こちらのネームとプロットは、雑誌の連載企画としてスタートしたものの3話ぶんのデータを作ったところで私の都合で中断になったものです。
※先方からも公開許可をいただいております。
・校正や手話監修、その他の監修等が入る前の状態です。したがって現時点では、誤字脱字や専門的な視点から見ると間違っている点が色々とあると思います。
恐れ入りますが以上の点をご理解いただいたうえで、読んでもらえると助かります。PDFの下にPNGに変換した画像を貼りますので、読みやすいほうからどうぞ…!
1話のネーム
2~3話のプロット
ネーム
2~3話のプロット
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進行中止になった理由ですが、昨今よく聞かれるような一方的な出版社都合とかではなく、私からこれ以上の推敲は無理だと思ったので辞めさせてもらいました。なので、なんかお金や契約のことで揉めたとかそういうようなことは一切ありませんので、そこは誤解されませんよう…!
女性向け雑誌で何か連載をやるとしたら、相澤真白の母・芙美子の話をやってみたいなと思ってその話をしたら、じゃあそれでやってみましょうということで始まった企画でした。
芙美子については『僕らには僕らの言葉がある』書籍の中でも一部描いている話がありますが、詳しく知らない方のために説明すると、『僕らには僕らの言葉がある』の相澤真白の母・芙美子は、両耳とも全聾の状態で生まれた真白とは違い、子供の頃は左耳にわずかに残存聴力が残っていました。左耳に補聴器をし、ろう学校に通い、発話訓練を受けながら暮らしていた時期がありました。しかし、9歳ごろにその左耳の聴力もついに失います。わずかにでも聴力が残っているかぎり「聴こえる人間の出来損ない」だと見られ続けるであろう今後の見通しや日々の厳しい発話訓練にうんざりしていた芙美子自身は解放されたような嬉しい気持ちになりましたが、その気持ちは聴者である両親には理解してもらえず、結局そのことがきっかけで実の両親のもとを離れることになります。
『僕らには僕らの言葉がある』の中では割と断片的にしか描けていないので、ここをしっかり描く機会があったらぜひやってみたいなと思って、構成し始めました。
このネームは一番最初に書いたプロットをもとに1992年の夏休みの時期を描いたものなのですが、実はこの形になる前にもう1パターン、1992年の秋、芙美子が養親と暮らすようになり、東京のとあるろう学校に転校してくるシーンから始まるパターンもありました。これは編集さんからの提案でそうしたものです。(そのため、すみませんがここには載せられません。)
その中ですと、1992年当時の日本のろう学校では、それよりさらに昔のような、手話を使っただけで罰されるなどというようなことは段々なくなってきてはいたが、依然として学校側から積極的に手話を教えるというようなことはなく、補聴器の使用と口話の習得に重きが置かれていた。前に通っていたろう学校と違い、手話を使っても構わないと言われて喜んだ芙美子だったが、実際行ってみると結局みんな口で話す子ばかりで手話が通じなかった…だが、実はその中に表向きは口話がとてもうまく大人に取り入っているが、実際は手話を第一言語として生きたいと考えている生徒もいることがわかり…というようなことを描こうとしていました。が、やはり何かが違うということになり…というか、これだと説明しなければならない前提条件があまりにも多すぎました。同じ聴覚障害者というくくりのなかでもそれぞれ考え方の違いがあり、時には大きな隔たりがある場合もあるということを1話から分かってもらうのは至難の業だと思いました。多くの読者は聴覚障害者はみんな「聴こえない人」であり、いっしょくただと考えている。そこのバイアスを取り除くのはものすごく大変です。聴者が考えているように、たったひとつのシーンで考えが変わるとか、端的にひとことで表せるような甘い隔たりではない。
だったらもうちょっとシンプルな構造である一番最初に書いたプロットに戻らせてもらえませんかと、私からお願いして、描かせてもらったのがこのネームでした。
