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あの夏の悶絶は思い出の中に(11日目#1)

1. 晴れ渡る 島波イチコとの最後の勝負が"相撲"であると明かされたのはその日の朝食を食べてすぐのことだった。 まだハクやユウが食器を台所に運んでいる最中にしずかが玄関に現れて決闘の内容を告げたのだ。 まさか最後の勝負が取っ組み合いになるとは思ってもいなかったハクは、食器を持ったまましばし呆然としていた。 「え。なになに?イチコと相撲すんの?」 部活に出かける前のレイナ姉ちゃんが野次馬みたいに寄ってきた。ハクは頷いた。何が可笑しかったのかレイナ姉ちゃんはケタケタ笑った。 ユウ「こんなこと言うとまた怒られるかも知れないけどさ、ハクは有利じゃないの?」 「力任せにばーんって投げれば良いし」 ハク「いや、そうはいかないだろ…」 ユウ「女が相手だから?」 ハク「違うな。そう簡単にはいかないって意味だ」 ハクは自分の鼓動が高鳴るのを感じた。これは、興奮ではなく不安からくる動悸だった。 レイナ「そりゃそうだろ」 「相手はあのイチコだし。力の強さはハクの方に軍配が上がるかも知らんけど、なんと言ってもあの精神面の強さは半端じゃない」 「あんたらガキンチョ同士の力の差なんて埋まっちゃうでしょうね」 レイナ姉ちゃんはテーブルに置いた水筒にポットのお茶をだくだくと注ぎながら言った。 ハク「そうだなぁ」 「レイナ姉ちゃん。相撲のコツとかないのか?」 レイナ姉ちゃんはキュッと水筒の蓋を閉め、何か面白いものでも見るかのようにハクを見た。 ハク「なんだよ」 レイナ「いや、よほど負けたくないんだな、と思ってね」 ハク「そりゃそうだろ」 「最後の戦いなんだからさ」 レイナ「まぁそうか」 「そうだなぁ。そうは言っても私みたいな乙女は相撲なんかしたことないからねぇ」 ユウ「え?昔隣町の人を投げ飛ばしてたじゃん」 ユウがえらく真面目な顔をして言うと、レイナ姉ちゃんは弟の頬を引っ張って黙らせた。 レイナ「あれは相撲じゃなくて取っ組み合いだっての」 「そうだねぇ。技術的なことを今教えたって逆効果だと思うんだよね」 ハク「なんで?」 レイナ「いま技を教えたら、本番でその技を使おうとして頭を余計に使っちゃうでしょ。本能で戦えなくなる」 ハク「なるほど」 レイナ姉ちゃんの言うことはなんとなく分かった。 例えば対戦ゲームでも、新しい技を覚えたらとにかくそれを使いたくて、いつもの動きが出来なくなったりする。レイナ姉ちゃんが言っているのは、きっとそう言うことなのだろうと思った。 レイナ「だから。余計なこと考えないで思い切りやれば良い」 「全力でね」 「頑張れよ、ハク。負けたら承知せんからな」 レイナ姉ちゃんはハクの肩をぱんと叩くと水筒をバッグに放り込み、流れるようにするするとバッグを背負って玄関に走って行った。 ◯ 登美の川の流れは心なしかいつもより早い気がした。普段が緩やか過ぎるせいで余計にそう感じるのか、それともハクの心に落ち着きがないからそう感じるのかは分からなかった。 しずかとヒカリが枝を使ってきゃっきゃ言いながら地面に円を描いている。土俵だ。 未悠はイチコのストレッチを手伝っていた。 ハクは、シンに胸を貸してもらってぶつかり稽古をしている。それを眺めながらダイチとユウがあれこれアドバイスを投げていた。 ハクはそれらのアドバイスを頭に入れながらも、さっきレイナ姉ちゃんに言われたことも意識しながら入念に準備した。 「それじゃあ、始めるよ」 クリアレッドの腕時計で時間を確認し、しずかが言った。