シニンノカゲ:3章part1
Added 2025-06-21 13:33:56 +0000 UTC1. 女王 ─2022年12月24日─ 四人の遺体が見つかっており、遺体はいずれも───。 羅那はそこでテレビを消した。 そんなことをしても意味はない。 インターネットを開けば、そこら中に悲劇の見出しが踊っているのだから。 〈校内で女子高生四人が死亡〉 【閲覧注意!】学校の裏山で女子高生四人の惨◯タヒ体が発見される!! 【速報】学校内でJK四人が死亡 どれもが閲覧を稼ぐための大袈裟な見出しだ。誰も何も、知らないくせに。 羅那はため息をついてスマートフォンをベッドに投げる。 自分には何が出来たのだろうか。 自分は生きていて良いのだろうか。 全てはあの、"死者の使い"の策略によって引き起こされた。 だが、彼女を動かしたのは"自分"だ。 自分のせいだ。 紛れもなく。 悲劇はあの時から、羅那があの言葉を世界に向けて放った時から、始まっていたのだ。 ◯ ─2022年12月9日─ 昨夜はよく眠れた。と言っても、ほとんど気絶に近かったのかも知れない。 旧校舎の赤電話を壊して愛維を救出し、それから退魔師から電話がかかってきて──家に帰った。 疲れていて道中のことはよく覚えていない。それどころか、晩御飯に何を食べたのかさえすぐに思い出せない。 昨晩は、首無しの怪異は部屋に現れなかった。 部屋に焚いた魔除けのお香の効果かも知れない。 念の為、羅那は愛維たちにも魔除けの道具を渡しておいた。効果があるかは分からないが。 旧校舎に関しては今の所、何も分かっていない。 こんな状態では、いつかあちら側に引き摺り込まれてしまう。 早く情報を得ないと。 羅那は自身が運営する心霊・オカルトサイトに情報の提供を呼び掛けようかと思ったが、学校が特定されてしまう可能性があるためやめておいた。 ただ、昔から親しくしており信頼のおける読者たちには直接、情報提供を求めるメールを送った。 ぐっすり眠ったはずなのに疲れはまだとれなくて、羅那は目を擦りながら下駄箱を開けた。 「あれ?」 吐息のような声が漏れた。 下駄箱の中、自分の赤い上履きの上に一枚の紙が置いてあった。 手に取ってみると、それはやけに湿気を含んだ古そうな紙だった。 そこに、文字が記してある。 羅那の心臓がきゅっと痛む。 滲んだ赤黒いその文字は──死者の文字──鬼界文字だった。 "現実から目を逸らすな。 お前が見たものは、まやかしなどではない" 死者の文字が脳内で生者の文字へと変換された時、ぼうっとしていた目が一気に覚める。 全身に血が巡るのを感じる。 指先から汗が滲んで、紙に染みる。 「羅那。おはよ」 背後から突然、声がした。 「あっ…!」 呆然としていた羅那が慌てて振り向くと、肩に合皮のスクールバッグを掛けた乃恵がいた。 「どうしたの。それ」 隠す間もなく、乃恵が紙を覗き込んだ。 乃恵の目が細まり、眉が曲がる。 「これ…この前の落書きと…」 鬼界文字のことを知らない乃恵でも、この前の玄関ホールの落書きとの類似点には気付いたようだった。 「うん…。さっき下駄箱開けたら入ってたんだよね」 「なんて書いてあるの…それ」 乃恵が、紙には触れないように指先で文字を指す。 羅那は唇を噛んで黙った。 正直に言えば、この前の落書きが"警告文"であるとを羅那は知っていたことも同時に明らかになってしまう。 あの時は、旧校舎へ行くことがあんなことになる繋がるとは思っていなかった。 「ただのテキトーな文字…ってわけじゃないよね」 不気味な死者の文字を見つめていた乃恵の丸い瞳が、ちらりと羅那の方を向く。 「ごめん。乃恵ちゃん」 羅那が弱々しくそう呟くと、乃恵の綺麗な眉が上がった。 