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あの夏の悶絶は思い出の中に(8日目#1)

1. 神秘の花園 昼間の暑さなど想像もできないほどにひんやりとした冷気に包まれた夏の朝。時刻はまだ午前6時過ぎ。ハクは寝ぼけ眼を擦りながら、二階玄関の前でレイナ姉ちゃんを待っていた。 「ようようお待たせ」 裏手の方からレイナ姉ちゃんが銀色の自転車を押してやってきた。 ついさっきハクが早朝の尿意によって目覚め、トイレに駆け込み、用をたし終えて廊下に出るや否やレイナ姉ちゃんが待ち構えていた。 「おはよう。ちょっとお姉ちゃんと買い物にいこうか」 レイナ姉ちゃんはニンマリと笑ってそう言ったのだった。当然、断るなんて選択肢は用意されておらず、ハクは奈水に早朝の買い出しを頼まれたレイナ姉ちゃんに巻き込まれてしまった。 レイナ「乗れ」 自転車に跨り、ハンドルを握ったレイナ姉ちゃんが言った。 ハクはレイナ姉ちゃんの後ろの荷台に乗った。荷台はゴツゴツしていてお尻がちょっと痛かった。 レイナ「肩。持ってなよ」 レイナ姉ちゃんは半分だけ顔をハクの方に向けて優しく言うと、自分の肩をぽんぽんと叩いた。 ハクは言われるがままにレイナ姉ちゃんの肩に手を置いた。レイナ姉ちゃんの身体に自ら触れた途端に、ハクは急に恥ずかしくなって体温がぐんと上がった。肩を触ったものの、力を入れて掴むことができない。 レイナ「ほれ、ちゃんと持ってなって。危ないから」 レイナ姉ちゃんは片方の手をハンドルから離し、 その自分の手をハクの手に重ねて、ぎゅっとハクに肩を握らせた。日に焼けたレイナ姉ちゃんの手は大きくて柔らかかった。 ハクはまた恥ずかしくなって下を向いた。 レイナ姉ちゃんが隣町に向かって自転車を漕ぎ出した。 自分で漕いでもいないのに自転車がスイスイ進んでいくのは、なんだか不思議な感覚だった。 早朝の波都の町は色も空気も何もかもが違って、見慣れた場所のはずなのに違う場所に見える。 夏が終わって冬が来たら、ここはもっと違う場所になるのだろうか。ハクはふとそんなことを考えた。 そこで気がつく。 自分が知っているのはあくまで夏の波都の町なのだ、と。波都の町のことを知ったつもりでいたが、夏が終わればハクはいなくなる。だから夏以外のこの町を知ることなどできない。 自分は、波都の町の夏の間に一度だけ訪れた単なる訪問者であるのだとその時ハクはそう思った。 シンやダイチやユウやしずかやヒカリやイチコちゃんや未悠にとってもそれは同じなのではないかとも思った。 そう考えるとちょっぴり寂しくなった。 レイナ姉ちゃんは坂道に差し掛かってもスイスイぐんぐん自転車を漕いで行く。 レイナ姉ちゃんが自転車を漕ぐたび、ゆらゆらとポニーテールが揺れ、良い匂いがふわりと舞ってハクの鼻腔をくすぐった。 いやーいいねえ。ガキンチョとは言え男を後ろに乗せるってのは レイナ姉ちゃんはご機嫌にそう言って深呼吸をした。 レイナ「"青春"って感じだな」 「あんたも大きくなったらこーやって後ろに誰かを乗せてやるんだよ」 前を向いたままレイナ姉ちゃんは言った。 ハク「誰かって、誰?」 レイナ「大事な人だよ」 ハク「大事な人か」 ハクにはレイナ姉ちゃんの言う"大事な人"の意味がよく分からず、この時は家族とかそう言った類の人々の顔しか出てこなかった。 レイナ「そう。それが"青春"ってもんだ」 ハク「せーしゅんか…」 聞いたことはあるがそれがなんなのかハクにはピンとこない。せいぜい学校での生活のことをちょっとオシャレに言い換えているだけだろうと考えていた。 隣町の小さなスーパーで買い物をした。レイナ姉ちゃんは奈水から託された買い物メモに書いてあるものだけでなく、自分が欲しいオレンジジュースやらお菓子やらも勝手にカゴに入れていた。 レイナ「ハク。あんたも欲しいおやつ入れていいよ」 ハク「え。それまずいんじゃないの」 マズイに決まっている。