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あの夏の悶絶は思い出の中に(7日目#1)

1. 私を探して 「いやいや。だから、悪魔は本当にいないけど、幽霊は本当にいるんだって」 シンが持っていた木の枝で地面に描かれたツノの生えた顔の絵にばつ印をした。 「分かってないなぁ。悪魔の方が幽霊なんかより可能性高いんだって。だいたい悪魔って言うのはさ──」 ダイチがシンの足元に描かれているオバケの絵を足で擦るようにしてかき消した。 「俺の友達はどっちもいるって言ってたけどな」 シンとダイチの正面にあぐらをかいて座り込んでいるハクは、自分の描いたオバケと悪魔の落書きをぐるりと丸で囲んだ。 ダイチ「へぇ。例の神社の友達?」 ダイチは興味深そうにハクのラクガキを覗き込んで「上手いな」と小声で唸った。 シン「それじゃつまんないぜ。っていうかそもそも悪魔ってなんだ?」 「出てきても怖くないだろ」 ダイチ「いやむしろ悪魔の方が怖いっていうぜ」 シン「けっ。ツノ生えて槍持ったヤツより、透明で足のない幽霊の方が怖いだろ。どう考えても」 シンは腕組みをした。 ハクは、矢剱神社の宮司ならなんと言うだろうか。と思った。それからふと、昨日神社に行く前に会った沙月のことを思い出した。 ハク「そういえばさ、シンもダイチも…"沙月"のことは知らないのか?」 いくら沙月がこの町に住んでいないといえど、沙月がこのガキ大将と背の高い優等生を知らないのはやっぱり違和感があった。 「さつき?」 シンとダイチが同時に声を上げた。 ダイチ「それは…なんだ?猫?」 シン「芸能人?」 二人揃って、沙月が自分たちと同じ歳の女の子のことだとは思わなかったことでハクはさらなる違和感を覚えた。 沙月という名前を聞かれてもそれが女の子だと思わないほど、シンとダイチは沙月について何も知らないようだった。 つまり、沙月が一方的にシンとダイチを知らないのではなく、お互いにお互いを知らないことになる。この狭い町で、そう大きくもない島でそんなことがあるのだろうか。ハクは首を傾げた。 ハク「いや…女子だよ。俺たちの同じ歳の」 「俺…昨日初めて会ってさ。その…奥の森の淵んとこで」 ハクは、いまいるヒノトリ公園から見て奥の森の淵のある方をテキトーに指差した。 ダイチ「ははっ!俺たちと同じ歳の?それはないって。なあ!」 さっきまでシンと言い争っていたダイチはシンの顔を見て同意を求めた。 シン「ああ。波都で同い歳なのは言うまでもなく、俺たちだけだ。隣町にも何人かいるけど…沙月って名前のやつはいないよ」 ヘラヘラ笑っているダイチに対してシンはやけに真剣な顔で答えた。 シン「だからまぁ、遊びに来てるかなんかだろ」 「隣町の誰かの親戚とかそんなんかもな」 シンはあぐらをかいて、まるで名推理をするかのように顎を触りながら言った。 ハク「いやでも…」 ハクはまだ納得がいかない。 ダイチ「どうした?」 ハク「いや…沙月はさ、未悠とは友達だって」 ハクがぽつりと言うとさすがのダイチも不思議そうな顔をしたが、すぐに「じゃあ未悠の親戚か?」と推測した。 シンは黙っていた。考え込むように背中を丸めている。ハクは、シンの顔色がほんの少しさっきまでとは違っているような気がした。 ◯ ハクたちがヒノトリ公園で幽霊と悪魔について、沙月について話し込んでいると、ようやく仲間達がやってきた。と言ってもやはりユウはいなかった。ユウは朝食を食べてすぐ家を出てしまったのだ。レイナ姉ちゃんが追いかけようとしたが、生憎、奈水に捕まって家事を手伝わされたのでそれは叶わなかった。 ユウ以外の全員が揃うと、途端に日差しが強くなって蝉の声がうるさくなった気がした。 ダイチが早速、未悠に沙月のことを聞いていた。 しかし未悠は「どこの子かは私も知らないんだよね」とさらりと答えた。ダイチは首が折れそうなくらい傾げた。 ハクも納得できない。