人生には、朝起きたらケモサキュバスになってたってことがあるんだ。
そんなことあるかよって?
あるんだよ。
あるんだからしょうがないだろう。
ケモサキュバスの話をするには、まずサキュバスのことを話さなきゃならない。
サキュバスは流石に知ってるだろう。
淫魔ってやつだ。
翼の生えた、エッチな美女みたいなのが夜な夜な男を襲って精を奪う。
精ってのは、もちろんだいたい精液のことだ。それを栄養にして生きる。
だいたいって言ったのは、サキュバスは種類とか好みでいろんなものを吸うから。
レベルドレインってあるだろ。
キャラの強さを吸うみたいなの。
ああいうことをするサキュバスも一定数いる。
昔は少数派だったらしい。そもそも人間自体がひ弱だったから。
疫病や飢餓ですぐに死ぬから、まず第一に生命力が高い個体しか残ってない。そして、それらはほとんどの場合、すでに吸精型サキュバスが目星をつけていた。レベルドレインサキュバスには吸精型サキュバスと対決する体力がないため、必然的にレアな個体――生命力には欠けるが、なんらかの特殊技能か運によって生き残っている人間――を探すしかないが、仮に見つけたとしても時間が経てば再生産される精液と違って、生存に必要な技能そのものを奪われた人間は明らかに死にやすくなる。だからレベルドレインサキュバスは、せっかくの獲物を見つけても細く長く糧を得ることができない。
レア個体を探し回り、なんらかの技能を人間から盗んで、それでニッチな環境を生き残る。レベルドレインサキュバスってのはそういう生き物だった。
ところが、産業革命と公衆衛生の発達で全てが変わった。
人間が全然死ななくなった上に、可処分時間の大半を労働に捧げるようになったから、レベルの蓄積量が段違いになったんだ。
本来なら生き残れないようなやつでも、そこそこのレベルを稼ぎながら全員が暮らしていける世界になった。レベルを奪っても工業化された世界では人間側がご丁寧にマニュアルの作成や再教育をしてくれる。レベルドレインサキュバスの食生活における最大のデメリット――再生産性がついに克服されたんだ。
瞬く間にレベルドレインサキュバスはヒエラルキーを駆け上がる。
栄養状態がバツグンに良くなった上に、彼女らは人間から技能や能力をそのまま吸い取れるのだ。謀略が生まれ、政治が生まれ、支配が生まれ、精液を盗むことだけに特化したサキュバスはあっという間に高い地位から蹴落とされた。今や精液すら上等のものはレベルドレインサキュバスの嗜好品だ。彼女らが権力を握っているのだからそうなるに決まっている。その上、吸精型サキュバスの財産であったはずの"より良い精液を集めるノウハウ"は日毎に失われていった。今や人間は現世に立錐の余地なく溢れ返っているのだから、より優れた狩りや採集の方法などをありがたがる者はいなくなってしまったのだ。それなのに、彼女らはかつての栄華と歴史を拠り所にして声高に己を主張するものだから、まだ階層社会に毒されていない新しいサキュバスからも嫌われる。結果、吸精型サキュバスは怠惰で傲慢な"自己責任の古いライフスタイルにしがみつく時代遅れ"という烙印を押され、その地位は決定的なものとなってしまった。
そういう歴史を経て、現在のサキュバス界はレベルドレインサキュバスを頂点とした階層構造になっている。
なったんだよ。
なったんだからしょうがない。
さて、社会が安定したところで、上流階級のサキュバスたちは考えた。
より下層のサキュバスを用意した方がいいと。
吸精型サキュバスは今でこそ低い地位にいるものの、サキュバスの歴史の大半において種族存続の営みを担ってきた。彼女らを蔑ろにすればやがて保守派や自然派を中心にして反体制勢力が形成され、クーデターに発展しかねない。彼女らを尊重しているというしるしが必要だった。
そこで作り出されたのが"ケモサキュバス"だ。
獣のケモだ。化学のほうじゃない。
