げた。シンに迫った。 もう少し!もう少し! 焦りと、悔しさが湧き立ち始める。 シンの頭とハクの頭が並びかけたその時、ハクの身体は勢い良く前方へグンと押し流され、ふわっとした浮遊感に襲われ、どぶんっと深みに沈み込んだ。 ハクは水面に顔を出す。目の前には、二、三メートルほどの高さの小さな滝が流れていた。河口は滝になっていたのだ。 「大丈夫かー?」 シンの声がした。振り向くと、彼は少し離れたところの海面から顔を出していた。 「ぎりぎりシンの勝ちー!」 コンクリートの足場にちょこんと座っていたヒカリが手を振っていた。ヒカリのずっと後ろには空野家が見える。 ジャッジを下された瞬間、ハクは腹の底が熱くなるような悔しさを覚えた。 シン「ユウん家のとこから上がろうぜ」 「そこは高さあるから」 シンはヒカリのいる陸地を指差して首を横に振った。 ハクとシンはゆっくりと泳いで空野家の一階リビングの玄関があるコンクリートの足場に手をかけ、登った。 シンはひょいと陸に上がったが、ハクは慣れてないこともあり、さらに身体が思ったよりも疲弊していたため少し手こずった。 先にレースを終えていたユウたちもここから上がったのだろう、陸地には既に水の跡があちこちに広がっていた。 ハクとシンが水から上がった時、開けっぱなしの玄関からはちょうど台所で作業をしている奈水が見えた。 奈水は顔を覗かせ、ニッコリ笑った。 シン「ふぅ。危なかったぜ。ダメかと思った!」 シンは膝に手をついて、地面に向かって息を吐き出した。 ハク「さすがに速いな」 ハクは悔しさを滲ませながら言って、髪をかき上げた。 シン「そっちもな。正直、みくびってたよ」 シンは勝ったにも関わらず、なぜか悔しそうだった。 ハク「どうかした?」 シン「うん?あぁ、なんかさあ、初めて川で泳いでこんなに速いなら、これからハクが川に慣れたら俺も追い抜かれるかもしれない。負けてらんないなって思ってさ」 シンは両手を腰に当てて地面に視線を落とし、ゆっくりと歩きながら答えると、ハクの方を見てどこか恥ずかしそうにニッと爽やかに笑った。 ハクはその純粋な笑顔を見て、滲ませていた悔しさが腹からスッと消えていくのを感じた。 ハク「こっちにいる間に必ず勝つから覚悟しておいてくれ」 ハクはシンを見て言った。シンの実力は十分に分かった。ならば、彼を超えるまでだ。ハクの負けず嫌い精神が、シンというこのガキ大将をライバル視させた。 二人が川の岩場に戻ると、みんなが集まって来て結果を聞いて来た。どうやらこの勝負は、ハクが思っているよりもみんなが注目していたようだった。 決勝戦も粛々と行われた。 結果はシンが一位で優勝。二位に未悠。三位がしずかだ。 未悠は少し悔しそうにしていた。しずかは特にそう言った仕草も見せず、レース後は疲れたように木陰で項垂れていた。


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