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雪降らないかな
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[小説]ジャガーダッシュの豹変

 ジャガーダッシュは、交差点ではたと足を止めた。

 違和感が肌に刺さる。とても小さな、針のような。

 振り返って周囲を見渡す。昼下がりの中流の住宅街――新しい世代の流入があったのか、幾何学的なデザインの新築と入り組んだ構造の古い家屋が混在している。買い物帰りの婦人。ベビーカーを押す若い母親。ごく普通の男。作業員らしき数人の団体。ハトにカラス。ムクドリ、スズメ。

 何の異常さも感じさせない、ごく普通の街の風景。それなのにジャガーダッシュの足はそこから立ち去ることを許さず踏みとどまり続ける。

(たぶんだけど……)

 このようなことは、今回が初めてではなかった。自分で意識できないささやかな違和感が身体を半ば強制的に引き止める――『あの日』からもう何度もあったことだ。

(また、なにかの『匂い』を感じたんだろう)

 あの日。ジャガーダッシュが獣化する能力を身に着けた日。

 少し前にある怪人とのひと悶着があり――それはジャガーダッシュにとってとても恥ずべき内容なので、ここでは秘すが――そのときに受けた怪人の攻撃によってジャガーダッシュは豹への変身能力を得たのだった。

 念のために言うが、ジャガーは豹ではない。

 ジャガーダッシュはそれを力説する(あるいは、愚痴る)機会が増えた。怪人化した者の中には他者を強制的に変化させる能力者が多くいるし、ジャガーダッシュがその類の攻撃を受けたのも初めてではなかったから、動物になったこと自体はあまり気にしていない。結果的に自分で制御できる変身能力を手に入れたのも、僥倖と言うべきだろう。

 問題は、豹にされたことだ。

 ジャガーは豹ではない。

 件の怪人もどうせ見た目の印象だけで「こいつ豹だな」とでも思ったのだろうが、ジャガーと豹は別の生き物だから名前が分かれているのだ。そのことを曖昧に捉えて流す態度にはほんとうにむかっ腹が立つ。件の怪人だけでなく、ジャガーダッシュという名前のヒーローが豹に変身していることについてろくに疑問を覚えない周りの人間どもにだ。本当にもう――

 とにかく。

 いまのジャガーダッシュは豹への変身能力を有しており――その付随効果として、動物的な感覚の鋭敏さを獲得していた。それが告げている。

 あの"普通の男"――パーカーを着て、こちらに背を向けて遠ざかっている、ごく普通の――あいつからは奇妙な匂いがする。自分の中の"豹"がそう言っている。何度かの任務を経て、そいつの嗅覚は正しいということを今や直感的に理解していた。気取られないようにパーカーの男を観察する。

 見た目は普通なのだが、"豹"は一体なにを――ジャガーダッシュはその男の背中を注視しようとして、▓▓▓▓▓▓やっぱり何度見ても普通だ。普通すぎてこれ以上全く見る価値がない、風景からわざわざそいつだけを抜き出して認識することさえものすごい浪費のように思えてくる。だが、匂いは▓▓▓▓。▓▓▓の匂いはなにか▓だ。どうして"豹"はあの男を気にするんだろう、あの男はどう見ても普通なのに――

 そこでようやく、ジャガーダッシュは自分の思考の不自然さに気付いた。

 パーカーを着て、後ろ姿しか見ていないはずの人物を何故私は頑なに「普通」と断じているのだ? たとえ一般人の可能性が高かったとしても、引っ掛かりを覚えたならそれとなく探ればいいだけの話だ。ヒーロー資格者にその程度の権限はある。それなのに、何故か思考に入る余地がない。普通。普通。普通。絶え間なく▓普通▓の文字列が暗闇の奥から潜り込ん▓きて、なにか考えようとした▓▓に他の言葉を埋め尽くしてしまう。普通。普通。あいつは普通▓だ。今もまた。▓るべきではない。関心を▓つほどではない。私の。▓から。普通。気にするな。言葉が。普通。入っ……て。普通。普▓。▓通。▓▓。▓き▓て▓思考▓▓を▓▓――――匂い。▓▓

 だまされないで。

 えっ? いま、誰が喋った?