文字通り、獣頭で体毛に覆われたサキュバス。
それの材料はなんと人間だ。俺が身をもって知っている。
人間界でランダムに選んだ個体から、より概念的なドレインに特化した観念型サキュバスが"人間の姿"を奪い――ケモサキュバスに転化させる。わけのわかんない話だが、そうなるんだからしょうがない。
そうして生まれたケモサキュバスは当然生活に難儀する。
吸精型にしてもレベルドレイン型にしても、いずれにせよサキュバスは人間を誘惑しなければならないからだ。獣の姿のケモサキュバスはその"誘惑"というプロセスにおいて多大なハンデを背負うことになる。
サキュバス社会への先天的な適応障害。最下層民。それを人工的にサキュバスたちは創り出した。
レベルドレインサキュバスはケモサキュバスも我らの仲間であると思想を説きながら、吸精型サキュバスをそれとなく優遇する。
吸精型サキュバスは新参者のケモサキュバスを蔑んだり、憐れんだり、あるいは飼ったりして、伝統あるサキュバス族としてのアイデンティティを再獲得する。かくして、一定数のケモサキュバスを人間界から供給し続けることで、サキュバス社会はより一層安定した。
そういうわけだ。
まあ、俺もあとから聞いた話だけど。
つまりは。
当時小学六年生だった俺も、そのしょーもない政略に巻き込まれたってわけだ。
***
んで、話を戻すけれど。
起きたときにいきなりケモサキュバスになってたときの気持ちって想像したことある?
しかも女子ならまだいいよ。俺は男子だった。
なんであいつら、事前に性別を選ばないんだろうな。
ふわふわの薄桃色の毛に包まれた身体。
妙にやわらかく、曲線的になった体型。
やけに大きくなって肉球と爪をそなえた手。
頑丈な太ももと、つま先立ちが自然のポジションになる長い足先。
背中から生える翼と腰骨の上から伸びる尻尾。
真上に向けて尖った耳、そして、犬みたいに突き出た顔と黒い鼻。
膨らんだ胸と……股間のアレ。
朝起きたら、それらがいっぺんに自分のものになってたんだ。
俺はもちろん、まずは布団にもういっぺん潜り込んだ。極めて常識的な人間だったからそんなことはあるはずないと思ったし、夢だと考えたんだ。ところが眠気もまどろみも全然こないし、そもそもの問題として、寝るときのちょうどいい姿勢が全然わからなくなってた。胸が膨らんでて、尻尾と翼があって、鼻が突き出てて、毛が生えてるときってどういう感じで寝るのが一番いいんだっけ? って疑問に思っちゃったんだよ。夢って疑問に思ったらバツッて途切れる感じしない? 俺、前にスーパーで煙草を買う夢見たんだけどさ、いま小学生が煙草買えるわけないし、煙草吸いたいって思ったこともなかったから、夢の中でも「あれ? 俺なんでこんなことしてんだっろ?」って疑問に思っちゃったんだ。そしたら夢の中の世界がバグったみたいに歪みだして、バツンってほんとに音がするみたいにブラックアウトしちゃったんだよ。
話逸れたな。
正直に言うと、あんま覚えてないんだよ俺も。動揺してたのもあるけど、ログが残ってないっつーか。無意識に身体動いたときって、記憶残ってないこと多いじゃん? たぶんさあ、身体と精神がお互い噛み合ってるっていうか…データが一致してるときでないと、記憶のログって残んないじゃないかって、俺はそう思うんだ。そんときがまさにそれで、俺の身体と俺の精神の形があまりにもかけ離れてたから、記憶のほうが対応してなかったんだと思う。
そんな感じで、夢だと思おうとした俺の意識はバツンって途切れて、おそらく動転して部屋の中を転げ回ったり自分の身体を引っ張ったりつねったりしたあとに、それが現実だってことを了解した。同時に、なぜだか自分の生態についても理解していた。俺は男からなにか――精だか、レベルだか、そういうもの――を吸って生きる生き物だって、前からずっとそうだったみたいに急にわかってしまった。そのときもう少し腹が減ってたけど、いま一階に降りて冷蔵庫からありとあらゆる食べ物を拝借したって、それが決して身にならないことをどうしてだか直感できるようになってしまったんだ。あ、もう、俺、サキュバスになっちゃったんだなって、ある種の諦観がすでに俺の心には植え付けられていて、こんなのは間違いに決まってる! って抗う気持ちは全然その時は湧いてこなかった。だから俺は妙に冷静に、今後どうやって生きていくかを考え始めていたんだ。
