あなたは奇妙な夢を見た。
夢の中で、あなたは全裸に近い格好だった。
何もない白い空間で、あなたは何かを待っている。ゆっくりと自分の順番が近付いているという感覚だけがあり、あなたをそわそわと落ち着かない気分にさせる。その時間は永遠に続くようでもあり、無意味なので0に等しいようでもある。全裸に近いあなたは剥き出しで外気に晒されている羞恥と不安を覚えるが、一方で並んでいる間何者でもないあなたは、自分の身体のことなど全く気にする必要がないようにも思える。
そしてようやくあなたの番がきた。あなたの前を塞いでいた薄膜が立ち消え、あなたは当事者になり、あなたの意識と視界は鮮明になる。あなたは最前列にいる。
「それ」は指ではない指をあなたに向けて言った。「お前は牛だ。牛になれ」
そこで目が覚めた。
「変な夢だなあ」と思った以外、あなたはその日夢について考えることはなかった。
そしてあなたの一日が過ぎる。なにも変わったことは起こらず、あなたはつつがなくあなたの一日を終えた。灯りを消して、布団の柔らかい質感に包まれながら、あなたは再び眠りに落ちる。
その日の夢は、どうやら前の夢の続きだった。
何もない白い空間で、あなたは今しがた言われた言葉を頭の中で反芻している。そう、「牛になれ」と言われたのだったか。あなたは困惑しているが、同時にそう言われるために並んでいたような気もする。
やがて、あなたの右手は熱くなり始めた。
指先が大きく膨らみ、色が濃くなっている。病気のようではなかった。そこに血や、生命や、生長する力が集まりすぎて怒張しているのだと、夢の中のあなたはすんなりと思う。やがて爪が硬く大きな塊になり、手の甲は引き伸ばされ、茶色の毛が延びた肌の上ですくすくと育ちはじめる。
あなたの右手は蹄になった。
あなたは混乱し、当惑して、慌ててもう一方の手で、いたずらによって見えなくなった真の右手をすくい上げようとするが、それは叶わなかった。あなたが触れたのは蹄と化した指の先端であり、あなたは自分の前足がなにかに触れられたのだとはっきり感じることができたからだ。やがて左手も同様の変化を始め、あなたの両手はすっかり牛の前足となってしまう。
そこで目が覚めた。
あなたは荒く吐息をもらしながら起き上がり、自分の手が手のままであることを確かめて安堵する。そして馬鹿馬鹿しい悪夢だと笑いながら、あなたはまたあなたの一日を始める。現実の光は人の手が牛の蹄になるなどという荒唐無稽さをあっという間に洗い流し、あなたはごく普通にあなたの一日を終える。寝入る直前にほんのちょっとだけなにかの危惧――あるいは期待――を抱きながら。
夢の中で、あなたの両手は前足と蹄になっていた。
あなたはやはり戸惑っているが、一方で正しく物事が進行しているような安堵感も胸中にある。前の夢で境目に生じていた違和感もすでになく、あなたの肘から先は制服に袖を通したような高揚感に包まれている。
その途端、あなたの腰に衝撃が走った。
背骨がうねる。
皮膚の下で蛇のようにあなたの骨が波打って、あなたの肉は打ち上げられた魚のようにのたうち回る。動くに従って身体の厚みや偏りが変化しているような感覚を覚えるが、あなたの顔は上半身ごと激しく揺らされて、とても確認できない。ようやく首を回してあなたが己を振り返ったとき――
果てしなく落下していく感覚から、あなたは目を覚ました。
心臓がばくばくと早鐘を打っている。あなたは慌てて汗でしとどに濡れた部屋着を脱ぎ捨て、裸なのも構わぬままに全身を己の手でまさぐった。
どこもおかしくない。あなたは安堵のため息をつく。
吐息があなたの口から離れた瞬間、しかしあなたは言いようのない違和感を覚えた。いま確かめたはずの自分の身体が、よく見知っているあなたの肉体が、なにかおかしい気がする。
それはあなたが牛だからだ。
所詮ただの夢だ。あなたは頭を切り替えて、またいつもどおりの日常に――
今回は、戻れなかった。
あの落下感、腰が立つ機能を失って地面へと近付いていく感覚がその日あなたから剥がれることはなかった。足取りがおぼつかず、幾人かから体調の心配をされたが、まさか悪夢のせいだと言えるはずもなく、あなたはなんとか一日をやり過ごす。