こんなことがバレたら奈水のお仕置きされるかもしれない。あんな恐ろしいコチョコチョをされたら命が無事では済まないし、絶対に受けたくなかった。 レイナ「大丈夫大丈夫。それは私が買ってやっから」 ハク「ほんと?」 レイナ「ほんとよ。あんたに罪は犯させないわ」 ハク「あ、ありがとう」 レイナ「良いんだよ。ついてきてくれたお礼ってやつだよ」 レイナ姉ちゃんは自慢げに言ってどんと胸を叩いた。 その姿がすごく頼もしく見えた。 ◯ ハクは約束通り、沙月とみんなを顔合わせさせて遊ぶために朝食を済ませてすぐに全員に"奥の森の滝に来るように誘う"という任務に取り掛かった。しかし、ユウにはいつものようにスパッと断られた。 それを横で見ていたレイナ姉ちゃんが歯を磨きながら「あんた人付き合い悪いと嫌われるよー?」とモゴモゴ言った。 ユウはそれを無視してさっさとどこかへ行ってしまった。たぶん奥の森の方だろう、とハクは思った。 一人欠けてしまうのは残念だが他のみんながいる。 そう思ったハクだったが、ヒカリは朝から島外に出かけており、ダイチは勉強。シンは見当たらず、イチコちゃんも朝から家を留守にしていた。 そしてしずかは──体調を崩しているとのことだった。 ハクと未悠以外、誰も集まらなかったのだ。 沙月に約束していた手前、せめてレイナ姉ちゃんたちを誘おうか、とも考えたがどうやらレイナ姉ちゃんは多忙のようだった。盆休み中に部活の顧問から課された"宿題を終わらせておけ"というミッションに今更取り掛かっていたのだ。 こころ姉ちゃんは太一兄ちゃんのところに行ってなにやら話をしているらしいので、結局誰も誘えなかった。 無駄なことをしているうちに午前中はあっという間に終わってしまい、ハクと未悠が奥の森に向かうのは結局、昼を過ぎた頃だった。 「みんな遊べないなんて、こんな偶然あるのか…」 奥の森へ向かう丸太橋を渡っている間、ハクはぶつぶつと文句を言った。 「偶然。なのかな。もしかしたら必然だったりしてね」 ハクの後ろにいる未悠が口をもぐもぐさせながら言った。未悠が話すたびにグレープ味の良い匂いがする。 ハク「はあ。ひつぜん?」 ハクは必然という言葉の意味がまだよく分かっていなかった。 未悠「起こるべくして起こることってこと。偶然の反対、かな」 疑問だらけのハクの頭の中を察した未悠が説明して、ちょんっとハクの背中を突いた。ハクはうひぃっと飛び上がった。 奥の淵にはやはり沙月しかいなかった。 沙月はハクと未悠に背を向けて水辺の岩にちょこんと座って滝を眺めていた。 沙月がハクと未悠の気配に気づいて振り向いたとき、ざわざわと周囲の木々が揺れた。 ハク「沙月。わ、悪い。なんかみんな遊べないみたいで」 「普段はそんなことないんだけどな…」 「タイミングが悪かったのかな」 ハクはさっさと謝った。ハクの性格上、こういうのはタイミングを逃すとなかなか謝れないのだ。 沙月「ううん。いいよ。別に」 沙月はまるで、ハクみたいな返事をした。もし本当に沙月がハクと似てるなら、沙月はほんとはちょっとがっかりしているのではないだろうか、とハクは思った。 遊ぶ約束をしていたのにそれが果たせなかった申し訳なさからハクは、今は例の落とし物──鉄の箱を引き上げるのはやめて遊ぶことに集中することにした。引き上げだけならあとで一人で戻ってこねば良いのだから。 遊ぶと言っても沙月は水には入ろうとしないし、結局は喋っているばかりだった。とは言え、ハクも沙月も落ち着きがなく二人とも岩に飛び乗ったり岩と岩の間をぴょんぴょん行き来したりして話していた。 未悠だけがじっとしたままその会話に参加していた。 ハク「沙月はどこの学校なんだ?」 沙月「私は──紅葉丘(もみじおか)第三小学校ってところ」 聞いたことのない学校だった。当然、知っている名前が返ってくるとは思っていなかったのでハクはテキトーに飲み込んだ。 ハク「ん。それってこの辺?」 沙月は首を横に振った。 