家族には姿を見せられない。家は幸い俺が起きるのが一番遅い体制だったから、その場ではとりあえず見つかる心配はなかったけど、あまり悠長に構えてもいられなかった。生きるために、俺は素早く俺について理解しなければならなかった。
***
背中の翼と尻尾がへんに当たって物を散らかさないように気をつけながら、ゆっくりと台所に入って冷蔵庫を開ける。パートに出てるお母さんの作り置きした朝飯のおかずが入っていた。目玉焼きとハムと果物。毎朝5時とかに起きてるのにこうして朝飯を作ってくれるお母さんのことを偉いと思うし、感謝もしてて、なんかすごくこみ上げてくるものがあったんだけど、もうこれで食べ納めかあって妙に冷めた感情も抱いていた。だって俺もうケモサキュバスになっちゃったんだもんな、って気持ち。最後にしっかり食べてからお別れしたいけど、その前にひとまず牛乳の紙パックを手にとって広めの皿に開け、ペロペロと犬みたいな舌で舐めてみる。味はした。知ってる牛乳の味で、美味しいと感じる。この手の展開でよくあるじゃん。これまで食べてたものがひどくまずく感じてしまうっていうあのお約束のシーンさ。もし最後に食べるお母さんの料理をそんな風に感じちゃったら、流石にケモサキュバスになった俺でも死ぬほど悲しいだろうから、ちょっと気になったんだ。思い出が汚物の味で上書きされるなんて嫌すぎるだろ?
俺はひとまず安心したけれど、でもやっぱり、普通の食べ物は全然お腹を満たさないってこともそのとき確信した。味も匂いもするけど、お腹がきゅって喜ぶあの感じがぜんぜんしない。そう思った途端、昨日までなんか宝箱というか、恵みというか、ある種の絶対的なものが詰まってる安心感の象徴だったみたいな冷蔵庫が急に寒々しいただの塊になったみたいで、やっぱりさみしくなる。それでも茶碗にコメをよそい、お母さんの作ってくれた朝ごはんを食べた。
次の目的地は兄貴の部屋だった。兄貴は中3で、毎日のようにシコってる。それを俺は知っていた。マンガとか借りに部屋に入ったら、だいたいその匂いがしていたからだ。そして兄貴の部屋に入って鼻がその空気を吸い込んだ途端、喉が勝手に生唾を飲み込み、胃袋が意思を持って蠕動しだすのを俺は感じてしまった。おまけに股間も疼き出して、急に昨日までそこにあって今はない俺のチンコのことを思い出してしまう。無い、足りない、身体に何かを突っ込みたいって気持ちがむわむわと全身に充填されだして、このままでは俺は兄貴のゴミ箱からティッシュを取り出してしゃぶってしまいそうだったので、慌てて部屋から立ち去る。
おおむねの状況はわかった。
だけど、こっからどうすればいいだろう。
家族には会いたくない。
思い切りわめいて、俺だよって言って、できればペットでもいいからこのままこの家に置いてもらいたいって気持ちはすごくあったけど、なに作っても俺が全然満腹にならなくて心配そうにするお母さんとか、空腹のあまり物欲しそうな顔になって近寄ってくる俺の顔を見たときのお父さんとか兄貴の顔を想像すると胸が張り裂けそうになって、やっぱりここにはいられないなって思うしかなかった。でも、考えるとますますお腹が空いてくる。満たされたい。相手にされたい。サキュバスになったばかりだって言うのに、俺はもう誰かに『魅力的な相手』として見つめてほしくなっていた。そうしないと自分の全てが否定されてしまう気がして、余計にお腹が空いてきて気が狂いそうになって。