編集さんに見せるとけっこうよくなったという感想だったのですが、いざその上の方に見てもらうと…まあ~…散々な言われようでした。
・事実を時系列順に追うのみで、キャラクターとしての面白みが薄い
・主人公を読者が好きになるための仕掛けが足りない
・漫画として盛り上げるための演出が足りない
あくまで編集さんからの伝え聞きですが、こういう感じのことです。編集さんも担当として読み込みすぎと言われたとのことで、そこはなんだか申し訳なく思いました。要するに「興味がわかないので読みたくない」ということですね。そうか…初見の人の感想がここまでひどいんじゃもうどうしようもないよな~と、なんか、悲しいとかショックとかもはやそういうのじゃなくて、スパッとここで一旦あきらめる気持ちになったという感じですね。
「キャラクターとしての面白み」「読者が好きになるための仕掛け」「漫画としての盛り上げ」…それが全て叶えられた漫画が、同じ聴覚障害を扱った漫画がすでに補完もいっぱいありますね。そして、爆発的に売れていますね。それが答えです。そういうのを描いてくれということですね。
どれだけ新鮮とかセンセーショナルと騒がれた作品であっても、上の3つの条件は必ず何らかの形で満たしているものです。それがこのネームにはひとつもない。そりゃたしかに売る側としても厳しい…。
ここからどうするか必死で考えてくださって、そのうえでの言葉なので悪気がないのはわかっているのですが、「芙美子にキャラクターとしての天才性のようなものが宿るといい」というような言葉が出てきたとき、あ、もうおしまいにしよう、それは私には無理だと心の底から思いました。悪気はなくてもこれは「障害者はせめて天才であるとか、なんらかの”長所”があることが感じられないと受け入れられない」と暗に言っているようなものだと私は思いますよ。フィクションとしての実態はそりゃそうなんだけど、じゃあそれを今を生きるろう者の皆さんに面と向かって言えますか?(別に言っても問題ないと思って言ってるはずだから、私はここにあえて書いておきますけど…)ということは、やっぱり私は考えてしまいます。
『僕らには僕らの言葉がある』の相澤真白も、いろんな受け取り方があるかと思いますが、私としては別に彼を野球の天才としては描いてません。野球部員にはみんなそれぞれプレイヤーとしての長所があって、それが真白にもあるんだけど、彼の場合はそれよりさきに「聴こえないのに」という前置きをされがちだから、野球プレイヤーとしての長所を述べただけであたかも天才性を強調しているかのように見られる場合もあるということだと思います。それは作者である私がどう描いたかというより、受け手側の考え方によっていかようにも変わる部分じゃないでしょうか。他人の考え方を変えることはできませんので、そこは、読者の自由にゆだねられている部分でもあると思います。
なぜ、ろう者のキャラクターを描きたいと思ったのですか?読者にどんなところを興味を持ってもらいたいのですか?そこを盛り込めば、もっと読んでもらえるかもしれないというようなことも言われましたが、私はずっとそれを言っているというか、最初から自分が言いたいことしか描いていないのですが、読者からするとそれが今の状態だと全く何も乗っていないというような感じに受け取られてしまうということが、ネームがダメだったということそのものよりもそっちのほうが結構ショックだったかな…。あー、そっか、何も考えないでサラッと描いてるみたいに見えてるんだ。っていう。
「事実を時系列順に追うのみで」…という評価は主にここからきているものと思われます。思想を感じないと。描いているほうは思想もりもりなんですけどね。不思議だ…。
いや、たぶんですけど、「事実を時系列順に追う」ことを私はむしろ大切なことだと思って漫画を描いてるから、そうじゃない人が読むとこういう感想を持たれてしまいますよということなのかもしれないですね。