そもそも、沙月がいたところは──。 イチコ「ねえ。ユウは今日もいないの?」 イチコちゃんが小鳥みたいにキョロキョロ辺りを見渡してユウを探す。 シン「たぶん奥の森に向かったってさ」 シンは答えて鉄棒でぐるりと一回転してからぴょーんと飛んだ。 しずか「アイツ奥の森でなにやってんの?」 イチコちゃんの肩に手を回しているしずかが不愉快そうに言った。虐める対象がいないのが不服なのだろう。 ハク「かなり熱中してるから…なんかすげー面白いことでもあんのかな」 しずかのほとんど独り言みたいな疑問にハクが答えた。 しずか「面白いことって?」 しずかが今度は、しっかりとハクの方を向いて聞いた。ハクは急に体の芯が熱くなるような感覚を覚えて、しずかから目を逸らした。 ハク「知んないけど…」 「昨日は、淵にはいなかったな。うん。だから…」 「ベンケイ山とか?」 ヒカリが割って入ってきた。 ヒカリはなぜかハクの顔を、まるで面白いものでも見るかのような目で見ている。そういえば昨日もこんなふうな目で見つめられたことを思い出したハクは、ヒカリを睨み返した。するとヒカリもその猫みたいな目を細めて睨む真似をしたが、柄にない自分の睨み顔に耐えきれなくなったのかすぐにふふんと笑った。 しずか「アイツが一人であの山の中に行くなんて考えられないけどね」 しずかはここからでも見えるベンケイ山の方へ視線を向けた。オバケが出るとかいうベンケイ山は日の照っている日中でもなんだか暗い影が落ちているように見えた。確かに、あの山にユウが一人で行くなんて考えられなかった。 シン「なぁ。さすがに最近おかしくないか?」 「一人で奥の森に入り浸ってるなんて」 シンが立ち上がって地面のラクガキを足で消した。 シン「なあハク。ユウなんか言ってなかったか?」 ハク「聞いてもなんも教えてくれないな。そもそも…俺もレイナ姉ちゃんも、ユウとは話もできてない」 シン「妙だな。レイナ姉ちゃんとも話さないなんて」 イチコ「怒ってる…のかな」 イチコちゃんは口を少しだけすぼめた。 おそらく、この真面目な少女は三日前に自分がユウと喧嘩したのが原因ではないかと考えている気がしたので、ハクはそれを否定するべく、考えをまとまっていないのに口を開いた。 ハク「怒ってるっていうより…なんだろな…うーん…"隠し事"してる感じ…かな」 見切り発車で発言したにしては、ハクは自分でもしっくりくる推測が出来たことに驚いた。そう。ユウは怒っているというより、隠し事があってそれを知られたくないような素振りなのだ。 しずか「アイツが隠すことってなに?」 しずかはまた独り言みたいに言って、ちらりとハクを見た。ハクもしずかを見ていたので、目が合ってしまった。ハクはまた体の芯が熱くなって、目を逸らした。 ヒカリ「奥の森でこっそり…うーんなんだろ?」 ダイチ「あ!もしかして…それさっきの"沙月"って女子に繋がるんじゃないか?」 「ユウは、沙月って子とこっそり会ってんだよ!」 ダイチが自信満々に言った。 確かにハクは沙月にユウのことは尋ねていなかったので、ひょっとするとそうかもしれない、と思った。だが、それは未悠によって打ち砕かれた。 未悠「だとしたら、どうしてユウは泥だらけのすり傷だらけなの?」 「そんなに危ない遊びをしてるってこと?」 未悠が冷静に突っ込むとダイチは言い返せずにしゅんと小さくなった。 代わりに、しずかが口を開いた。 しずか「その沙月って隣町かどっかの子のことはよく分からないけど…」 「ユウのことなら、どうせ大したことないと思うよ。たぶん…"いつものこと"の延長だろうから」 しずかが意味ありげに言うと、未悠とヒカリが同調するようにうんうんと頷いていた。だが、イチコちゃんと男子陣は全員キョトンとしていた。 結局、ユウがいないままハクたちは遊んだ。無理やりユウを呼んでもきっと来ることはないだろうという判断が下されたのだ。 ヒカリの提案で手押し相撲大会を開催した。