透明ガラスに囲われた空間内。
目覚めると、俺はうつ伏せの状態のまま素っ裸で寝転がっていた。
それは自分だけじゃなく、どうやらたくさんの人が同じように裸でいるようだった。
黙って座ったまま大人しくしている人や、また、多くがブツブツと呟き、心ここにあらずといった様子で呆然と立ち尽くして。
意味が分らない。 知るはずもない。
眠りから覚め、気付けばこんな見知らぬ場所にいたために。
「本当に何処だ? ここは……」
とりあえず辺りを確認しようと、うつ伏せに寝ていた体勢から起き上がろうとする。
「――おわぁッ!」
だが、ガラスで出来た地面が酷くぬめっていて、滑って尻もちをつく形で転んでしまった。
「いってぇ……な、なんなんだ! このヌルヌルは」
転んだ体を支えるために両手をガラスの床についてしまったせいで、手にぬめりが付着した。
――得体の知れない何かのぬめりが。
気になった俺は、何となく手のひらを握ったり開いたりを繰り返す。
「うげ……」
ネチャネチャと音を立てて皮膚がくっついては離れる。
粘着性はそこまで強くはないが、例えるなら頭髪用のワックスに似ていてベトベトする。
これは水で洗い流さない限り、完全に落とせなさそうだ。
「どこかに水があればいいのだが……」
辺りを見回し確認するが、手を洗えたり拭えたりするような物は見当たらない。
いや、それ以前に生活に役立つ類の物や、椅子やテーブルといった家具類たる物がない。 食料となる物も何も……。
人が多くいるというのに、このガラスで囲われた空間内は酷く殺風景だ。
「どこか……出口はないのか?」
首だけを動かし見渡す。
だが、四方八方透明なガラスで囲われており、外に出れるような出口となるドアがない。
「そんな、嘘……閉じ込められているんだ……。 な、何故……」
考えても考えても、こんな場所にいる理由が分らない。
ならばと思い、自分と同じように閉じ込められている人に聞こうかと声をかける。
自分を背にして立っている、近くにいる男へと。
「なあ、聞きたいんだが、ここは何処だ? 後、外に出られる出口は知らないか?」
声をかけるが返事はない。
何やらブツブツ呟き、突っ立ったままだ。
「……あの……もしもーし!」
再度声をかけるが、俺の言葉に反応をみせない。 まったくと言っていいほど。
「……聞こえていないのか? だったら」
ぬめり滑るガラスの地面に気を付けて立ち上がり、男の近くまで歩く。
傍まで近づき声をかけたら、さすがに話しかけている事に気付いて返事をしてくれるだろうと思って。
「なあ、あんたに話しかけているんだ。 ここから外に出れるような出口は知らないのか? って。 聞こえているだろ? ――なぁってッ!」
返事がないため、背にした男の肩を乱暴に掴んで無理やり振り向かせる。
やりすぎだと自分でも思うが、何が何やら分らない状況のために心に余裕がなく、無視をする男が無性に腹ただしくなって。
「ぅ……ぁ……………」
「えっ? ――うわぁッ!」
しかし、振り向いた男の表情にはあまりに色がなかったため、驚いて掴んだ肩を離す。
なぜなら振り向いた男の目は虚ろで、幽鬼のようであったから。
理性があるようにはとても見えなく、生きているとは感じさせないほどの……。
「ああ、無駄ですよ、彼に話しかけても。 彼だけじゃなく他の人もですけど……」
そんな時、驚き固まっている自分に向けて、真後ろから声がした。
「あ……え?」
振り向くと、白髪の男が悲しそうな表情をして立っていた。
白髪といっても見た目は若く、歳は自分と同じぐらいの三十代前半に見えるが。
「……あんたは? それに無駄って……」
「失礼、長くここにいて名字は忘れてしまいましたが、私は『広斗』(ひろと)といいます」
(……忘れた?)