「私…この文字、読めるんだ」 「えっ?」 乃恵が眉をひそめて不思議そうにした。 羅那は乃恵に鬼界文字のこと、そしてこの前の玄関ホールの落書きが警告文のようであったことを打ち明けた。 「そっか…そうだったんだ」 「ごめん。あの時、言っておけば…こんなことにはならなかったのに」 怒られても仕方がない。 心霊のことに関しては、羅那は保護者のような立場でいなければならないのだから。 「なんで謝るの」 乃恵は意外なことを言った。 「えっ」 てっきり非難されると思って身構えていた羅那は声を漏らしてしまった。 「羅那が本当のこと教えてくれてたとしてもどうせ旧校舎には行ってたと思う。そもそも…言い出したのが愛維だし」 「そ、そうかな…」 そうなのだろうか。 いくら愛維でも、落書きが警告文であったことを教えれば旧校舎へ行くことは諦めたのではないだろうか。 否。それは、旧校舎に行った今だからこそそう思えるのだと羅那は思い直した。 あの時は本当に旧校舎のことを甘く見ていたし、愛維の旧校舎への執着は本物だった。 例えあの時、警告文のことを言っていたとしても…羅那の旧校舎への油断と、愛維の旧校舎への執着によって、乃恵の言う通り──羅那たちは旧校舎へ忍び込んでいたように思える。 「もう過ぎちゃったことだしさ。それに、いくら幽霊のことだからって全部の責任を羅那に押し付けるってそれ…"なし"でしょ」 乃恵は涼しげに笑って、スクールバッグを肩に掛け直した。 ◯ 今日は珍しい日だった。 なんせ、あの愛維が学校を休んでいる。 愛維は昨晩の受難で体調を崩し、大事をとっているとのことだった。 怪異に耐性のない人間がいきなりあんな目に遭ったのだから無理もない。 愛維の欠席は、羅那が愛維と一緒にいるようになってから初めてのことだった。 昼休みになると、澪は羅那に声を掛けることもなく、迎えに来た歌巴と一緒に教室を出て行った。 羅那はいつも通り、リュックを背負って二年一組の教室に向かった。 教室へ向かう途中、渡り廊下で澪と歌巴を見かけた。そこには何故か、男子バスケットボール部部長の横井の姿もあった。 三人とも楽しそうに話しており、羅那が通ったことにも気づいていないようだった。 愛維と乃恵の在籍する一組の教室は、なんだかいつもよりも緩やかな空気が流れている──気がした。 学校の女王が不在だからだろうか。 教室の窓際の隅っこの席に乃恵がいる。 乃恵はまだ、黒板に書き残された授業の板書をノートに写していた。 羅那が近づくと、乃恵はノートを閉じ、授業を受ける時だけ掛けている眼鏡を外した。 「あれ?澪と歌巴は?」 「分かんないんだよね。どっか行っちゃった」 「そっか。まぁそんなもんだよね」 乃恵は羅那にはよく分からないことを言ったが、どうやらあの二人が来ないことには特に驚きはないようだった。 羅那がいつもと同じように近くの空いている椅子を引っ張ろうとすると、愛維の席に座りなよ、と乃恵が親指でくいと後ろの席を指した。 女王の席。 いつもここに愛維は必ずいる。 愛維以外がこの席に座ることは許されない──そんな気がしていた。 羅那は恐る恐る椅子を引いて、愛維の席に座った。 座った反動で、すぐ後ろの掃除用具入れがどおんと揺れた。 他の座席と変わらないのに、何故か特別な感じがする。 「叶夢ちゃんは来ないの?」 羅那はリュックからお弁当を取り出す。 「なんか図書委員の集まりあるらしいから遅れるって」 「そっか」 「なんか変な感じだね。羅那と二人って」 乃恵はふふふと涼しげに笑う。 「そうだね。いつもみんないるし」 「澪と歌巴は最近…あれだけど」 乃恵は意味ありげに言って、少し前屈みになってからサラサラとした長い黒髪を抑え、卵焼きを口に入れた。 