言い出しっぺだけあってヒカリは意外にも手押し相撲が強く、背の高いダイチも圧倒していた。 ハクは勝負よりも、イチコちゃんと当たらないことだけを祈った。この勝負が三本勝負に無関係なのはハクも分かってはいたが、ここでもイチコちゃんに勝っても負けても、なんとなく三本勝負の戦績として自分の中でカウントされてしまう気がしたのだ。 それはなんだかもやっとする。 幸い、イチコちゃんと戦うことはなく、それどころかハクはしずかに初戦で敗れて敗退した。 それからは、ハクは木陰から少し離れたところでみんなの勝負を観戦していた。木陰に入っていると、蝉に小便をひっかけられるのが嫌だったのだ。 ◯ 午後からは未悠と奥の森の淵に潜ることになった。昼食の焼きそばを食べている時、ハクはユウに思い切って「一人で何をしているのか」をしっかりと尋ねてみた。食卓には奈水とレイナ姉ちゃんもいたので、ユウと二人きりでない分、聞きやすかったのだ。 「"修行"してるんだよ」 ユウは、はっきりとそう答えた。 ハク「しゅぎょう?しゅぎょうってあの修行か?」 ハクの頭には山にこもっている禿頭の仙人が浮かんでいた。でも流石に仙人という言葉を発するのは馬鹿っぽかったのでやめた。 レイナ「修行ってあんた、仙人みたいなことしてんの?」 レイナ姉ちゃんは何の恥じらいもなくハクが押し殺した言葉を発した。 ユウ「違うよ。まぁ、強くなるためにいろいろね」 ユウは首を回してやけに大袈裟にポキポキと指を鳴らした。 ハクはユウの言う「強くなるため」の意味を考えようとしたがよく分からなかった。誰かと戦おうとしているのだろうかとか、それくらいにしか思えなかった。 奈水は息子の修行発言に対しても関心のないように焼きそばを頬張っていたが、「強くなろうとするのは良いけど、あんまり危ないことはしないでよ」と言った。 ユウ「うん」 ユウはそっけなく返事した。 奈水「そういえば、太一くんがバスケ部に戻るって話はどうなったの?」 レイナ「さぁね。そもそも太一にその気がないし」 「アイツはペットボトルロケット作って遊んでる方が好きなんだよ」 「こころもどうしてあんなに熱心になれるんだか」 レイナ姉ちゃんは眉を上げてぶんぶんと首を横に振った。 ハク「なんの話?」 レイナ「太一がなぁ、バスケ部やめたのをこころが引き戻そうってしてるのよ」 「こころもバスケ部でね。なーんかこれまでずっと一緒に同じスポーツに打ち込んできたから途中でやめて欲しくないんだって」 「その説得に私も同行させられてるってわけよ」 レイナ姉ちゃんは心底面倒くさそうに語った。この説明が面倒というよりは、こころ姉ちゃんが太一兄ちゃんを説得するのに付き合わされていることが面倒らしかった。 レイナ「まったく!この貴重なお盆休みを背高坊主への無駄な説得に費やしたくないっての」 奈水「いいじゃないの。別にあんた家いてもやることないでしょ」 「どこかへ出掛けるわけでもないし」 早々に焼きそばを食べ終えた奈水は食器を持って立ち上がった。 レイナ「舐めてもらっちゃあ困る」 「録画してる番組を観たり、漫画読んだり、文豪堂に買い物に行ったりしないといけないんだから」 奈水「それ、いつもと変わらないじゃないの。文豪堂なんて隣町の文房具屋ならいつでもいけるでしょ」 奈水は台所からそう突っ込んで蛇口をキュッと捻った。 ハクから見てもレイナ姉ちゃんが理想とする過ごし方は退屈なものに思えた。漫画ならいつでも読めるし、もっと外で遊べば良いのにとそう思った。 この時のハクは、楽しいことは家の外でしか起こらないと思っていたのだ。 だからこの時もさっさと焼きそばを平らげて未悠と待ち合わせしている診療所の裏まで駆けていった。 「へぇ。ユウは"修行"してるって言ってたんだ?」 未悠が口をもぐもぐさせて言った。未悠からはグレープの良い香りがする。 ハク「うん。なんかそう言ってたよ。どんな修行かは知らないけどな」 未悠「うん。