正直な話、私は、ろう者や手話という題材に関しては「事実を時系列順に追う」「事実を羅列する」…とにかく、「事実に即する」という部分が一番ないがしろにされがちだと思っています。誰かの主観を通した映像じゃなくて、ただそこで起こっている
ことを俯瞰的に映した映像が必要なんです。
誰かのっていうか…圧倒的にこういう場合は”聴者の”主観を通した映像になるわけなんですけど、聴者の主観を通した映像って「私たちは悪くない、実はこんなにもいいことをしてあげたいと思っているんです。ただ少しすれ違いがあるだけなんです」という前提で映っていますよね。そこがまずおかしいと思う。いいことをしてあげたいと思っているかどうかなんて、実際にそれがいい働きになるかどうかとは関係がない。
”事実として”こういう言葉が発された、こういうアクションがあった、こういう結果になった…”どう思ったか”というのはそれぞれの読者のもつバックグラウンドや思想によって変わるもので、本来はキャラクターや作者が強く扇動すべきものではないのではないかと私は思うのです。『私たちが目を澄ますとき、』の読み切り版の時は、少しこの法則が崩れました。ろう者の芙美子の視点で描く場面が多かったですね。私の感覚としてはちょっとモノローグが多すぎるんじゃないかと思うくらい。編集さんのお力で漫画としてなんとか成立しましたが、これでいいんだろうか?ずっと不安でした。
「キャラクターとしての面白み」
「読者が好きになるための仕掛け」
「漫画としての盛り上げ」
いかにも正しいことのように書かれているけど、場合によってはそうやっておんぶにだっこで強制的に興味を持ってもらえるようにしようとすればするほど、実際に知ってほしい事実からは離れていくし、新しい偏見を生むきっかけを作るだけなんじゃないでしょうか。
私だって人間だから、いくら懇切丁寧に説明されても全く興味を持てない分野とか、ものごとというのはあります。人によってはそれが今回のような、ろう者とか、手話とか、そういう分野であるということですよね。そこをなんとか、キャラクターをイケメンとかかわいい女の子にしてみたり、なんかすごい天才にしてみたり、ちょっとありえなくてもいいから面白さ重視で盛り上げてみたり、そういう「工夫」の末に興味がなかった人にも興味を持たせることは可能です。現に、成功例がいくらでもあります。でもそれって、「”聴こえないけど”イケメン(もしくはかわいい女の子)の○○くん、○○ちゃん」「”聴こえないのに”なんかすごい天才の○○くん、○○ちゃん」「”聴こえない人が出てくるけど”なんかすごい面白い漫画」に対して興味を持ってもらえてるのであって、そこからもう一歩「面白くない現実」に踏み込んでくる人となるとほぼほぼ皆無に等しいということをまざまざと見せつけられてきてる身としては、そこを今から私のような人間が後追いして何か意味があるんだろうか?と疑問に思います。
キャラクターの面白さ=ギャップの一種として”聴こえないのに”・”聴こえないけど”…という文脈を悪びれずに使い、それを読者側も疑問に思わず受け入れるという構図に、どうしても耐えられそうにないのです。
私はキャラクターというより、聴覚障害、手話、ろう者、ろう文化…という、そういう根本的なところを見ながら漫画を描いてる部分があるのかもしれません。キャラクターさえよければ、話さえ面白ければ、それ以外の部分は別にどうでもいいとは、そこの優先順位が大きく逆転することには抵抗があります。(そこを割り切れないからいつまでも売れないんだと言われると返す言葉がないですけど)
といっても、
ほら!ほら!見て!
ろう者ってこんなに魅力的な人たちなんですよ!
手話ってこんなに面白い言語なんですよ!
と、叫びまわって歩くようなことをしたいのではなく、むしろ、ただそこにある姿ををできるだけ「ただそこにある」という形で描くことが、当事者に対して少しでも誠実な形になるんじゃないかと思っているだけです。
それではよくわからないという人ももちろんいるけど、ぶっちゃけ、「わからない」って感想って、なんの作品でもそうだけど、それって全部が全部作品のせいじゃなくないですか?