「…澪ちゃんと歌巴ちゃんって仲良しだよね」 羅那は言って、お弁当箱を開けた。 「だね。あの二人は中学から一緒らしいし」 乃恵は長い脚を組んだ。 愛維もそうだが、冬だというのにスカートは夏と変わらずすごく短くしてある。 「乃恵ちゃんって…中学とか小学校から一緒の人…この学校にいるの?」 特別気になったわけではなかったが、会話が途切れるのが気まずいので羅那は適当に話題を振った。 「うん。まぁ一人だけ。東海だけど」 乃恵は言いにくそうに言った。 「えっ。東海さん…?ってことは閑林くんとも知り合い?」 あの二人は幼馴染だったはずだ。 「閑林?ああ…あの子ね。うん。一緒だよ」 乃恵はそのキュートで、でも凛々しくも見える二重瞼のぱっちりとした目をぱちくりさせてから思い出したように言った。 「羅那は誰かいる?昔から一緒の人」 乃恵は脚を組んだまま横向きに座って羅那を見た。 高校に入る前から友人だった人。 一人いる。 だけどもう、いない。 潤の名前を出すと乃恵に気を遣わせてしまうだろう。だが、誰もいないとも言えない。 「あ、ごめん。そっか。そうだったよね」 乃恵は上体を羅那の方に向け、申し訳なさそうに眉を寄せた。 どうやら乃恵は、羅那が潤と仲が良かったことを知っていたようだった。 「ううん。いいよ。私も気遣わせちゃってごめん」 羅那は視線を落として言った。 羅那も乃恵も悪いことをしたわけでもないのに、妙に空気がひりつく。 こういう空気は苦手だ。 「駄目だな。気をつけないと」 乃恵は横を向いてため息をついた。 「鉢上さん…!世界史のノート見してくんないかな」 近くで数名と昼食を食べていた男子生徒の一人がくるりと乃恵の方を向いた。 「いいよ」 乃恵は眉を上げて言って、机の中からノートを取り出し、渡した。 「あ、ありがとう」 ノートを受け取る男子生徒の手は僅かに震えていた。耳も赤い。 後ろにいる彼の友人らしき生徒たちがニヤニヤと笑っていた。 乃恵は美人だ。横から見ても、綺麗で緩やかな曲線を描いたオデコから高い鼻へと続くラインは滑らかで、美麗である。 背も高くて、爽やかで、髪はサラサラで、脚も長い。 それでいて、威張っていない。 クールに見えるから近寄り難い雰囲気はあったけれど、話してみると表情が豊かで柔らかいのが分かる。 尤も、羅那は今も乃恵に対して緊張することがあるが、それは彼女が"美人"だからだ。 だから、こんな風に男子から人気なのも頷ける。それも、乃恵とは違う世界の人間からも。 愛維も男子から人気のようだけれど、彼女は自分が認めた者しか寄せ付けない。でもそれが悪いとは思わない。自分のテリトリーに誰を受け入れるかは、愛維の勝手なのだから。 だけど。それこそが、愛維が女王として恐れられている理由なのだろうと思う。 乃恵はいるのに愛維が不在なだけでこれだけ教室の空気が違うのは、彼女一人が女王として恐れられている証拠だろう。 みんな、女王が嫌いなのだろうか。 確かに愛維は自分の権力を存分に発揮しているように思う。女王の通る道に下民がいれば咳払いで退かすし、用務員や一部の教師などの大人でさえ飼い慣らしている。それに、来夢の言っている通りの人柄ならば──女王として敵対者を排除することもしていただろう。 それなのに。 羅那の前では女王は女王らしくない。 どちらかと言うと、従者のような振る舞いに見える。羅那は女王ではないのに。 間接的にとは言え、羅那に命を救われたことにそんなに感謝しているのか。 いや。 愛維は、羅那の持つ"影響力"を女王として見ているのだろうか。 分からない。 愛維が何を考えているのかは。 愛維がいない日にここまで愛維のことを考えるなんて奇妙な話だ。 普段はこんなことを考える余裕などない。 ──女王でいることに疲れたりはしないのかな。 そんなことを思う。 でも、愛維は女王として君臨し続けることを楽しんでいるようにも見える。 苦しみを感じているようには見えない。少なくとも、羅那には。 でもそれは羅那の思い込みかも知れない。やはり分からない。人のことは。 「朝の"手紙"のこと…みんなに言うの?」 羅那がぼうっと考え事をしていると、乃恵が羅那に顔を近づけてヒソヒソと言った。 「えっ」 乃恵の一言で現実に引き戻される。 今朝のあの、鬼界文字の手紙。あの文字が脳裏にじわじわと浮き上がってくる。 「どうしよう…ね」 黙っておくわけにはいかないように思う。 とは言え、下手に打ち明けても怖がらせるだけだ。 情報を共有するのは、羅那たちを脅迫した"何者か"の存在を受け入れられる人間に限った方が良い。羅那はそう言った。 「そうだね…だとしたら、愛維と叶夢かな。愛維も怖がってるけど、取り乱してはないし。叶夢は冷静だし…。とりあえず、叶夢がもうちょっとで帰って来ると思うから…そしたら言おう」 「大丈夫かな…今更、不安になるようなこと言って…」 本当に、いまさら、だ。 羅那がへにゃへにゃと息を吐くと、机に置いていた手に、柔らかい感触が走った。 羅那の白い手の甲に、乃恵の手が重ねられていた。 しっとりとしていて、柔らかく、大きい乃恵の手。 厚みのある手のひらから感じる温もりが羅那の冷えた手をじんわりと温める。 その温かみに、羅那は少し、安心した。 「大丈夫。なんか言われたらさ、私も味方するから」 乃恵は厚ぼったい唇を小さく動かした。 「ありがとう」 羅那は言って、乃恵の手の甲の上にもう片方の手を重ねた。 乃恵は、どうしてこんなに肩を持ってくれるのだろうか。 愛維みたいに親友ってわけでもないのに。 女王の推薦で後から入ってきた部外者なのに。 しばらくすると、図書委員の集まりから解放された叶夢がふらふらとくたびれた様子でやってきた。 羅那と乃恵は、下駄箱に入っていた例の手紙と、玄関ホールの警告文のことを叶夢に打ち明けた。 やはり叶夢は終始冷静だった。 だが羅那は、話を聞いている間、叶夢の瞼がぴくぴくと痙攣しているのに気づいた。 きっと叶夢も冷静さを装っているだけだ。羅那からもその冷静さをあてにして頼られるから。 「どうなんだろうね」 しばらく考え込むように目を瞑ってから、叶夢はそう呟いた。 「どうって?」 乃恵首を伸ばして叶夢を見る。 「あの時、羅那ちゃんが正直に警告文のことを教えてたとして…旧校舎に行かずに済んだのかなって」 叶夢は人差し指でこめかみに触れた。 あの時、羅那が正直に警告文のことを教えていれば旧校舎へ行くことはなかったのか。今となっては分からない。 だが、旧校舎へ話は既に決まっていたし、それを後からやっぱり無しにしようとは言えなかった。 一度くらいなら、旧校舎へ立ち入ることくらい大丈夫だろう。あの時の羅那はそう判断したのだ。 「私のせいだよ。私が、旧校舎を甘く見てたから」 羅那は小さな声で言った。胃がちくっと痛む。 叶夢が山猫のような目を羅那に向けた。黒目が大きい。 「行っちゃったものはもう仕方ないよ羅那ちゃん。私たちもついて行ったのは自己責任だし」 叶夢の言葉に、乃恵も強く頷いた。 「それにさ、警告文のこと知って、私たちが行かなかったとしても…最終的に羅那ちゃんと愛維は入ってた気がするんだよね。それか愛維が単体で入っちゃうとか…。だってほら、愛維は旧校舎に凄く行きたがってた」 それは──そうかも知れない。 警告文のことを教えれば、怖がりな歌巴とその親友の澪はまず行くことはなかっただろう。 冷静な判断を下せる乃恵と叶夢もきっと──。 