じゃあやっぱり、"しずかの言う通り"なわけだね」 未悠はハクを見てふふっと笑った。その笑みがどうも"意味わかってないでしょ"と言った意味に受け取れて、ハクはちょっとだけ顔を顰めた。 ハク「あれか?"いつものこと"とかってやつ」 「それが良く分かんないんだよ。ユウのいつものことって言えば負けず嫌いってこと?」 「それで修行?でもなんのためだ?最近でいえば別に誰にも負けてないだろ」 ユウと知り合って間もないハクには、いつものこと、とやらがよく分からない。 未悠「ハク。ユウは負けてるんだよ」 未悠は言い聞かせるようにハクの目を見て言った。 ハク「はあ?誰に?」 未悠「分からないよね」 未悠は正面へ視線を戻して腕組みをした。 未悠「ユウはね…」 未悠は口を開いたが、うーんと考えるように首を傾げて黙ってしまった。 ハク「おいなんだよ。良いところで切るのやめろって」 ハクが未悠に答えを促したが、未悠はすでに別のものへ関心を向けていた。 未悠は、建設途中だという"例の橋の橋脚"を見つめていた。あのでっかい橋が完成すれば、この島より奥にある観光地として有名な島への行き来が楽になるのだという。 ハク「あれ、嫌いなんだっけ」 未悠は頷いた。 ハクからすれば、便利なのは良いことだから橋ができるのはすごいことなのだと思っていたのだが、どうも未悠はそうではないようで、それがなぜなのかハクは分からなかった。 ハク「あの橋ができたら、ここに来る時も船に乗ってこなくても良くなるんじゃないの?」 ふだん船に乗らないハクにすれば、この島から出るたびに船に乗らないといけないのはなんだか面倒な気がした。それならばやはり、橋が出来た方が良いように思えた。 未悠「あの橋のせいでね、波都の町はなくなるんだ」 ハクは、未悠が何を言ってるんだかすぐに飲み込めなかった。 でもその言葉は、近くの山々から聞こえる虫の声やら鳥の声をかき消すほどはっきりとハクの耳に届いた。 ハク「…なくなる…?波都の町が?」 未悠「橋の建設に伴って、この島の道路も整備され直すんだよ。今は自然がたくさんある波都の町も切り拓かれていく。波都の町からは自然がほとんどなくなる」 「この島はね、"通り道"にされるんだ。橋から橋への連絡通路みたいなものだね。そして、この町は埋もれてしまうんだ。そしていつか、この町に漂う寂寥感さえ消えてしまう」 ダイチでも知らないような難しい言葉が並んでいる未悠の説明は、ハクには難しかった。 それでもなんとなく、波都の町にとって良くないことが起ころうとしているのは分かった。 未悠は周りの友人たちよりもずっと大人っぽい。 女の子というのは男子よりも大人びていることが多いが、未悠のそれは単にませているとかそういったものではなく、本当に心の中にでも大人が入り込んでいるように思わせるものだった。 奥の淵は今日も尋常ならざる冷たく澄んだ空気を漂わせていた。それが、流れ落ちる滝のせいなのか、深い緑のせいなのか、それとももっと別の何かなのかは分からなかった。 沙月は今日も、昨日ハクが迷い込んだ崖の上にいた。沙月は今日も変わらず薄手のパーカー姿だった。 ハク「なあ。隣町のどこに住んでんだ?」 沙月「隣町?」 沙月はその綺麗な目を丸くした。 ハク「ここの隣町だよ。そっから来てんじゃないの?」 沙月「あれ?そうだっけ?」 沙月は頰を触りながら首を傾げた。 ハク「なんだよそれ…」 沙月のふんわりとした返事にハクはため息をついた。沙月がとぼけているのか本気で分かっていないのか定かではなかったが、どちらにしてもハクはそれ以上質問することはしなかった。 ハク「ところでさ、例の落とし物って箱に入ってんだろ?結構デカいらしいけど…何が入ってんだ?」 沙月「何がって?」 「それが思い出せないんだけど…」 「すっごく大事なものだよ」 随分とデカい箱に入ってるくせに、その中身が分からないなんてことがあり得るのか。