勝負の時間、10時になったのだ。 ハクとイチコは互いに土俵に入り、向かい合った。側から見ていると土俵はけっこう大きく見えたのだが、いざ中に入ってみると意外と小さくて狭い。 裸足で地面を踏む。 太陽に焼かれた地面が足の裏に接し、さらに細かな石や砂が皮膚に食い込むが、ハクは力強く柔らかな足の裏でその灼熱の地面を踏み締めていた。 しずか「ルールは言うまでもないと思うけど、一応言っとこうかな」 「先に手を突いたり、尻もちついたり、膝をついたり、転んだり、土俵から出された方の負けね」 「殴ったり叩いたり蹴ったりは禁止」 「いい?」 ハクとイチコは互いに目を睨みつけたまま頷いた。 ハクの神経は、イチコに向けて研ぎ澄まされている。 忙しなく聞こえていたせせらぎも、蝉の声も何も聞こえなくなった。 しずか「それじゃあいくよ?」 しずかが手に持ったうちわをハクとイチコの間に差し込むようにして下ろす。 そして。 しずかがうちわを勢い良く掲げた瞬間、ハクとイチコは同時に裸足で地面を蹴るようにして動き出した。 ハクの肩とイチコの肩が激しく衝突した。 イチコの身体が弾かれるようにぐんと後ろにのけぞった。 ──今だ! ハクはイチコの"まわし"──と言ってもイチコのはいている半ズボンの腰を掴んだ…が、イチコはひらりとそれをかわした。 軽快なステップを踏んだイチコはそのまま姿勢を低くしてハクにタックルしてきた。 ハクはそれを避けようとしたが間に合わず、イチコに左脚をガッシリと掴まれ、持ち上げられてしまう。 ハク「うおっ!?」 なんとか右脚でバランスを保つハク。 イチコはここぞとばかりにハクを土俵際まで押していく。 ハクはケンケンの状態でギリギリ耐えた。 ──ここまでか? ハクの脳裏に敗北が過ぎる。 その途端、ハクを覆っていた集中の霧が晴れ、せせらぎも蝉の声も、そして応援する友人たちの声も全てが再びハクの耳に届き始めた。 一番近くで戦況を見守っているしずかが見える。 途端に、ハクはドキリと心臓が高鳴るのを覚えた。 イチコは絶対にライバルであるハクに負けたくないという強い気持ちを持っている。 当然、ハクも同じような気持ちを持ってはいるが、それでもイチコの負けず嫌いには敵わない。 単に負けたくないと言う気持ちの強さだけで言えば、ハクはイチコに負けている。 しかし、ハクがこの勝負に負けられない理由はそれだけではない。 ハクには、しずかに見られている前でみっともない負け姿を晒したくないという気持ちがあった。それがなぜなのか、ハクにはよく分からない。 負けたら馬鹿にされるからか?違う。しずかはそんなことはしない。 考えたってやはり分からない。分からないが、絶対に、しずかの前では負けたくなかった。 その気持ちがさっきよりも強く込み上げて来て、ハクは再び集中の霧の中へ入り込んだ。 ハクは腹部に思い切り力を込め、イチコの猛追を踏ん張って阻止し、腕を伸ばしてイチコのまわしを取った。 ズボンの腰を強く、握る。 ハクがイチコを引き寄せる。 ハクとイチコの距離がぐんと縮まり、イチコは堪らず脚を離し、代わりにハクのズボンの腰を捕まえた。 汗だくの皮膚と皮膚とが擦れ合う。熱気と熱気とが混じり合う。硬い胸と柔らかい胸がぶつかり合う。 ふくらはぎの筋肉が破裂しそうなくらい。裏もものスジがブチ切れてしまいそうなくらい。ハクは踏ん張り、イチコを押し、土俵の真ん中まで戻る。 まわしを握る手の感覚が消えてきて、本当に、握れているのかどうか分からなくなってくる。 イチコがどんと一歩踏み込み、前方に倒れ込むようにしてハクのバランスを崩す。 