転輪環 1
Added 2022-03-13 02:14:41 +0000 UTC1ペストマスクの男 深夜、修三が出会った男はカラスのようにくちばしを伸ばした異様なマスクを付けていた。 双眸の穴は黒いレンズによって遮られ、表情の一切は見えなかった。 「――ええ、ええ、そうでしょうそうでしょう。時の流れは残酷そのもの。人の一生のなんと儚い事か、と世を呪いたくもなりましょう」 声の質から見てマスクの男は年老いてはいない。 修三より20歳は年下の30代あたりだと思われる。 「身を削って仕事をして来たのは家族を守るため。一家を養うため。なのに、気が付いたら妻は出て行き可愛がっていた一人息子は家にちっとも寄り付かない。これじゃぁ自分は何のために一生懸命働いてきたんだ、って。誰だって貴方と同じ状況ならそう思いますとも! えぇ!」 カップ酒をぐびリと飲めば、落ち葉舞う晩秋の公園のベンチはことさら寒く感じられる。もう一枚中に重ねて着ておけばよかった、と後悔する手を黄色の銀杏の葉がかすめて落ちて行く。 肯定も否定もせず項垂れる修三に対し、隣に座る男は沈黙を嫌うかのようによくしゃべる。 「よく分かります。ええ、ええ、非常によく分かります。虚しい気分に苛まれる貴方のお気持ち。ワタクシお察しいたします」 「……アンタ、変なマスク被ってる割にゃ良い人だな。ヒック。こんな、こんな冴えない酔っ払いの話を聞いてくれてさ」 本来ならしなくても良い仕事を引き受けたためにすっかり夕飯時を逃してから退社した修三は、この公園に来るまでにいつもの 居酒屋でしっかりと深酒をきめ終電を逃してしまっていた。 だが修三にとって貧乏くじは毎度の事だ。怒りの感情さえ湧かなくなって久しい。 「諦め」こそが日常になっていた。 タクシーを拾うにも車内で粗相をせぬよう少しばかり酔いを覚ましてからだと近くの公園に入り、あらかじめ買っておいたカップ酒をちびちびと飲んではぼんやりとベンチで佇んでいた。 冬枯れをもたらす風が修三のスーツをはためかせ樹々をざわつかせていた。 「妙なマスクを着けているがアンタはまだ若いんだろ? だったら俺みたいな、こんな惨めなオッサンになるんじゃねぇぞ。 そう、人生は短い。理不尽なほど短い。 仕事一筋も有りっちゃありだが、若い内はな、楽しめる時には楽しんでおかないとな、俺みたいな……、俺みたいなクソつまらん、中身の無ぇペラッペラなオッサンになっちまう……ってな、ヒック」 白髪が目立つ自身の頭をポンポンと叩いた修三は残っていた酒を一気に飲み干し、空になったガラスカップを魂のこもらぬ目で見つめた。 「ええ、ええ、貴方のお言葉、胸にしかと刻みますとも。しかしながら、でございます――」 マスクの男がずい、と修三に近づいた。 尖ったくちばしの先が修三の鼻を刺しそうなほど近くに。 「過ぎた時間は取り戻せませんが、若さ、であれば取り戻す事も可能でございますよ? 楽しめる時をもう一度、貴方の手に取り戻してみては如何でしょう?」 「あん?」 視線はガラスカップに置いたまま「何が言いたいんだ?」とわずかに首を傾げた。 もしもこの時、仮に酔っていなくともマスクの男の言葉は理解しがたいだろう。 酒臭いを息を吐き半眼でふらふらとカラダを揺らす修三にとっては猶更だ。 「ええ、今からでも遅くはありません。貴方の若さ、青春、輝いた日々を再び取り戻す事ができるんです。もう一度味わってみたいとは思いませんか?」 「……なぁに、馬鹿な事を……。酔っぱらっているからってからかわんでくれ」 自然と修三の口許が皮肉な微笑む。 「いえいえ! からかうだなんてとんでもございません! こちらを――」 マスクの男は淡い緑色をした翡翠の指輪を修三に握らせた。 「おい、俺は金なんか持ってねぇぞ」 酔っ払い相手の物売りだったのなら相手にしてはいけなかった。今さらだが警戒心を露わにした。 財布の中身はもう小銭程度しかない。タクシー代金は当然クレジットカードで支払うつもりだった。 「貴方の貴重なお話を聞かせて頂いたお礼です。お代なんて要りません。貴方のお役に立てれば、ええ、ええ、それだけで私も嬉しいのです」 「っつってもなぁ……」 「ご不要でしたら捨てて下さっても構わないのです。だけど、一度はお試しくださいな。一度くらいは貴方の指に嵌めてみてくださいな」 「いやぁ~、指輪で青春が取り戻せる訳ないだろう~? それに俺、指輪付ける習慣はねぇんだわ。結婚指輪ですら最初の一年、いや半年でやめちまったしよぉ」 修三の手の中で翡翠の指輪は淡く輝いていた。 「そうおっしゃらずに。騙されたと思って。しっくりこなければ処分していただいて結構です。だから、ね?」 マスクの黒いレンズのせいで目は隠れているのにニッコリ微笑んでいるように見えた。 そして、タダでいいから持って行けと言う相手にあれこれ反論するのが修三は面倒になった。 「ん~、そこまで言うんだったらもらっておくけど、ヒック、気休めにもなんねぇと、思うけどなぁ~」 「ふふふ、それはその指輪の、『転輪環(てんりんかん)』の驚くべき効果をお確かめ頂いた後も、果たして言えますかねぇ?」 「あん?」 「おっと失礼。ともあれ、貴方がもう一度若さを、輝かしい青春の日々を、熱く滾る身の内の欲望を味わいたいとお思いでしたら、是非お試し下さいませ。 そちらの転輪環を指に着けて頂けると失った若さを取り戻せるのです」 修三は再び手の中の翡翠の指輪に目をやった。 淡い緑色のやさしい輝きはとても美しく、見ているだけで安らぎ感じさせた。 枯れゆく世界の中でそこだけは「萌えいづる春」のような芽吹きの色だ。自分に似合う似合わないは別として、素直にキレイだな、と修三は小さく呟いた。 「まぁ、そこまでアンタが言うんだったら一度くらいは――って、あれ?」 狭いベンチの隣に座っていた筈のマスクの男が無くなっていた。 いつの間に立ち去ったのだろうか? 衣服が擦れるほど近くに座っていたのに。修三は首を傾げるものの酔った頭では明確に「あの時か」と導き出せない。 冷たい風に乗って舞い落ちる葉っぱが修三の顔にかかる。 「う~、さびぃ。これ以上ここに居たら風邪引くな」 冷たくなったガラスカップを自販機横のゴミ箱に放り投げた修三は、興醒めした気持ちを味わいながら公園から表通りに出てタクシーを拾おうと周囲を見渡した。 幸い客待ちのタクシーはすぐに見つかった。 「どちらまで?」 「ヒック……、豪徳寺まで頼む」 都心のビル群を背に走り出したタクシーの中で修三はもう一度翡翠色の指輪を見つめていた。 「戻れるもんなら戻りたい、と思うが、同じ人生を歩むだけなら戻らなくたっていい……」 「はい? お客さん、お戻りになるんです?」 ルームミラー越しに運転手と修三の視線が合った。 「あ、いや、違うんだ。独り言だ。気にしないでくれ」 修三はそう言うとシートに背を預け瞼を閉じた。