私は日本の映画より外国の映画のほうがふだんよく見ていて、さらにいうと視聴者の多い日本市場のことも意識して作られているハリウッド映画よりできるだけ日本市場の影響がない国の映画のほうが好きな作品は多いんですけど、
例えば、文化圏の全く違う国の映画、とくに北欧エリアによくある、神話などの前知識があることが前提で作られた映画に対して「何を言いたいのかよくわからないので面白くない。★1」っていう評価が日本語でついてることがよくあるんですけど、それってすべてが作品のせいじゃなくて、”自分は何もわからないんだから、わかるように作ってくれるのが当たり前でしょ!”という”お客様は神様精神”で自分からなんにも能動的に知ろうとしないせいだったりしませんか?日本の映画や日本にも入ってくるようなハリウッド映画はどんなに難解なように見えてもそれは「難解なように見えるように作られている」というだけで、実際にはそういう”お客様”に対して至れり尽くせりで「わかりやすく」作ってくれてますから、それに慣れてると「わからない」ということがマイナスなことのように感じてしまい、上記のような感想になったりするのではないかと思います。
でも、実際、自分から興味を持って知ろうとしなきゃ絶対にわかんないことってやっぱりあるんだよ。ていうか、世の中、そういうことのほうが多いですよね。何もしないでぼーっとしてるだけでなんでもわかったら、そのほうがすごい。何かを見て「わかりやすい」と感じているとき、それはただ「わかったような気にさせられているだけ」の可能性が高い。とくにフィクションは。「よく考えたら別に大した事言ってないのに、なんかすごく難解なことを自分だけはわかったような気にさせてくれる映画」というのもありますからね。それはそれでかなりの高等テクニックなのですが、往々にしてあくまでも「そういうテイ」なのであって、ほんとうに難解な作品というわけではない。本当にあくまで、「そういう難しい話が分かる自分ってスゴイ」という自尊心を満たしてくれる、おんぶにだっこ映画の一種というだけであって…。
だから、全然知らない世界のことについて描いているならなおさら映画を見ただけでは「なんだこれ、よくわかんないな」と思わせてくれる映画のほうが私はむしろ信用できる場合がある。なぜなら、それだけありのままに近い姿だったり、言いたいことを言いたい形のままで描いているという可能性が高いから。私が面白くないと感じるのは私に足りない部分があるからで、映画のせいではない。自分から補足知識を捕まえに出かけてみると、ああ、あの場面ってそういう意味だったんだ!と新たに気付くことができる。シーンや、映画全体の見え方が変わる。その後ろにある、人々の生活や歴史についてさらに知りたくなる。全然知らない文化圏の映画は特にそういう面白さがあります。
漫画も本質的には同じことで、それを考えたとき、「わかりにくいからダメ」という評価はあまりにも短絡的なんじゃないかなと思う時があります。(※私の漫画に対してって話じゃなくて一般論としてですよ)
私自身、別に何か働きかけられたから全くなんの下地もないところからろう者や手話などに興味を持ったわけじゃなくて、子供の時から日本語以外の言語やそれにともなう異文化という分野に強い興味があったことが非常に大きいと思っています。その延長線上に手話言語やろう文化というのがあったために、もし漫画家になってなくても生きている限り何らかのタイミングで出会い、強く興味を持つ可能性があった。それだけのことです。
やっぱり、興味がない人は私が何をしようと興味を持たないし興味がある人は最初から私が一切何もしなくても何らかの経路で興味を持つものなんですよ。それ以上でも以下でもなくて。
そこをある程度人為的に操作できたとしても獲得できるのは一定期間ほんの上澄みに少し足を踏み入れて、それだけでもなんとなく分かったような気持ちになれるので知識欲が満たされ、別の面白いものが出てきたらまたそっちに移動していく読者が大多数です。
それでもいいじゃないか、興味をもってもらえれば、という人もいるかもしれませんが、いつまでもいつまでもその「興味を持ってもらう」ところで延々と足踏みされているというか、なんならもはや踏み荒らされている感じになっているのが、この、聴覚障害や手話といった題材だと思うのです。