ハクは右脚で踏ん張り、足指を熱い地面に食い込ませた。 イチコが寄る。全体重を掛けてハクに寄る。 力で押し返すのはもう不可能だった。完全に力の使い方を誤ったのだ。もっとセーブして使うべきだったとハクは後悔した。 イチコの体重がハクの上半身全てにのしかかる。 人一人の体重というのはこんなに重いものなのか。 こんな重さを受け続けたらもうもたない。 ハクは、イチコの体重を後ろに流すように上体を捻った。 「あっ!」 イチコが声を上げる。ただでさえ大きな目がさらに大きく開いていた。 的を失ったイチコの身体が前方に、土俵の外へ倒れていく。 しかしイチコは寸前で踏みとどまり、片足を軸にしてぐりんと振り返ってハクを見た。 その時にはもうハクはイチコに迫っており、彼女のまわしを掴み、イチコを力一杯持ち上げた。 腕が破裂しそうだった。 それでも全力でイチコを持ち上げ、前に体重を移動させ、イチコを押し出す。脚が鉛のように重くなってまるで前に進まない。 そして、ハクはイチコのまわしを掴んだままゆっくりとイチコを地面に着地させた。 イチコの両足は土俵の外に着いていた。 ハクは土俵内で崩れ落ちた。 「そこまで!ハクの勝ち!」 しずかがハクの勝利を告げた。 辺りはしんとしていた。 周りの音がハクの耳に届くまでには少し時間がかかった。 皆、手を叩いて盛り上がるわけでもなく、勝者の元に駆け寄って来るわけでもなく、敗者を慰めるわけでもなく、ただじっと、ハクとイチコを見ていた。 皆、静かに健闘を讃えるように見つめているだけだった。 しばらくの間、地面を見つめて息を整えていたハクが顔を上げると、土俵の外ではイチコが呆然としたように立っていた。 イチコ「私、負けたんだ───」 イチコの顔はすごく、涼しげで満足げであった。 それから、頬を膨らませてププッと笑った。 その大っきくて綺麗な目は潤み、涙が溢れ出て、つうと頬を伝った。 そこへしずかと未悠が駆け寄った。ヒカリも続いた。 しずかはそっと優しくイチコを抱きしめた。 イチコはしずかの胸の中で啜り泣いた。 それを見たハクは、なんだか申し訳ないことをした気になった。女子相手に必死に挑んで粘って勝とうとした自分が情けなく思えた。 自分が勝たない方が良かったんじゃないかとさえ思った。 シンとダイチとユウがハクの元へやって来た。 地べたに手をついたままのハクにシンが手を差し出した。 「やったじゃねぇか。喜べよ!お前は勝ったんだぞ」 シンは言った。弾けるような爽やかな笑顔だった。 ハクは手を握り返し、シンに引っ張り上げられるようにして立ち上がった。 ダイチ「すげぇ勝負だったじゃねーか!」 「負けるかと思ったぜ!」 ダイチがハクの肩を叩いた。 ユウ「すごいことなのに…嬉しくないの?」 ユウが首を傾げた。 ハクはイチコを見た。 ハク「いや。嬉しいよ」 「めちゃくちゃ…嬉しい」 それは本心であった。 それをようやく口に出来たのだが、それでもやはり泣いているイチコが気になった。 ヒカリ「悔しいなら…もう一回くらい、やる?」 ヒカリが心配げにイチコを見つめながら、ちらりとハクを見た。 イチコはしずかの胸に顔をうずめながら首を横に振った。 「いいの。私の負けだから」 イチコは顔を上げ、鼻を啜ってハクを見た。目はまだ赤い。まつ毛までもが濡れている。 イチコ「全力で戦ってくれて、ありがとう」 イチコは声を震わせ言った。 その途端に、ハクが抱いていた罪悪感は消し飛んだ。イチコはなにも、ハクが大人気なく勝ったから泣いていたのではないのだ。そもそも大人気ないとさえ思ってもいない。