「ペットくん、散歩しよっか」
「いやだ」
俺は顔をしかめて答えた。
壁も床もはっきりしない空間を、薄桃色の霧がたなびく。
ここはこの世にあって、この世にあらざる世界――夢魔や淫魔たちの領域だった。
俺はいま、ここで暮らしている。
赤い首輪をあてがわれ。
弄ばれ、搾り取られる――ペットとして。
「ペットくん」
「いやだって言ってるだろ!」
俺は声を荒らげ、できるだけこれから行われるであろう恥辱から遠ざかろうとする。
一方で、質問をした■■■――ごしゅ、ご主人――(くそ! 俺は、思考の中でさえ、この――ご主人を『ご主人』以外の言葉で呼ぶことを禁じられている!)は怒るでも悲しむでもなく、きょとんとした顔でこちらを見つめていた。心底、無害だと信じている生き物の行動を優しく見守る目に俺の顔がかっと熱くなる。
サキュバス。女性の姿をして、男の精を貪る悪魔。
俺はいま、それの――サキュバスである、ご主人のペットにされていた。
「ううむ。ペットくんが最初は反抗的なのはいつものことだけど、そう言下に断られると気になっちゃうな。どうして?」
ご主人が目線を合わせたまま顔を近づけてきて、匂いがふわりと鼻腔をかすめる。鼻がむずむずして、すぐにでも発作が起きそうになる。くそ、こらえろ。
「ど、どうせ――人前で変態プレイでもさせるつもりなんだろ!? その様子をまた記録して上映会を――」
「しないよう。想像力たくましいなあ」
「十割方おま、っ――……ご、ご主人のせいだよ!!」
「あのねえペットくん。サキュバスが精や淫気を糧としてるからといって、行動の全てがその目的だと決めつけるのは偏見が過ぎるよ。人間だって別に四六時中食べ物を口にくわえてるわけじゃないでしょ」
「ぐっ……じゃ、じゃあ、なにが目的なんだ」
「だから散歩だっての! てきとうに人に化けて人間界歩きたいだけ」
「さ、散歩してなにをするつもりなんだ…!? 新しい犠牲者でも探すのか!?」
「しないってば! 普通に街並みとか見物して、お店とか入って、人間の食べ物でも食べて帰るだけ!」
「ほ、ほんとうに…?」
「そうだよ!」
「お、俺も…?」
「そうだよ! 一緒に!」
「人間の姿で…?」
「あ、それはどうしようかな。ペットだし」
さらにご主人が近付いてくる。鼻腔を突き抜けて、花のような、獣のような、たまらないご主人の匂いが脳を覆う。その匂いは、まるで実体のある指のように俺の頭の中をまさぐって、本来は絶対に両立しないはずの感情を同時に押下する。
化け物だとわかっているのに、その化け物に頬ずりしたくてたまらなくなるような。
吐き出したくてたまらないのに、いつまでも美味を味わっていたいような。
「ふふ。じゃあ、ペットくんがこらえきれたら、人のまんまで連れてったげる」
「うぐぅ……る、るう」
無意識に喉が鳴る。視界がちかちかして、手足に力が入らない。こみ上げてくる欲求をなんとか押し留めることだけに意識を集中させる。
途端に、ふかふかしたものが顔を包み込んだ。
やわらかくて、まるくて、あたたかくて、いいにおいのするものが、顔に。
「ペットくん。これなーんだ?」
上から声が降ってくる。
答えてはいけない。
考えるな。意識するな。気が付かないフリをしろ。
「ペットくーん? どうしたの?」
「ひゃうっ!?」
いきなり降り注ぐ声が大きくなった。上にいるものの手が、さわさわと俺の耳を撫でていて、そのたびにぞくぞくと心地よい震えが背骨に抜けていく。どうやら、俺の耳元に口をつけてしゃべっているらしい。くそ、こんな、ことで……
手が、俺の耳に生えた、ふわふわの白い毛をなぞる。
髪の毛を突き抜けて、上を向いた、俺の、ピンと立った、犬の耳。
その耳に、ご主人のくちびるが触れる。
「ペットくぅん? これ、なあに?」
「あっ、あふぁ、お、おっぱぃ、おふっ…うぉっ、おうっ!」
ご主人の胸の谷間に差し込まれた俺の鼻が黒くなり、じっとりと湿り始める。ご主人の匂いが一気に何千倍にもなった気がして、弾丸みたいに頭の中を跳ね回り、思考を焼き切った。心が差し替えられる。ご主人のことしか考えられない。ご主人。ご主人。ご主人!!!