ずばり、「手話ブーム」の熱しやすく冷めやすさですよね。いつもガーッと一時的に盛り上がっては、そのなかでも特に”聴者から見て面白い情報”だけが爆発的に(そして時には間違った形のまま)拡散され、最終的には人そのものがサーッと引いていく…。ほんとに「いいじゃないか、興味をもってもらえれば」ですかね?それってつまり、興味を持たせるきっかけを作ってやっただけでもありがたく思え、なお、興味を持ってもらった後の責任を取る気は全然ないからそっちでなんとかしてね、と言ってるのと同じだと思います。当事者はいつも尻ぬぐいや後片付けをさせられ、挙句の果てに「いつも怒ってばかりでわがままだ」とかなんとか言われ…当事者やその周りの限られた環境の中では少しずつ良くなっている部分も色々あるとは思いますが、その他大勢、大衆というくくりで見れば、ブームのたびに同じ場所に同じ深さの溝ができてるだけのような感じがしますけどね。
そのあまりにも身勝手なムーブに加担しているもののひとつが、まさに漫画やアニメーションといった媒体です。私もそれを作る側の人間として、責任を感じながら作っていかなければいけない。だったら私は、最初から私が何もしなくても興味がある人のことを一番に考えて描いたほうがいいんじゃないかな?と思い始めてます。そうじゃない、ある程度、多くの読者を商業的に満足させられるようなものを描ける人は他にもいっぱいいるので、そっちはそっちでやっていただいて…。
話がそれてきました。
なんでこんなボツになった、しかも不完全なネームを公開したのかというと、もちろんまずは私の漫画を読んで手話やろう者、ろう文化といったトピックそのものに興味を抱いてくださった、応援して下さっている皆さんに見ていただきたかったというのもありますが、もうひとつは、そういう「私が無理やり引きずり込まなくても元から何らかのきっかけでこれらの事柄に興味をもっている人」もしくは「自分の人生や生活に、近しい経験を持つ人」に、こういうような話を描こうとしている聴者がいるということだけでも知ってもらいたかったからです。
漫画の読者のうち圧倒的多数の人たちは聴者であり、「難聴」と「ろう」の言葉がなぜ別々にあるのかということ…そして、「ろう者は生まれたその瞬間から勝手にろう者にはならない」ということを知りません。私も最初は知らなかったです。でも、知らなかったから、このことが分かってきたときに、もっと自分から能動的に知ろうという気になれたのだと思います。
今は自分を「ろう者だ」と確信している人の中にも、芙美子のように、聴者の家族のもとに一人だけ難聴児として生まれ、手話や「ろう」という価値観にすら触れる機会を持つことができなかった時期を過ごした人が相当数いらっしゃることや、聴覚障害を持つ児童に対する教育の在り方がそもそも「聴こえること、口で話せることがもっとも良い」という価値観のもとで成り立っていることなど、そういうことを勉強して知っていくうちに、私があえて描くんだったら「”聴こえないけど”この人はこんなに魅力的です!かっこいいです!かわいいです!すごいです!」じゃなくて、そういう、「聴こえない人を取り巻く聴者のほうの問題点」についてなんじゃないかな?と、今回のことで気付いたというか、そういう気持ちになりました。
うーん、でもそれって、絶対雑誌とかでやらせてもらえないよね…。
大多数の読者である聴者にとって都合と心証があまりにも悪すぎて、カネにならないので。
やっぱりみんなどうしても、自分が責められてるような漫画は読みたくないんですよね。できれば、自分は何もしないで、何となく自分まで褒められたような気持ちとか、いい気分になりたい。特に、”健常者”が出てくるのにそこを満たせないものは、まず間違いなく爆発的には売れない。
ヘレン・ケラーの自伝「The Story of My Life」は戯曲化にあたりヘレン・ケラー自身ではなくサリヴァン先生に主役が移され、「The Miracle Worker」というタイトルに変わりました。このとき、日本語では「奇跡の人」という訳題が付きましたが、日本ではこの「奇跡の人」が”三重苦”を持つヘレン・ケラーのことだと誤解されがちだという話を初めて知ったときに、あー、なるほど…と妙に納得してしまいました。