だから俺は――昨日まで親友だったイツキのところにいったんだ。
あ、そうそう、学校には風邪で休みますって電話はした。喋れてよかった。
***
「――わぁッ!?」
下校して自室に戻った宮本樹が素っ頓狂な声をあげる。
無理もない。俺がすでに窓からあいつの部屋に侵入して、じっと待っていたんだから。俺は自分が田中絢生――ああ、言い忘れてたけど俺の人間のときの名前だ――だってこと、起きたらこの姿になっていたことなどを努めて冷静に説明した。そして少なくともその同一性については割とすんなり納得してもらえたようだった。なんたってイツキとは小学校に上がる前からの仲だったし、俺達二人しか知り得ないエピソードは山のようにあったから。しかし後半、ケモサキュバスについての部分はなかなか話が進まなかった。まあそれはそうだ。まず見たこともない生物だし、食性についても突飛で――しかも、俺がいきなりその性質について了承しているというのがどうにも胡散臭かった。俺だってそう思うけど、そうなってるんだよ。しょうがないだろ。
「えっ、てことはつまりお前、いまその――オンナってわけ!!??」
「カラダはそうだよ。さっき言っただろ――いや、サキュバスってとこしか言わなかったか」
「はあ、えっ、あ――つまり……『無い』ってこと? いま、お前」
「……そうだよ」
「マジかよ! 『無い』ってお前――どうすんだ!? 生きていけねえじゃん!」
「だからケモサキュバスになったって言ってんだろ! 『そこ』に――もらうんだよ! オトコの、そういうやつを」
「えっ、あっ、ええ――――? 『アレ』を? 『そこ』に? マジィ!?」
「うるさい!! あんま連呼すんなよ!!」
こんな具合だ。
「そっ、それで――俺、どうすりゃいいわけ? さすがにさあ、アヤミでもって言うか――アヤミだからやだよ!!? 俺、そのさあ、知ってるだろ!? 好きなヒトがいてさあ、その……」
そう。知ってる。
こいつは、小6のくせして片思いをしているらしいのだ。しかも、斜向かいの家の住んでる女子中学生に。マセてやがる。
だからこそイツキを選んだ。
自分がケモサキュバスであること、自分の食性のことに加え――自分の能力についても、俺はすでにある程度自覚していた。他人の能力を吸い取れるらしいこと、誘惑能力があるらしいこと、いわゆる"魔法"じみたものを使えるらしいこと。だが、それがどの程度の力なのか、それがまだわかっていなかった。たとえば自分が誰か人間の近くにいたときに、その人間はどう感じるのか? なんらかのフェロモン的なものが出ていて、勝手にある程度好意を持ってくれるのか、それとも俺が積極的にアプローチしなければならないのか、そういうことを把握していないと俺は安心できなかった。なんでかって? あわよくば人間社会に混じって暮らせたらいいな――そんな期待がまだだいぶんあったのだ。
だから、イツキを選んだ。すでに好きな人がいて、自分のことをよく知っている。万が一にもないだろう安全牌だと――俺は愚かにも、一方的にイツキをジャッジするつもりでこの部屋に来たのだった。
思い出すだに恥ずかしい。
話を戻す。
「……つまり、しばらくこの部屋でお前と一緒にいりゃいいってわけか?」
「ああ。それでお前に変化が出たら、俺が人に対してどんな影響を与えるのかわかるだろ?」
「……つってもなあ。お前、ここに来る前に鏡見たのか? おっぱいがあるのはわかるけどよ、全体的にまるっきり動物だぜ。カオはイヌみたいでかわいいとは思うけどよ、どうしたって動物に対する『かわいい』だよ。心配しなくてもなんも起こりゃしねえって」
「それを確かめたいんだって。な、頼むよ」
「はあ。……母ちゃんが帰ってくるまでな」
「サンキュー!! さすが親友!!」
簡潔に言うと。
俺はこのとき、事態を大きく見誤っていた。
"俺自身がイツキのことを誘惑したくなる"という可能性を、全く見逃していたのだ。
***
何分経っただろうか?