 におい。においだけしんじて。

 ▓▓▓で頭が染まりそうな中、その声だけが明瞭に響きわたる。

 匂いだけを信じる。やってみよう。目を閉じて鼻に意識を集中し……空気の流れだけを感じ取る……

 自然と変身能力が発動した。ぐにと顔の中でなにかがうごめく感触がしたかと思うと、口のまわりが顎骨ごと盛り上がって前方に突き出し、押し出された鼻柱と鼻尖が豹の平たく逆三角形の鼻先に変わる。鼻がじわりと湿って完全に獣のそれとなった瞬間、匂いの視界と言うのか、解像度と言うのか――たとえるなら、長引いた風邪がある朝起きたら綺麗さっぱりに治っていて、鼻詰まりもすっかり解消されて、あ、この部屋ってこんな匂いしたっけって思い出す、あの気分に似ている――とにかくさっきまで抑圧されていた感覚の領域がぶわっと拡がって、ノイズで埋め尽くされていた思考空間をまるごと吹き飛ばした。頭が強制的にクリアになる。ジャガーダッシュは次のノイズが侵蝕してくるまでの間隙を狙って迅速に言葉のパーツを組み立てる。


 【外側から言葉が入ってきて、思考を塗り潰してしまう。】


 ようやくいまの状況を言葉にまとめられた。口から安堵の息がこぼれる。

 だが――たったこれだけの文章を思い浮かべ、維持するだけなのに酷く疲れる。まるで何十kgもある見えない荷物を抱えているような、一瞬でも気を抜いたら荷物を放り投げ、清々しくこの場から立ち去りそうな気がしてならない、不自然な重圧――そして、自分がそのような異常状態に陥る理由は一つだった。

 怪人による精神攻撃。

 注目した、あるいは、近くにいただけで強烈な精神操作を周囲にばらまく恐るべき怪人。そんなものが日中を堂々と出歩いているというのか? いや。その能力があればこそか。

 ジャガーダッシュの脳裏にある"都市伝説怪人"の噂が浮かぶ。

 ……追跡しなければ。

 未だ鎖が絡まったかのごとく重い足を引きずりながら、ジャガーダッシュは慎重にパーカーの男を尾行しはじめた。

 

***


「ようこそ、いらっしゃいませ」

 は?

 なんだこれは。

 ジャガーダッシュは狼狽し、自分の記憶を振り返る。

 さっきまで私は、あのパーカーの男を尾行していたはずだ。そうしてビルの中に入っていった男を見た私は、警戒しながら潜入し――

 だが、いま視界に広がっているのは。

 まるでケーキショップだ。

 バターとアーモンドの甘ったるい香りが充満する空間。どの棚にも所狭しと陳列された焼き菓子。冷蔵ケースに並ぶ色とりどりのケーキとタルト。奥からはほのかなコーヒーの香りが漂ってくる。イートインスペースがあるらしい。なんだこれは。ただのケーキ屋なのか? さっきのパーカーの男はどこに行った。店員らしき人物が歩み寄ってくる。

「こちら、初めてのお客様にサービスでお出ししております。どうぞ」

 そう言って渡されたのはドーナツだった。熱い。揚げたてだ。艶やかな光沢。見ているだけでさくりとした噛みごたえ、内側から解放される蒸気、じゅわっと滲み出て舌を濡らす油の味が思い起こされて、口中に広がっていく。

「どうぞ、ご遠慮なさらずにお召し上がりください」

 店員がにこやかに言葉を続けた。突然の展開に思考がゆるくなっているジャガーダッシュの頭の中で、言葉があわく反響する。遠慮するな食べろ遠慮するな食べろ遠慮するな食べろ遠慮するな食べろ遠▓する▓食▓ろ▓▓するな▓食▓▓

 たべちゃだめ。

 においをかんじて。

 反射的にジャガーダッシュはドーナツを放り投げていた。

 店員の身体をすり抜け、そのまま部屋のどこかに消える。音がしない。

 これは。この景色は――。

「あれえ、わかったのか」

店員が野太い、間の抜けた声をあげたかと思うと、にわかにその姿が揺らいでシルエットが丸く膨れ上がった。隠蔽されていた獣臭が、取り繕う必要がなくなったと言わんばかりに撒き散らされ、怪人の姿があらわになる――紺青色のスーツに覆われた大兵肥満のオオカミ。S級指名手配怪人"ヴォルフガング"。