いや、私も、子供の時はヘレン・ケラーのことだと思っていましたよ。絵本とかにも表紙にヘレン・ケラーの絵がでかでかと描いてあるしね…。あらすじにもだいたい、「ヘレンケラー”は”三重苦を”乗り越え”…」って書いてるしね…。しかも、学校の先生も当然のように「奇跡の人、ヘレン・ケラーは…」って、言ってたしね。
しかし、英語を読めるようになって原題である「The Miracle Worker」を知ったときに、Worker…?となってよく調べてみたら、本当はこの話はサリヴァン先生が主役で、サリヴァン先生がヘレン・ケラーを粘り強く教え導いたこと、ヘレン・ケラーの、一人の人間としての尊厳が守られるよう支え続けたというその行いが「Miracle Work」なのである、ということを知ったのです。
また「Miracle」という単語自体、物語の文脈に従うなら本当は「奇跡」じゃなくて「偉業」と解釈するべきなのではないかと思います。なんていうか、もしかしてこれ、和訳のときにわざとヘレン・ケラーのことだと思わせようとしてない?とすら思うのですよね…。うちは両親がクリスチャンなので、この「Miracle」という単語の解釈については子供の時からよく触れる機会がありました。そして、日本人が一般的に考える「奇跡」と、英語の「Miracle」は、かなり意味合いが違うということも、英語を学ぶにつれ強く感じるようになっていきました。和訳した人も、この差異についてわかっていてわざと日本語では「奇跡の人」と訳したのでは?と今は思います。それこそ、「日本人にわかりやすくするため」に。
日本語で「奇跡」というと、「 常識で考えては起こりえない不思議な出来事や現象」…どちらかというと「偶発的な不思議な出来事」のことそのものを指し、それだけでは特に宗教的な意味合いもありませんが、キリスト教の価値観を通した日本語の場合「神の御業(みわざ)=すばらしい働き」と言い表される言葉です。偶発的に起こったことではなく、「誰かが(もともとは神が、という文脈での言葉ですが)した行いがきっかけで、もたらされたもの」という意味合いが付加されます。…というか、この「奇跡」という単語自体、存在こそ中国由来で昔からあったものの、一般にはキリスト教経由で広く普及しはじめた言葉であって、日本で普及するにつれキリスト教的な意味合いが急速に薄れていったといったほうが正しいようなので、英語で「Miracle」という場合はまず間違いなくキリスト教の考え方ありきの表現ということになりますよね。
つまり、日本的感覚で言うと「どう考えても絶対無理そうだったが、うまくいった」という、「困難を乗り越えた」という「できごと」を「奇跡」と呼び、この言葉だけでは”誰が””何を”したとかそういうのはあんまり問わない感じ(いかにも日本語っぽいな…)ですが、英語の「Miracle」には、「素晴らしい結果となったのは、素晴らしい行いをした者がいるからだ」という、むしろ”誰かが”・”何かを”やった、という点をものすごく重視しているニュアンスが見られます。
この点を踏まえて「The Miracle Worker」というタイトルを改めて考えると、どう考えてもサリヴァン先生のことを指しているとわかります。本人の努力ももちろんですが、本人を導いたり支えるための素晴らしい働きかけがあったからこそのことだった、というタイトルですね。
しかし、日本人は昔から、他人に迷惑をかけることを嫌います。
誰かの手を借りてうまくいったりしたことを、「恥ずかしい」「みっともない」「おおっぴらに言うべきでない」…もっとすごいときは、「できれば自分一人でできたことにしたい」とさえ、考える場合がある。これを如実に反映しているのが「奇跡の人とは、ヘレンケラーのことだ」という思い込みではないでしょうか。
他人に頼らず自分一人でなんでもできることこそ人間としての美徳だという価値観の強い国の人たちから、「Miracle」の本来の意味に広く共感を得るのは難しい。そこであえて、ミスリードかもしれないが「奇跡の人」という言いまわしを選択した?
