「晴人君」 それは5月の、珍しくとても暑い日だった。 大学からの帰り道、俺は同じゼミの八本 雪菜に呼び止められた。 背中まで伸ばした黒髪から眼鏡を覗かせながら彼女は言った。 「すすすす好きです‼︎ 付き合ってください‼︎」 「‼︎⁉︎」 それはあまりに唐突だった。 俺は呆気にとられてぽかんと大口を開けてしまったほどだ。 と言うのも同じゼミだとは言え彼女との接点はほとんどなかったからだ。 彼女は大人しい……言ってしまえば暗い性格の女の子だった。 友人と話しているところも見たことなかったし、着ているものも極めて地味だった。 俺にとってはただの同級生で、名前を覚えていただけでも僥倖だった。 しばしの思考停止後、はたと気づくと、往来のど真ん中だったため、衆目を浴びていた。 「ちょっちょっちょっちょっと待って雪菜ちゃん! ひとまずどっかお店入ろ? ね?」 「あ……ひっ⁉︎ えっ、あっ、ううう、うん‼︎」 俺は咄嗟に彼女の手を引いて近くのハンバーガーショップに飛び込んだ。 「とりあえずなんか飲もっか」 俺が急に渇いた喉を潤したくてそう提案したのだが、雪菜ちゃんは俯いたままだった。 「あの……晴人君……手……」 そう言われて俺はまだ彼女の手を握ったままだった事に気づいた。 「あっ、わっ、たっ! ご、ごめん‼︎」 焦り散らかしながら手を離した俺はこの時何を頼んだのかもよく覚えていない。 気まずい空気の中、俺たちはパーテーションで区切られた2階の最奥の席に向かい合わせで座った。 幸い客はまばらだった。 最初に口を開いたのはもちろん俺だった。 「雪菜ちゃんごめん‼︎ 俺君とは付き合えない! 告ってくれたのはすごい嬉しいけど、なんだかんだ言って俺夏紀の事好きだから別れらんないよ。それに仮に別れたとしても俺君のことほとんど知らないし……だから……ごめん……」 この頃俺は頻繁に夏紀とケンカしていた。 そのきっかけはいつも本当に些細な事で、些細だからこそ原因もそこかしこから出現するわけで、ケンカしない日はなかった。 夏紀を好きだったのは本当だ。 でも確かに疲れていたのも事実だった。 女の子はよく見てるな。 だから俺は夏紀と別れたと思われたのだろう。 俺がバツが悪そうに雪菜ちゃんをていると意外な反応が返ってきた。 「晴人君……四方さんと付き合ってたの……⁉︎」 「はっ⁉︎」 俺は往来で告られた時の数倍驚いた。 「待って待って待って待って待って‼︎ 雪菜ちゃん俺が夏紀と付き合ってるの知らなかったの⁉︎」 あまりの驚愕に身を乗り出した俺から逃げるように雪菜ちゃんが身を引いた。 その顔は真っ赤だった。 「だだだだだって……晴人君そんな事言ってなかったし……」 「そんなのいちいち言うわけないじゃん……え……マジか……」 「ごごごご……ごめんなさい……」 いつも俯き加減の雪菜ちゃんがさらに俯いたものだから、顔が全部髪の毛に隠されてしまった。 ゼミの女子とでさえ交流の薄かった雪菜にとったら、社交的の代名詞のような俺が、夏紀だけを特別視せているようには見えなかったのだろう。 まさか雪菜が謝るとは思っていなかったので、俺は慌てて彼女を慰めた。 「あ、いや、こっちこそごめん……だよね、言わなきゃわかんないよね、あははは」 わざと明るく笑った俺は雪菜に言った。 「あのさ、告白してくれたのはホントに嬉しかったよ、ありがとう。でもほら、俺ってチャラいじゃん? 清楚な雪菜ちゃんにはきっともっと頭いい知的な人が似合うと思うよ。だから、うん、これからは友達ってことで! 気まずいとかなしね?」 「友達……うん……わか……わかった……う……ううう……ひぐっ……えぐっ……」 「え、あ、ゆ、雪菜ちゃん⁉︎」 突然泣き出した雪菜にどう接すればいいかわからなくなった俺は、咄嗟にテーブルに備え付けの紙ナプキンを数枚取ると彼女の涙を拭いた。 その時長い髪が靡いていつも隠れている彼女の顔が露わになった。 「……っ!」 綺麗だった。 涙で目は少し腫れていたが、それを加味しても余りある美しい造形美だった。 ほとんど手入れをしていない眉。 マスカラすら使っていないまつ毛。 当然カラーコンタクトなどしているはずもない。 彼女が生まれ持った自然な美しさに俺は一瞬で引き込まれた。 思わず夏紀と付き合っているのを後悔したほどだ。 俺は自身の軽薄さに無性に腹が立って、自分の頭にゴツンとゲンコツを落とした。 「え、え、え、え、なななな何してるの晴人君⁉︎」 雪菜が驚いて顔を上げた。 「自戒」 「な……何を……?」 「泣いてる雪菜ちゃんを見て……心が動きそうになっちゃった自分……」 「……!」 今度は雪菜が驚いた表情を見せた。 そして純真な笑みを浮かべ言った。 「浮気はダメだよ?」 「わかってる……」 「私真面目だからそういうの絶対許せないから! 四方さんを悲しませたらダメだからね?」 「あはは、わかってるよ」 しばらく笑い合って気づいた。 俺たちは二人とも無理して笑ってる。 二人の出会いがもう少し早かったら、俺が夏紀と付き合っていなかったら、恐らくだが雪菜も悔いていたと思う。 どちらからともなく笑うのをやめて、静寂が訪れた瞬間雪菜は言った。 「私……晴人君と友達になれたこの日を大事にするね。ずっと忘れないから……晴人君と『友達になった5月』を私は絶対に忘れない……!」 友達になったはずなのに何故か雪菜は今生の別れのようなセリフを呟いた。 「晴人君……もしだよ?」 「え……?」 「例えば、仮に、ifの話……私たちが次に出会った時にもし晴人君に彼女がいなかったら……あなたの……あなたの……彼女にしてくれませんか……?」 ドクンッ‼︎ 俺の心臓が大きく跳ねた。 呼吸が浅く、速くなるのを感じた。 世界が狭まって雪菜しか見えなくなった。 「フリでもいい……嘘でもいい……約束……してほしい……」 彼女は泣いていた。 右手小指を差し出し、微笑みながら涙を流していた。 鼻の奥がツンとした。 俺は迷わず自身の小指を雪菜の指に絡めて言った。 「うん……約束……するよ。俺たちがもし次会う事ができたら……もしその時俺が一人だったら……俺と付き合って下さい……!」 「約束……だよ?」 「うん……」 「ふええ……ありがとう晴人君……うええええ‼︎」 雪菜は誰憚ることなく泣いた。 俺と指を繋いだまま。 次の日雪菜はゼミから姿を消した。 影の薄かった雪菜は、最初からいなかったようにゼミの仲間の話題に上がる事はなかった。 小指に残ったかすかな体温だけが彼女が存在したことの証明のようで、俺は自身の小指を摩ってみるのだった。 性処理ラバー人形 【素顔】に続く