 私はは慌てて体勢を整え――

「まあ待て。おすわり」

 手を揃えて前につき、足を側面に広げる形でその場に座り込んでしまった。

 鳥肌が立つ。

 手足が確信を持ってその姿勢を維持したまま、微動だにしない。

 動けと命じても無反応だ。まるでむずかる子供が呆れられて放置されているみたいに、私の意思の優先度が下げられている。

 これがオオカミ怪人の催眠能力。

 至近距離では、思考を重ねて違和感に気付くとか――そんな暇は一切ない。

 その眼と自分の身体が有線接続されて、一方的に指令が送られてくるような、恐ろしいまでの支配力。

 催眠能力だと――幻覚だとわかっているのに、未だにケーキの甘い匂いも色とりどりのデコレーションも掻き消えることなく、脳に実在感を伴って伝えられてくる。

 まずい。こんな能力の怪人がいるなんて。

 一刻も早く逃げなくては。そう思っても、ジャガーダッシュはまるで忠犬のように姿勢を整えてオオカミ怪人を見上げることしかできなかった。

「ちょっと待てよ、どうなったのか考えるから」

 驚愕で目を見開くジャガーダッシュをよそに、オオカミ怪人は毛に覆われた二重あごに指を当ててぶつぶつとつぶやいている。

「お前、あれだろう、ちょっと前にフラシャにからかわれた豹柄風船」

「ジャガーだ!」

「ああジャガーなんだ……あいつ適当だなあ……まあいいや、そのジャガー風船。なんか噂によると、フラシャのいたずらのおかげでその後ジャガーに変身できるようになったんだっけ?」

「豹だ!」

「どっちなんだよ!」

 オオカミ怪人がツッコむ。

「このスーツはジャガー柄だが、あのアホサメが勝手に勘違いして豹にしてきたんだ。以降私はたしかに豹への変身能力を獲得している」

「ああ……そう」

 微妙な沈黙が流れる。

 気を取り直してオオカミ怪人が続けた。 

「で、あれだろ。さっきまで俺は認識阻害パーカーを着てたから、基本的には俺のことをしっかり認識できなかったはずだ。だけど俺の違和感に気付いて尾行してきた。それはたぶん、お前の変身能力のせいなんだろうな」

 ジャガーダッシュは黙って話を聞く。いや、正確には、オオカミ怪人の声色は驚くほどに心地よくて――妙なる音楽が観客を圧倒させるかのごとく全身をしびれさせ、口を挟むことができない。もし現況を把握していなければ、私はこの凶暴で下卑たオオカミの顔から出てくる言葉に感動しているのだと、そう誤認してしまったことだろう。おそろしい――おそろしいという感情すら、脳が勝手に『敬意ゆえの畏怖』というラベルに貼り替えようとする。あらゆることが都合のいい快さに塗り替えられていく能力。

「あとから急にそういう姿を変える能力を手に入れたやつってな……自我が安定してないんだ。感覚とか意識とか、そういうものが変身前とあとでうまく統合されずにバラバラで存在しちまうんだな」

 ぴくりと、内でなにかが反応した。すでに朦朧としていて毛布のような暖かいまどろみに入りかけていたジャガーダッシュの中で、原始的で繊細さのないなにかが明瞭に光る。ちくちくした、素肌に刺さる、眠りを妨げる毛の塊……。

「んでよ、そういうときって、かけた催眠がメインの方に引き寄せられて、残りのほうがフリーになっちまうことがあるんだよ……それってどういうことかわかるか? 『観察』されちまうんだ。片方が催眠にかかって自覚がない状態でも、もう片方は『催眠にかかってる状態』を認識しちまう。あれ、同じ体を使ってるこいつ、いまなんかおかしいぞってな」

 ジャガーダッシュは先ほど脳裏で響いた言葉を反芻する。

(においをかんじて)

(だまされないで)