で、日本語で単に「奇跡の人」と言われると、多くの日本人は上述のような価値観に則り「多くの困難を抱えていたがその逆境を乗り越えたヘレン・ケラーのことだな」と自動的に考えるわけですね。疑いもなく。わかりやすいから。逆境を乗り越えると言っても、決して一人で乗り越えたわけではないのに、「奇跡」という単語が出された瞬間にそこは頭から完全に消し飛んでしまう。ややこしいのは日本の場合、”支えた人”を前面に押し出すと、「誰かの助けを借りて何かを成し遂げたなんて、そんなの当然じゃないか、誰かに助けてもらったんだから」「誰かに助けてもらえるなんて、そんなのはズルだ。そんな話を自慢げにするなんて、みっともない」と感じ、そっぽを向けてしまう層が存在するんですよね。そしてそれは、恐ろしいことに決して少数派ではない。本来の意図からは少しずれるかもしれないが、それでもなんとか多くの人々に作品に目を留めてもらうための苦肉の策だったのかもしれないなと、今は思います。
もちろん、ヘレン・ケラーは盲ろう者で、芙美子は難聴からろうになった人で、立場は全然違います。そこが同じだと言いたいわけではありません。ただ、私はいうなれば、今回の企画で、芙美子と養親の関わりを通して、サリヴァン先生を「The Miracle Worker」と呼んだ原題に近いことを言っていきたいと思っていました。
難聴児だった芙美子は、理解のない実の両親とはうまくいかなかったが、同じ聴者だが福祉的観点からでなく言語学的観点から手話について向き合うことのできる養親と出会ったことによって「お前は聴こえる人間の出来損ないだ」という重圧から解放される機会と、手話を言語として習得し、ろう者としてのアイデンティティを獲得するきっかけを得た。
ろう者自身にもっと努力せよ、わがままばかり言うな、聴者に歩み寄れという前に、私たち聴者の態度や社会の在り方のほうにまず問題がありませんか、という話を描いてみたかった。
(『私たちが目を澄ますとき、』とは、聴者がろう者に口で話させようとすることに固執することをやめ、自分から目を澄ましてろう者の世界を見つめたとき、そこに見えてくるもの、という意味も込めて付けたタイトルでした)
1話は芙美子の心理描写がまったくありませんが、それはまだこの時の芙美子は聴者から見て「何を考えているかよくわからない子」だったからです。なぜなら聴者のほうから能動的に口で話す以外の方法をとる気がなければ、芙美子の心の内を知るすべがひとつもないのですから。この時点でもし芙美子の心理描写がたっぷりだったら、読者は何もしていないのに何となく芙美子の気持ちをわかったような気になってしまう。それでは困ると思ったので。
でも、求められているのは「奇跡の人 ヘレン・ケラー」のような話だったわけですね。商業作品として売るためには、読者側が何もしなくても、なんとなく自分の中の常識で判断してもある程度わかるような話にしてほしいと。
その積み重ねこそが、「興味をもってくれる」のところで足踏みして何度も何度も同じ場所に同じ深さの溝を作っては去っていくというムーブを引き起こしてる原因だと私は思うので、賛同できませんでした。
これ以上話し合っても一生噛み合うことはないし、かといってどちらかが折れることもできないので、もうやめにさせてくださいとお願いしました。
もちろんそれだけじゃなくて私自身にもまだまだ勉強不足なところがあまりにも多いことを痛感しましたし、そういう意味でも「まだ、今、ここじゃないな」と感じたから中断したというのもあります。
実際、特に芙美子に近しい体験をされた方や、言語学者の視点から見るとツッコミどころが満載だと思います。
そこを今後少しずつ修正していくために今後ご意見をお伺いするきっかけとして、こういうものを描きたいのですが…といえるような「参考資料」が何かひとつくらいあったほうがいいだろうな、という意味で、ここに置きます。本当は無料で開放してさらに広く見てもらえる状態にすべきなのですが、すみません、『僕らには僕らの言葉がある』の1稿と同様で、私はメンタルが弱いので、もともと私の作品を読んでいたり、考えにある程度ご理解いただけている人にのみの公開とさせてください。
なお、もうひとつ生きていて進行中の企画がまだありますので、今後はそちらと、このFANBOXの更新をコツコツ頑張っていきたいと思います。
長々とすみません!
読んでくださってありがとうございました。
詠里