ハクは疑問に思ったものの、深く追求したところで分からないものは分からないのだから仕方ないか、と納得した。 準備運動を済ませると未悠から貸してもらったシュノーケルを装着し、ゆっくりと淵の中に入っていく。夏真っ盛りなのにやっぱりここの水は冷たすぎて、ハクの身体は一気に冷やされた。心地の良い冷たさではなく、ちょっと嫌な冷たさだ。 未悠と一緒にぷかぷか浮くようにして淵の中央まで泳ぐ。 淵の中央。そこはまた、いっそう水温が下がっているような気がした。周囲を囲む木々からは油蝉やキリギリスの鳴き声がたぎるように響いている。 未悠「底は深いし広いから、がむしゃらに探すと大変なんだ。だから、どのあたりを探すかを決めてから潜るの」 未悠は脚をふわふわバタつかせて水面から顔を出しながら言った。ハクも同じ格好をしていた。脚を動かすのをやめると、一気に身体が沈んでしまうのは想像に難くなかった。 未悠「底に潜ったら、ハクは滝側の方を探してくれる?私はその右隣の方を調べるから」 ハク「二人いるなら、今日一日で全部調べられるんじゃないか?」 未悠「無理だよ。潜ってみたら分かると思うけど、たぶん淵の底に行くだけで体力がごっそりなくなるから、一日一回くらいしか調べられないかな」 未悠はそう言ったが、体力に自信のあるハクからすればそれは言い過ぎのように聞こえた。 未悠「それじゃあいくよ」 未悠はシュノーケルのパイプのマウスピースを咥えた。ハクもそれに倣ってマウスピースを咥える。このシュノーケルは海で使ったことがあるものなのだろうか、マウスピースはなんだか塩っぱい味と潮のにおいがした。 目いっぱい息を吸い込み、すぅっと息を吐き出して果てしなく下に続くに穴に向かって沈んでいく。 体内の酸素が、ぶくぶくぶくぶくとパイプの先から泡ぶくとなって溢れ出していく。 足の先から頭の先までをひんやり冷たい淵の水が包む。 身体をぐわんと回転させて頭を底に向け、本格的に潜水を開始する。 ハクは耳の辺りが詰まるような感覚に襲われた。 ──おぉっ! 底へ視線を向けたハクは思わず声をあげそうになった。 淵の底に広がっていた景色があまりに予想外だったからだ。 淵の水の透明度があまりに高いため、奇妙なくらいはっきりくっきりと底の光景がハクの目に映っている。 "水中都市"。漫画か小説か、それとも映画でそういうものを見た気がする。海の底とか湖の底に、かつて国として繁栄していた都市の遺跡やらなんやらがそのまま残っているというものだ。 ベンチ、郵便ポスト、木、ニワトリのイラストが描かれた金属製の看板、木材、でっかい瓦礫のようなもの──淵の底に沈んでいたそれらは、ハクに水中都市を彷彿とさせた。 生活感の溢れるそれらが、後からここに投げ捨てられたものか、それとも元からここにあったものなのかは分からなかったが、ハクにはなんだか歴史そのものがそこに沈められているような気がして寂しい気持ちになった。 ここに来たことはないのに、懐かしくて胸の辺りが震えた気がした。 この大きな淵の暗い底に沈んでいる歴史を見つめていると、自分もその歴史の一部になるような感覚に陥って言い知れぬ恐ろしさを感じた。 吸い込まれる。 ハクを襲ったのはそんな感覚だった。 この郵便ポストが沢山の人に使われていた頃を考えた。 このベンチに沢山の人が座っていた頃を想像してみた。 きっとそれぞれに歴史がある。ハクにはそれを想像することしか叶わないが、ここに沈んでいる物からは確かに記憶が残っているように感じられた。 例え誰にも使われなくなっても、役目を果たし終えても、記憶は残っているのだ。 記憶だけはずっと消えない。そう誰かが語り継いでいく限りは─── ハクは水中都市に目を奪われていて、本来の目的を忘れかけていた。 そうだ。箱を探さないといけない。 ハクは我に帰ったように未悠に言われた場所を探し始めた。 さっきは水中都市だなんて思ってはしゃいでいたが、この中から探し物をするとなると大変だ。なんせ、物が多い。