 ああ。そうか。

 眠りかけていた意識が覚醒する。

 助けてくれたんだ。

 なら。

「この部屋もな、途中から俺も尾行に気付いてたから、なんかいたずらをしてやろうと思ってたんだよ。お前がドアを開けて入った瞬間に強烈な催眠にかかるようにしておいた。近距離で直接目を見たら、ほとんど相手の意識をジャックするくらいのことはできるんだ。ちょっとおちょくってやろうと思ったんだけど、お前はそれでも俺に気付いた。何故か?」

「……」

 ジャガーダッシュはゆっくりと呼吸を整える。

「それはたぶん、お前の中にいるもう片方が、『認識阻害されたときの感覚』と『俺の匂い』を関連づけちまったからじゃねえかな。どんな情報でも、関連ができちまったら思い出して認識することは容易になる。その結果、『催眠をかけられたときの匂い』を知覚できるようになった、ってわけだ」

「……なるほどね」目を閉じて、脚の緊張を解く。大丈夫だ。やれる。

 おねがい、"豹"。

 ジャガーダッシュは勢いよく、脚を"豹化"させた。

 否――正確には身体の権限を"豹"に渡したのだ。

 急激に筋肉が発達し、その反動で上体が跳び上がる。目は開けない。匂いだけを頼りに方向を定めてオオカミ怪人の腹に蹴りをぶち込んだ。弾力のある肉に足先がめり込む感覚。うげっ、という濁声と大きな物体が床に倒れる衝撃。

 やった! ありがとう、"豹"!

 どういたしまして!

 内側から返事が聞こえた。

途端に身体全体の自由が効くようになる。催眠を打ち破ったんだ! ジャガーダッシュは逸る心を抑え、これからどうするべきか考える。オオカミ怪人の匂いと動作音で方向はわかるが、このままここで戦うのは得策ではない。仲間がいるかも知れないし、また催眠にかけられてしまったらそこでアウトだ。扉の方向は覚えている。今は逃げ、報告をするか、少なくとも情報を持ち帰る。決めた。

 ジャガーダッシュの肉球が床を強く押し、豹の毛皮と流水のようにうねる筋肉に覆われつつある胴体をしなやかに跳躍させた。腰と肩を空中でひねり、長い尾で左右のバランスを取りながら着地。止まらずすぐにまた床を蹴り、扉を開けられるように手を前に出す。全速力で走ればすぐにでも――

 すぐにでも。

 着くはずなのに。

 全力疾走しているはずなのに。

 どれだけ足を動かしても、扉が近付いてこない。

 耐えきれずに目を開ける。

 景色が歪んでいた。

 無限に食べ物が並んでいる棚が、無限に続いていて。

 扉はすぐ目の前にあるはずなのに、走っても走っても手が届かない。

「アタマいいなあ、お前」

 すぐ後ろでオオカミ怪人の声がする。

 体感では、もう何kmも走っているはずなのに。

「さっきの俺の話で、すぐに攻略法を閃いたんだろ?」

 逃げられない。追いつけない。どこにも行けない。

「お前は変身する能力を身に着けたばっかりで、精神や感覚の一部分だけが催眠にかかりにくくなっている。だから逆に"そいつ"に動くのを任せちまおうって思ったんだ」

 オオカミ怪人の声色が跳ねる。テストの回答を得意げに言う子供みたいに。

「なら……どう、して」

 息が続かない。このまま走り続けることはできない。

 舌がはみ出して垂れ下がった。いつの間にか顔まわりも豹化していて、私の口はすっかり丸い曲面を伴って鼻ごと前に突き出た口吻となっている。"豹"が出てきている。私と同じようにとまどい、嗅覚だけではなく髭や耳を盛んに動かしてあたりの情報を得ようとしているらしい。だけど、私たちがこの幻覚の獄から出るための手がかりはない。

「同じことをしたんだよ。別のユニットを送り込んでやったんだ」

 背後からオオカミ怪人の息遣いを感じる。

「『俺を攻撃したら部屋から出られなくなる』とか『走ったら、絶対にどこにも着かなくなる』って強めにチューニングした催眠をよ。忠実におすわりしてくれてる間に、しっかりインストールしてやった」