だが、愛維の旧校舎へのあの執着の仕方だと、彼女だけは旧校舎へ立ち入っていたかも知れない。 例え羅那が断っても、彼女には旧校舎へ立ち入ることのできる"術"がある。 「結局、何らかの問題は起こってたって…そう考えることもできるよ」 叶夢はそうまとめた。勿論、自分のことを気遣っているのだろうということは羅那にも分かっていた。 本当は、怒りもあるだろうに。 「まぁそれでも私が言っておけばね…」 羅那はがくんと首を垂れた。 「過去のことは置いといて…もっと大事な話しよう」 叶夢が立ち上がって椅子を羅那と乃恵の方へ寄せ、また座った。 「これ、うちの学校では羅那ちゃんだけが読める文字なんでしょ。それってなんか変じゃない?」 叶夢は手紙を指差した。 「変って?」 羅那は顔を上げた。 死者が、死者の使う文字で警告してくることが変だとは思っていなかった。 「だってさ…こんなの伝わらないよ。羅那ちゃん以外に」 「私に伝われば良いと思ったのかも」 「そうだとしたらさ、これ書いたやつは誰が旧校舎に入ろうとしてるのか明確に把握してたってことにならない?そんなことあるの?」 乃恵が頬杖をつき姿勢を崩した。 もしも羅那宛てに警告文を書いていたのなら、乃恵の言うように、警告分を書いた"何か"は、少なくとも羅那が旧校舎へ行くことを知っていたということになる。 「まぁ相手が死者なら…そういうこともあるのかも。旧校舎自体が呪われてたりした場合、私たちが学校で旧校舎の話をしただけで旧校舎関連の死者への刺激になって…死者に察知されたとか」 分からないけれど。 「そっか、オバケならなんでもありか…」 乃恵は納得したようなしてないような顔をした。 「もっと単純に考えると、あの死者の文字を読めたのがたまたま私だけだったって考えることも出来るかも。死者は旧校舎に立ち入ろうとする気配だけを感じて、私宛てじゃなくてむしろその気配そのものに対して警告文を書いた…とか」 「うん。その方がまだ想像できるかも」 乃恵はこくこくと頷いた。 「まぁあとは…警告文が書かれたのはたまたまあのタイミングだったとかね。可能性は低いけど」 羅那は俯いて言った。 あの旧校舎が羅那たちが立ち入るより前から異様であることは確かだ。きっと、警告文を書いた"何か"も存在していたのだろう。 ならば、その"何か"がたまたまあのタイミングで警告文を書いたということも無くはない。 もしそうなら、あの警告文は誰宛てでもない。強いて言うならば生徒全員宛てということになる。 可能性は低いけど。 「でも何のためにあんなの書いたんだろう」 叶夢が首を捻った。 「何のため?」 「うん。あの警告文って怖いけど…見方によっては良いようにも捉えられるよね。危ないところに近づくなって注意してくれてると言うか…」 叶夢はさらに首を捻って、あの文字を思い出すように大きな黒目を上に向けた。 「確かにね。じゃあ、あれを書いたのは悪いオバケじゃないかもってこと?」 頬杖をついていた乃恵が背筋を伸ばした。長い髪から良い匂いがした。 「オバケだとしたら、ね」 叶夢が人差し指を立てて付け足した。 羅那はふうと息を吐いて背後の掃除用具入れに後頭部を預けた。 どぉんと無駄に大きな音がする。 あの警告文を書いたのが、良いオバケでも、悪いオバケでも──それはきっと関係のないことだ。 「でも今回の手紙はさ──」 叶夢が机の上の手紙をとんとんと指で叩く。 「──良いオバケの仕業っぽくないよね」 「これ書いたのと、玄関の警告文書いたのは、別々の"何か"なのかな」 乃恵が顎を触った。 「警告文を書いたのが良いオバケで手紙が悪いオバケなら、その可能性もあるね…。こっちは脅しって感じだし」 羅那はあまり見たくない手紙に目をやった。 