名字を忘れるなんて可笑しな人だと思いつつも、名乗られたからには礼儀として自分も名乗り返す。
「ど、どうも……始めまして、俺は『村井 茂』(むらい しげる)だ」
「ええ、よろしくおねがいします」
広斗と名のった彼は俺に向けて深々とお辞儀をする。
その姿を見て、可笑しな人だがまともに会話が出来そうな人なんだと思った。
「その……広斗? 色々と聞きたい事があるのだが、そこの独り言を呟いている彼はいったいどうしたんだ? ずっと立ったままこの状態なんだが」
「彼はここに長くいるせいで、様々な事を忘れてしまったがためにこうなってしまったのですよ。 それこそ私が名字を忘れた以上に、自分が人間である事さえもね……」
「――へっ? 人間である事を……忘れた?」
「そうです。 ここでの暮らしは、一切同じ人間から人として見てもらえなく、道具として扱われますので」
「はい?」
喋っている事は分かる……が、その話の内容は意味不明だった。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。 広斗が何を言っているのか……」
「ああ、まだ自分の身に起きた出来事を理解していないのですね。 あなたが小さく縮んでしまっている事も、もしかして気付いてはいないのですか?」
「小さく縮んだ? いや、だから何を……」
「うーん、こういうのは口で説明するよりも、自分の目で御覧になった方が早いですね。 此処からでも良く見えますが、せっかくですからもっと近くに行きましょうか。 こっちです茂さん、私についてきてください」
そう言って広斗は歩いていく。 端にあるガラスの壁に向かって。
「あ、床は滑りますので気を付けてくださいね」
「……ああ」
しぶしぶ俺も遅れて後に続いた。 付いていけば、広斗が話す内容を理解できると思ったからだ。
「さあ、着きました。 外の景色を良く御覧になってください。 小さく縮んだと言った私の言葉が分かりますから」
「わ、分かった」
端に辿り着き、言われたまま壁の向こう側の世界を眺める。
幸い、透明なガラスのおかげで外の景色がよく見える。
だが、見えると言っても自分には理解しがたい景色であったが……。
良く知っているはずなのに、脳がありえないと否定するほどの……。
「な、なんだこれは……」
「どうです? ほら、あそこにある大きく広がっている白い布はカーテンなのですよ」
「は? カーテンだって⁉」
真っすぐ前方に見える巨大な布。
広斗がいうカーテンとなるものは、夜空一面に飾られる広大なオーロラみたく、広く……広く天から垂れ下がっている。
「嘘だろ……。 じゃ、じゃああれは」
「あれとは? ああ、あれは椅子とベッドですね」
そんなカーテンから視線を下へ――下へと向けて行くと、木の椅子とベッドが置いてある。
ただそれは、自分を閉じ込めているこのガラスで出来た場所よりも、断然大きく広いが。
比較するのにも、馬鹿らしく思えるぐらい。
どれ一つとっても、周りに置かれている様々な家具類が大きすぎる。
壁に掛かっている振り子時計であっても、信じられないほど大きい。
……このガラスで出来た “運動場よりも広い” 場所より――遥かに。
「分かりますか? ここはただの部屋の一室なんですよ。 そして今私達が立っているこのガラスの中は、茶碗程度の大きさのガラスで出来た小さな器。 そんな一室にある小型のテーブルの上に、私達はガラスの器に入れられ、備品として置かれているのです」
「テーブルの上? 茶碗程度の器……? 備品? あ、ありえない……そんな……。 ――いッ‼」
突然頭に襲いくる激痛。
過去に体験した出来事が、激流の如く脳に流れだした。
ただそのおかげで色々と思い出す。
牢屋での、見知らぬ女から注射を打たれ、縮んでいった人間を。
そして、自分にも注射を首に刺された痛みや感触を。
「うああ……そうか……思い出した。 俺も縮まされたんだ……」
「思い出せたようでなによりです。 どうです? 私の言った事は嘘ではなかったでしょう?」
「あ、ああ……。 正直、まだ頭の整理はしきれていないが」
ぼんやりとまた、外の景色を眺める。
一つの “街” みたく広大な室内を。
そして、思い出した事により改めて実感させられた。
この室内を街だと思わされるぐらい――自分は小さく縮んでしまったのだと。
「なあ、広斗。 念のため聞くが、ここから逃げれる場所はないんだよな?」
「残念ながらありません。 私達が唯一外に出られる場所と言えば……上からになりますね」
「上……か」
空を仰ぐように見上げる。
確かに上はガラスで覆われてはいなく、吹き抜けている。
だが、ガラスの壁をつたって登るにはあまりに高すぎる。 高層タワーよりも遥かに……。
それに、この壁にも付着しているぬめり。 いくら登りきる体力があろうとも、これのせいで絶対に滑って登れないだろう。
「広斗、さっきからずっと気になっているのだが、地面にも壁にも付着しているこのぬめりはなんだ?」
「ああ、これはこの室内を御使用なされる、ご婦人様方のお身体に塗るクリームですよ」
「ご婦人様方? それにクリームって……」
「そうクリームです。 常に私達の体に付着させるよう、この器全体に満遍なく塗られているのです」
「は? 付着させるようって、なんの為に……」
「ずっと前にここの職員様となる人と、ご使用されるご婦人様の会話を聞いた話ですが、私達を清潔に保つために塗られているみたいですよ。 このクリームには細菌などを防ぐ効果があるとおっしゃられていましたから」
「……はい?」
「まあ、人間が安心して使うためだと思っておいて下さい。 体中にクリームを付けた私達を、人間であらせられるご婦人様方はご使用なされるので」
「……えっと」
まったく意味が分らない。 広斗が何を言っているのか。
でも、ふざけている訳ではない事だけは分かる。
広斗は、真面目に話をしているのだと。
「茂さん、これから起きる出来事に大変ショックを受けるかもしれませんが、自分が人である事だけはしっかりと認識していてくださいね? でないと私のように名字を忘れたり、あの多くの彼らのように、ただご婦人様に使われるだけの “物” と化してしまいますから。 心も体も……ね」
「こ、怖い事を言うなよ……。 忘れるなんてそんな――」
「いいえ、私の言葉の意味をすぐに理解しますよ。 もう私達は人から……ご婦人様方からは一切人として見てもらえなく、道具として扱われますから。 そして私達の方からも、ご婦人様方の事は同じ人間として絶対に見れませんので」
「……え、道具として扱われる? 同じ人間として見られない?」
気になる単語がまた出てきた。
でも、広斗に聞き返す事が出来なかった。
何故なら、この場、この室内全体に異変が起き始めたからだ。
ガタガタと周りのガラスが軋み揺れる――地震が。