ハク「この島じゃないのか」 未悠「今はこの島に学校ってないんだよ」 「私たちも船で通ってるし」 「沙月の学校も別のところ、だね」 水辺であぐらをかいて座っている未悠が淵を取り囲む壮大な木々を見つめながら言った。 沙月「ねえ。今って何月の何日なの?」 ハク「え?八月の十八日だろ」 ハクは即答した。夏休みの間は毎日チェックするのだから知らないはずがなかった。 沙月「そっか」 沙月はまるで全く知らなかったような反応をした。 未悠「そういえば、ハクが帰っちゃう日ももう少しなんだね」 未悠がぽつりと言った。 ハク「ああ。そっか──」 未悠の一言で自分があと一週間足らずでこの島を去るということを思い出した。 ハク「時間はあとちょっとなんだな」 ハクは腕を組んだ。なんだかもう随分と長い間ここにいるような気がしていた。しかしそれは単なる思い込みであり、実際は一週間程度のことだ。 でもそのここでの暮らしも終わりが近づいている。 沙月「ほんとにさ、時間ってすごく大事だと思うよ」 沙月が手を後ろで組んでゆーらゆーらと揺れながらどこか恥ずかしそうに言った。 ハク「なんだよ急に」 ハクが首を動かして沙月の方を見ると、沙月は目を細めた。 沙月「だってさ、いつ何が起こるかなんて分からないじゃん」 沙月が不貞腐れたように言った。 ハク「何が起こるって…」 沙月「うん。だから例えば、明日には死んじゃってるかもだし」 ハク「怖いこと言うなよ」 そう言って沙月の言葉を流そうとしたハクだったが、あり得ない話ではないように思えた。 例えば命に関わる事故とかそう言ったものはいつ自分の身に降りかかるか分からないのだから。 沙月「自分に残された時間が後どれくらいかなんて分かんないけどさぁ、大事にしなきゃ勿体無いなって私思うんだよね」 「だから、ぼーっと何もしないでいる時間とかもさぁ、誰かと遊んでる時間とかもさぁ、全部おなじ時間だけどさぁ、できれば自分にとって良いなって思える時間の使い方したいなって」 沙月は、頭に浮かんでいるいくつかの言葉を一つずつ摘み上げて文章として繋げていくように辿々しくそう言った。 沙月「同じ時間はもう二度と来ないんだもん」 ハク「どういうことだよ」 沙月「今、この時間ももう二度と来ないじゃん」 ハク「また話せば良いじゃんかよ」 沙月「そういうことじゃないし」 沙月は頬を膨らませてハクを睨んだ。 沙月「今日──八月の──十八日だっけ?──の今のこの時間──何時か知らないけど──に話している今この瞬間はもう二度と来ないでしょ」 沙月はさも凄いことを言っているふうにそう言ったのだが、ハクにはそれはすごく当たり前のことに聞こえた。実際、沙月は"当たり前のことけどね"と付け足した。 沙月「君が──ハクがさぁ、もうすぐここから帰るならさぁ、時間大事にしないとさぁ、もったいないよってそういうこと」 沙月は"ハク"の名をえらく恥ずかしそうに発音した。 ハク「そうか。そうだな」 なんだか。 なんだか目が覚めたような気がした。 残り一週間足らず。いや、実際には六日くらい。ハクはそれが自分の"二度と来ない残された時間"だとは思ってもいなかったのだ。 今年、波都で過ごす時間が終わればまた来年来れば良い。心のどこかでそう思っていたが、よく考えてみれば来年どころかもう一度この波都に来る可能性は高くはない。 来れたとしたってこんなに長い間滞在することなんてなかなか出来ることではない。 次にここに来るのはいつだろう。 ここに、今のように友人として滞在できるのはいつのことだろう。 その時もみんなはいるのだろうか。変わらずにみんな揃っているのだろうか。 しずかもシンもダイチも未悠もヒカリもイチコもユウも──レイナ姉ちゃん、こころ姉ちゃん、太一兄ちゃん──みんないるのだろうか。 この島で育ったのだからずっとこの島に居続けるのが当たり前だとハクは思っていた。 でも、この島で生まれ育っていない奈水が故郷を離れてここに来たように、この島から出ていくのもまた当然のことではないだろうか。 