「あおんっ! おんっ、わふ、ゔおっ!!」
衝動を抑えることができない。感情を発散しようと、わけもわからず鳴き声を連発する。ひと鳴きごとに身体がかたちを変え、獣毛の房が増えていくのがわかったが、どうにもならなかった。いや、する気がなかった。気持ちいい。鼻面と顎が伸びて、口が大きく開くのが気持ちいい。感度の良くなった犬の鼻で直にご主人の肌に触れるのが気持ちいい。獣になったとき特有の、全身の力の許容量が増えた感じが。難しいことを考えられなくなったときの、爽やかな空気が。感情を露わにする開放感が。
「おんっ! おんっ!」
気がつけば、俺は前足を折り、股を大きく広げて、ご主人に腹を見せつけるように仰向けになっていた。見下ろすご主人に向かってひたすら鳴き続ける。なんの感情なのかも自分でわからない。とにかく俺は鳴かねばならなかった。ご主人に、ご主人の、ご主人が。
「しょうがない子だなあ。よしよし、散歩しようね」
そう言いながらご主人は俺の全身をわしゃわしゃと撫でてくれる。屈辱的なはずなのに、嬉しくて、恥ずかしいのに、幸福で、俺はとにかく幸せになった。
***
ちゃっ。ちゃっ。ちゃっ。
石畳を、爪が擦る音が響く。
見慣れたはずの街がいつもと違うように見えたのは――久々なせいだけではないだろう。
……視線が低いからだ。
気がつけば、俺はご主人に連れられて人間界を歩いているところだった。
犬の姿で。
かつて俺が暮らしていた街を。
(なんで、よりにもよってここなんだ…)
うう、と俺は恨めしそうに唸る。
喋ることはできないし、往来で吠え立てるわけにもいかない。精一杯の抗議だった。
が、ご主人は珍しくというか、なんというか――俺のことを気に留めてもいないようだった。
市場を見つけては見物し、看板を見つければ物珍しそうに眺め、流行りの服を着た婦人を見ればファッションについて談話する。
首輪はあるものの、紐はつけられていない。俺は半ば放置されていた。
大人しくおすわりをして待っているのも癪に障るが、わんわんと苦情を言うのもいかにも「構ってもらえなくて寂しい犬」で屈辱的だ。結局のところ、俺はそこらへんの匂いを嗅いで時間を潰すしかなかった。
(……とにかく、知り合いに会わなさそうで良かった)
俺はなんとか現状を好意的に捉えようとする。実際、しばしば見かける程度に人はいるものの、街はピーク時とは比較にならないくらい閑散としていた。いまは晩秋だ。農作物の収穫が終わり、祭りも済んだいまは行商人も来ない。人々は冬に向けた保存食作りで忙しく、魔法学校の学生たちも多くは冬支度のために帰郷を許されている――というか、半強制的に帰らされている(これは、魔法に触れた者が世俗の感覚から乖離してはならぬという学長の意向でもある)。
空を見上げれば、やはりずいぶんと高くなっている――が、季節のせいなのか、それとも犬と成り果てた身ゆえかは判然としなかった。朽ちつつある草の匂いと、甘く煮込まれている色々な果物の匂いが、楽団のように連なって歩いてゆく。
(…魔法学校にいたときは、こんなにゆったりした気分になったことはなかったな)
俺には目覚ましい魔法の才能があった。どんな魔法も見ただけで真似できたし、まるで幼児向けの積み木細工をいじるように組み合わせ、新しい術を創成することもできた。
だが、魔法の才能があればあらゆる憂いを断てるわけでもないことも――すぐにわかった。
学校にいるときに、心を開いたことがあっただろうか。
妬みや敵意に、何も感じずにいられただろうか。
何の魔法でも使えてしまう俺は、まともな人間として見られていただろうか。
そして、こんな風にのんびりと空を仰ぐことなど――
「よく考えたらいまって全裸で地元を散歩中なんだね、ペットくん」
最悪な水の差し方をされた。
ご主人が収穫祭の余りで安売りされている餅菓子をかじりながら、こちらにてくてくと歩いてくる。甘い匂いが鼻をくすぐる。
よく考えたら、水を差すもなにも、全くそんなふうな感慨にふける場面じゃなかった。
俺はこの――ご主人に自由を奪われ、人間の姿も奪われ、こうしてただの獣にされて、ひたすら慰み者にされているのだ。この状態に比べれば、魔法学校でのストレスなど吹けば飛ぶようなものに決まっている。
なのに、俺は怒ることができない。
これがサキュバスの魔力なのか――俺は、ずっとご主人が好きで好きでたまらない。いまも尻尾がぱたぱたと触れっぱなしだし、やっと自分に構ってくれた嬉しさで飛び跳ねそうになっている。褒められたり、可愛がられたりすると、全てを言葉通りに受け入れてしまう。
「……どうしたの? 物欲しそうに見て。食べたいの?」
ご主人が菓子を差し出す。濃厚なバターの芳香を眼前――いや鼻前か――に突きつけられ、思わず舌を出す。うまいんだよな、これ――芋とバターをたっぷり使ってあって――ぽたぽたとよだれが口の端からこぼれる。ああ、くそ、犬の口ってのはどうしてこう……。
「我慢しなくていーよ。ペットくんはいい子だから食べていいの」
その声に、俺の身体は従ってしまう。ご主人の手のひらに口づけをして、そのままがふがふと菓子をくわえとる。脂の旨味が口中に広がって恍惚となる。うまい。うますぎる。興奮して、ぴょんぴょんと前足を跳ね上げる。俺はいい子で、だからこんなうまいものを食べていい。俺のなかの犬の心が幸せを重ねがけされて絶頂しかけていた。
ああ。俺がただの犬で、この人がただの人間で、ただのご主人だったらいいのになあ。
毎日散歩して、毎日おやつをもらって、いい子だって褒めてもらえて、撫でてもらえて、一緒に寝られたら――。
俺はかぶりを振って、淡い希望を払いのける。食べ物に興奮している動作と思われたのか、ご主人は気にしなかった。
これはごっこ遊びだ。魔物がたまにやる戯れだ。
サキュバスたちの世界に帰ればまた、俺は慰みものにされ、尊厳を弄ばれ、俺の魔力と精をやつらの楽しみのために搾り取られ続ける。そして俺は、心を捻じ曲げられて、それを歓びだと思わされる。
たった一日だけなら、こんなにも穏やかでいられるのに。
日は傾いて、夕焼けの中で俺たちが黒い染みのようでいる。
「じゃ、帰ろっか、ペットくん」
「……わん」
俺は残念そうに、一声鳴いた。