「ってことは…オバケだらけだ…」 乃恵が唇を歪めた。 "何か"は一人とは限らない。 いや、"何か"とはそもそも死者なのだろうか。 しかし生者だとはやはり考え難い。 羅那と同等かそれ以上に鬼界文字を操れる何者かが潜んでいるということになるのだから。 それは考え難い。いないとも言い切れないけれど──。 「その手紙の文章さ…何のことを指してるのかな」 叶夢が両肘を机に突いて、両手の上に顎を置いた。 "現実から目を逸らすな。 お前が見たものは、まやかしなどではない" まやかし。つまりは幻。 羅那たちがまやかしであると、幻であると信じたがっていること。それを手紙の主は否定している。 羅那たちが幻であると、現実ではないのだと拒絶しようとしていること。 それはつまり───。 羅那の脳裏に真っ先に浮かんだのは、あの、首が飛んだ光景だった。 耳を突くような悲鳴。闇を舞う首。首を失った身体。 ごくり。と乃恵と叶夢が同時に唾を飲む音がした。 羅那たちは顔を見合わせる。 「あれ──なのかな」 羅那が唇を小さく動かして言うと、乃恵と叶夢は小さく頷いた。 二人の顔に汗が浮いていた。 二人とも、やはり同じ光景を思い描いている。 「それって、やっぱり私たちの中の誰かが…首を斬られて死んでるかも知れないってこと…?」 乃恵が瞬きもせず羅那と叶夢を交互に見た。 厚ぼったい唇の色が、僅かに褪せているように見えた。 「この手紙の通りなら…」 羅那はもう一度、手紙を見た。 喉が渇く。唇が渇く。 羅那は乃恵を、乃恵は叶夢を、叶夢は羅那を見つめている。 その視線は、喉に向けられていた。 そう。 この手紙の通りならば、やはりあれは幻ではなく現実。 つまり、やはりあの時、誰かが首を刎ねられ殺されているということ。 そしてそれは、ここにいる三人も例外ではないと言うこと──。 「ちょっと待って…。流石にさ…そんなことある?」 乃恵がオデコの汗を拭った。 「死んだらオバケになるのは分かるけど、首を斬られた誰かはオバケになってはいないよね?」 乃恵が珍しく落ち着きなく身振り手振りを加えながら言った。 「誰も、幽霊にはなってない──というより、そう見えないだけなのかも」 羅那は腕を組んだ。 ようやく、女王の席に少しだけ尻が馴染んできた気がした。 「見えないだけ?」 乃恵が眉を思い切りぐにゃりと曲げる。 「うん。手紙の内容通りにあの首斬りの光景が現実なら、まず間違いなく誰かは死んでるってことになるよね。そしたらその人はこの世にいるのはあり得ない。だからその人がこの世にいるとしたら…」 羅那はそこで言葉を飲み込んだ。 悍ましい事実を、口にするのが怖かった。 「怪異になってるって…そういうこと?」 羅那の代わりに叶夢が続けた。 「う、うん…」 「怪異って…。それじゃあさぁ…おかしくない?怪異ってみんなに見えるものじゃないんでしょ…?」 声のボリュームを抑えながらも、興奮と焦りを隠し切れない様子で乃恵が言った。 「強い力を持つ怪異ほど、多くの人に視えることがあるんだ。でも、そうでない場合は…視える人にしか視えない」 「じゃあ…"死んでるかも知れない誰か"は、強い怪異ってこと?」 乃恵がぽかんと口を開ける。 「そうじゃないとおかしいよね。だってほら…私たちの中の誰も欠席扱いなんてされてない」 乃恵は手のひらを天井に向ける。 「そうなんだよね。でも…」 引っ掛かる。 首を斬られ殺された誰かが怪異になっていたとして…違和感なく学校生活に溶け込めているのは妙だ。 そもそも怪異にはなっていないのか。 いや。怪異でないなら、死してからこの世に存在できるはずがない。 ではどうやって──。 「ねぇ。やっぱりさ、幻なんじゃないの?その方が説明つくよ。