俺は手持ち無沙汰で翼や尻尾をはたはたさせながら、ちらりとイツキを見やる。
寝転んでゲームをやっていた。
何も変化はない――ように見える。
空腹感が強くなった。
イツキから、美味しそうな匂いがする。
精通してる。ああ、だからもう片思いなんてしてるんだろうか。イツキの股間はもう精液をつくれるようになっていて、それを出せるようになっている。そのことを考えると、身体の内側がぎゅうっと締め付けられた。
急にお預けされた犬みたいな気分になる。まだくれないのか? どうしてくれないんだ? 俺のことが嫌いになったのか? わけもなく悲しくなって、無意識にきゅうんと鳴き声をあげていた。
「わっ。……なんだよ」
イツキがこちらに振り向いたときの怪訝な表情で、俺は我に返る。
「あ……いや、なんでもない」
お腹が減った。
油断したら、本当に犬みたいにはっはっと口を開けて、涎を垂らしてしまいそうだ。
違う。違う。これは俺の気持ちじゃない。ただ、この新しい身体の胃袋とか、腸とか、そういうものが呻いているだけだ。こんなものに屈するな。今の自分の気持ちに向き合え。
イツキにおっぱい触ってほしい。
何言ってるんだ俺は?
男同士だぞ。
いや、俺の身体はいまはその……アレだけど。
でも、精神は……違うはずだ。
イツキは親友だから頼った。そうだ。イツキは頼りがいがあるやつだ。
俺はじっとイツキを見る。
イツキの身体って、改めて見ると結構男らしくなってきてるよなあ。
骨ばって、筋肉の膨らみみたいなものがあって。
ぎゅって抱きしめてほしい。
身体がふわふわしてて、ずっと落ち着かないんだ。
しっかりした固い肉体に押さえつけられたい。
だから、俺はなに言ってんだって。
気持ち悪い。
自分で考えて、すごい悲しくなる。胸がズキンって鳴るほどに痛くなった。
俺、気持ち悪いのかな?
またきゅんきゅん鳴きそうになるのを必死にこらえる。
さっきイツキはかわいいって言ってくれただろ。
なら、俺に触ってほしい。
おっぱいをがっしり掴んでほしい。股間になにか暖かいものを当ててほしい。頬に手を当ててぐいって引き寄せて顔と顔をすりつけて欲しい。
その女子中学生にそういうことしたいんなら、俺だっていいだろ。
何言ってんだ俺は。
最低だ。
胸が張ってきた。
そっと触ると、おっぱいの先っぽが硬くなって立ってる。
なんだこれ。ちんこみてえ。
俺は無理やりふざけようとするけど、感情が抑えられない。
股間がうずく。足先がじんじんしびれてじっとできない。
俺はゆらゆらとイツキに歩み寄り、そのまましなだれかかってしまった。
「あ……」
目が潤んでいて涙が落ちそうだ。
いま自分を動かしているのが何なのかわからなくなっている。
イツキの胸のシャツを獣じみた大きい手でつかみ、上目遣いで顔を見つめる。
イツキも顔を赤くしてた。
音が無い。荒くなった息遣いと鼓動だけがやたらに響いている。
俺はそっと手をイツキの股間に回す。
イツキのそれはズボンの布を持ち上げ、硬くなっていた。
つうっと指で撫で回してしまう。こりこりとした感触がして、手のひらでそっと包み込むと使い捨てカイロ握ったみたいに熱い。
「わっ、ちょっ、やめろよ!!」
イツキがあわてて俺の手を押しのける。
「あっ……ご、ごめん」
「んだよお前っ……何もしないんじゃなかったのかよ!」
「や、ち、違うんだよ、なんか」
「なんかって何だよ! やめろって!」
「じゃ、じゃあなんで……ボッキしてんだよ!」