 足が鉛のように重い。もう走れない。なのに、私でも"豹"でもないなにかがひたすらに腿を持ち上げようとする。

「条件が成立するまでそいつらは動かないから、お前らは気づきもしねえ。気づかないってどういうことかわかるか? 追い出しも押さえつけもしなかったってことだぜ。そして、自分の自発的な行動で起こしちまったんだ。それってよ、もう承認したのと同じだよなあ。存在を認めた、受け入れたのとほとんど変わらねえ。もう身体を動かすことができるんだ。お前が知ってようが知るまいがな」

 オオカミ怪人の突き出た腹が、背中に当たる。

「止まれ」

 耳元で囁かれるや否や、足はぴたりと動作を止めてしまった。

 ぜはあ、ぜはあと荒い吐息が大きく側面にまで開いた口から漏れる。肺が痛い。心臓が張り裂けそうだ。視界が霞んでもはや幻覚の風景すらもよくわからなかった。わかるのはただ、おそろしい、凶暴な匂いの塊が、自分のすぐ後ろにいることだけ。

 ゆっくりと、オオカミ怪人の太い指が、後ろから這い寄ってきた。手袋のざらざらとした感触が頬を撫でる。

「わ……私を、どうするつもりだ」

 なんとか口を動かすと、オオカミ怪人は何も答えずに――

 指を折り曲げて開いた口のなかに突っ込んだ。


***


「むぐっ、うっ、うーッ!!??」

 私はくぐもった悲鳴を上げる。

 なんとか押し出そうとするが、後ろから手のひらで頬を支えられている上に指はしっかりと口腔に潜り込んでいて、舌の筋肉だけではどうにもならない。噛もうと思っても催眠のせいなのか、まるで顎に力が入らなかった。抵抗しようと口を上下させればさせるほど、その隙間にオオカミ怪人の指がどんどん入り込んでくる。

 口中をまさぐるオオカミ怪人の指の先から、ピリッと静電気のような刺激が走る。びくりと身体を震わせた瞬間――オオカミ怪人の指が、ものすごく美味しくなった。

「!?」

「しゃぶれ。赤ん坊みたいにな」

 命令された途端、私の口全体がぐにゃぐにゃと勝手に動いて指示を実行しはじめた。くちびるを尖らせてオオカミ怪人の指を包み込み、ちゅぱちゅぱと指をねぶる。

 (これは。)

 美味しい。美味しすぎる。オオカミ怪人の指先。手袋から露出している肉球の味、塩気のある肉の味が舌や口蓋をこすって、匂いと一緒に鼻の奥に雪崩込んでくる。ちがう。やつの催眠だ。「美味しい」と思い込まされているだけだ。だけど止まらない。光る。触れる。味。匂い。頭の中でつながっていく。大きくなって、消えなくなる。覚えてしまう。

 (いま、オオカミ怪人の命令に従っているのは。)

 意識の上では、自分がどれだけおかしなことをしているのかわかっているが、

 (口を動かしているのは。私の顔の筋肉の主導権を握っているのは。)

 口中の快楽に逆らえなかった。

 (私ではなくて。)

 あじ。におい。はじめて、

 (まさか――。)

 じぶんでものをたべるかんかく――

「御名答。俺がいま用事があるのは、お前さんじゃなくて――『こっち』だ」

 ("豹"。)

 オオカミかいじんの指が、はなのあたりをこする。指がちかづくだけではながひくひくとうごいて、はないきがふうふうとあたっているのがわかる。

 わるいにおいだってわかってるのに、すごくくさいにおいがするのに、おいしいから、かぐのをやめられない。

「催眠の匂いを覚えちまったやつがいるのは流石に――少しばかり面倒だからな。きっちり怪人として対抗策を練らせてもらうぜ」

 なんだか、だんだんわるいにおいなのかどうか、わからなくなってくる。

(正気に戻ってくれ、と言おうとしたが、オオカミ怪人の指が挟まって何も喋れない)

「いいじゃねえか。内側にずっといて、必要なときに使われるだけってのは、そのうち良くない結果を生むぜ? こうして自分自身の喜びを体験しなきゃあ、生きてる甲斐がないってもんだ」

 おいしいあじとまざると、においが、いいにおいになる。うらがえる。

("豹"!! おい、"豹"!!)