敷きっぱなしの白い布団を見た瞬間、あなたの心は耐え難く緩んで、福音を浴びるようにその中に倒れ込んだ。
あなたは両の蹄を白い地面にめり込ませた。
なにか恐ろしいことのような気もするが、それよりも安堵からくる頭のしびれのほうが強いために、あなたはただ放心しながら蹄の底の感触を味わう。あなたの腰はすっかり四足歩行のための形になっており、ここから立ち上がるのはなんとも億劫そうで、夢の中のあなたにその気力はとてもなかった。あなたは立ち上がらない理由を探し、ああ、そういえば、牛になれと言われていたんだったなあと思い出す。牛という言葉は実体を持たないなにかの力として、もはやあなたに貼り付いているように思われた。牛。牛。牛。うし。ウシ。ウシ。何度も唱えているうちに、あなたはその言葉が自分そのものであるように感じつつあった。やがてあなたの後ろ足の踵が持ち上がり、前足と同じように蹄が形成され始める。だが、もはやあなたに振り向くつもりはなかった。
あなたは爽快な気分で目を覚ました。
ゆっくりと身体を起こし、四つん這いになったまま、あなたは「ウシ…」とつぶやく。
そうだ。あなたは牛だ。
そしておもむろに立ち上がり、鏡で自分の姿をあらためたあなたは、茶色の獣毛が少し肌の上に広がっているのを見つけた。あなたはそれを指で撫でつけ、指についた匂いを嗅いで、いつものように家を出た。
もはや足がふらつくことも不安に陥ることもなかった。あなたは、自分が牛であることをもう当然のように理解していたからだ。寝るたびに夢の中で牛に近づき、自分が牛であることの確信が強まっていくのだから、恐れることがあるはずもなかった。
夢の中では、いよいよ顔の変化が始まっていた。
鼻が平べったく肥大化し、耳は横に引っ張られ、顔全体が前に盛り上がって、突き出た鼻面の先で大きな鼻孔が息を噴き出すのをあなたは夢の中で感じた。
同時に体格も膨らみ、太く分厚い、堂々とした肉を湛える胴体になる。
そして夢のたびに、現実でのあなたの肉体も変化していった。
少しずつ鼻面が大きくなり、顔に毛が生え、角が髪の毛をかき分けて飛び出し、筋肉と脂肪で全身が膨らんでゆく。
はじめはこの姿が誰かに不審がられないかと少しだけ気になったが、どうやら誰もあなたの変化には気づいてないようだった。あなたがサイズの合わないぱつぱつの服を着ても、そのめくれた布の下から獣毛に覆われた腹が見えても、蹄と化した足でどすどすと歩いても、無心に牧草や雑穀を貪っても、それを反芻してげっぷをしても、誰も気には留めないようだった。
当然だ。あなたは牛だからだ。牛が牛らしくしておかしく思う者はいない。
気がつけば服も調度も建物もあなたの体つきには合わなくなっていたが、それはむしろあなたが牛であることの証左なので、あなたはかえって誇らしく思った。
あなたは立派な牛だ。モーと鳴きなさい。
あなたは高らかにモーと鳴いた。
夕日が暮れ、あなたが完全に牛になるために自宅へと向かう途中、あなたに呼びかける声があった。
それはあなたと比較的仲の良いほうの知人だった。
あなたの知人は遠慮がちに、あなたがなんだか妙に見えることを告げた。
あなたに気づいた者がいたなら、それはあなたの仲間だ。
あなたはゆっくりと知人に近づき、その顔に鼻面をぴたりとくっつけると、舌で口を無理やりこじ開け、反芻していた夢の欠片を口の中に押し込んだ。
夢の中で、あなたはほとんど完全に牛になっていた。
人間だった頃にどう歩いていたかももう思い出すことができず、あなたは意識することなく、4つの蹄を使って白い空間の中を歩き回る。
やがて光の輪が現れ、あなたの鼻孔をすうとくぐり抜けた。
鼻輪だ。
あなたは鼻輪を授かった。
鼻輪の光や、感触や、匂いを楽しんでいるうちに、あなたの頭の中からゆっくりと人間であったあなたが溶け出していくのを、あなたは感じていた。
あなたは牛だ。
牧草地で悠々と草を食む牛か、商人に引っ張られて荷運びをする牛か、それとも野生のまま大地を踏みしめる牛か――あなたには知る由もないが、あなたは牛としてこの世のどこかに出現することとなった。