「はあ!?」
「なんも起こんねえって言ってたじゃん! お前のほうこそヘンだよ!」
わかってる。全くの逆ギレだこれ。
よっぽど物欲しそうな目をしてたんだろうか。イツキの目が、怪訝な眼差しから本気で心配する目つきに変わった。
「……そんなに腹減ってんのかよ」
そうだけど、違う。
俺がいま欲しいのは。
「なあ……俺のおっぱい、触ってみたい?」
「……は?」
「真面目だよ。正直に答えてほしい。……俺のおっぱい、気になる?」
「……」
「……うん。」
イツキが目を背けながら言う。
その途端に俺はたぶん、ご主人さまが帰ってきた飼い犬のような顔になってたことだろう。
「ホントか!? なあ、じゃあ触ってみてくれよ!」
「はあ!? なんでだよ!」
俺はイツキの言葉に答えず、ふたたび距離を詰めた。
胸がイツキの胸に触れるぎりぎりまで近付く。
乳首がイツキの服に擦れて喘ぎそうになった。
「なあ……」
イツキをじっと見つめて、もう一度言葉を重ねる。
今度はイツキが、上目遣いにこちらを睨んでいた。
イツキの手がゆっくりと動いて。
掌が開いて。
俺のふわふわしたおっぱいに当たる。
「――――――――――――――――――――ッ……」
いままで感じたことのない快感が背筋を走った。
男の。オスの。大好きな人間のオスの匂いがするオスの手に自分の身体が持っていかれてイツキの手はそのまま、赤ん坊を触るように遠慮がちに、でも好奇心旺盛に俺のおっぱいを揉み続ける。
もっと。もっと触ってほしい全身もみくちゃにしてほしい乱暴に気持ちいいところをさぐってそんで口にキスをして床に倒れて俺とぴったり重なって――。
感情が混濁して身体の中を走り回りうねうねと何巡もしたあとで俺の股間からなにかが溢れて、部屋がメスの匂いで充満しだす。
その匂いで、かえって"俺"は我に返ってしまった。
「わ――わあッ!!??」
慌てて飛び退き、ここに入るときに使った窓際まで下がってしまう。
俺、なにしてたんだ。
こんな、好きな女子がいるやつに、親友に、男同士なのに強引に迫って。
ていうかさっきのなに? なにが出たの? "これ"ってなんか出るやつなの? やばい。急に全部が"俺"に引き戻されてしまって、さっきまでと繋がった行動が取れない。
イツキはぽかんとした顔で俺を見ている。
やばいまずい死ぬほど恥ずかしいどうしようどうしようこれ。
めちゃくちゃ気まずい沈黙が走る。
空気変えたい。息しちゃいけない毒ガスが立ち込めてるみたいだ。
俺は――。
何も言わずに窓から飛び去った。
馬鹿にするならしてくれ。そのときの俺には他に何も思い浮かばなかった。
すでに陽は沈みかけていて、不器用に空を飛ぶ俺を数羽連れのカラスが追い抜いていく。みんな帰っていく。遊び呆けてた子供。部活してた中高生。仕事の終わったオッサン。肉野菜炒めにカレー。コロッケ。焼き魚。煮込み料理に胡椒の強そうなラーメン。どこからともなくいろんな晩飯の匂いが溢れてきて、街全体を包み込んでいる。俺はどこに飛んでってるんだろう。きっと今頃、俺んちは騒ぎになっているだろう。みんなあんまり心配しないで、「ああ、いなくなったのか」で済ませてくれると嬉しいけど、そうはいかないんだろう。イツキのとこにも連絡は行くかも知れない。そういえば、イツキに口止めをするのを忘れてた。イツキは話すかな。正直、どうでもよかった。何も考えられない。行くあてなんてない。
ただ、身体の疼きに気が付かないフリをするだけで精一杯だった。