むしろ彼女は、全力で勝負してくれたことに感謝している。そして、その結果負けたことが悔しくて泣いていたのだった。 ハク「そっちこそ」 えらく短い返事をした。 それ以外に言葉は思いつかなかったし、なんだか小っ恥ずかしかった。 ハクはただ、レイナ姉ちゃんに言われたように全力で戦い抜いただけなのだ。 イチコがぐすぐす鼻を啜りながらハクの方にやって来た。 イチコ「私が土俵から出ちゃいそうになった時、それでもまだ向かって来たよね」 「私はあれが嬉しかった」 ハク「当たり前だろ。だって、絶対に勝てるなんてまだ思ってなかったんだからな」 「最後まで油断できなかった」 ハクが思ったまま言うと、イチコはまた嬉しそうにぷぷぷと笑った。 イチコ「そういうところ」 イチコがぽつりと言った。 ハク「なに?」 イチコ「そういうところだよ。私が、ハクにな────」 イチコは、なんでもない、と言って首を振った。 その様子を女子たちは黙って見ていた。ヒカリはすごく愉しげだった。 ハクを含めた男子たちは、訳がわからないと言ったように首を傾げていた。 シン「とりあえず。これでこの二人のライバル勝負はおしまいか?」 ユウ「だ、だったらさ。僕と──」 ユウが言い終える前に、イチコは大きく大きく首を横に振った。それはシンの問いかけに対しての応答だったのだが結果的にユウの言葉は遮られてしまった。 イチコ「まさか!勝負は終わったけど、ライバル関係はずっと続くよ」 イチコはとぼけたような顔で、さも当然のことであるかのようにそう言い切った。イチコのわんぱくな笑顔には、その近くで肩を落としているユウの悲しげな空気は届いていない。 イチコ「だから」 「これからもずっと、ハクとは競い続けるから!」 イチコはびしっとハクを指差した。てっきりもうライバル関係も解消かと気を抜いていたハクは驚いてぼうっとしていたが、イチコの放つ闘志に押されて再び身体が熱を帯びのを感じた。 イチコのおっきな目に浮かぶ澄んだ瞳はまっすぐにハクを見つめている。 負けず嫌いのハクでさえ驚くほどの負けず嫌い。 負けたって負けたって挫けない。 人前で悔しさに押し潰されて泣きじゃくっても挫けない。 島波壱子のその不屈さがハクには眩しかった。 そして少しだけ、羨ましく思った。カッコいいと思った。 ◯ ここに来てからハクは毎晩、寝る前に少しずつ宿題を進めていたのだが、そうは言ってもここ数日は寝る前にはクタクタになっているし、せいぜい1ページか2ページ進めば良い方だった。 遊びには熱心だが、こと勉強になると甘くなってしまっていた。 つまり、宿題が全然終わっていないのだ。 それはハクだけではなかった。 宿題が全て終わっているのはダイチだけで、イチコはあと少しというところらしい。その次に進んでいるのがしずかで、シン、ユウ、未悠の三人は同じくらい進んでいないとか。 夏休みも残り僅かだ。これ以上だらだらとしていられない。 そこで、皆で集まって残りの宿題をやってしまおう、ということになった。シンの提案であった。 場所は空野家二階の和室。いつも奈水が晩酌をしている部屋だ。 四角い大きめの座卓を囲むように座った。外は死ぬほど暑いが、この和室は素晴らしく涼しい。縁側の近くに設けられたゴーヤー等の緑のカーテンのおかげか、暑い日差しが遮断され、さらに開け放たれた窓から入ってくる風が心地よさを増している。 座卓の上には、皆の宿題でいっぱいになった。 国語のワークに社会のプリント類、そして難敵算数ドリルだ。 どれも表紙だけは楽しげで無駄にカラフルだ。毎年、夏休みのドリルを受け取る時はそのカラフルな表紙にちょっぴりワクワクするのに、この時期に見るドリルたちは悪魔のように見える。 