2完璧の男 変わり映えのない仕事に飽き、日常は判を押した様なルーチンと化していた。 不機嫌をばらまく上司とコミュニケーションの方法を知らない部下、人任せで我関せずを貫く同僚……。 「はぁ~~、うぜぇ~」 ため息の出る間隔がこのところどんどん短くなっている。 味気ない毎日が俺の精神をガリガリ削っている。 このままでは遠からず摩滅し切って折れるんじゃないか? 一年と少し前。 歩いて行ける距離にオープンしたジムに通ってみようと思ったのは蓄積していく心の汚物を少しでも廃棄したくなったからだ。 その日もトレーナーに勧められたメニューを終え、帰宅しようとしたら更衣ロッカーの鍵を失っている事に気付いた。 いずれかのマシンでトレーニングをした時に落としてしまったに違いない。 だが、どのマシンで落としたのだろうか? すでに次の利用客が使用している中、声を掛けてトレーニングを中断させるのは気が引けるが――。 「もしかしてこの鍵、落とされました?」 これが中林と言う男との初めての出会いだった。 声を掛けれず意気地なく躊躇していた俺は心底ほっとした。 「そうです! 拾って頂いて凄く助かりました」 「いえいえ。これくらいお安い御用です。それにしても……」 中林が俺をじっと見つめた。 「スタイル、すらっとしていていいですねぇ。羨ましいです。俺みたく腹がブヨってないですし」 この時着ていたトレーニングウェアはカラダにフィットしてボディラインを出すコンプレッションウェアだったから体形がハッキリと浮かんでいた。 「ありがとうございます。ただ、俺も何か食べればすぐに腹がポッコリしてしまうんです。もう少ししっかり腹筋があったらいいな、と励んではいるんですが……」 「鍛えても結果はなかなか、ですよねぇ。道のりは遠そうだなぁ」 食べる、を口にしたせいか空腹を感じた。 「まだトレーニングを続けられますか? 俺はこれから軽く夕飯を食べるつもりなんですが、お時間があれば一緒にいかがでしょう?」 鍵を拾っていただいたお礼も兼ねて、と添えると中林は破顔して一緒に行きます、と答えてくれた。 以来、俺と中林はジムで会えば気軽に挨拶を交わし、トレーニング後は一緒に食事を摂るジム友になった。 ジムに通い始めた主な理由、俺の場合はストレス発散がメインであったが、中林はどちらかと言うと婚活に向けて、であった。 聞けば年齢は中林の方が一つ上だったが、結婚を視野に入れてもおかしくはない年齢層なのは俺もなのに何故か全く意識していなかった。 「ちゃんと鍛えて婚活に臨む姿勢、とても立派ですよね。俺なんかただの憂さ晴らしですし」 「そんな事ないですよぉ! 憂さ晴らし大いに結構! 酒とか博打に溺れて行く奴らに比べりゃ健康的で素晴らしいじゃないですか!」 次第に仕事上の不満や愚痴も、業種が違う上に利害が絡まないから気楽に腹を割って話せるようになった。 「こう見えて俺、建築デザインの仕事をやってるんですけど、周りの者、みーんなオシャレでスタイルが良いんですよ。アパレル関係じゃなくて建築なのに、ですよ? 上司のアタリも俺には微妙にキツくって嫌になります」 朴訥で真面目そうな見た目のどこが悪いのだろうか? 「俺は区役所勤務で毎日変わり映えの無い文書を作っています」 「おお! 中林さんは公務員だったんですか! 女性が選ぶ結婚したい職業ランキングの第1位でしょぅ? いや~、いいっすねぇ~」 話しが合う、ウマが合う。俺よりも陽気で、それでいて軽薄ではなくほどほどの自制が効いた会話に心が休まる。 次第に中林と一緒に飲み屋に行けば、仕事の愚痴だけじゃなくより深い部分まで話すようになった。 「へぇ~? 森本さんてばあの女優が好みですか。イイですね~! 清楚さとエロさのバランスが取れた綺麗系美人、って感じで」 「中林さんは年上が好みなんですか。もっと、なんて言うか、アイドル系とか美少女系がお好きなのかと思ってましたが」 「それそれ。こんな地味な風貌だからかよく言われるんですよ。