なら、みんなが揃っている時間なんてとても限られたものではないか。 次にハクがここに来る時にはみんなは揃っていないかもしれない。それどころかひょっとすると町さえ残っていないかもしれない。未悠の言うように、あのでっかい橋のせいで無くなってしまっているかもしれない。 不安や焦燥感がどっと押し寄せてくる。 そうだ。この島での残された時間は後わずかだ。 だから、やり残したことがないようにしないといけない。 ハクはそう思った。 ハク「お前、けっこう頭良いんだな」 我に帰ったハクは沙月に言った。負けず嫌いのハクが人を褒めることなど滅多にないが、これは、当たり前のことに気づかせてくれたハクなりのお礼だった。 沙月「当たり前じゃん。国語得意だし」 ハク「関係あんのか?それ」 「お前さ、時間についていつもそんな考え方してんの?」 ハクなんてこれまでは残された時間がどうとかこの先どうとかなんて考えたこともなかった。 沙月「うん」 ハク「へぇ。変わってんなぁ」 沙月「分かんないんだけど、そんなことばっかり考えてるのかも」 ハク「そんなことばっかり?」 「他は?遊びのこととか、漫画のこととか」 沙月「他は───」 沙月の眉間にシワが寄る。 沙月「──忘れちゃった」 ハク「ん?」 ハクは首を傾げた。なんだか急に会話が成り立たなくなった気がした。 沙月「私、忘れちゃったんだよね。たくさん」 ハク「忘れたって?」 沙月「うん。忘れた。他に何考えてたかとか」 「覚えてることもあるのに、記憶にぽっかり穴開いてるみたいに忘れちゃった」 「私、記憶力良いはずなのになぁ」 沙月はゆーらゆーらと揺れながらそう言った。 ハク「そ、そうか。思い出せると良いよな」 ハクは沙月の言っていることがまるで分からなかったが、理解できていないと思われるのも嫌なので当たり障りのない返事をした。 沙月「私、そろそろ帰るね」 沙月はパーカーのポケットに手を突っ込んだまま歩き出す。 ハク「家、どこなんだ」 沙月「忘れちゃった」 ハク「はっ?」 「そんなんで帰れんのか!?」 ハクは思う。この沙月は頭に何らかの症状を抱えているのではないかと。だから記憶が曖昧なのではないかと。 沙月「大丈夫。どこに居れば良いかは分かってるから」 沙月はそう言って林道の方へ向かって歩いて行った。少ししてハクが後を追ったが、もう沙月の姿はなかった。 ハク「アイツ大丈夫かよ」 未悠「大丈夫だよ」 未悠はえらく落ち着いていた。 未悠「それじゃあ私ちょっと用事あるから行ってくるね」 未悠がさっさとどこかへ行こうとするのをハクは止めた。 ハク「なぁ。用事ってなんだ」 前から気になっていた。未悠は用事と言いながらベンケイ山の方へ行くのだ。幽霊が出るとか言うベンケイ山に。 未悠「うーん。秘密!」 未悠はそう言って素早くハクの横っ腹をつつき、ハクを飛び上がらせているうちに走り去った。 ハク「くっそぉ〜」 たったひと突きだったというのに、横っ腹にはまだじんじんとした刺激が残っている。 さて、どうしたものか、とハクは奥の森の林道の中で立ち尽くした。 未悠の秘密は気になるが、未悠を追ってベンケイ山に行くというのはなんだか必死すぎてカッコ悪いし、それならば沙月の落とし物をさっさと引き上げようと思った。 そうすれば、沙月の思い出せないことも少しは思い出せるかもしれないと思った。 なぜなら、沙月はあの箱の中身のことを─── ハクはまたあのときの沙月の言葉を思い出して腕組みをし、考え込んだ。 沙月が教えてくれた落とし物──箱の中身。昨日聞いた時は言葉通りに受け取ってしまったのでなんだかゾッとしたが、一晩経って考えてみればあれは、物語とかに出てくる"例え"なのだとはハクはそう思った。 ならばやはり、沙月の欠けている記憶とやらを思い出させる治療薬になるような気がした。 そう思うと気持ちが焦り、やっぱりなんとしてでも自分の手であの箱を引き上げてやらないとと思った。 