シン「ああ。くそ。絵日記くらいは毎日つけておくんだった!」 どかっと座り込んであぐらをかいたシンが短髪の髪をいじいじ触りながら嘆いた。 ハク「なんだ。つけてなかったのか」 意外なことだった。あれだけ毎日楽しんでいるシンがその日の出来事を記録していないなんて。 シン「描こうと思ってはいたんだよ」 「でも夜になると漫画に手が伸びるし、そのあと布団に入っちゃうし」 「これまで何があったのかなんにも思い出せねぇ…ダイチがすっ転んで海に落っこちたことしか覚えてねーよー」 「あ、駄目だ。それもう書いてあった」 シンはわざとらしく絵日記のページをめくった。 ダイチ「お前そればっかりだな」 「人のこと馬鹿にする絵日記書く前に、ちゃんと書くべきことを書けよな」 ダイチは無理やりシンの絵日記をばたんと閉じようとしたが、ハクがそれを阻止した。どんな内容なのかしになったのだ。 ダイチ「おい。見なくていいって」 ハク「いやちょっとだけ」 ハクが見ていると後ろからトテトテと足音を立ててユウがやってきて絵日記を覗き込んできた。 シンの絵は特別上手いわけではなかったが、それでもなんだか不思議な味わいがあって可笑しかった。 しずか「あんたたちさ、そんな馬鹿なことやってると宿題おわんないよ?」 しずかがハクの隣に座った。ピンと背筋が伸びている。 ハクは心臓のあたりが熱くなるのを感じた。 ハク「そっちはどうなんだよ」 しずかに対して抱く妙な緊張感を振り払うようにして乱暴に聞いた。 しずか「はぁ?私は算数のドリルあと2ページだけ」 しずかは座卓に広げてあるクジラとイルカの描かれた算数ワークの表紙をとんとんと叩く。 ハク「なんだよ以外に真面目なんだな…」 しずか「以外は余計」 しずかは言って、ハクの脇腹をひと揉みした。 ハクはうひゃあと声をあげて背中をのけぞらせた。 ハク「宿題前に人の体力削ろうとするなよ」 しずか「何言ってんの。こんなのでへたれないでしょあんた」 「それに私は、あんたがちゃんと宿題するのを監視するために隣に来てあげたんだよ」 ハク「あのさぁ」 ハクは言い返そうとしたが、しずかに睨まれてやめた。これ以上言い返すと碌なことにならない気がした。 それから宿題を開いた。 算数のワークは相変わらず暗号にしか見えない。一学期のうちに習ったものだけが出題されているはずなのに、習った覚えなんてまるでない。一学期の学校での出来事なんて、遠い昔のことのように思える。 ハク「レイナ姉ちゃんがいたらちょっとは教えてもらえたのかな」 ハクは鉛筆をくるくる回しながら呟いた。 ユウ「勉強のことならうちのお姉ちゃんより、こころ姉ちゃんとかの方が得意だよ」 ユウは絵日記の色塗りをしながら答えた。 シン「まぁなー。教えんのはへたっぴだけどな。何言ってんのか全然わかんねーし」 鼻と口の間に鉛筆を挟み、早くも宿題から離脱しかけているシンがだらだらとぼやく。鉛筆には、ゲームのキャラクターが ダイチ「それお前の理解力がないだけじゃないのか」 ヒカリ「勉強教えてもらってても、こんな感じで話聞いてなさそーだもんね」 ダイチのけなしに加えてヒカリが追撃までしてきたものなので、シンは悔しそうに、そんなことねーよ!と言い返して鼻と口に挟んでいた鉛筆を握り、乱暴に宿題を開いた。 五分ほどは皆、黙ったまま宿題に取り組んでいた。 ハクもそうしていたが、向かいに座っている未悠が不思議そうに宿題をチェックしているのが気になった。 ハク「どうかした?」 未悠「うん。