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雪降らないかな
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雑記

 色々最近考えがまとまったことがあったので雑記。


「まずいものを食わせたい」という欲求について

 おそらく料理をする人の大半は、「こいつにもまずいものを食わせてやりたい」という欲求はないと思う。(いわゆる「よそものをからかう」みたいなシチュエーションはあるだろうけど)

 しかしまあ、創作についてはしばしば見られることだ。「自分の苦悩や苦痛を他人に味わわせてやりたい」という動機は創作ではしばしばあるどころか、肯定さえされてしまう。

 そして私も、どちらかと言えばそちらの巣に住んでいる生き物だった。

 ミラータッチ共感覚で見るもの全ての身体感覚をコピーする状態というのは、強引にたとえるなら「全身を絶えずくすぐられている中で、たまにものすごく気持ち良い状態があるのでなんとか我慢してる」という状態に近い。そして絵や漫画に起こす際は、できれば後者の…気持ち良い範囲のデータを採用している。それはまずコンテンツとして提供するにはそうせざるを得ないというのもあるが、それ以前に、不快な状態を言語化・具体化して出力するには、相応に自己分析や解析が必要という点があるからだ。共感覚を精査して解体し直す前は、私は「共感覚の不快な部分」を言語化するほど共感覚を把握できていなかった。

 だが最近、私は「共感覚の不快な部分」をじわじわとだが理解できるようになり、そうすると、吐き出さずにはいられなかった。「感覚刺激のうち、不快な部分を訴えて理解や庇護を求める」――要するに、痛いとか苦いとかを泣いて訴えて慰めてもらうこと――というプロセスを共感覚の領域においては完了していなかったので、せざるを得なかったのだ。

 「共感覚の不快な部分」はまあ、全部羅列するのは難しいが、大まかに私の作品を読む上で「なんでこれ描いたんだ?」と首を傾げる部分があったら、それだと思ってもらっていい。たとえばそう――私はTFシーケンスを描く上で、ある程度「見る人がきれいに整った変身過程だと感じる部分」と「そうではなく、汚らしい混ざった状態に見える部分」の区別はつく。基本的には前者を提供するべきだと思っているが、しかし、ここ最近はだいぶ後者を人に見せなければならない、人にわかってもらわないといけない、という欲求があり続けた。

 そしてそれについて、「うんうん、共感覚ってそういう苦い部分あるよね」と共感を示されたらたぶんプロセスは滞りなく進んだのだろうけど、TF作品を提供する人間であるという環境にいると、それについて評価される/報酬が得られるという反応がずっと続いてしまった。私の脳の一部分はそれを「正常に訴えが伝わってない」と判断し、「これはまずいものだと伝えなければいけない」と躍起になってしまったのだと思う。これもまたたとえ話だが、幼児が「ピーマンは苦くてまずい」と訴えたときに親が「うんうん、甘いね」と笑顔で返した場合を想像してほしい。幼児は困惑し、そのうち親の口にピーマンをねじ込もうとさえするのではないだろうか? 大体そんな感じだ。

 そんなわけで私はここ最近しばらく「人にまずいものを食わせるために創作をする」という状態にあったわけだが、最近それがようやく解けてきた。特にきっかけはない。たぶん脳が飽きたか、ゆっくり進んでいたプロセスがようやく完了したのだ。


今後の方針について考えるべきこと


 そんなわけで、いま私は「まずいものを食わせたい」という欲求がだいぶなくなり、それに伴って「長めの(とは言っても、FANBOXだとせいぜい20P前後だが)漫画を描きたい」という欲求も薄れた。要するに魚をまるごと出さずに、美味しい部分だけ刺身にして提供したらいいやん、という割切が発生したのだ。すると形としては一回あたり短めの漫画になり、それを定期的に――たとえば週刊の形で――出したほうが、当然商売としても良い。

 しかしその場合、まだ解決すべき課題がいくつかある。


・一回あたりに満足感のあるストーリー性とフェチ性を両立できるか?

・有料コンテンツをどのように付随させるか?

・ページ数の制限を自分で守れるか? また、ペースを維持できるか?

・ネタ切れせずに運用できるか?