ハクは一度家にシュノーケルを取りに戻った。 奥の森の淵から家に帰り、再びここへ戻ってくるのに要した時間はだいたい二十分くらい。 その間に、奥の淵には見知らぬお客が訪れていた。 「誰だ?」 見慣れぬお姉ちゃんの姿を見たハクは思わず声に出してしまった。 岩に座り込んだお姉ちゃんはタオルかバンダナかを頭に巻いており、肩くらいまで伸びている髪の毛は青い。ハクはこんなにも綺麗な青をした髪の毛を見たことがなかったので驚いた。髪の毛といえば普通黒で、中には茶色い人や金髪の人もいるけど、青なんて見たことがなかったのだ。 青い髪をしたスポーティな半袖ハーフパンツのそのお姉ちゃんはパッチリとした目でハクを見た。 愛嬌を感じさせながらも大人びた雰囲気を持つその女性はハクを見るなり、まつ毛の長い目をぱちくりとさせた。 ハクはその綺麗な顔を見て、レイナ姉ちゃんと同じくらいかもしかするともう少し歳上くらいかな、などと勝手に予想する。 「誰だって…そっちは誰なの?」 青髪のお姉ちゃんは不思議そうに聞いてきた。 ハク「え。俺は…矢内ハクだけど」 自分の名前を名乗るのももうすっかり慣れたものだ、とハクは思った。それとも、この淵に流れ落ちる滝の音が恥ずかしさを少し誤魔化してくれているのだろうか、とも思った。 「へえ。律儀だね。フルネームで教えてくれるなんて」 青髪のお姉ちゃんはからかうようにケラケラ笑った。 ハク「そっちが聞いたんだろ…」 「まぁそっか」 ハク「で。誰なんだよ」 「キミ、乱暴だねぇ。レディにそんなこと聞く?」 ハク「そっちも子供に聞いただろ」 「まぁそっか」 ハク「で。誰なんだって」 ハクは青髪のお姉ちゃんから距離を保ちつつ聞いた。大自然のど真ん中に座り込んでいる青髪の女はハクの目にはなんだか異質に映っており、自然と警戒心を抱いていた。 「うーん。そうだなぁ。私は、"ホトリ"って言うんだよ。そうだなぁ。"水原ホトリ"っていうのはどう?」 ハク「は?なんだよそれ…今考えたみたいな」 ホトリ「あはは。そんなことないって。ほら」 ホトリは足元に置いてあるやけにデカいボストンバッグのファスナーを開け、中から財布を取り出して中からカードを一枚取り出してハクに見せた。 免許証だろうか。顔写真と名前の書かれているそのカードには確かに"水原"と書かれていた。名前の方は難しい漢字が使われていて読めなかったがおそらくはホトリと読むのだろうとハクは無理やり自分に言い聞かせた。 ハク「それで…なにしてんの。ここで」 ハクとしてはここで一人で落とし物の引き上げに集中したかったのに、見知らぬ青い髪のお姉ちゃんがいるとなんだか気が散るのだ。 ホトリ「そんなに気になる?」 ホトリは免許証を仕舞いながら言った。 ハク「うん。大人の人がこんなところに遊びには来ないだろ」 ホトリが実際のところ何歳なのか分からない。レイナ姉ちゃんとそう変わらないのかも知れないし、本当はそうでもないのかも知れない。 だが、ハクにとっては免許証を持っていた時点で 立派な大人なのである。 ホトリ「遊びといえば遊びなんだけどね」 ホトリはちらりと水面を見てまたすぐに視線を地面に戻した。 ホトリ「ダイビングだよ」 ハク「ダイビングって潜るやつ?」 確かに、ホトリの足元に置かれている荷物の中には何やらシュノーケルみたいなものやダイビングスーツのようなものも確認できた。 ホトリ「ここの川底って綺麗でしょ?」 ホトリはその丸くておっきな瞳だけを淵の方に向けた。 ハク「まぁそうだな」 ここの水底は確かに綺麗だ。ハクも昨日、底まで潜ったから知っている。ベンチとか郵便ポストとかが沈んでいて、まるで水中都市みたいだった。 ハク「ここの底が綺麗だってことは有名なの?」 ハクは少しだけこのホトリというお姉ちゃんに心を許し始め、無意識に少しだけホトリに近づいた。 ホトリ「いや。そんなことないと思うけど。ガイドブックにも載ってないしね」 ホトリは冗談ぽく言ってぺろんと唇を舐めた。 