この手紙がデタラメで単なる脅しというか…」 乃恵が顎でくいと手紙を指した。 確かにそう考える方が違和感はない。 「待って」 叶夢が羅那と乃恵に向けて手をかざした。 「だったらあの件はどう説明するの?あの…戸山さんの件。首無しに連れて行かれたって話だけど」 「あっ…」 羅那と乃恵は同時に口を開けた。 そうだ。 既に首無しの怪異は、校内に現れている。 それも、羅那たちが旧校舎に立ち入った直後に。 ならばやはり──首無しの怪異はいる。 そして。手紙の通りならば、それはどうやら羅那たちの中の誰か──と言うことになる。 「私たちの中の誰かが…戸山ってコを連れて行った…ってこと?」 乃恵が、血の気の引いた唇を震わせた。 「そういうことに…なるのかな」 叶夢は言って、静かに廊下の方を見た。 ちょうど、歌巴と澪が男子バスケ部の横井と歩いているのが見えた。 あの二人にも、当然怪異である可能性はある。 「羅那。こんなことあるの?死んで…怪異になってるのに人間みたいになれるの?」 「そういうケース…私は聞いたことないけど…無いとも言い切れない。というか、あると考えた方が良いかも」 あると考えるならば、首無しの怪異は、羅那たちの中の誰かだ。 その怪異は、戸山を連れ去ったのかも知れない。 何故。何のために。 何故。首無しの怪異は人間のように振る舞っているのか。 何故。 一体、誰が首無しの怪異なのか。 乃恵か。叶夢か。愛維か。澪か。歌巴か。 それとも──自分か。 検討もつかない。 誰からも、怪異らしさは感じない。 もう一度、乃恵と叶夢の首に目をやる。 二人の首は白く、綺麗なままだ。 ならば自分が──。 羅那は震える手で自分の喉を触る。 喉の薄い皮膚の向こうに、筋肉を感じる。それだけだった。 「誰が…怪異なのか…見分ける方法とかないのかな」 乃恵は自分の首を摩りながら言った。 「退魔師の人に聞いてみても良いかも。プロなら…見分けつくかもだし」 彷徨う死者というのは案外、生者の生活に紛れていることがある。 いつも同じ時間に同じ場所に居る人が実は──なんてこともよくある。 だが。 今回のように、完全に生者に紛れて誰も気づかれずに過ごしているなんて──羅那は聞いたことがない。 以前、とある地域では怒れる神が生者の肉体を憑代にして人間社会で生活していたという話はある。 しかしあれは仮にでも神。単なる怪異ではない。 昨日今日死んだばかりの怪異がなせる技ではない。 今回も、単なる怪異ではないのか──。 分からない。 分からない、が渦巻く。 予鈴が鳴った。 生徒たちが動き始め、教室が慌ただしくなる。 「その手紙のことも、首無し怪異が紛れてるかもしれないことも…他の人たちには言わない方が良いかもね。歌巴なんかまた、取り乱すだろうから」 叶夢が立ち上がった。 「愛維はどうする?」 乃恵が羅那と叶夢を見た。 愛維は──。 歌巴ほど怪異のことを怖がってはいないかも知れないが、怪異への耐性はない。 「一応、報告くらいはしておかないと…」 羅那がそう言いかけると── 「愛維。隠し事されたら怒るかもね」 と乃恵が続けた。 「でもそれなら警告文の件で既に羅那ちゃんは隠し事してたってことになるから…言わない方が良いんじゃない?」 叶夢は椅子を元の席に戻す。 羅那も立ち上がった。 「そっか…そうかも」 乃恵は小刻みに頷いた。 「ひとまず…今日、退魔師の人に会うから色々話してみるね。やることがはっきりしたら…みんなにも本当のこと教えた方が良いと思う」 羅那はリュックを背負った。オバケのストラップがゆらゆら揺れる。 「うん。どうせ今日は愛維もいなくて旧校舎には行けないし…それが良いね。じゃあ羅那ちゃんお願いね。あ、次…移動教室だった」 叶夢は急足で教室を出て行った。