「お前はこれから、俺の言う通りになる」

 いうとおりになる。

「いまから4つ数えたら、『お前』は――自由になる。」

 じゆう。

 ことばのいみはわからないが、いいにおいといっしょにことばがはいってくる。

「なんでも好きなように食べていいし、身体も使っていい。」

 していい。

(やめろ!!)

「俺のことは忘れるが、俺の匂いのことは忘れない。俺の匂いを嗅ぐと、すごく腹が減るようになる。わかったか?」

 わかった。

(くそ、おい、しっかりしろ! "豹"!!)

「3」

じゆうになる

「2」

すきにしていい

「1」

わすれる。おなかがすく

「0」



***



 美味しそうな匂いがする。

 足がドーナツショップの前で止まった。

 ドーナツ食べたい。揚げたての甘い油の匂いが鼻腔をくすぐって唾液腺を刺激する。大きな丸いドーナツを両手に持って、思い切り噛むとサクッと音がしてカリカリの表面が破け、うっとりするような小麦と砂糖の香りと一緒に閉じ込められた蒸気がぶわあって鼻面に当たる。勢いよくドーナツを噛んでいくと熱い油が生地の中からじゅわじゅわ溢れ出てきて、それが口の中で唾液とまじって天国みたいになってさ、たっぷり楽しんだ後に飲み込んだらお腹がぽうっと暖かくなって、ぐにぐに動いて中を拡げちゃうから、もっと食べたい気持ちにさせてきて――ああ、想像するだけで幸せになってくる。

 ぐううう。

 お腹が鳴った。

 ちょっと。みっともないだろ。

 "私"は諌めようとする――顔から突き出ている、豹の鼻面に対して。

 なにが?

 俺はふん、と鼻を鳴らした。ぺろりと舌なめずりして、ついでに"私"の毛の生えてない頬をなめてやる。

 もう、だからやめろって。食事ならあとで――

 うるさい。

 俺は"私"の言葉を無視して、へそのあたりに力を込める。

 あっ、ば、ばか、"豹"、こんなところで――

 "私"は慌てて俺の鼻面を抑えようとするが、そんなのは無意味だ。それよりもどんどん腹の虫が大きくなってくる。もう我慢できない、腹が空きすぎて死んじまう。さあ、目覚めろ俺の腹よ。食事の時間だ。

 "私"のほっそりとしていたウエストがたちまちぶくりと膨らんだ。

 ああ。気分いい。

 俺の外側で偉そうにしている"私"が丸みを帯びていく輪郭に押されてゆっくりと追いやられていく。声が遠くなっていって、部屋が俺のものだけになるこの瞬間がたまらなく好きだ。

 "私"の手が、今度は慌てて腹の肉を手のひらを押し当てているが――そうしたらまた内側にしまえるとでも言うように――だからそんなことをしたって無駄なんだって。俺は内側から手を掴んでやる。主導権が移り、手はすぐに俺の美しい毛並みに覆われてがっしりと大きくなった。スーツの光沢も相まって風船みたいになっている腹をその手で入念に揉んでやる。パン生地も腹もこうした方がよく膨らむんだ。ぶくん、ぶくんと勢いづいて俺の腹はリズミカルに増量していって、そのリズムに乗せられたのか、全身のあちこちが同じリズムに身を委ねながら一回り、二回りと己を拡大していく。"私"のやつはまだなんとか身体をくねらせて抵抗しようとしているが、伝播する脂肪の波と一緒に俺はどんどん身体中に満ちていって、やつは為す術なく、内側から圧をかけてくる俺にぱつぱつに引き伸ばされながら、体表に追いやられていく。むっちりと太くなった腕や足が美しい豹の毛皮に装われはじめる。スーツの内側ででっぷりと育まれた太鼓腹や豊満になった胸もまた優美な曲面を保ったまま毛皮に包まれていき、そのまま毛の群れどもはぱんぱんに膨らんだ丸い頬肉を蹂躙し占領したかと思うと、すっかり頭の上まで覆ってしまった。"私"の髪の毛を挟むようにして、ぴんと俺の可愛らしい耳が立つ。まったく、食事は俺の大事な時間だってのにいつになったらわかるんだ? 俺は薄く薄く張り詰めて、サイズの合わない上下一体型パジャマみたいな状態で感覚領域にとどまっている"私"に問いかけた。