ハク「じゃあ、前にここに来たことあるから知ってんの?」 ホトリ「来たことあるよ」 ハク「そっか」 「俺も知ってるんだよ。ここの川底のこと」 「昨日潜ったんだ」 ハクは自慢げに胸を張ると、ホトリの大きくて綺麗な瞳がハクを捉えた。ハクはそのおっきな瞳に見つめられるのが耐えられなくて思わず目を逸らした。 ホトリ「潜った?君が?一人で?ここの底まで?」 ホトリはびっくりしながら水面を人差し指で突き刺すようなジェスチャーを繰り返した。 大人の女性が自分の偉業に驚いているのがハクにはたいそう心地が良かった。 ハク「そうだけど?」 ハクは敢えてそっけなく返事をした。本当は自分でも凄いことを成し遂げたつもりでいたのだが、それをあからさまに態度に出すのはハクでいうところのカッコ良さには反するのだ。 ホトリ「やるじゃん」 ホトリは、ニヤリと口角を上げて言った。 ハク「だろ」 ホトリ「それでさぁ。ここの底で何を見たの?」 ホトリはまたハクから視線を外し、ちらりと空の方に視線を向けて尋いた。 ハク「え?そうだなぁ郵便ポストとかベンチとか…あとはなんだろ…看板とか」 記憶を辿る。底の光景は非常に美しかったし、水中都市だと思えるほど印象的だったにも関わらず、こうして思い返してみると印象的なものしか思い浮かばない。というより言葉として形に出来なかった。 ホトリ「"おっきな袋"…見なかった?」 ホトリはまっすぐ、ハクのいない方を見つめて言った。 ハク「袋?どんな?」 ホトリ「おっきいやつ」 「こーんくらいの」 ホトリは両手で円を作るようにしながら説明した。 ハク「いや、分かんないな」 そう言われてみるとあったかもしれないが、あの時のハクはベンチとか看板とかに気を取られていて他のものなんてほとんど覚えていない。そもそもそんなに長い間観察はしていないし、あったとしても見つけられていない。 ホトリ「そっか」 ホトリはため息まじりに言って少し俯いた。 ハク「その袋を探してんの?」 ホトリ「いや、いいんだ」 「あ、そうだ。キミはさぁ"神秘の花園"は見たことある?」 ホトリはするりと話題を変えた。袋のことも気になったが、それよりもその"神秘の花園"という言葉にハクの気は惹かれてしまってすぐにそちらに食いついてしまった。 ハク「し、しんぴのはなぞの…?」 ホトリ「そ。あるんだよ。この町にね」 「綺麗な花がたくさん咲いてる神秘の場所。秘密の花園だよ」 ハク「どこにあんの?」 ホトリ「それは秘密」 「だから神秘なんだよ」 「いや、漢字で書くと"深い秘密"の方の"深秘"の方が良いのかな?」 ハク「ど、どうやっていくんだ?」 漢字でどう書くかはハクにはどうでも良かった。どうせ分からないのだから。 ホトリ「だから秘密なの」 ハク「教えてくれないのかよ…」 ホトリ「探してみなよ」 「自分の手でね」 ハクにはホトリがゲームなんかに出てくるキャラクターに見えた。主人公にやるべき事を与えてくるようなキャラクターだ。 たった今、この青い髪のお姉ちゃんはハクにやるべき事──目標を与えてくれた。 ハクはこの夏の間に、この波都の町にいる間に"神秘の花園"を見つけないといけない、と強く焦る気持ちを抱いた。 ホトリ「行くのは大変だよ?」 「入口を見つけても、そこを突破するのは簡単じゃない」 「分からなくなったら、私のところにおいで。ヒントをあげるから」 「それと、一人で挑もうとしないこと。友達がいるならその子達と探すのが一番だからね」 ホトリは岩から立ち上がり、パンパンとお尻についた砂を払う。 ホトリ「さて、私もそろそろ潜るかな」 ホトリはボストンバッグを漁り、ダイビングの準備を始めた。 ハクは彼女の邪魔をしてはいけない気がしたのと、自分一人で沙月の箱を引き上げたかったのでその日は奥の森から出た。


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