『お前は休日になると日がな一日引きこもってエロゲばっかやってるんだろ?』なんて」 酒が進めば好みのタイプではなく互いの性経験や性癖まで口にしてしまっていた。 「東京に出てきてしばらくは相手が居たんですけど、いつの間にか縁が切れちまってて、気付いたらもう3年もヤレてないんですよぉ~」 ほろ酔いで顔の赤い中林が小指に次いで中指を立てる。仕草が少しオッサン臭い気がしたが他の者から見れば俺も似たような事をしているんだろう。 一歳の差なんて無いに等しいし。 「俺もです。ぼっちの身になって気遣う相手がいないのは気楽だなって思ってる間に5年過ぎてました」 「さすがに5年は長いな! ……その、処理はもっぱら右手で?」 中林が拳を上下させた。いや、だから、その動きはダメでしょ。店内は男性客だけじゃないんですから。 「あ~、まぁそうですね。たまに気が向いたらその手の店で済ませる事もありますが」 「おお意外。俺、まだ行った事無いんですよね。フーゾクって。お金をケチってる訳じゃないんですけど、右手やオナホで十分かなと。そこまで精力強くないですし」 中林は飲むと若干気が大きくなるタイプだった。 「いえ、別に行かなくてもいいと思いますよ。正直言って高い割に満足できないですし、ヤッたあとは虚しくなるだけです」 「そう言うもんなんだ? というか、森本さんの好みに合うプレイを叶えてくれる子がいないだけ、なんじゃ……」 「ははは、俺はマニアックなプレイはやりません。シチュエーションなど考えたらむしろ萎える系ですし」 飲み屋で酒が進んだ後は自宅に招いて二次会を開いた。 休日にはジムに向かう前に一緒にトレーニングシューズを選んだり、見栄えが良くモチベが保てそうなウェアを見繕い、 時間が合えばランチを共にする。 「まるで男同士で付き合ってるみたいですね。俺と森本さんって」 「よして下さいよ。俺もいま、同じ事を思っていたんですから」 一人では気後れして行かないシャレたレストランやカフェにも行った。 モテない男同士で暇をつぶしているだけ、とまでは言わないものの、仕事でささくれた心を癒す清涼剤になっていた。 中林と出会って、そんな交流を重ねる日々が3か月、半年、そしていつの間にか一年近い日々が経っていた。 もうお互いに呼び捨てやタメ口で話していても気にならないほど親しくなった。 俺は筋トレの効果が徐々に現れていたが中林はまだ凹まない腹部をウェア越しに摘まんではため息を漏らしていた。 「ちゃんとジムに通って食事も気を付けてるのに……。腹周りに付いた贅肉、ちっとも落ちないなぁ」 「腹は最後に落ちるって言うからなぁ。成果が出るまで実感しづらい部位らしいぞ?」 そう会話している俺たちの横を見惚れる程カッコイイ肉体の持ち主が通り過ぎた。 「……見たか? この頃ジムでよく見かけるけど、すっげぇ筋肉だよなぁ」 「ああ、凄いな。俺は初めて見かけたが、ジムで鍛える必要なんか無いくらい完成されてる」 俺たちだけじゃなくその男に気付いた周囲の者も皆、俺たちと同じように憧れの眼差しを向けていた。 カラダだけじゃない。顔立ちもイケメンでジムのスタッフと交わす挨拶や漏れ聞こえる声も渋くてスマートだ。 俺はその男を「ミスターパーフェクト」と呼ぶ事にした。もちろん口に出したりはしないが。 俺や中林の嫉妬と羨望を一身に受ける「ミスターパーフェクト」は黙ってベンチに背中を横たえると、何枚ものプレートをスタッフにセットしてもらい、凄まじい重量と化したバーベルを軽々と持ち上げトレーニングを開始した。 「スゲェ……。アイツ、あんな重量でベンチプレスかよ。あの筋肉は『見せ筋』じゃないんだな」 「ああ。どう足掻いたってあそこまでは鍛えられそうにない。男として憧れる部分は大いにあるけど」 あまりにも大きな格の違いを見せつけられると「俺だって負けないぞ!」とはならないものだ。彼我の違いにただただ愕然とするだけになる。 この日から2週間、何故か中林はジムに来なかった。 忙しい時期でも週に1~2度は顔を合わせていたので俺は心配になった。 