イラストを描く人間として「イラストを描く人間はすごいんだ。価値があるんだ」と言ってもらえるのはうれしい。しかし、現状のAIイラストに関する議論はみんなそれぞれ論点が違うまま、すべてひっくるめてAIイラストの是非で語っているような気持ち悪さを、ぼくは感じている。
例えば「感情的に承服できるかできないか」という議論をしている人と、「道徳的に問題が有るか無いか」という議論をしている人は同じルールで戦うことはできないはずだ。そして、実は論点は4つくらいあるのではないかと思っている。あらかじめ言っておくと、ぼくは「AI絵師がでかい顔をすること」は感情的には許せないし、自分の絵をAIに勝手に食わせないでほしいと思っている。それでも、絵を学ぶというのは「他人の絵を食うことだよな」と思っている。
1) AIイラストは、イラストレーターが描いた絵を真似ているから道徳にもとる、という主張
著作権の話は――、つまり法律の話は(2)の議論にゆだねるが、ジェネレーティブAIの学習法に関してはぼくは問題があるとは思えない(ぼくのAIに関する理解が正しければ)。
他人の絵を見て学ばない絵描きは居ない。ぼくもAIと同様に偉大な先人達のマネをしているだけだ。だからそんなことを言い出したら人間が他人の絵から学んだことはすべて真似になってしまわないだろうか。ぼくは絵を描くときは資料(自分の撮った写真、他人の撮った写真、他人の描いた漫画、他人の描いたイラストなど)をたくさん見ながら参考にしている。AIイラストがイラストを学習する手法も同じ手順だと、ぼくは理解している。イラスト描きのみんなが先人の真似をしてないというのなら、日本的な、漫画的・アニメ的な画風が存在し、多くのイラストレーターの画風がそのテンプレートに乗っかっている理由を説明できないのではないか。
2) プロンプトを入れるだけで生成されるAIイラストを創造的芸術とは言わない、という主張
ここはぼくには判断しかねる部分がある。たぶん法律家が答えを持っている。
しかし著作権は「思想または感情を創作的に表現したもの」に認められる権利とされている。よく引き合いにだされるが、市販の便器にサインしただけデュシャンの「泉」がアートなのだからAIイラストが創作的な表現物じゃないというのは無理がある気がする。それに一部の現代アートでは偶然性を重要な要素として位置づけている。絵具をぶちまけるという偶然性から出てくる作品が芸術と認められるならば、ジェネレーティブAIを回すという偶然性から芸術が出てくることもあり得るのではないか。
そもそも著作権、知的所有権の尊重というものは人間が守るべき普遍的道徳ではない。著作権という概念が広く受け入れられるようになったのはここ200年くらいのものだ。著作権の尊重は普遍的道徳ではなく資本主義社会のルールに過ぎないと、ぼくは理解している。著作権が存在する理由は、著作権を認めることが資本主義の崇高な目的に資するからだ。だとすると、「芸術の定義云々」というよりも、問題は「AIイラストの権利を認めることで社会は(経済的あるいは文化的)利益を得るのか否か」で、これは人々が民主主義で決めるべき問題だ。法律論で言えば法律家が答えを持っているのかもしれないが、もう一段階抽象度の高い議論に本質がありそうな気がする。
3) 今後イラストレーターが職業として成り立つか
手頃なイラストのお仕事で稼ぐことは多分難しくなると思う。それはちょうど「英語が得意で仕事に生かしていたけど、英語の専門家というわけではない人たち」のアドバンテージが翻訳機に食いつぶされたように。
しかし、だからなんだというのだ。野球選手は職業として成り立つのにカバディ選手やボッチャ選手は職業として成り立たない。旅人だってプラモデルだって女装だって職業として成り立たないし、ゲーマーだって成り立た……、いや成り立つようになったのか。
つまり労働市場というのはこんなものだ。稼げるか稼げないかは労働市場の需要と供給で決まっているに過ぎない。労働市場での価値はその人の努力や研鑽や道徳的価値や社会的貢献を表す指標ではない。そして稼げなければ絵描き人口も減るだろう。しかしこれだってトラックドライバーの給料や求人数の決定プロセスとなんら変わらない。ただし急激なパラダイムシフトが社会不安を引き起こすというのならば、あるいは私たちが守るべき価値観を毀損するというのならば、政治が規制をすることもあり得ると思う。
4) 人間がイラストを描くことに意味がなくなるか?
これはどうかというと、ツアー旅行を忌避しバックパッカーにこだわる旅行者が存在するくらたいだから(ファンボで書いてるエッセイの宣伝)、イラストを描く人だってずっと存在し続けるし、人間が描くことに価値を見出すファンも存在し続けるだろう。伊達や酔狂でイラストを描いている人はたくさんいる。
まとめ
その活動(芸術なりスポーツなり)がお金になるかどうかは完全に需給で決まるし、人はかねてよりお金にならない趣味を楽しんできた。ジェネレイティブAIの台頭に人間がやきもきする理由はパラダイムが変わることの畏れでしかないように思う。あるいは、みんながみんな人間の価値(その人の道徳的価値や社会的貢献)をその人の労働市場での価値と同一視しすぎている。「イラストが描けるというすばらしい才能とそこに至る研鑽は労働市場において正当に評価されるべきだ」と信じ切ってしまっている。そのため大好きなイラストレーターが稼げなくなり、機を見るに敏なだけのAI絵師が大きな顔をするのが許せないのだ。ぼくも許せない。しかし、すでに述べたようにお金にならない才能というのはいくらでもある(カバディ選手のこと)。だとすると、稼げない人に価値を与えないわたしたちの価値観と社会に問題があるように思う。