…などなど。

 まあ、これについてはしばし計画を練るしかない。いい機会だし、たまってるコミッションを片付けながら考えてみようと思う。


『メグとばけもの』について


 ネタバレを含むので、見たくない/これから『メグとばけもの』をプレイする予定の人はここで読むのをやめてほしい。『メグとばけもの』は数時間でプレイし終わるし、プレイにガチ体力を使うゲームでもない。気になってる人はさっさとプレイしてしまったほうがいいだろう。







 では、話を進める。

 私はこのゲームに感心した。というのも、フレーバーや設定ではなく「ADVの構造そのもの」でどこまで人の感情を殴れるか、に挑戦したゲームだと思ったからだ。

 たとえば、主人公であるプレイヤーキャラクターを操作するゲームの場合。なぜプレイヤーは主人公を一時的に『自分』だと思うのか? 一つは当然、『自分が操作したとおりに主人公が動く』ことにある。だが、それだけではない。本当に大事なのは『主人公にだけ独自の反応をする』からだ。主人公が動いたときだけNPCは特別な情報を話し、アイテムはアイテム欄に入り、マップは見える場所が変わる。そうして初めて、プレイヤーは主人公の主体性を意識することができる。

 そして『メグとばけもの』の場合、それは端的に『マジックタール』というアイテムによって示される。マップのどこにでもあるが、他のNPCは興味を持たず、主人公であるロイのみが『食えるもの』として興味を示す物体。実に端的で、効果的な主体性の説明だ。そしてさらにそれを「自分だけ人間のメグに懐かれる」という他者からの干渉で補強した。これでもう、プレイヤーは主体的に行動しない理由がない。ロイの住む魔界において、人間であるメグについて知識があるのは人間であるプレイヤーだけだからだ。プレイヤーは半ば強制的に、ロイを動かし導くポジションを与えられてしまう。

 体力――いわゆる、『0になったらゲームが終了してしまう変数』についても、『メグとばけもの』は巧みな説明をしている。体力は多くのゲームにとって、プレイヤーに緊張感を持たせるために欠かせないパラメータだが、しかし、ゲームの設定と噛み合わせるのは難しい。体力が満タンでも1でもキャラクターの動きが変化しないのは何故か? どれだけ屈強なキャラクターでも、最弱の雑魚に数千回殴られたら死んでしまうのは何故か? そこに明確な説明はない。そして戦闘がメインのゲームなら、それはただのルールなので、事細かに説明する必要はないだろう。

 ただ、ADVでは事情が違ってくる。正しくないオブジェクトを調べただけで、主人公の体力が減るのは何故か? 推理を数回間違っただけで、主人公の体力が0になって犯人扱いされてしまう理由はなにか? 理由は特にない。それは『体力』というルールを流用しただけだからだ。流用しただけだから――最後まで、プレイヤーに納得が与えられることはない。

 『メグとばけもの』はそれをよしとしなかった。『メグとばけもの』において、主人公・ロイの体力は初めから99999の上限値だ。通常の戦闘では、なにをしても負けることはない。ただし、後ろにメグがいる場合を除いて。

 ロイがダメージを受ければ、メグの心は傷ついてしまう。そして幼子であるメグの『心の体力』は貧弱で、ロイが数回ダメージを受ければ、メグは泣き出してしまう。メグが泣けば――ゲームの最初に示されたとおり、世界は崩壊する。だからロイは、メグが泣き出さないように気を遣って戦う必要がある。

 このシステムで示されるのは、『体力の減り幅=そのキャラクターが傷ついた度合い』であるという、明確なこのゲームでのルールだ。これがあることで、プレイヤーはゲームの最後まで『体力の減り幅』で物語を理解することができる。もはや文章を読んでなくとも理解できる、ゲームの構造で感情に訴えかけることに成功している。

 そして『メグとばけもの』の製作者は、残りの『ADVの旨味』をおそらく、以下のように振り分けた。


①叙述トリック

②ルート選択1/バッドエンドを見る権利

③ルート選択2/複数ルートの集積による超克

④行動の蓄積による感動

⑤プレイ体験に対する自己分析


 ①はまあ、そのまんまだ。人間は自分の主観がそのまんま世界の実態と合致しているときにいうほど正しさを感じたりしない。どこかで自分の主観が裏切られることを想定している。戦闘や生き死にそのものがメインのゲームであれば、それは常に作戦や戦術の成功度合いという形で提示されるから、あえてプレイヤーに提示しなくてもいい。だが、ADVとなるとそうはいかない。どうしてもどこかでプレイヤーの主観そのものに手を出さなくてはいけなくなる。