通う時間帯を変えただけならいいのだが急な出張で家を空けているのか、体調を崩しているのか、それとも他の事情があるのか。 電話を掛けてみたものの連絡が取れなかった。 それならば、と、俺は中林の自宅を訪ねてみる事にした。 中林の住むマンションのインターホンを鳴らし俺の訪問を告げた。アポなしで来るなど非常識だと怒られるかも知れないが致し方ない。 待っていたが返事も反応も無いのでやはり不在かと思いその場を後にしようとした。 すると、小さくドアが開いた。 「良かった。留守じゃなかったんだ。最近ジムで顔を見ないから体調でも悪いのかと様子を見に来たんだ」 姿は見えない。人前に出られるような恰好じゃないのだろう。ただ、開いたドアの隙間からドロッとした気配? ニオイ? みたいなものが漏れて来た。 甘いような、それでいて生臭いような、なんとも表現しにくい芳香が。 「……受粉、あ、ぁぁ、森本から受粉、できる……?」 「は? ジュフン? 何言ってんだ? それよりも体調はどうなんだ?」 「……体調? ……何ともない。うん、このカラダはイイ、ちゃんと、使える……、問題ない」 小さく声は聞こえるもののずっとドアの影で中林の表情が見えない。いつもなら催促しなくてもすぐに部屋の中に通してくれるのだが。 「あのさ、弱ってるのかもと思って食べやすいモノを買って来たんだ。何も問題ないなら無いで安心したが、良かったら一緒に食わないか?」 デパ地下で買った万疋屋のフルーツゼリーの袋を持ち上げて見せてやった。 「ちょっと待ってくれ」と言い置いて一旦閉じたドアが再び開いた。 上半身は裸で下半身はスウェットパンツの中林。急いで下だけ穿いて着たようだった。 まさか、オナってた最中に来てしまったのか? 「入ってくれ……」 「じゃぁ遠慮なく。って、あれ? 中林? なんか腹周りが引き締まってるよな? 腹筋も割れてる?」 腰回りのダブついていた贅肉が消え、スリムに引き締まっているじゃないか。 それと、部屋の中でより強く漂う甘い香り。果実のような、南国の花のような。そんな良い香りなのに嗅いでいると心がザワつく。 指の腹で敏感な部位をさわさわ触れられているような、或いはべたべたとまとわりつくようなこの香りは何だろう? 香りの中に微かだけど生臭さも含んでいるせいだろうか? 「芳香剤か? ここまで強くしたら鼻が利かなくならないか?」 「…………」 部屋の中に入った俺を中林は無言で俺を見つめている。 俺の言葉なんかまるで聞いていないようだ。 俺の頭から足のつま先まで舐めるようにじろじろ見て、それから股間を凝視している。 やっぱり調子が悪いんじゃないか? 雰囲気がいつもと違う。快活さが無い。異様と言っても過言じゃない。 違和感、そう、いつもと何かが違う。違和感がある。中林であって中林じゃないような……。 心のザワつきがまた大きくなった。 ……いや、俺の考え過ぎに違いない。……そうか、中林の奴、空腹で元気が無いのかも知れないな。 「なぁ、やっぱり腹が減ってんじゃないか? 反応が悪すぎだぞ?」 「……そうだな。満たされていないのは確かだ。ああ、受粉したらこの飢えも解消できるんだがな」 「んだよ、さっきからジュフンジュフンって。寝ぼけてるのか?」 それよりもゼリーで糖分を補って目を覚ましてくれ、と袋の中から保冷材入りの箱ごとテーブルに出そうとした。 なのに中林は俺の手を強く握って動きを止めた。 「いや、ゼリーよりも欲しいモノがある」 「そうだったのか。じゃぁ、先に聞いてから買えばよかったな」 「いや、買うモノじゃない。俺が欲しいのはお前の花粉だ。俺は、受粉したくて堪んねぇんだ」 「またジュフン、って、……そうか。花粉のアレだったか。つうか、余計に意味不明だぞ? なんで俺が花粉を持ってるって話になってんだ。 もしかして花粉症なのか?」 中林は答えず、ニヤリと唇を歪めてから全身をビクビク震わせた。 ――この直後、中林のカラダから不気味な音が聞こえ始めたのだ。