なんかね、宿題が思ったより進んでるなって」 ハク「へぇ」 シン「良いことじゃねーか」 シンは耳に鉛筆を挟んで宿題のプリントを睨みつけながらそっけなく答えた。 未悠「いやそれがね、やった覚えがないんだよね」 未悠は細い眉を寄せて険しい顔をした。 ハク「それどういうことだ?」 未悠「ここ最近ずっと色々あったでしょ?それもあっていつも以上に宿題に向かってなかったんだけど…」 「今見たらすっごい進んでるんだよ」 未悠が不思議そうにページをめくる。 ヒカリ「そういえば未悠さぁ」 「二、三日前の記憶があんまりないとか言ってなかった?」 ヒカリが首を伸ばして未悠の方を見て言った。 ハク「二、三日前?」 二、三日前といえばちょうどユウが遭難したあたりの日だ。 そういえばユウが遭難した時──確かに未悠はちょっと様子が変だった気がした。 ハクがそのことについて未悠に尋ねようとしたが、すかさず入り込んできたシンによって遮られてしまった。 シン「お?なんだなんだ!!二、三日前の未悠は別人だったのか?宇宙人に記憶を操作されてたとか!?」 しずか「シン。いいから集中しろよ」 シン「おいおいそりゃあないだろー」 ダイチ「そんな不思議なことじゃないだろ」 「二、三日前って、ユウがやばいことになったり 、花園探して冒険してたりした忙しい日だろ?」 「忙しくて記憶がごっちゃになって覚えてないだけだと思うけどな」 未悠「そうかな」 「まぁ、宿題が進んでるならラッキーかな」 未悠は実に子供っぽい笑みを浮かべた。 りんと風鈴が鳴った。 井草の香りがした。 目を開けると見たことのない木目が見えた。天井だった。 座卓の脚が視界の端っこに見える。 そこでようやくハクは自分が眠っていたことに気がついた。いつ、どのタイミングで眠ってしまったのかは覚えていなかったが、確か最初に寝たのはシンだった気がする。 それに釣られてハクも眠くなって、眠ったのだった気がする。 やはり、遊びとは違ってつまらない勉強というものには睡魔が付き物なのだとハクは思った。 驚くほど静かだった。 皆、眠っていた。 未悠は座卓に突っ伏したまま眠っており、ダイチは腕を組んであぐらをかいた状態で船を漕いでいる。 イチコは体を目いっぱい大の字に広げてすやすや寝ていて、右手がシンの頬にめり込んでいた。そのシンは顔をしかめながらも眠っている。 ユウはその近くで退治のように丸まって寝息を立てており、ヒカリに至っては縁側の方で大胆に寝転がっていた。 「おはよう」 真隣から声がしたのでハクは驚いた。 しずかがちょこんと上品に正座している。 ハク「なんだ。起きてたのか」 ハクは皆を起こさないように出来るだけ小さな声で言った。 しずか「さっき起きた」 しずかは握っていた鉛筆を置いて宿題の冊子を閉じた。 ハク「終わったのか。宿題」 しずか「うん」 自分もやらないとそろそろまずいな。ハクはむくりと起き上がった。座卓の上に広がっている宿題はまだまだ空欄まみれで嫌になった。 しずか「なんか」 しずかがぼつりと言った。 しずか「夏休みの宿題が終わるといよいよ終わるんだなって思うよね」 ハク「うん?なにが?夏休みがってこと?」 しずか「夏休みがっていうか、夏が?かな」 しずかはじっと夏休みの宿題を見つめていた。 ハク「はあなるほど」 しずか「意味わかってる?」 ハク「分かってるよ」 しずか「ふうん。それくらいは分かるんだ」 しずかは、心底バカにしたような目でハクを見てきた。 ハク「馬鹿にすんなよな。俺、割と成績は良い方なんだぞ」 しずか「あっそ」 ハク「なんだよ」 ハクがうんと伸びをして威嚇すると、しずかはすかさずハクに向けて手を伸ばした。