(だから、食事はこのトレーニングが終わったあとで――)

 俺は手を動かして、立派に突き出た腹を撫でさすってやる。

(あっ、あっ、やめ――)

 "私"は悶え、快感に喘ぐ。薄くなったぶん敏感になってるんだ。身体を一方的に動かされているのも、やつにとっては気持ち悪さや恐怖よりも内側からまさぐられて凝りをほぐされてるかのような快感になっていることを俺は知っている。だから遠慮せずにこうやって教え込んでやる。

「この腹で、あんなの足りるわけないだろーが。食いたいもんは食いたいだけ食うのが正しいんだよ」

(あっ、でも、あっ、そんなに、太ったら、ヒーロー業に、差支えが、ああっ!)

 またくだらないことを言いやがったから、めいっぱい腹と胸を揉みしだいてやった。たっぷり身についた肉の質感と体温を自分の手で確かめるのは、俺だってとても気持ちいい。その気持ちよさも"私"に送ってやっているから、あいつは今単純計算で俺の2倍くらい気持ちよくなってんだ。変態め。

「なーにいってんだか。お前が素早く怪人に追いついて、接近したら俺が出てこの体重で取り押さえる。いいコンビじゃねーか。むしろ前より成績上がってんだ」

(そ、それは……)

「あー。もういい。さっさと飯食うぞ」

 俺はまだぼそぼそと文句を言う"私"を放置してドーナツショップの扉をくぐる。

 そこには楽園があった。

 クリスピーにチョコ、オールドファッション、アーモンド。セサミ、カスタードクリーム、フレンチクルーラーにチーズパイ、シナモンシュガー、アップルジャムにストロベリー、抹茶きな粉にハニーチュロ! 色とりどりの匂いが一斉に俺の気品ある鼻を愛撫して、我先にと孔の中に突入する。脳内炸裂する花火の下でドーナツたちが踊り狂い、じゅわじゅわと警戒に揚げる音を奏でるフライヤーより一層その熱狂を盛り上げる。もはや言葉は要らない。俺はドーナツたちの円かな曲線に欲情しながら次々とトレイに放り込んでいき、我に返ったときには、イートイン・スペースの机にうず高く積もるドーナツの山を前にして天上の音楽に耳を傾けていた。狭いなここの机。腹に天板がめり込んでら。

(お前の腹がでかすぎるんだよ! ていうかこんなに買って金はっ、金はまああるけどカロリーが! あっ――)

 うるさい"私"を黙らせるために早速チョコドーナツを放り込んだ。

(――――っっ……)

 さっきまで説教していた"私"がキマったみたいな顔をして天を仰ぎやがった。もっとも俺もそうしている。暖かいふわふわの生地、小麦の旨味、にじみ出る新鮮な油、じゃりじゃりした砂糖の甘味、ねっとりと香り高いチョコレート。それらが咀嚼するごとに渾然一体となって砕けた素材の破片からまたチョコドーナツのイデアに再構成されて喉の奥に滑り込んでいく。さらにもう一口。二口。チョコドーナツは消えた。純粋な喜びだけがいま、胃のなかで渦巻いている。

「はぁ――――……うめえ! なあ、うめえだろ?」

(……)

 トレーニングとか言っていつも運動してやがるから、こういうもの食ったときの上げ幅も相当なもんだろうに、赤面して知らんふりしてやがる。俺あいてに赤面して何したいんだ?