 ただ、その塩梅が難しい。嘘を吐いてはいけないし、プレイヤーが前提だと思っていることそのものを覆してしまっては、ゲームへののめり込みそのものを失ってしまう。わざとらし過ぎる匂わせも同様だ。

 『メグとばけもの』はそこを『他者の理解』という概念と結びつけることで、ものすごくうまく切り抜けた。ゲーム中盤で『世界の崩壊』だと思われていたものは、実はロイ自身の爆発だと明かされるが、それを知るのは、既にロイが『他者』を得たあとなのだ。もしゲーム開始時のロイが事実を知っていても、それを『世界の崩壊』だとは思わなかっただろうが、すでにメグという他者を庇護し、メグの親を探す存在になった中盤のロイにとっては、『自身の爆発』は『世界の崩壊』と同値になる。実にうまい切り抜け方だ。これは、さらにプレイヤーにとって謎めいている『ゲームオーバー』をも同時に説明している。正直な話、主人公が死んだくらいでプレイヤーは『ああ、世界全部が終わった』とは思わない。だが、これまでプレイヤー本人が守るために苦心し、ゲームクリアの目的としていたメグとその周辺がもろとも消え去ってしまうなら――まさしくそれはゲームオーバーだ。プレイヤーの行動の履歴そのものが無になってしまうのだから。

 ②についてもまあ…そのまんまだ。『メグとばけもの』ははじめ、サクッとバッドエンドルートに入って一度終わるフリをする。これは実際、ADVに必要不可欠な栄養だと思う。現実世界のわたしたちは常に様々な情報を分析して悪い結果を予測し、行動を修正しているが、ゲームの世界ではその『様々な情報』が、製作者の提示したぶんしか与えられない。はっきり言って不公平だ。ゲームの世界の常識は製作者しか持っていないのだから、プレイヤーはそこから予想などできない。プレイヤーは一度強制的に悪い結果を見させられて、そこでようやく製作者とやや対等になる。『メグとばけもの』はその世界全員にとって未知なある花を通して、その部分においても作中キャラクターとプレイヤーに共通部分を用意している。

 そして③だ。要するに、いろんなルートを通して得た経験や変化を使って、見えていた悪い結果を乗り越える過程だ。これは悪い結果に対する反応だけではなく、プレイヤーの、「もし複数の運命を見ることができたら」という超越感や全能感に寄り添う。人間は常に「そうできたら」と思っているし、ゲームは実際、それを叶えるためのツールだ。だから『メグとばけもの』はそれを用意した。ご丁寧に、『そうなってるがプレイヤーほどうまくいっていないキャラ』まで用意して。

 ④もまた、かなり身も蓋もない話だが――人間は、何度も繰り返した動作が功を奏すると感動するのだ。愛用している技でボスを打倒したり、いつも選んでいるコマンドが特別な意味になったり、逆に自分が普段やってきたことがやり返されたりすると、感動する。これは人間がそうなってるとしか言いようのないことであり――だからこそ、『体力』や『ゲームオーバー』の意味の統一が重要になる。キャラクターや局面によって『体力』の意味がコロコロ変われば、行動の意味も変わってしまい、前述にような演出効果は失われてしまう。『メグとばけもの』はだから、ロイの『心の体力』を最後まで取っておいた。これまでメグの心を癒やすために使っていたおもちゃを使うからこそロイの傷つき具合がわかるし、これまで見えてなかったロイの『心の体力』を敢えて開示することは①で言った叙述トリックでもある。


 最後に⑤。

 ゲームに対して、誰もが直面する問題だ。

 ゲームで感動したから、それが何だというのか?

 キャラクターなんて、決められた動作どおりに動いたつくりものじゃないか?

 データが消えてしまったら、こんなのは無じゃないのか?

 『メグとばけもの』の製作者はたぶん、それにクソ真面目に自覚的で、だから――さっさとゲーム内で言うことにした。主人公の記憶を消した上で。

 世界が滅んでなければ、痕跡が残ってないなんてありえないだろうと。

 何をしたかは、身体が覚えているだろうと。

 『なにかをしたらなにかの体力が減る』という概念を、少なくとも1つは、埋め込んでやっただろうと。

 これはもう、『メグとばけもの』の世界の設定がどうだろうと関係がない。ただただADVの構造で感情に触りにきている。


 『自分の好きなものの、旨い部分を食わせてやりたい』という感情のみで成り立っている、恐ろしいゲームだ。


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