歴史が多い。 それでもハクは必死になって箱を探す。でっかいらしいのだから見つけにくいわけでもないはずなのだから。 探せるのは一日に一回。ならば絶対に今日決めてやる、とハクは意気込んでいた。 しかし息がもたない。底へ沈めば沈むほど、目に見えない猛烈な圧迫感が全身を締め付ける。 ハクの身体はいよいよ淵の底の底のあたりまで達していた。 水温がさらに低くなり、全身の肌がぷつぷつと泡立つ。 首にかけている御守りがほんのり熱くなっているように感じた。御守りの石を握ってみると本当に熱かった。 底の壁に穴が空いている。 大きな穴だ。 奥は見えない。 呼吸音のような音を立てて穴の底に淵の水が吸い込まれていく。 あの穴が、海に通じているのだ。吸い込まれればひとたまりもない。海に出ていくまでに息がもたずに溺れ死ぬのは間違いなかった。 穴の呼吸音だけが聞こえる。 ここは、まるで別の世界に思えた。 あの世の入り口か。そんなふうにさえ思うほど、この淵の底は奇妙な空気が流れていた。なんとなく、二度と地上に戻れない気がした。冷たくて暗くて苦しいこの水底に包まれてしまう気がした。 ハクがぐるりと周囲を見渡すと、穴の近くに何が引っ掛かっているのが見えた。 くすんだ銀色の箱。 確かにそんなふうに見えた。 大きさは、ちょうど未悠の言っていたくらいのサイズだ。 本当に箱かどうかは分からないが、とにかくハクはその箱に手を伸ばした。 あの死の穴に吸い込まれるのも考えないまま、ハクは手を伸ばす。 ──そこまでだ。無茶するな。 静かな水底に、聞き覚えのある声が響いた。 いやそれは、ハクの耳元で囁くように聞こえた。 瞬間、ハクの身体は一気に上昇した。 ふわふわとした意識の中、上を見上げると、水面は思っているよりもずっとずっと遙か上にあった。 何かに引き上げられるかのように、ハクの身体はぐんぐんぐんぐん上昇していき、ハクの手首に生暖かい何かが触れた。 それはハクの手首をぎゅっと締め付けて力一杯ハクを引き上げた。 ハクの頭が水面を突き破る。 「無茶しすぎだってば!」 隣に未悠がいた。 未悠は口に入った水を吐き出し、顔についた水を拭って、ぼーっとしているハクの手首を掴んだまま岸辺まで泳いだ。 岸まで運ばれたハクは、自力で陸地に上がろうと思ったが、手脚に力が入らず、陸に上がるどころか泳ぐことさえままならなかった。 結局、未悠と沙月に手伝ってもらってハクは陸に引き上げられた。 沙月「だいじょう…ぶ?」 沙月は申し訳なさそうにハクの顔を覗き込んだ。 ハクは大の字に伸びており、胸を大きく膨らませたり、凹ませたりを繰り返して息を整えていた。 ハク「あぁ」 「それより…」 「見つけたぞ…箱」 未悠と沙月は顔を見合わせた。 沙月「ほん…と?」 未悠「どこにあったの?」 ハク「この淵の…底のずーっと底にあった」 「でっかい穴のすぐそばにある」 未悠「それって…海に通じてる穴?」 「ハク、そんなところまで潜ってたの!?」 未悠は目を丸くして、驚きと尊敬と呆れの入り混じった視線を向けた。 ハク「あぁ。蓋がされてて…中身は分からなかったけど、あれは確かに箱だったよ」 ハクは、さっき見た銀の箱を思い浮かべた。 沙月「底にあるのを見つけるなんて、すごいんだ…君…」 沙月は口角を僅かにあげた。ハクのぶっとんだ根性と体力に興奮しているようだった。 沙月「やるね、君」 ハク「まぁな…」 ハクは照れくさくてつい笑ってしまった。冷たい水の中にいたのに、耳の辺りが熱くなった。 ハク「よーし…あの箱を…」 あの箱を引き上げてやる!そう意気込んで立ち上がったものの、ふらりとふらついて危うく倒れそうになった。 未悠「大丈夫?」 未悠がハクの肩を掴んで支えた。 淵の底まで沈んだハクにはもう泳ぐ体力は愚か、走ったりする体力さえ残っていなかった。


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