 指についたチョコソースとドーナツの破片を鼻に押し当ててやる。

 "私"がびくんと跳ね上がり、意地汚くも俺の口中に涎の再装填を命じてきやがった。俺の手にまとわりついている"私"の手が、次のドーナツはまだかと身じろぎして待っている。正直でよろしい。俺は次のドーナツに手をかける。


 「げぇぇぇぇ――――っ……ふ」

 店から出た俺は誇らしげにげっぷをした。ああ美味かった。一方で"私"はというと……ドーナツ食ってたときのアガりっぷりはどこへやら、(あくまで感覚的な比喩としてで、実際の身体は満足そうに腹をさすっているのだが)うずくまってぶつぶつと呟いている。

(またあんなに食べちゃった…カロリーが…私の体型が…)

「太るのは俺の身体だっつーの! まだわかってねえのかよ。さあて、次はなに食うかな」俺は一回り膨らんだ腹をぱんぱんと叩き、マッサージしながら次の店を品定めする。食べ物が流動してできた隙間が再び空腹感を生み出した。

(えっ、まだ食べるのか!? さすがにもう、やめたほうが)

「なーんか今日、すごく腹が減るんだよなあ。ヘンに食欲がわく匂いがずっとしてるっつーか。このあたりってそういうイベントでもあるのか?」

 すんすんと▓▓鼻を鳴らして俺は尋ねる。

 ん? 今のなんだろ。

 まあいいや。

(あるわけないだろ…。ああ、なんでこんなやつと一緒にいる羽目になったんだか)

 "私"は記憶を掘り返す。

 発端はあのサメだ。あいつがおかしな攻撃をしてくるもんだから、豹に変身する能力なんて手に入れちゃって。

 おまけに、そいつが――豹の姿が、▓自我を持ち始めて。

 しかもこんな大食いだったなんて。

 太るのは"豹"の側だけで済んでるのが、せめてもの幸いだけど。

 こいつの食事のたびに身体を取られるし。

 こっちはがんばって節制してるってのに、大食いの感覚はしっかり伝わってくるし。

 最近は"豹"が寝てるときでも、無意識に間食しようとしちゃうし。

「最後のは知らねー! そっちの身体はそっちが管理してろっての。好きなんだろ? 味気ねェ――蒸し肉と草の汁和えがよ」

 いつの間にか"豹"は丼屋に入っていた。背中をのけぞらせ、ぐいと腹を突き出すようにして壁にかかったメニューを一瞥する。まわりの客がぎょっとしたようにその巨大な胴体とパンパンに伸ばされたスーツを見るが、俺は気にしない。ていうかむしろ誇らしい。どうだこのまん丸な腹。もっと見るがいい、貧弱な市民どもよ。

(気にしてくれ! あああ恥ずかしい、恥ずかしいのに、お前が気持ち良がってるから、こっちまでヘンになって、あああ)無視する。よがってるのはそっちだろ変態。

「いやー、ジャガーダッシュ様の戦績が良くて様々だな。ちょっと大食いしたぐらいじゃ全然金にこまんねーもん。おやじ、カツ丼に親子丼に麻婆丼にスタミナ豚丼に牛丼に唐揚げ丼、あと天丼。全部特盛な」

「はいよ」

(えっ、ちょっ、マジでそんなに食うの? さすがに今日おかしくない?)

「いーじゃんか、心によォ――滓がたまってんだよきっと。今日はこっち食べたいけどあっちも食べたい――うーん、でもこっちにしよっと。あーあっちも食べたかったな……どうして全部食べられないんだろ……って心の沈殿物がよ、たぶん俺が出る前からあったんだって。それがいまぶわーって浮き出てるから俺が処理してやってんだよ、うん。いやーいいヤツだなあ俺。こんな相棒ができて私ったら幸せ!」丼が続々と俺のテーブルに運ばれてくる。あああコメとダシの匂い最高。熱々の丼にたっぷり封じ込められた熱量。それを箸でがーっと口の中に流し込むと攻め込んでくるコメの甘味にまぎれて重量感のある具がさ、うっかり噛んだ途端どばっと肉汁を出してさ。ぼかーんって炸裂して一気に陥落しちゃうんだよ。ああ最高、どんどん攻め入ってくれ。陥落しちゃう、俺いくらでも陥落しちゃう。

(だから、食べ過ぎだっ――あっ、うまっ、ここの丼うま――)


 かくしてジャガーダッシュは、素早い人間形態と重量級の豹形態を使いこなして怪人を追い詰める、異色のヒーローとして名を上げたそうな。

 めでたしめでたし。


(おわり)


[小説]ジャガーダッシュの豹変

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