ハクは危険を察知して小さくなった。 しずかが勝ち誇ったようにニヤリと笑う。 ハクは何も言い返せず唇を結んで険しい顔をした。黙っていると、自分の心臓の鼓動が高鳴る音がよく聞こえた。 しずか「大丈夫?」 しずかがハクの顔を覗き込む。 ハク「なにが」 しずか「顔、赤いけど」 ハク「はっ!?」 ハクは小さく飛び上がった。 しずかと二人でいる時にだけ感じる身体の熱さ。心臓の高鳴り。それらが顔にまで浮き出ているとは思わなかった。 自分でさえしずかに抱く気持ちの正体がよく分かっていないのに、それをしずかには見抜かれているような気になって恥ずかしかった。 ハク「ま、まぁ夏だし?暑いし?顔くらい赤くなるだろ」 しずか「そう?あんたが赤くなるのってコチョコチョされた時くらいでしょ」 しずかは言ってハクの横っ腹をつついた。 ハクはまた飛び上がった。 しずかは楽しそうに笑っている。しずかの顔色はいつもと同じ。ハクのように赤くなってはいない。 でも、ハクと二人で話している時は、いつもは乱暴な口調が少しだけ柔らかくなる──気がした。 しずかによってハクが弄ばれていると、真向かいで眠っていた未悠がぬうと顔を上げた。未悠は目をぱちぱちとさせ、前髪の濃いブルーの髪留めを留め直した。 未悠「ああいけない…寝てた…あ、皆寝てる」 未悠は周囲のほとんどが眠っていることに安心したような顔をした。 未悠「二人は起きてたの?」 しずか「うん。まぁね。ずっと起きてて、話してた。ね?」 しずかがハクを見る。 ハクは、しずかがどうしてそんな嘘をついたのかよく分からなかったが、その嘘はなんだかとてもとても素敵に思えたのでハクは黙って頷いた。 未悠「そっか」 未悠は二重瞼の目を細めて微笑んだ。 ハク「あ、そういえばさ」 ハクは話を変えた。なんだか照れくさくなったのと、そもそも未悠には聞きたいことがあったのだ。 ハク「最近、沙月と会ってる?」 未悠は首を横に振った。 未悠「最近、全然」 ハク「未悠もそうなのか…」 未悠「うん。不思議とね、沙月に会いに行こうってなったらなんか用事が入ったり…それでやっと淵の方に行っても沙月がいなかったり」 まるでハクと同じだった。 ハクも同様の原因で沙月に会えていないのだ。 しずか「じゃあさ、明日にでも皆で会いに行く?その子に」 しずかが小さな声で言ってハクと未悠を交互に見た。 ハク「そうだな。それがいい」 未悠も頷く。 しずか「それにしても、変わってるね。あんな奥の滝にいつもいるなんてさ。どこに住んでるのかな」 しずかが何気なく放ったその一言にハクと未悠は顔を見合わせた。 変わってる。 ──確かにそうだ。 どこに住んでるのか。 ──それもそうだ。 ハクも未悠も沙月に会うには奥の滝に行かねばならないと思い込んでいる。実際、沙月とはそこでしか会ったことがないため、思い込むというよりはそれは事実なのだ。あの奥の滝に行かないと彼女には会えない。 初めて沙月と会った時に感じたあの違和感。彼女はどこに住んでいるのか。どうしてあの滝のそばで過ごしているのか。そう言った違和感は沙月と話しているうちに深く考えないようになっていた。 だが、しずかの一言であの時感じた違和感や疑問が再び湧き上がった。 やっぱりアイツは不思議なヤツだ。 ハクは思った。 そして思い出す。 あの日の、沙月の言葉を。 ──あの箱の中身、知りたい? ──いやそれは── ───あの箱の中にはね─── ───私が入っているんだ。


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